2025年3月の『日々の聖句』

この日々の聖句は、聖書箇所を「ヘルンフート兄弟団『日々の聖句2025』(べテスダ奉仕女の家)」からいただきました。
聖書の本文は、日本聖書協会が発行している『聖書新共同訳』から転記しています。
『聖書新共同訳』:(c)共同訳聖書実行委員会(c)日本聖書協会、1987,1988。

●1日(土)

【旧約聖書】
思い起こせ、初めからのことを。わたしは神、ほかにはいない。わたしは神であり、わたしのような者はいない。イザヤ書 46章9節
【新約聖書】
神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである」。ヨハネの黙示録 1章8節

 預言者は一体何を思い起こせというのかなと思い、聖書を開いた。そこには、人間が偶像を拝む姿が描かれていた。偶像は、応えず、救ってもくれない。それなのに、どうして、あなたはそんなものを頼るのかという思いが表されている。だからこそ、私を見よという。これまでの関わりを見たら私が神であることが分かるからと。
 神様は、永遠のお方。でも、それは、ただ存在するというだけでなく、私達の神として居てくださるのだ。この方は私の人生に深く関わろうとしてくださる。そして、そんな存在は、神様以外にはいないということを私達に知って欲しいと願っておられる。この日も主を見詰めよう。

●2日(日)

受難節前第1主日
【主日早天礼拝】
  藤森 誠 牧師
【主日礼拝】
  辻川 篤 牧師

●3日(月)

【旧約聖書】
神よ、わたしを究め、わたしの心を知ってください。わたしを試し、悩みを知ってください。御覧ください。わたしの内に迷いの道があるかどうかを。どうか、わたしを、とこしえの道に導いてください。詩編 139編23~24節
【新約聖書】
命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。マタイによる福音書 7章14節

 もし、自分の考えを100%言い当てる人と出会ったら、どう思うだろう。多くの人は、恐ろしいと考えるのではないか。それは、知られたくない思いや考えを私が持っているからかもしれない。でも詩人は、そのことをまさに神様に求めている。どうして詩人は、そんなことを願うことができるんだろう?と思った。
 でも、ふと気が付いた。もし、自分が心から信頼できる相手が、私の痛みも悩みも苦しみも全部を知ってくれるのだとしたら、それは大きな喜びになるのかもと。だって、その人はそれを知って私を放っておかないはずだから。だから、詩人は神様に全てを託すことができるんだ。

●4日(火)

【旧約聖書】
娘シオンよ、声をあげて喜べ。わたしは来て、あなたのただ中に住まう、と主は言われる。ゼカリヤ書 2章14節
【新約聖書】
イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。マタイによる福音書 21章10節

 エルサレムに入城されたイエス様。その姿を見た人々はこの人は一体どんな人なのかと騒いでいた。それに対して、人々は、預言者だと告げる。でも、私達は知っている。この方は預言者よりも偉大な方であり、まさに神様そのものである。
 神様ご自身が人々の中に住まうために、地上へと来られた。人々は、イエス様について難しい知識は知らなかったけれども、でも神様から遣わされた方だということは知っていた。もしかしたら、私達も最初はそれでいいのかも知れない。イエス様が神様から遣わされた方として、私たちの所へ来てくださったと言うことを喜ぶところから、私達の信仰は始まるのだから。

●5日(水)(灰の水曜日)

【旧約聖書】
むしろお前たちの悪が、神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。イザヤ書 59章2節
【新約聖書】
罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。ローマの信徒への手紙 6章23節

 この日から、イエス様の十字架を思う受難節の歩みが始まる。その日に私たちは、自らの悪・罪を見詰めなければならない。なぜなら、イエス様は罪の問題を解決されるために、十字架への道をたどられるからだ。
 私達は罪びとと呼ばれる。それは、私達が神様のご命令に逆らうから。み言葉に従えないことは罪なのである。その罪は私達に死をもたらす。それも徹底的な滅びだ。しかし、神様は私達との関わりを取り戻すために、イエス様を死に引き渡した。それによって、私達が神様と共に生きる永遠の命を手に入れるためにである。さぁ、救いの喜びを胸に、主の十字架を見詰め続けよう。

