2024年9月の『日々の聖句』

この日々の聖句は、聖書箇所を「ヘルンフート兄弟団 『日々の聖句 2024』(べテスダ奉仕女の家)」からいただきました。
聖書の本文は、日本聖書協会が発行している『聖書 新共同訳』から転記しています。
『聖書 新共同訳』:(c)共同訳聖書実行委員会 (c)日本聖書協会、1987, 1988。

●1日(日)

三位一体後第14主日
【主日早天礼拝】
  藤森 誠 牧師
【主日礼拝】
  辻川 篤 牧師
第一主日のため、礼拝の中で聖餐式が執行されます。

●2日(月)

【旧約聖書】
(主は)打ち砕かれた心の人々を癒し、その傷を包んでくださる。詩編147編3節
【新約聖書】
そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。ペトロの手紙一2章24節

 神様は私たちを癒してくださる。でも、「あー、良かった」とも言っていられないらしい。なぜなら、神様の癒しは無条件の癒しではないみたいだから。神様は、私の傷を他の誰かが肩代わりするという方法でそれを成し遂げられたのだ。つまり、私の代わりに傷を受けた人がいるということ。そのお方こそ、イエス様だ。
 イエス様が私たちの罪を背負って十字架の上で死なれたことによって私たちは癒されたのだ。神様はイエス様を身代わりにしてでも、私たちを癒すことを選ばれた。ここに神様の究極の愛が表されている。私たちはその出来事に震え、おののきつつ、感謝することしかできない。

●3日(火)

【旧約聖書】
前からも後ろからもわたしを囲み、御手をわたしの上に置いていてくださる。詩編139編5節
【新約聖書】
実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。『我らは神の中に生き、動き、存在する』と、言っているとおりです。使徒言行録17章27~28節

 今日のみ言葉は壮大な神様の働きを物語っている。神様は、私たちの近くにおられるが、それは、私たちが神様の中にいると言われるほどだ。
 それが何を表しているのかと言えば、私たちが神様の中にいるということは、神様は私たちのすべてをご存じであるということだ。私たちが起きるのも眠るのも、その全てをすぐそばにいて知っていてくださる。私たちが苦しむのも嘆くのもご存じでいてくださるのだ。だからこそ、神様はその御手を伸ばし、私の上に手を置いてくださる。手を置くというのはいつだって祝福の象徴である。この日も神様の中で、祝福をいただいて過ごそう。

●4日(水)

【旧約聖書】
御使いが彼に触れて言った。「起きて食べよ。」エリヤは起きて食べ、飲んだ。その食べ物に力づけられた彼は、四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた。列王記上19章5、8節
【新約聖書】
だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。マタイによる福音書6章31節

 エリヤは、神様のご命令に従ったことによって、命を狙われていた。逃亡する中で、彼は力尽き、死さえ願っていた。しかし、そのエリヤに神様は、食べるものを与え、力づけた。
神様のご命令通りにしただけのエリヤなのに、死を願う一時が訪れるなんてと驚いた。私の心の中に、神様に従えば、私は祝福されるに違いないという思いがあったから。私が思い悩むのは、神様にお従いすることができないからなのだと。
 でも、本当に大切なのは、私たちの歩みを備えてくださる方がいるということだ。たとえ、どんな困難の中にあっても、私に必要なものをすべて整えてくださる方が一緒にいるんだ。

●5日(木)

【旧約聖書】
お救いください、あなたの民を。祝福してください、あなたの嗣業の民を。とこしえに彼らを導き養ってください。詩編28編9節
【新約聖書】
群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。マタイによる福音書9章36節

