2024年8月の『日々の聖句』
この日々の聖句は、聖書箇所を「ヘルンフート兄弟団 『日々の聖句 2024』(べテスダ奉仕女の家)」からいただきました。
聖書の本文は、日本聖書協会が発行している『聖書 新共同訳』から転記しています。
『聖書 新共同訳』:(c)共同訳聖書実行委員会 (c)日本聖書協会、1987, 1988。
●1日(木)
【旧約聖書】
主の日は大いなる日で、甚だ恐ろしい。誰がその日に耐ええよう。主は言われる。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ」。ヨエル書 2章11~12節
【新約聖書】
イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。マルコによる福音書 1章14~15節
今日のみ言葉は、どちらも神様へ立ち帰ることを教えている。悔い改めとは、過去の出来事を反省するということでは無く、神様に立ち帰ることなんだ。
主の日とは、神様の裁きを受ける日。私達は、神様に従えないから、その日は、甚だ恐ろしい日となる。しかし、イエス様は福音を宣べ伝えられた。それは、神様との関係が回復したということ。私が受ける裁きをイエス様が代わりに受けてくださったから。それゆえに、神様の元へ帰ることが赦されている。さぁ、この日、私たちも心から神様の元へと立ち帰ろう。きっと私の行いも変わっていくはず。
●2日(金)
【旧約聖書】
あなたは大地を揺るがせ、打ち砕かれた。どうか砕かれたところを癒してください、大地は動揺しています。詩編 60編4節
【新約聖書】
弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。マルコによる福音書 4章38~39節
私たちの人生は波乱万丈である。けれども、同時に私達は神様が共に居てくださることも知っている。神様が一緒に居てくださったら安心できるはずなのに、どうして不安になるのだろうか。私の信じる心が弱いから?
イエス様は弟子たちに「まだ信じないのか」と言われる。けれども、イエス様は、助けを求めた弟子たちをきちんと助けてくださった。本当に大事なのは、心が揺らがないことではなく、揺らいだ時に、イエス様に助けてと叫ぶ事なのではないだろうか。もしかしたら、イエス様はたしなめられるかもしれない。でも、しょうがないなと言いながら喜んで助けてくださるに違いない。
●3日(土)
【旧約聖書】
主よ、御名を知る人はあなたに依り頼む。あなたを尋ね求める人は見捨てられることがない。詩編 9編11節
【新約聖書】
(イエスの言葉)わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。ヨハネによる福音書 6章37節
今日のみ言葉は、共に神様とイエス様の思いを率直に表してくれていると思った。ご自分を必要とする者を神様もイエス様も見捨てることはないんだと。嬉しい気持ちで満たされたけれども、そこで、ふと思った。なんか変だぞと。
だって、私が神様を必要とするときとは、いつだって私が困っている時だから。そして困りごとが解決したら、神様のことを忘れてしまう。そんな都合のいい私が本当に見捨てられないのかなと。でも、大丈夫。こんな私も、受け入れると約束されているから。そう気づいた私だから、困った時だけでなく、毎日、神様を頼って歩もう。
●4日(日)
三位一体後第10主日
【主日早天礼拝】
藤森 誠 牧師
【主日礼拝】
辻川 篤 牧師
第一主日のため、礼拝の中で聖餐式が執行されます。
●5日(月)
【旧約聖書】
あなたたちの先を進むのは主であり、しんがりを守るのもイスラエルの神だから。イザヤ書 52章12節
【新約聖書】
そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。マルコによる福音書 2章14節
イエス様は取税人レビに向けて、私に従いなさいと言われた。私たちにとって、本当に必要なのは、一人で歩くことでは無く、横に並ぶことでもなく、追い越すことでもなく、イエス様の後ろについていくことである。
なぜなら、私の前にすべてをお任せすることができるお方だから。さらに旧約聖書はしんがりにも神様がおられると言う。しんがりって後ろから襲ってくる敵から、味方を守る役割を与えられた人たちのことだ。前からくる敵も後ろから襲う敵も神様とイエス様が守ってくださるのだ。さらには、私たちの行く先に伴ってくださるお方である。安心してこのお方に従おう。
●6日(火)
【旧約聖書】
床に就くときにも御名を唱え、あなたへの祈りを口ずさんで夜を過ごします。詩編 63編7節
【新約聖書】
主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。テサロニケの信徒への手紙一 5章10節
イエス様は、私達と共に生きるために死なれたのだと聖書は語っている。でもそんなことあるんだろうか?私達は死んだら終わりではないのか?そうじゃない、と聖書は語る。確かにイエス様は死なれた。それは私たちの死と何も変わらない。しかし、このお方はその後、復活された。私達と共に生きるために。
