2026年3月の『日々の聖句』
この日々の聖句は、聖書箇所を「ヘルンフート兄弟団『日々の聖句2026』(べテスダ奉仕女の家)」からいただきました。
聖書の本文は、日本聖書協会が発行している『聖書新共同訳』から転記しています。
『聖書新共同訳』:(c)共同訳聖書実行委員会(c)日本聖書協会、1987,1988。
●1日(日)
受難節第2主日
【主日早天礼拝】
藤森 誠 牧師
【主日礼拝】
藤森 誠 牧師
●2日(月)
【旧約聖書】
地の果てまで、すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り、国々の民が御前にひれ伏しますように。詩編 22編28節
【新約聖書】
東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。マタイによる福音書 8章11節
今日のみ言葉は、キリスト者にとっての望んだ世界ではないだろうか。ある意味、これこそが神の国の実現と言ってもいいだろう。全ての人が神様を信じ、神様に立ち帰り、神様にひれ伏す世界。きっとそこでは、神様の御心、み言葉が中心となり、愛にあふれた世界に違いない。
でも、ふと思う。どうして、その世界は未だ現実のものとなっていないのかと。それは、神様を主と認めない抵抗勢力があるからだ。敵は外にいると思っていた。でも、み言葉に従えない私もまた、同じでは?まずは、私から始めよう。私が主を認め、立ち帰り、ひれ伏す所から、神の国は始まっていくのだから。
●3日(火)
【旧約聖書】
イスラエルの人々は、主に助けを求めて叫んだ。「わたしたちはあなたに罪を犯しました。わたしたちの神を捨て、バアルに仕えました。」士師記 10章10節
【新約聖書】
「悔い改めよ。天の国は近づいた」。マタイによる福音書 3章2節
私達のためにと尽くしてくださる神を捨て、他の神に仕えるなんて。苦しめられて当然であると思った。イスラエルの民は、いつもそうだ。神様を捨て、神様に赦しを請い、助けられる。にも関わらず、また神を捨てる。でも、私も同じかも。ピンチの時に、神様以外の力を頼ろうとするからだ。
そんな私に神様は、言われる。「あなたは私を捨てたではないか。だから私はもうあなたを救わない」と。しかし、その後、主は私達の苦しみを見るにしのびないと思ってくださるのだ。そして、必ず、救いの手を差し伸べてくださる。やはり私達の助け主は、たったお一人なのだ。
●4日(水)
【旧約聖書】
主に自らをゆだねよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。詩編 37編4節
【新約聖書】
このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。マタイによる福音書 7章11節
神様に全てをゆだねて生きること。それって思った以上に難しいと思う。頭では言える。主に委ねます。御心のままにと。でも、実際に苦しい状況に置かれたら、不平や不満が心から溢れ出る。「神様、お任せしますと言ったのにこの仕打ちは何ですか。どうして私が苦しい目にあわなければならないのですか」と。結局、私の心は私の願い通りに進むこと以外、許容できないのだ。
しかし、聖書は、主は私の心の願いを叶えてくださると言う。神様は私に文句を言われてでも、良い物を与えて下さるのだ。既に、御子を与え、御霊を与えて下さっている。そして、最善を備えてくださっている。今はわからなくても、必ずわかる時が来る。全てを委ねて生きよう。
●5日(木)
【旧約聖書】
わたしの手は地の基を据え、わたしの右の手は天を延べた。わたしが彼らに呼びかけると、共に立ち上がる。イザヤ書 48章13節
【新約聖書】
主よ、わたしたちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ、御心によって万物は存在し、また創造されたからです。ヨハネの黙示録 4章11節
神様はこの世界を造られた方。神様の手によらないものは一つもない。それは人間も同じである。私達も神様によって造られた。だからこそ、神様は、ご自分の造られた存在に対して責任を持っておられる。それは、ひとえに神様の御心と憐れみによる。なぜなら、被造物は神様の手を離れたから。だから、その責任は被造物自身にある。それにも関わらず、神様はご自分の御子をさえ用いて、責任を果たされる。
だからこそ、被造物はその救いにあずかり、神様を褒めたたえる存在であるはずだ。自分では負いきれない責任を神様が負ってくださったのだから。
●6日(金)
【旧約聖書】
神に従う人は弱者の訴えを認める。箴言 29章7節