 最近は、どこへ出かけるのにも、ナビが手放せない。最近のナビは、目的地を伝えるだけでそこまでの経路を全部調べて、連れて行ってくれる。何も心配することはない。言われるがままついて行けば、目的地に必ず到着できる。
 そう考えると、私の人生にもナビがあればなぁと思う。私自身では、どの道を歩んだら目的地へたどり着けるかわからないからだ。道を選んだ次の瞬間に後悔が押し寄せてくる。だからこそ、聖書は神様がその導き手となってくださることを願っている。そして、イエス様は、実際に導き手のいない人を憐れみ、ご自分がそうあろうとしてくださるのだ。さぁ、この日もこの方に、全て任せて、ついていこう。

●6日(金)

【旧約聖書】
わたしたちが正しいからではなく、あなたの深い憐れみのゆえに、伏して嘆願の祈りをささげます。ダニエル書9章18節
【新約聖書】
事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。エフェソの信徒への手紙2章8~9節

 何だか、大きな勘違いをしていたことに気付かされた。私は、自分が神様に尽くしているから、その対価として、神様が私の祈りを聞いてくださるのだと、心の奥底のどこかで思っていた。でも、違うんだ。神様が憐み深い方だからという一点でしかない。それは親子の関係でも同じかも。お金を稼いでくるから、子供がいうことを聞くのではない。よい子にしているから、親が食べ物を与えてくれるのでもない。それはひとえに相手に掛かっている。相手がそれをしたいと願ってくれるから成り立っているだけなのだ。
 この日も神様の憐みにすがって、祈り求めよう。神様、あなたの憐みを感謝します。

●7日(土)

【旧約聖書】
「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われた。(ソロモンは)「どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう。」(と言った)。列王記上3章5、9節
【新約聖書】
悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。」マタイによる福音書4章8~10節

 今日の旧約のみ言葉は、個人的に好きなみ言葉である。でも、なんだか新約聖書の言葉と繋がらない気がした。悪魔の「世界を与えよう」という言葉は、同時にそれを治める知恵も与えるということだ。しかし、イエス様はそれを退けた。一体ソロモンの願いと何が違うのかな?
 もしかしたらと思った。違いは、誰に願うかという点だ。ソロモンは神様に願った。悪魔は自分に願えと求めた。しかし、本当の知恵を持つのは神様だけなのだ。もちろん悪魔の知恵は人間の知恵をはるかに超えるものだろう。しかし、神様には、敵いはしない。私たちもそこを間違えてはいけない。正しい方はお一人だけだ。

●8日(日)

三位一体後第15主日
【主日早天礼拝】
  藤森 誠 牧師
【主日礼拝】
  藤森 誠 牧師

●9日(月)

【旧約聖書】
いかに幸いなことか、主に信頼をおく人詩編40編5節
【新約聖書】
彼(アンデレ)は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシアに出会った」と言った。ヨハネによる福音書1章41節

 主に信頼を置くことと、メシアに出会うことって何の関わりがあるの?と思い、詩編40編を読み直してみた。少しわかったかも。この詩人は、救い主の到来を神様に望んでいた。その願いは時を経て、イエス様を通して成し遂げられた。でも、この詩人は時代的に、イエス様に出会えたはずがない。それなのに、どうして幸いなのかな?
 それは、詩人が知っていたから。神様は必ず私の願いを聞いていてくださるということを、だ。詩人は、結果は見ていない。でも、この祈りを神様が聞いていてくださるということがすでに、彼にとっての幸いだったんだ。私の祈りもちゃんと聞かれている。だから私も幸いだ。

●10日(火)

【旧約聖書】
ハレルヤ。わたしは心を尽くして主に感謝をささげる。正しい人々の集い、会衆の中で。詩編111編1節
【新約聖書】
すべて神の僕たちよ、神を畏れる者たちよ、小さな者も大きな者も、わたしたちの神をたたえよ。ヨハネの黙示録19章5節

 詩人もヨハネも一体どうして感謝をささげ、神をたたえるのかなと思って、それぞれの箇所を読んでみた。そしてわかったのは、どちらも神様の成し遂げられた御業への応答であった。詩人は神様が約束を成就されたことに対して、黙示録は神様に逆らう者に勝利し、イエス様がこの世界の王となられたことに対してであった。
 ただ無条件にというのではない。もう既に神様が成し遂げられた御業があるから、私たちは感謝もするし、賛美もする。神様を讃えもするんだ。その最たる場所が、主日の礼拝である。週ごとに神様がなされた御業へ応答するために、私たちは招かれている。