このお方は私達が寝ても覚めても共にいてくださる。それは主が共におられない時は無いということでもある。だからこそ、私達は日ごとに、夜ごとに主の名を呼び、祈り続けるのだ。この日もあなたと共に過ごすことができて感謝いたします、と。
●7日(水)
【旧約聖書】
主を畏れることは諭しと知恵。箴言 15章33節
【新約聖書】
世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。コリントの信徒への手紙一 1章21節
私達は神様がどのようなお方であるのかを自分で知ることはできない。もちろん、神様のことをイメージすることはできる。でも、それは結局の所、私が造り出した勝手なイメージである。
では、私達はどのようにして神様を知ることができるだろうか。きっと神様が直接語ってくださったら話が早い。自己紹介をしてもらうのが一番簡単なはず。しかし、神様はご自分で語られるのではなく、人間の口を通してご自分のことを語られる。不完全な者を神様は用いられる。それは、その不完全さの中にこそ、完全な神様の働きがあらわされるから。信じる者が起こされるのは、ひとえに神様の力によっているんだ。
●8日(木)
【旧約聖書】
主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである。創世記 39章23節
【新約聖書】
これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。ガラテヤの信徒への手紙 5章23節
ヨセフは何でもうまくいった。神様が共におられたからである。では、うまくいかない私の人生は、神様が共におられないからなのだろうか?
もちろん、そんなことはない。ヨセフは何でもが思い通りになったわけではないから。ヨセフはこの時、冤罪によって牢に捕らわれていた。そこから出ることが彼の最大の望みであっただろう。しかしその望みは叶えられていないのだ。彼もまた苦しみの中にあった。しかし、その中で自分にできる最大のことを誠実に行った。だから、彼は周りから好意を持たれたのである。私達も困難の中にあるが神様の霊が共におられるから、安心して歩みだそう。
●9日(金)
【旧約聖書】
死に捕えられた人を救い出さず、殺されそうになっている人を助けず、「できなかったのだ」などと言っても、心を調べる方は見抜いておられる。箴言 24章11~12節
【新約聖書】
一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。コリントの信徒への手紙一 12章26節
旧約聖書のみ言葉は一見すると、私たちの心持ちや心がけが大切と言っているように読める。心を調べる方は見抜いているなんていうほどだから。でも、本当にそうだろうか?このみ言葉は、「できなかった」のではなく、「やらなかった」だけだろうと私に語り掛けているように思える。
御言葉に従うことは、心だけで完結することはできない。一つの部分が苦しんだら、他の部分も苦しみ、一つが喜ばれれば、他の部分も喜ぶからだ。それは心の問題では済まされない。この部分とは教会に集められた兄弟姉妹のこと。私達は、まず兄弟姉妹のために働くことから始めてみよう。それ無しには、全ての人を愛することはできないから。
●10日(土)
【旧約聖書】
主なるわたしは正義を愛し、献げ物の強奪を憎む。イザヤ書 61章8節
【新約聖書】
兄弟を踏みつけたり、欺いたりしてはいけません。わたしたちが以前にも告げ、また厳しく戒めておいたように、主はこれらすべてのことについて罰をお与えになるからです。テサロニケの信徒への手紙一 4章6節
神様は正しい方。だから、正義を愛し、不正を憎まれる。そのことを具体的にみ言葉は教えてくれる。あなたの兄弟を踏みつけたり、欺いたりしてはいけないと。そんなの当たり前だと私は思った。愛する兄弟姉妹なのだからと。
でも、ふと日曜日の行いを思い出す。あの兄弟に声をかけられたのに、忙しくてお声を返せなかった。あの姉妹にちょっと失礼なことを言ってしまったと。私たちは教会の中でさえ、争ってしまう者である。どうして、兄弟姉妹とさえ争う私が正義を愛する神様を愛することができるだろうか。しかし、その私も赦されている。だからこそ、兄弟姉妹を愛して生きてみよう。
●11日(日)
三位一体後第11主日
【主日早天礼拝】
辻川 篤 牧師
【主日礼拝】
辻川 篤 牧師
●12日(月)
【旧約聖書】
主よ、わたしは御救いを仰いで待ち、あなたの戒めを実行します。詩編 119編166節
【新約聖書】
以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」ヨハネの黙示録 22章20節
詩人は、神様の救いを待ち望んでいる。しかし、待ち望みながら詩人が行うことは、神様の戒めを実行すること、神様の言葉に従うことだと言うのだ。一体どうしてなのだろうか?