【新約聖書】
イエスは言われた。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」。ルカによる福音書 18章22節
ふと、イエス様の語る、欠けているものとは一体何なのだろうかと思った。議員は、幼い頃から、律法を全て守ってきたと言う。神様の掟を完璧に守ることができるならば、足りない物はないはず。しかし、この議員は問うている。永遠の命を受け継ぐには、あと何をすればよいかと。
きっと彼に足りなかった物は、神様を頼ることではないだろうか。これまでは自分の努力で、財産で、成し遂げてくることができた。しかし、それを全て失った時、彼は、それでも神様を信じて歩むことができるだろうかと。彼はそれらを捨てることはできなかった。人間には不可能な業だ。しかし、神様はそんな私をも救うことがおできになる。
●7日(土)
【旧約聖書】
なぜ国々は言うのか、「彼らの神はどこにいる」と。わたしたちの神は天にいまし、御旨のままにすべてを行われる。詩編 115編2~3節
【新約聖書】
イエスは言われた。「…わたしを見た者は、父を見たのだ。」。ヨハネによる福音書 14章9節
神様は今どこにおられるのか。きっとキリスト者の誰しもが、天におられると答えられるに違いない。天で、必要な全てを行っている。しかし、聖書の中に時々、神様が天を離れ、地上に降りて来られる出来事が記されている。それは、地上の人々の嘆きを聞かれた時だ。神様は、決して、天でふんぞり返っているだけのお方ではない。
何より、イエス様が地上に来られたことを通して、なお、神様は、身近な存在となられた。イエス様を見ることで神様を知ることができる。イエス様は父の御心を完全に実現されるお方であり、父そのものでもあられるからだ。だから私達はイエス様を見詰めよう。
●8日(日)
受難節第3主日
【主日早天礼拝】
藤森 誠 牧師
【主日礼拝】
藤森 誠 牧師
●9日(月)
【旧約聖書】
天はあなたのもの、地もあなたのもの。御自ら世界とそこに満ちるものの基を置き、北と南を創造されました。詩編 89編12~13節
【新約聖書】
神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ…。使徒言行録 17章26節
先日、教会の集会で、今を生きるユダヤ人たちにとって、イスラエルの土地は重要な意味を持っているのかもと思わされた。それは、あの地は、神様がイスラエルの民に直接与えられた嗣業の地であったからだ。でも、日本に住む私達はどうだろう?神様から直接、この土地を与えられた訳ではない。それにも関わらず、この土地は私の物と思っている自分がいる。それって神様の物を盗んでいるのと同じではないだろうか?
しかし、一方で、この地に私達が生きているのは、神様の許可をいただいているからだとも言える。全ては神様の許しなしには為すことができないからだ。感謝して生きよう。
●10日(火)
【旧約聖書】
恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。イザヤ書 41章10節
【新約聖書】
主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。使徒言行録 4章29節
今日の旧約の言葉は、私達を勇気づけてくれる言葉だ。でも、ふと、この時、イザヤは何を恐れていたんだろうかと思って、聖書を開いてみた。彼の周りには、怒りを燃やす者や戦いを挑む者がいたようだ。それはきっと、イザヤの預言者としての務めに対する敵意ではないだろうか?つまり、神様の言葉を人々に告げ知らせることだ。
でも、どうして神様のみ言葉に敵対する人たちがいるんだろうか?それはきっと、自分の願った生き方と神様の言葉が対立するからなのかも。そう思ったら、私もまた、神様の言葉に対立する一人だと思った。だって、私も神様の掟を守れない者だから。しかし、神様はそれでも、私達を用いて、み言葉を語らせる。あなたと共にいるからとの約束をもって。
●11日(水)
【旧約聖書】
わたしの魂は、あなたの救いを求めて絶え入りそうです。あなたの御言葉を待ち望みます。詩編 119編81節
【新約聖書】
夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。マタイによる福音書 8章16節
詩人は神様の救いを求めているというのに、待ち望むものはみ言葉だと言う。救いって、繁栄とか、癒しとか、健康とか、もっと目に見えるものだと思っていた。一体どういうこと?と思った。