●11日(水)

【旧約聖書】
神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。詩編51編12節
【新約聖書】
わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指すものです。テモテへの手紙一1章5節

 この詩人が語る清い心って何なのだろうと考えこんでしまった。汚れなき心のこと?裏表のない心のこと?何だかしっくりこないなぁと思って、聖書を開いてみた。どうやら罪を赦された状態を清いと表現しているみたい。神様に背くことのない心を与えてくださいとの願いだ。
 しかし、この詩人はきっとわかっているんだ。それは自分の力では到底成し遂げられないことを。だから、彼は霊を授けてくださいと願う。この霊とは神様ご自身のこと。神様の助けなしに、神様に背かずにいられる人間はいない。そして、背く私にも、この霊が不可欠だ。神様どうか、私にもあなたの霊を授けてください。

●12日(木)

【旧約聖書】
苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。詩編82編3節
【新約聖書】
どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように、わたしたちがあなたがたを愛しているように。テサロニケの信徒への手紙一3章12節

 旧約聖書の語る正しさとは権利のことらしい。すると、これは苦しむ人を無条件に優遇せよということではなく、その人の持つ権利を無視するなということだ。なぜなら、これは裁判の話だから。きっと不正が横行し、富む人たちが優遇されていたのだろう。しかし、神様の前では、公正であることを詩人は求めたのだ。
 なぜなら、そこには愛がないからである。神様のくだされる裁きは厳しいものであるが、しかし、そこには愛がある。裁かれる者のことを慈しんでおられるから。そしてそれは日常生活にも及ぶ。神様の愛が、私たちが愛し合う根底にある。この日も愛する者とならせてください。

●13日(金)

【旧約聖書】
慈しみの御業を示してください。あなたを避けどころとする人を。立ち向かう者から、右の御手をもって救ってください。詩編17編7節
【新約聖書】
あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。ペトロの手紙一4章14節

 神様が示される慈しみの御業って何だろうか?病をいやすこと?お金を与えてくださること?確かにそれもあるかも。でも、一番の御業は、御手をもって私を救い出すということだ。
それはイエス様の十字架として出来事となった。それゆえに私たちはこの方を救い主と呼ぶ。それは、私の自覚や信仰のようであって、本当はそうではない。イエスがキリストだと告白できるのは、聖霊の働きによると聖書は語っているからだ。だからこそ、イエス様の名によって非難されるということは、まさに聖霊が私と共にあって働いているという証しに他ならない。この日も聖霊の助けをいただいて宣べ伝えよう。

●14日(土)

【旧約聖書】
わたしの胸が思い煩いに占められたとき、あなたの慰めが、わたしの魂の楽しみとなりました。詩編94編19節
【新約聖書】
(イエスの言葉)「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。ルカによる福音書22章42~43節

 イエス様が本当に私たちと同じ人間として歩まれた証しが、この祈りの葛藤に現れている。神様に従うならば、十字架での死。神様に逆らうならば、生きながらえることができる。究極の選択だ。まさに思い煩われた。簡単に答えが出たはずがない。悩んで、悩んで、悩みぬいて、最後にイエス様は神様に委ねる道を選ばれた。決断を投げ出したのではない。神様の最善に期待したのだ。
 私たちはイエス様と同じようにはできないかもしれない。しかし、私たちも、神様が私たちを大切に思ってくださっていることをよく知っている。だからこそ、最後の最後には言えるのかも。あなたの御心のままにと。

●15日(日)

三位一体後第16主日
【主日早天礼拝】
  藤森 誠 牧師
【主日礼拝】
  藤森 誠 牧師
この日は敬老の日を憶えて礼拝にあずかります。

●16日(月)