●6日(木)

【旧約聖書】
日の出る所から日の入る所まで、諸国の間でわが名はあがめられる。マラキ書 1章11節
【新約聖書】
(イエスの言葉)東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。マタイによる福音書 8章11節

 神様はいずれ、諸国の間でご自分の名前が崇められるようになると宣告された。しかし、それを語ったのは、イスラエルの民が神様の存在をないがしろにしている状況の中でだ。イエス様も、続けて、「御国の子らは、外の暗闇に追い出される」と語っている。神様に選ばれたイスラエルは捨てられ、異邦人が神様の食卓に着くのだ。
 しかし、私達はそれを他人事として喜んではいられない。それは、つまるところ、私は神様の名を崇めているのかと問われていると言うことだから。あなたは私を大切にしてくれるのかと。主よ、この日から、あなたを敬う私としてくださいますように。

●7日(金)

【旧約聖書】
口数が多ければ罪は避けえない。唇を制すれば成功する。箴言 10章19節
【新約聖書】
あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。マタイによる福音書 5章37節

 今日のみ言葉は何だか心が痛い思いがする。それは、誰しもが、言葉で失敗するからだ。なぜか、言わなくてもよい一言が喧嘩の原因となる。だから、み言葉は唇を制御せよと教えてくれる。
 しかし、唇を制御するというのは、ただ、静かに黙っていればよいということでもない。私達は言わなければならないこともあるからだ。だから、み言葉が求めていることは、私たちの言葉を吟味することだ。果たしてその言葉は、相手を建てあげ、造り上げる言葉なのか。相手を生かす言葉であるのか、ちゃんと確認しなければならない。それが、罪を避け、トラブルを起こさない秘訣なのだ。

●8日(土)

【旧約聖書】
まことに、主はイスラエルの家にこう言われる。わたしを求めよ、そして生きよ。アモス書 5章4節
【新約聖書】
シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」。ヨハネによる福音書 6章68節

 今日のみ言葉は私達に沢山のことを教えてくれている。それは、神様を求めることを願っていること、そして、私達に生きて欲しいと願っておられるということだ。神を求め、生きるとは、まさにペトロが答えたように、主の御許で共に生きることである。
 私達に生きよと願っておられる方が居る。それだけで私達は生きていけるのではないだろうか。その方は、私達を地上で生かすだけでなく、永遠に私達と生きるために、永遠の命を与えてくださるお方だ。だから、私達には、何の心配もない。私達がどう生きるかその言葉を与え続けてくださるから。み言葉に生きよう。

●9日(日)

受難節第1主日
【主日早天礼拝】
  藤森 誠 牧師
【主日礼拝】
  藤森 誠 牧師

●10日(月)

【旧約聖書】
平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。主よ、あなただけが、確かに、わたしをここに住まわせてくださるのです。詩編 4編9節
【新約聖書】
(イエスの言葉)わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。ヨハネによる福音書 14章27節

 詩人は、平和のうちに眠りますと告白している。だから、彼は苦難から解放されたんだと思っていた。でも、聖書を開いてみたら、どうも違うことが分かった。この詩人は眠りについたその時も、まだ苦難の中に居たのだ。
 それは、この詩人が、神様は必ず助けてくださると確信していたからだ。イエス様が与えてくださる平和もきっと同じ。イエス様の約束は必ず実現するという確信が私達を強くする。その確信は、聖霊によってもたらされるとイエス様は言われた。その聖霊を私達はいただいている。だから、私達も平和のうちを歩もう。

●11日(火)

【旧約聖書】
ヨシュアは民に言った。「あなたたちが主を選び、主に仕えるということの証人はあなたたち自身である。」彼らが、「そのとおり、わたしたちが証人です」と答えると、…。ヨシュア記 24章22節
【新約聖書】
だから兄弟たち、召されていること、選ばれていることを確かなものとするように、いっそう努めなさい。これらのことを実践すれば、決して罪に陥りません。こうして、わたしたちの主、救い主イエス・キリストの永遠の御国に確かに入ることができるようになります。ペトロの手紙二 1章10~11節