もしかしたら、詩人は神様の御業をよく知っていたのかもしれない。神様は、言葉だけで全てを成し遂げることのできる方だ。だから、神様があなたを救おうと言ってくだされば、それで救いは完成する。事実、イエス様もその言葉の力を持って、人々を癒された。だから、私達も神様のみ言葉があれば大丈夫。もう、私達には数えきれないほどのみ言葉が聖書と言う形で与えられているのだから。安心して歩みだそう。
●12日(木)
【旧約聖書】
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。イザヤ書 53章5節
【新約聖書】
イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。ローマの信徒への手紙 4章25節
今日のみ言葉は何だか不思議だ。だって、誰かが傷を負ったことで、私が癒されることなんてないからだ。そう思って、調べてみたら、この言葉は病気が治ると言う意味も持っていた。それでも、ちょっと変だけど、でも少し分かった気がした。私達は病を患っていた。それは、神様に逆らう罪という病。この病を治療するには、命を差し出す必要があった。しかし、代償は私の命だけでは足りず、だから、誰にも癒せない病だった。
しかし、神様は、御子イエス様を与えて下さった。この方が傷を負われ死なれたことによって、病が治療され、さらに復活してくださることによって、私達は神様との関係を回復されたのだ。ただ、ただ、感謝である。
●13日(金)
【旧約聖書】
主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えてくださる。人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる。詩編 37編23~24節
【新約聖書】
「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。マタイによる福音書 14章30~31節
時々、神様を信じているのに、どうしてこんな辛い目にあうのですかと問われることがある。その気持ちはよくわかる。しかし、残念なことに、神様を信じて歩む日々は順風満帆な日々とは限らない。いや、神様を信じているから、苦しむことさえある。
でも、それは、神様が見捨てられたことを意味するわけではない。もしかしたらそれは、私が神様を忘れず、神様の助けを求め続けるためなのかも。イエス様もなぜ疑うのか?と問いかけながら、溺れそうな私の手を掴んでくださる。安心なのは、苦しみがないことでは無く、どんな苦しみからも救い出せるお方が共にいてくださることだ。信じて歩もう。
●14日(土)
【旧約聖書】
わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。出エジプト記 20章2節
【新約聖書】
兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。ガラテヤの信徒への手紙 5章13節
この旧約聖書のみ言葉は、神様が十戒の戒めを与えられる前に語られた言葉だ。これは、イスラエルの民と神様との関係を言い表した言葉である。私はあなたをエジプトでの奴隷生活から解放した神であると。それは、ただ神様という方がいて一方的に戒めを与えるというのではなくて、あなたの命を救い出した私の言葉として受け止めて欲しいという神様の思いが表されている。
だからこそ、この後、あなたを助け出した私以外を神様とするはずがないよね、私がせっかく助け出したあなた達の間で殺しあうはずがないよねと約束が続いていく。神様の救いの行動が、戒めの前提となっている。
●15日(日)
受難節第4主日
【主日早天礼拝】
眞木 重郎 伝道師
【主日礼拝】
眞木 重郎 伝道師
●16日(月)
【旧約聖書】
神よ、わたしの若いときから、あなた御自身が常に教えてくださるので、今に至るまでわたしは、驚くべき御業を語り伝えて来ました。詩編 71編17節
【新約聖書】
また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。テモテへの手紙二 3章15節
日本基督教団信仰告白の中で、聖書について、「聖書は…信仰と生活との誤りなき規範なり」と告白している。神様のみ言葉は、私達の信仰を導いてくださるのと同時に、私達の日常生活の基準ともなるものである。神様が私達に、この世界でどのように生きて欲しいのか、その思いがみ言葉には詰まっている。