【旧約聖書】
主なる神が助けてくださるから、わたしはそれを嘲りとは思わない。わたしは知っている、わたしが辱められることはない、と。イザヤ書50章7節
【新約聖書】
(ペトロは)強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。マタイによる福音書14章30節

 ペトロはイエス様に「来なさい」と言われて、水の上を歩いていた。しかし、風を受けて沈んでしまった。信じていなかったわけではない。でも、怖くなってしまったのだ。イエス様の姿があっても、イエス様の言葉があっても、ほんのちょっとしたことで、私の信頼は飛んで行ってしまうのだ。
 でも、と思った。だからこそ、ペトロの叫びはまさに私の叫びとなるんだ。「主よ、助けてください」と叫ぶなら、必ず助けてくださる。そんな弟子たちの姿が福音書のあちこちに描かれているのは大きな慰めであり、励ましである。だって、イエス様はその弟子たちを、見捨てずに最後まで一緒におられたのだから。

●17日(火)

【旧約聖書】
あなたは豊作の年を冠として地に授けられます。詩編65編12節
【新約聖書】
恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。使徒言行録14章17節

 もうすぐ実りの秋。食べ物がおいしい季節だ。旬の実りはその季節を過ごすために、必要な栄養をたくさん備えているらしい。だから、旬のものを食べるのは健康によいのだとか。
 旬の実りを食べられるのは、ひとえに神様のおかげだと聖書は語る。私の食べるものなんて、神様からしたら本当に些細なこと、些末なことであるはずなのに、神様はいつだって私たちの食べるもののことにさえ、気を配ってくださっている。それも、この恵みは、神様に逆らう者たちにさえもたらされる。それほどに神様の与えてくださる恵みは豊かなものである。おいしい物をたくさん食べて、神様にたくさん感謝しよう。

●18日(水)

【旧約聖書】
ひとつの星がヤコブから進み出る。ひとつの笏がイスラエルから立ち上がり。民数記24章17節
【新約聖書】
わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。」ヨハネの黙示録22章16節

 「ひこばえ」って聞きなれない言葉だなぁと思って、調べてみた。ひことは孫のこと「孫生え」と書くようだ。言葉の意味は「樹木の切り株や根元から生えてくる若芽のこと」らしい。打ち倒されてしまった木から、新しい目が出て育つ様を、打ち倒されたイスラエル王国から、救い主が現れる様をたとえたもののようだ。
 その「ひこばえ」とは、まさにイエス様ご自身のこと。ダビデが成しえなかった神の国の実現を、イエス様がなしてくださるのだ。この方こそ、私たちの明けの明星、私たちに光をもたらしてくださる救い主だ。イエス様の存在こそ、私たちの希望の光である。

●19日(木)

【旧約聖書】
あなたの僕を裁きにかけないでください。御前に正しいと認められる者は、命あるものの中にはいません。詩編143編2節
【新約聖書】
イエスは女に、「あなたの罪は赦された。あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。ルカによる福音書7章48、50節

 旧約のみ言葉を聞いて驚いた。彼は自分を含めて誰も正しい者はいないと告白していたから。私はきっと真逆のことを願うだろう。「ここにも、あそこにもあなたに逆らう者たちがあふれています。だから、早くあの者を裁いてください」と。その時、私は自分を正しい者としている。そんなことはあり得ないのに。
 しかし、そんな私にもイエス様は、言ってくださる。「あなたの罪は赦された」と。あいつは罪人だと言っていた私にも、赦しが必要だ。だって、私があいつは罪人だと言った相手もイエス様に赦された一人であるから。イエス様の赦しが必要ない人なんて一人もいないんだ。

●20日(金)

【旧約聖書】
神は自ら天を広げ、海の高波を踏み砕かれる。神は北斗やオリオンを、すばるや、南の星座を造られた。ヨブ記9章8~9節
【新約聖書】
わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。コリントの信徒への手紙一8章6節