 新約聖書のみ言葉は、一見すると、選ばれるためにいっそう努力せよと語っているように見えるけれども、「確かなものとするように」とも言われている。それって、つまり、私達はもう既に神様に召され、選んでいただいているということだ。その事実は変わることがない。
 でも私達は、本当にそうなの?と不安になってしまう。だから、ますます励んで、神様と隣人とを愛するようにと教えられている。み言葉に従う時、そこに罪は存在できないのだから。旧約聖書もそのことを教えてくれている。あなたたちは主に仕えますというのなら、み言葉に生きるよね?と問うているのだ。この日も共に励もう。

●12日(水)

【旧約聖書】
その日、その時には、と主は言われる。イスラエルの咎を探しても見当たらず、ユダの罪も見いだされない。わたしが、生き残らせる人々の罪を赦すからである。エレミヤ書 50章20節
【新約聖書】
そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。ペトロの手紙一 2章24節

 神様はイスラエルの民に約束された。その日には、私は咎罪も見つけることができなくなると。でも、それは、イスラエルやユダが何かをしたからではない。また、神様が罪を見過ごしておられるということでもない。ひとえに、神様が罪を赦されるがゆえに、罪が消されるのである。
 しかし、赦しは何の代償もなしに成されるのではない。ある方が、私たちの償いを引き受けてくださったからこそ、私達は赦されるのだ。そのお方こそ、イエス様。私達はただ、イエス様の償いによって赦される者とされたのだ。受難節を過ごす私たちだからこそ、そのことを悔い改めと感謝を持って思いめぐらしたい。

●13日(木)

【旧約聖書】
ノアは主の好意を得た。創世記 6章8節
【新約聖書】
あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。ペトロの手紙一 2章9節

 今日のみ言葉を読みながら、私も神様の好意が欲しいと思って、理由を知りたいと聖書を開いてみた。しかし、その理由は明確には記されていない。唯一、ノアについて、“神に従う無垢な人であり、神と共に歩んだ”と記されていた。
 その理由は、前者のように思えるが、きっと後者だ。聖書の語る無垢さとは、神様に頼り、神様と共にいることだから。でも、ノアが神様と共に歩んだから好意を得たのではないのかも。だって、聖書は、好意を得たことを先に記しているから。神様がノアを受け入れるのが先なんだ。その理由はよくわからない。私達も神様に受け入れられた一人だ。その神様の思いに生きよう。

●14日(金)

【旧約聖書】
主は地上をすべて治める王となられる。その日には、主は唯一の主となられ、その御名は唯一の御名となる。ゼカリヤ書 14章9節
【新約聖書】
すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。ローマの信徒への手紙 10章12節

 神様は、私達を治める王となると約束された。あぁ、嬉しいと素直に思えた。それは、常々、自分を導いてくれる人が欲しいと願っていたから。指導者がいてくれたら、そこには、心配も不安もないからだ。だって、言われたとおりにすれば、ゴールにたどり着けるのだから。
 でも、と思った。それなら私は今、どうして、心配を憶え、不安を抱えているのだろうか。既に神様は私の王であられるはずなのに。それは、きっと王様の言葉を聞かず、自分で全てをやろうとしているからなのかも。安心できることを知っているはずなのに、従わない私がいるのだ。主よ、この日、あなたに従う者とならせてください。

●15日(土)

【旧約聖書】
主の口が定めた新しい名をもって、あなたは呼ばれるであろう。イザヤ書 62章2節
【新約聖書】
だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。コリントの信徒への手紙二 5章17節

 私達は時に沢山の名前を持つことがある、ペンネームとかハンドルネームとか言われるものだ。その新しい名前を持つと、それは全く新しい人として存在することとなる。もしかしたら、今日の旧約聖書が語ることもそれを表しているのかもしれない。あなたは、新しく生まれ変わるのだと。
 新約聖書も同じことを語る。でもどうして新しくされる必要があるのかな?それは、古い私達は罪に支配され、捨てられる存在だったからだ。しかし、神様はイエス様を通して、私達を新しい存在として作り直してくださった。だから、私達は神の子と呼ばれる者とされたのだ。