だからこそ、幼い時から、神様のみ言葉に触れることは大切だ。私がどう生きたいかという指針ともなりえるからだ。でも、残念ながら私達は過去に戻ることはできない。だからこそ思う。未来を見据えるならば、今日が一番若い時だ。だから、この日、み言葉を通して、神様の思いを受け取ろう。今からでも決して遅くないから。
●17日(火)
【旧約聖書】
しかし見よ、わたしこそ、わたしこそそれである。わたしのほかに神はない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす。わが手を逃れうる者は、一人もない。申命記 32章39節
【新約聖書】
「父よ、…あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです」。ヨハネによる福音書 17章1、2節
モーセの時代、既にイスラエルの民は神様から心が離れてしまっていた。しかし、神様は、そのイスラエルの民に、改めて宣言される。私こそ、あなたたちの避けどころであると。殺すことも生かすことも、傷つけることも癒すこともおできになる方。その方がイスラエルの民の命を与えて下さる方である。
しかし、時代が進み、イエス様が来られたことによって、その務めはイエス様へと引き継がれた。イエス様は、永遠の命を与える権能を神様から与えられたのである。それによって、御子を信じる者は皆、永遠の命を受け取ることができる。それは、イエス様が私を信じる者全てに与えようと決めてくださったからだ。私も確かに永遠の命を受け取った一人である。
●18日(水)
【旧約聖書】
わたしに御顔を向け、憐れんでください。御力をあなたの僕に分け与え…てください。詩編 86編16節
【新約聖書】
はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。ヨハネによる福音書 16章23節
私達が祈りの中で、主の名前によって祈るのは、今日の約束に基づいていると言ってよいだろう。私の名によって願うならば、父は与えてくださるとイエス様が約束してくださったからだ。でも、ふと思った。こんなにお願いばかりの私の祈りを聞いて、イエス様も神様もあきれてしまわれるんじゃないだろうかと。もう、お前の祈りは聞いていられないと言われてしまわないだろうかと不安になった。
しかし、神様は、いつだって、助けを求める者を放ってはおかれない。憐れみを持って、耳を傾け続けてくださる方だ。だから安心して、祈り続けよう。主よ憐れんでくださいと。
●19日(木)
【旧約聖書】
このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。エレミヤ書 23章3節
【新約聖書】
わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。ヨハネによる福音書 10章10節
神様は散らされた羊を集め直し、牧場に帰らせると約束された。そして、新しい牧者を立てると約束されたのだ。でも、羊たちは、本当は自分たちの背きのために散らされていたはずであった。それにも関わらず、神様は再び羊たちを集めると言い、さらに子孫繁栄を約束される。それは、神様の赦しの出来事に結びついている。
しかし、羊たちが赦されるのは、彼らが悔い改めたからでも、立ち帰ったからでもない、ただ、神様が彼らの姿を見て、憐れに思い、放っておくことがおできにならないからだ。ただ神様の憐れ身によって羊たちは救われる。そして、そのために、イエス様は来てくださった。羊たちを集め、彼らを導くために。私もその一匹の羊だ。
●20日(金)
【旧約聖書】
御覧ください、わたしの貧しさと労苦を。どうかわたしの罪を取り除いてください。詩編 25編18節
【新約聖書】
わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。ローマの信徒への手紙 7章24~25節
詩人はどうして、貧しさと労苦がある中で、罪を取り除いてくださいと願っているんだろうか。私だったら、貧しさと労苦を取り除いてくださいとそのままにお願いしてしまうはずだ。そう思って、聖書を開いてみた。もしかしたら、詩人は、罪のゆえに、神様の憐れみを受けることができなくて、だから、貧しくなり、労苦を味わっているのだと考えているのかも。
それはきっと全ての人間に共通する。神様の救いをいただくことなしには、私達は真の豊かさも、真の幸せも受け取ることができないのだ。でも、大丈夫。そのために主が来てくださった。この方によって、私達は救われているから。
●21日(土)
【旧約聖書】
あなたは食べて満足し、…あなたの神、主をたたえなさい。申命記 8章10節
【新約聖書】