 日本には万物に神様が宿っているという考え方がある。空に浮かぶ太陽や月から、果てはトイレにまで神様がいるのである。しかし、聖書は、そうは言わない。天も太陽も月も星もすべては神様が造られたものであると語る。被造物が創造者を超えることはない。神様は、たった一人だけおられる、世界の創造主である。
 これが私たちの信じる神様。私たちはこのお方の元に帰っていく。しかし、その道は人間の自己中心によって塞がれてしまった。だから、イエス様が来て、その道を再び開いてくださったのだ。今、私がいるのもこのお方のおかげなのである。さぁ、この日も主のもとに立ち帰ろう。

●21日(土)

【旧約聖書】
心に喜びを抱けば顔は明るくなり、心に痛みがあれば霊は沈みこむ。箴言15章13節
【新約聖書】
宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた。使徒言行録8章39節

 教会って不思議な場所だとつくづく思う。それは、受洗者が起こされたことを教会全体が喜ぶからだ。救いは個人的なことと考えられがちである。でも、それなら、自分以外の誰かが救われたとしても喜びはないだろう。自分の家族の救いであればまだ分かるが、自分とは直接関りのない人の救いさえ喜び合える場所、それが教会だ。
 でも、私たちも新しい家族ができたら喜び合わないだろうか。一人の救いとは、神様の家族が新しく増えたということでもある。だからこそ、教会はそのことを喜び合うんだ。同時に家族に痛みが生じれば、家族は悲しむし、心配する。改めて教会って素敵な場所だなと思った。

●22日(日)

三位一体後第17主日
【主日早天礼拝】
  辻川 篤 牧師
【主日礼拝】
  辻川 篤 牧師

●23日(月)

【旧約聖書】
主は救いを示し、恵みの御業を諸国の民の目に現し(た)。詩編98編2節
【新約聖書】
義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。マタイによる福音書5章6節

 義に飢え渇く人とは、神様の正しさ、神様の正義の執行を求める人たちのことだと思っていた。神様のみ言葉に従って歩んできたのに、神様の思いと異なる現実が広がっている状況に悲しむ人たちのことなのだと。
 でも、神様の裁きを通して、“私が”もたらしてほしいのは、神様に従わない人たちの滅びであるはずなのに、神様は“救い”をもたらすというのだ。だけど、ここにこそ、神様の御心があるのかもしれない。どれほど神様に逆らう者にも、神様は救いを与えられるということを諸国に明らかにした。これこそが神様の義なのだと。そんな神様の義だから、私も救われたんだ。

●24日(火)

【旧約聖書】
大地が草の芽を萌えいでさせ、園が蒔かれた種を芽生えさせるように、主なる神はすべての民の前で、恵みと栄誉を芽生えさせてくださる。イザヤ書61章11節
【新約聖書】
神の国は何に似ているか。何にたとえようか。それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。ルカによる福音書13章18~19節

 からし種ってとても小さい種らしい。一粒あたり0.5ミリくらいなのだとか。しかし、その種は成長すると2メートルを超えるようだ。空の鳥が巣を作るほどだから、かなりの大きさに成長する。これをイエス様は神の国のたとえとして話された。つまり、神の国とは始まりは小さいけれども、どんどん成長して大きなものとなるということを言いたいのだ。
 それは今の私たちを見たらよくわかる。ユダヤの地方で広められた教えは、今や世界中に広がっている。その実りの恵みによって、私たちも信じる者とされた。すべては神様が成し遂げてくださった御業だ。神様、感謝します。

●25日(水)

【旧約聖書】
見よ、わたしは生きとし生けるものの神、主である。わたしの力の及ばないことが、ひとつでもあるだろうか。エレミヤ書32章27節
【新約聖書】
そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」。マタイによる福音書28章17~18節