●16日(日)

受難節第2主日
【主日早天礼拝】
  辻川 篤 牧師
【主日礼拝】
  辻川 篤 牧師

●17日(月)

【旧約聖書】
あなたのような神がほかにあろうか、咎を除き、罪を赦される神が。神は御自分の嗣業の民の残りの者に、いつまでも怒りを保たれることはない。神は慈しみを喜ばれるゆえに。ミカ書 7章18節
【新約聖書】
(マリアの言葉)(神は)その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません。ルカによる福音書 1章54節

 今日のみ言葉を読みながら、改めて、神様の御業がどれほどあり得ないことなのかを受け止めなおした。何度もその話を聞いてきたがゆえに、どこか感覚がマヒしてしまっているのかも。赦されて当たり前、赦されないなんて心が狭いと思っている私がいるからだ。
 でも、自分の姿を見たら、すぐわかるはずの事だった。だって、私はいまだに赦せない者だから。小さなことも、些細なことさえも憶えていて、ネチネチと相手を責めてしまう私がいる。でも、神様は、その私を赦してくださるのだ。それは、私が悔い改めたからではない。ただ神様の慈しみと憐れみのゆえになのだ。感謝します。

●18日(火)

【旧約聖書】
主よ、わたしの力、わたしの砦、苦難が襲うときの逃れ場よ。エレミヤ書 16章19節
【新約聖書】
わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。テモテへの手紙二 1章12節

 信仰とは何だろうといつも考えている。私が信じたいと願うことなのか、神様への熱情とか熱心さなのか。未だに明確な答えは見つからない。でも、最近よく思うんだ。信仰って、神様の約束を信じること、神様は確かにその約束を実現されるという確信なのではないだろうかと。
 でも、だからこそ、私達はどんな状況の中でも安心できる。神様の約束は多岐に渡るからだ。その約束は全て聖書に記されている。み言葉が私達を支えてくださる。それってつまり、神様ご自身ってことだよね。だからこそ、主は力であり砦となられる。この方が共にいてくださるなら大丈夫と確信して、歩みだそう。

●19日(水)

【旧約聖書】
ヨブは主に答えて言った。わたしは軽々しくものを申しました。どうしてあなたに反論などできましょう。わたしはこの口に手を置きます。ヨブ記 40章3~4節
【新約聖書】
わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。コリントの信徒への手紙一 13章12節

 祈りとは神様との対話であると教わってきたし、教えてきた。でも、今朝のみ言葉を読んで、何だか急に怖くなってきた。だって、神様に対して、あれやこれや申し上げるなんて、本当は恐れ多いことだから。それも神様のご計画に対して、反論してきたなんて、一体どれ程のことをしてしまったのだろうかと。
 しかし、神様は、ヨブに対して、私に答えてみよと言われる。神様は私達の言葉を求めてくださるお方なのだ。そして、その対話の中で、ご自分の考えをも知らせてくださる。だから、私達は恐れを持って言葉を重ねなければならない。でも、主との対話はやめてはいけないんだ。

●20日(木)

【旧約聖書】
呼び求めるわたしに答え、あなたは魂に力を与え、解き放ってくださいました。詩編 138編3節
【新約聖書】
だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。ルカによる福音書 11章10節

 毎朝、幼稚園の先生たちと短い礼拝をしている。そこへ行く時、帰る時、幼稚園の子どもたちとすれ違う。おはようと挨拶するとおはようと返ってくる時もあれば、こない時もある。初めの頃は寂しく感じたけど、今は平気だ。だって、子どもたちの応答は、言葉以外にもあふれているから。恥ずかしそうに逃げていくのも、言葉はないけど満面の笑顔も、子どもたちなりの挨拶だって気づいたから。
 神様だって、私たちの呼びかけに必ず答えてくださる。でも、神様のお答えは時に言葉以外でも返ってくる。だから、上手に見つけなきゃ。神様の答えに気づくことができますように。