言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。コリントの信徒への手紙二 9章15節
神様は実に太っ腹だと私は思う。それは、神様をたたえるのは、食べて満足してからで良いと言われるから。もし、私だったら、私をたたえるのであれば、満腹できるほど食べ物をあげようと言うと思うから。神様は、先に与えてくださる。でも、そうであるならば、応答しない可能性もあるのではないか。満腹さえしてしまえば、たたえることなど必要ないと裏切られるかもしれないのに。だから、神様の行動には、私達への信頼が伴っていると言える。
あなたは必ず、私に応答してくれるからと、いつも先に与えて下さるのが神様だ。神様がしてくださる業は、言葉では言い尽くせない程。だからこそ、私達はこの日も、主に感謝し、主をたたえて歩もう。神様の信頼に応えなきゃ。
●22日(日)
受難節第5主日
【主日早天礼拝】
藤森 誠 牧師
【主日礼拝】
藤森 誠 牧師
●23日(月)
【旧約聖書】
わたし、わたしが主である。わたしのほかに救い主はない。イザヤ書 43章11節
【新約聖書】
わたしと父とは一つである。ヨハネによる福音書 10章30節
キリスト者である私達は、神様がお一人の方であり、この方以外に私達を救い出せる方は居ないことをよく知っている。だからこそ、まだ神様のことを知らない人たちにも、それを告げ知らせ、信じる者となって欲しいと願っている。しかし、それを確認したり、証明したりする方法はない。神様の事を知らない人たちに聖書に書いてあるからと伝えても、伝わることはない。だから、私達は伝道に苦労するのではないだろうか。
どうやったら、伝わるだろう。ふと、思った。もしかしたら、私自身が本当に神様だけが主であり、この方こそが救い主であると信じ切れていないからなのかもしれないと思った。だから、自信を持って伝えることができないのかも。主よ、まずこの私が信じる者とされますように。
●24日(火)
【旧約聖書】
天の神である主は、…お前の行く手に御使いを遣わして…。創世記 24章7節
【新約聖書】
「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。ルカによる福音書 22章42~43節
聖書を読みながら、いつも、思うことがある。どうして、人々は神様が遣わされたみ使いの言葉に聞き従わないのだろうかと。私だったら、必ず聞き従うのにと。でも、私達の日常生活において、もし、突然、神様の使いですと言う人が現れた時、私は信じることができるかなと思った。きっと無理だ。何か徴をくださいと不信仰なことを言ってしまうに違いない。
でも、一つだけ確かなことがある。それは、イエス様は確実に神様に遣わされた方であるということ。だから、聖書が語るイエス様の姿は、私へのみ使いの姿だ。そして神様が遣わす方は必ず私のためである。み言葉に聴こう。
●25日(水)
【旧約聖書】
立ち上がってください、主よ。人間が思い上がるのを許さず、御顔を向けて異邦の民を裁いてください。詩編 9編20節
【新約聖書】
「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」。マルコによる福音書 9章31節
詩人は、苦難の中にあって、神様が立ち上がり、自身を救い出すことを通して、人間よりも力を持っておられることを示されることを願っている。新約聖書は、たとえ神の使いであろうとも、神の子であろうとも、殺してしまえば、自分たちの思い通りにできるという、まさに、人間の思い上がりの行き着く先を表している。
確かにイエス様は人々の手に引き渡され、殺されてしまった。一見すれば、神様の権威は地に墜ちてしまったようにも見える。しかし、神様は、立ち上がられる。神様は、イエス様を復活させることを通して、人間の悪意すら神様の計画を阻止できないことを示してくださった。そして、それが私達の救いへと結びつき、人の思い上がりを徹底的に阻止されるのである。
●26日(木)
【旧約聖書】
どのようなときも、わたしは主をたたえ、わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。詩編 34編2節
【新約聖書】
イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。エフェソの信徒への手紙 1章5~6節
聖書の中には、困難の時にも神様を褒めたたえている人々が登場する。でも、私が神様を賛美できるのは、いつだって、困難が解決された後だ。だから、どうして、苦しみの中で神様を賛美できるんだろうかと、不思議に思っていた。