 イエス様は、天と地の一切の権能を授かっているといわれた。それは文字通り、天も地もすべてを自由にすることができるということ。神様が造られた全てのものは、今、イエス様の自由にすることができるのだ。
 その方の願いは、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」である。「すべての民」をといわれている。一人として例外はない。私がいやだなと思う人もである。なぜなら、神様は生きとし生ける者、全ての神であられるから。神様の目から見て、要らない人など一人もいないのだ。さぁ、この日も、すべての民を弟子にするために、私たちも出て行こう。

●26日(木)

【旧約聖書】
わたしの神よ、御旨を行うことをわたしは望み、あなたの教えを胸に刻み(ます)。詩編40編9節
【新約聖書】
イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』。マタイによる福音書22章37~39節

 神様の御旨、教えって一体何なのだろうか?それをイエス様は簡潔にまとめてくださった。神を愛することと、隣人を愛することだ、と。
 これは両方がそろっていなければならない。神様だけを愛するのも、隣人だけを愛するのも不足がある。どちらも欠けてはいけない。しかし、その順番も大切だ。まずは神様、次に隣人だ。それは神様を愛することなしには、私たちは自分も隣人も愛せないから。でも、それも正確じゃない。まず私たちが知るべきなのは、神様が先立って私たちを愛してくださっているということ。愛された私たちだからこそ、神様をそして隣人を愛することができるのだ。

●27日(金)

【旧約聖書】
代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。わたしは創造する。イザヤ書65章18節
【新約聖書】
神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはないからです。神の言葉と祈りとによって聖なるものとされるのです。テモテへの手紙一4章4~5節

 神様が造られたものは全て良いものだと聖書は語る。うん、うんと頷いていたけれども、ふと、首が止まった。神様に造られた私は、良いものだろうかと。こんな私を見て、神様は良いと言ってくださるだろうかと心配になってしまった。
 でも実は、人間ははじめ、良いものとして造られた。創世記で神様は人間を見て、非常に良いと言われたからだ。だが、私たちは罪によって悪いものとなってしまった。しかし、神様の言葉による約束と、イエス様の祈りを通して、私たちは救われるものとされたのだ。だから、心配はない。イエス様のゆえに、この私も非常に良いと言っていただけるものとされているから。

●28日(土)

【旧約聖書】
どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない、心の思いが御前に置かれますように。主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ。詩編19編15節
【新約聖書】
しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。ルカによる福音書2章19節

 マリアはあのクリスマスの出来事をどのように受け止めたのだろう?天使ガブリエルが、この赤子は神の子と呼ばれると語ったにも関わらず、現実は、あまりにも理想と異なっていたからだ。
 でも、マリアはきっと神様が天使を通して語られた約束の言葉を思い巡らしたのだろう。それは彼女にとって、望んだ形ではなかったかもしれないが、確かに実現したのだ。神様は約束を守られた。詩人もまた神様の出来事を目の当たりにした。だからこそ、その神様の思いに応えたいと、自らの言葉と思いが神様に喜ばれるものになるようにと願ったんだ。私もそうありたいな。

●29日(日)

三位一体後第18主日
【主日早天礼拝】
  藤森 誠 牧師
【主日礼拝】
  藤森 誠 牧師

●30日(月)

【旧約聖書】
アブネルはヨアブに呼びかけて言った。「いつまで剣の餌食とし合うのか。悲惨な結末になることを知らぬわけではあるまい。」サムエル記下2章26節
【新約聖書】
そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」。マタイによる福音書26章52節

 聖書には人間同士が殺しあう場面が数多く描写されている。なぜそんな場面を描くのか?一体どうして?と思う方も多いだろう。きっとそれが、人間のありのままの姿だから。人を傷つけてでも叶えたい・手に入れたいという思いが、心に潜んでいるから。イエス様はきっとそのことをよくご存じだったんだ。私の心に潜む自己中心の思いは、武力では解決できないことを。
 だからこそイエス様は、私たちの心の奥底にある思いを清算するために、十字架への道を歩まれた。私たちが傷つけあって悲惨な結末を迎える必要がなくなるようにと。主の十字架に感謝いたします。

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