●21日(金)

【旧約聖書】
主は、へりくだる人に恵みを賜る。箴言 3章34節
【新約聖書】
また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。そこで、イエスは言われた。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」。ルカによる福音書 22章24~26節

 神様は下に立つ者に恵みを与えると言われる。ひねくれている私はへりくだらない人には恵みは無いのかと不満をこぼしてしまった。でも、わざわざ神様が恵みを与えると約束されているのはどうしてなんだろうか?それはきっと、私がへりくだる時、そこにあるのは忍耐であり、そこには喜びはないからだ。
 でも、神様は私たちに仕える者となってほしくって、だから、仕える者となってごらん。仕えた相手からはご褒美をもらえないかもしれないけれども、でも、私があなたに恵みを与えるからと約束してくださっているんじゃないだろうか。さぁ、仕える者となろう。

●22日(土)

【旧約聖書】
その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。ヨエル書 3章1節
【新約聖書】
イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。使徒言行録 2章33節

 聖霊って何ですかとよく質問をいただく。正直、私も今までよくわかっていなかった。そのことが分かったのは、ここ数年のことだ。
 聖霊とは、私達の中に宿って、私達を助けてくださる神様そのものだ。私達が、聖書を理解できるのも、祈りが神様に聞かれているのも、神様の御心がふと分かるのも、全ては聖霊が私達の内で働いてくださるからなんだ。何より、イエス様が私の救い主と受け止めることができるのも、イエス様を信じることができるのも聖霊の力による。つまり、私達の救いは、聖霊が働くことによって、実現されたのだ。だから、イエス様は聖霊を受けよと勧めてくださるのだ。

●23日(日)

受難節第3主日
【主日早天礼拝】
  藤森 誠 牧師
【主日礼拝】
  藤森 誠 牧師

●24日(月)

【旧約聖書】
それを話されたのは主だ。主が御目にかなうとおりに行われるように。サムエル記上 3章18節
【新約聖書】
弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。ヨハネによる福音書 21章12節

 昔、神様の声が直接聞こえたら、御心に従うことって簡単なのにと思っていた。でも、ある日、ふと気づいた。天から急に声が聞こえてきたとして、それが神様の声だってどうやって証明するんだろうか?私の心の声かもしれない。神様しか知らないことを聞いてみる?何だか恐れ多い…。
 しかし、祭司エリも、弟子たちも、神様の言葉、イエス様のお姿に気づくことができた。一体どうしてだろうか。彼らが特別だったからか。きっとそうじゃない。私達も神様の声に気づかせていただける。そのために、神様は聖霊を与えてくださったのだから。神様のお声を聞き漏らしてはもったいない。聖霊の助けをいただこう。

●25日(火)

【旧約聖書】
その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。創世記 6章9節
【新約聖書】
召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。ペトロの手紙一 1章15節

 今日の旧約聖書で大切なのは、ノアが無垢であったことよりも、神様と共に歩んだということじゃないだろうか。ノアは神様と一緒に歩んだ。だから、神様が、箱舟が必要だと言われた時に、素直に従えたのだろう。
 新約聖書も同じことを語る。どうして私達が聖なるものとなれと言われているのか。それは、私達が神様と共に生きるからだ。一緒に生活する中で、互いがバラバラな方向を向いていてはまとまらない。だから、神様が聖なる生き方へと向かれるのならば、当然、私達も聖なる生き方へと向くはずだと聖書は語るのである。さぁ、この日も神様と共に歩みだそう。

●26日(水)

【旧約聖書】
この貧しい人が呼び求める声を主は聞き、苦難から常に救ってくださった。詩編 34編7節
【新約聖書】
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。マタイによる福音書 11章28節