もしかしたら、詩人たちは知っていたのかも。神様との平和の約束があることをだ。神様は私達を神の子とする約束を既に結んでくださっている。だからこそ、たとえ、今は、困難な時であっても、神様の支えがあることを信じることができたのかも。そして、同じ約束を私達もいただいている。イエス様を通して神の子とされる約束を。だからこの日も、神様を賛美して歩もう。
●27日(金)
【旧約聖書】
慈善は命への確かな道。悪を追求する者は死に至る。箴言 11章19節
【新約聖書】
自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。ガラテヤの信徒への手紙 6章8節
慈善と訳されている言葉は、他の翻訳では正義と訳されていた。正義と悪との対比だったらわかる気がする。正義に生きるものは命を得、悪に生きる者は死に至る。しかし、聖書の語る正義はいつだって、神様が基準だ。社会的な正義ではなく、神様が良しと言われる基準がある。神様の正しを追い求めるならば、命が得られる。それも永遠の命を得ることができると言う。
でも、肉に蒔く、霊に蒔くと言われても今一つピンと来ないのは私だけだろうか?どうしたら、霊に蒔くことができるのだろうか?聖書は、「たゆまず善を行いましょう」と勧めている。善い方は父お一人だとイエス様は言われた。だから、善い事とは神様のみ言葉に他ならない。さぁ、み言葉を行おう。
●28日(土)
【旧約聖書】
命を得させ、御名を呼ばせてください。詩編 80編19節
【新約聖書】
その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。ルカによる福音書 17章15節
何かをしてもらったら、ありがとうって言うんだよということなんて、幼稚園の子どもたちだって知っている。しかし、大の大人たちが10人もいて、イエス様の所にありがとうと言いに戻ってきたのはたった一人だった。でも、他の9人もイエス様の言いつけ通り、祭司たちの所へ向かっている最中だった。一体どういうことなのかな?
もしかしたら、イエス様の元に戻って来ることが大切なのかもしれない。たとえ今、病が癒されても、イエス様の元を離れてしまったら、それで終わりだ。イエス様の傍こそが私達が元気に生きられる場所なのかも。この日も神様を賛美しつつ、主の傍に留まろう。
●29日(日)
受難節第6主日(棕櫚主日)
【主日早天礼拝】
眞木 重郎 伝道師
【主日礼拝】
辻川 篤 牧師
●30日(月)
【旧約聖書】
あなたたちはわたしが命じる言葉に何一つ加えることも、減らすこともしてはならない。わたしが命じるとおりにあなたたちの神、主の戒めを守りなさい。申命記 4章2節
【新約聖書】
キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。キリストは異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、…(働かれました)。ローマの信徒への手紙 15章18節
神様は命じた言葉を加えてはならないと言われた。減らしてはいけないことはよく分かる。それを消してしまったなら、思いが伝わり切らないからだ。でも、加えちゃいけないってどういうことなのかな?ふと、思った。私達は勝手に自分で基準を造り出して、自分を縛り付けているのかもと。いや、それが自分にだけ向いていればいいけれども、気づいたら、その基準を周りの人に押し付けてしまっていないだろうか。それもまた、神様の思いが伝わらないことになる。
だから、私達は、いつだって確認しなければならない。これって神様の戒め通りだろうかと。神様の言葉に生きよう。
●31日(火)
【旧約聖書】
わたしたちの主なる神のなさることはすべて正しく…。ダニエル書 9章14節
【新約聖書】
メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。ルカによる福音書 24章26節
今日のみ言葉を聞いて、なんだ当たり前じゃないかと思った。神様がなさることが全て正しいなんて当然だと。しかしすぐに考え直した。なぜなら、日々の祈りの中で、どうしてこんなことをなさるのですかと、神様へ問いかけない日は無いからだ。神様が正しいと思っているなら、そんな問いは出てこないはず。そこには、神様の考えよりも私の考えの方が正しいと考える思いがあると言うことだ。
それは、イエス様の十字架の出来事を見た人たちも同じであった。あんなことあってはならないことだと。確かにその通りだ。しかし、神様はその人間の過ちさえ用いて、正しいことへと変える力を持っておられる。神様を信じよう。