 今日のみ言葉を読みながら、ふと、“常に”という言葉に目が留まった。いつもなら、きっと、主は声を聞いてくださったことや、救ってくださったことに目が留まったと思う。もしかしたら、日々沢山の悩みを抱えているからかもしれない。超えても、超えても、また新たに悩みが降って来るからだ。だから、一回の助けでは足りないと欲張りな私が顔を出したんだ。でも、神様は常に声を聞いてくださる方と約束されている。
 そして、だからこそ、私達はイエス様の傍に居たいと願うのだ。だって、イエス様の傍にいることができたならば、たとえどれほどの悩みが襲ってきても、私は安心できるのだから。

●27日(木)

【旧約聖書】
聖歌隊によって神をたたえよ。詩編 68編27節
【新約聖書】
そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。使徒言行録 2章46~47節

 旧約聖書の時代から、神様を信じる者たちは、大きな群れの中で集まってきた。そして、その流れは新約聖書でも同じだ。イエス様を信じる者たちもまた、共に集まる事を大切に過ごしてきたのだ。そして、その集まりは教会となったのである。
 だから、教会にとって、集まるということは欠かすことのできないことだ。もちろん諸事情があって、教会に来ることができない方もおられるけれども、やはり、教会の集いは、礼拝の集いであり、そこでの聖餐式、兄弟姉妹との食事、そして賛美によって、私達は、ただ神様を礼拝するだけでなく、兄弟に仕え、励ましあう喜びを頂くのである。

●28日(金)

【旧約聖書】
翼を広げた鳥のように、万軍の主はエルサレムの上にあって守られる。これを守り、助け、かばって救われる。イザヤ書 31章5節
【新約聖書】
イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。マタイによる福音書 10章6~7節

 神様は、何度もイスラエルに裏切られてきた。何度、彼らに欺かれたであろうか。それなのに、神様は、いつまでも、イスラエルよ、イスラエルよと繰り返し語られる。我が子よ、早く帰って来いと、彼らを助け、導かれる。
 一体どうしてなのだろうか。私だったら、裏切り者を赦すことは決してないだろう。でも、神様はそうでは無いのだ。神様は、ご自分がイスラエルを選んだという点において、彼らを諦めることはない方だ。アッと思った。神様が私を諦めることがないのもまた、同じなのかもと。私を神様が見つけてくださったがゆえに、私をも赦してくださるのだ。神様の憐れみに感謝します。

●29日(土)

【旧約聖書】
主はその聖なる神殿におられる。全地よ、御前に沈黙せよ。ハバクク書 2章20節
【新約聖書】
人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の、祈りの家と呼ばれるべきである。』。」マルコによる福音書 11章17節

 神様がおられる神殿。それは、本来、神様との対話の場である。しかし、神様の言葉を聞き、神様へと語ることができたのは、神様に選ばれた一部の者たちだけであった。神様の御前では、神様の許可なしには、一切の者は口を聞くことさえ許されないのだ。
 しかし、時代を経るにつれて、その畏れは消えてしまったのかもしれない。だからこそ、イエス様はそれをご覧になって、怒られた。私達はどうだろうか。イエス様を通して、私達は誰しもが、神様に自由に語り掛けることができる。一方で、神様への畏れが消えているのかも。この朝、改めて神様の偉大さに思いをは施用。

●30日(日)

受難節第4主日
【主日早天礼拝】
  辻川 篤 牧師
【主日礼拝】
  辻川 篤 牧師

●31日(月)

【旧約聖書】
主よ、造られたものがすべて、あなたに感謝し、あなたの慈しみに生きる人があなたをたたえ(ますように)。詩編 145編10節
【新約聖書】
詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。コロサイの信徒への手紙 3章16節

 今日のみ言葉は、新旧共に、神様に感謝するようにと語る。でも、実は新旧聖書で少し違っているところがある。それは、新約聖書はイエス様によって、感謝せよと言うのだ。もしかしたら、それって、私達がいただいたことやしてもらったことの感謝よりも、神様にお届けすべき感謝があるということなのかもしれない。
 それは、イエス様を通して実現される神様の御心そのものへの感謝ではないだろうか。降誕も受難も死も復活も、その全てに神様の思いが詰まっている。あなたを救いたいという願いだ。だから、私達は、まず、イエス様を通して実現された救いを感謝したいと願う。

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