神様の救いが実現した時を考えてみて少しわかった。私が考える理想の世界、そこには神様はいないのかもと思ったからだ。でも、本当の理想は、神様のみ言葉に誰もが従う世界。それこそが聖書の語る理想の状態ではないだろうか。その理想が、救いが完成する時。それはイエス様が再び地上に来てくださる時だ。だからこそ、私達はその時が訪れるまで、神様のみ言葉に耳を傾けながら待ち望むのだ。
●13日(火)
【旧約聖書】
新しい歌を主に向かって歌え。全地よ、主に向かって歌え。詩編 96編1節
【新約聖書】
「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光。」ルカによる福音書 19章38節
詩人が語る新しい歌って一体何なのだろうかと思っていた。普段私たちが歌う讃美歌の新しい歌を作るってことなのかな?と。しかし、新約聖書は、イエス様がエルサレムに入られる時の弟子たちの言葉を引用する。37節にはこうあった。「弟子の群れは…自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び…」。この時弟子たちはまだイエス様の十字架の出来事を知らなかった。しかし、イエス様が私たちのためにしてくださった御業を彼らは神様に感謝したのだ。これこそが私たちの新しい歌なのかも。
今日神様が私たちのなしてくださった御業を、感謝する言葉が歌となっていくんだ。
●14日(水)
【旧約聖書】
あなたの神、主は、あなたの手の業をすべて祝福し、この広大な荒れ野の旅路を守り、この四十年の間、あなたの神、主はあなたと共におられたので、あなたは何一つ不足しなかった。申命記 2章7節
【新約聖書】
だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。ヘブライ人への手紙 12章12節
新約聖書のみ言葉を読んで、はじめ、困ってしまった。だって、もう体はボロボロで、今にも力尽きそうな私なのに、しっかり立ちなさいと命じられていたから。それは無理ってものですよ、神さまと言いかけて、ふと目を留めた。
それは「だから」という言葉。その前には、私たちの試練は神様によって与えられたものだと語られていた。結局の所、私は自分で立っていると思っていた。だから、立てと言われた時に苦しくなった。しかし、本当はそうじゃないんだ。私が今立っているのは、神様が共にいて支えてくださっているから。だから、しっかり立ちなさいと勧められている。
●15日(木)
【旧約聖書】
わたしはあなたたちが奴隷にされていたエジプトの国から導き出したあなたたちの神、主である。わたしはあなたたちの軛を打ち砕き、あなたたちがまっすぐに立って歩けるようにした。レビ記 26章13節
【新約聖書】
もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。ヨハネによる福音書 15章15節
神様は私達を奴隷の状態から救い出してくださった。もう私達は自由にされており、誰にも縛られない者となっている。
イエス様は私達を友と呼ぶと言われる。友達は互いが対等な関係である。互いに命令することはできない。神様は私たちに命令できるお方であるにも関わらず、命令ではなくお願いすることを選ばれたのだ。私はこんなにあなたのことを思い、あなたの願いを叶え、尽くしてきた。だからあなたも私の願いを聞いてくれるだろうと。これがイエス様の願いである。もう私のためにイエス様は命さえ与えてくださった。だから、私達も、この友のために力を尽くすのである。
●16日(金)
【旧約聖書】
あなたの父母を敬え。出エジプト記 20章12節
【新約聖書】
だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。ローマの信徒への手紙 15章7節
相手を敬うってどういうことなのだろうか?私の中に思い浮かぶのは心の中のことばかり。大切にするとか、慕うとか。でも聖書はもっと具体的に教えてくれている。それは、相手を受け入れることだと。受け入れるとは、「相手の要求を聞き、それを承知すること」である。相手の言葉に従うことが求められているんだ。
それも、その理由は、ひとえにイエス様、神様との関わりの中で語られている。イエス様が受け入れてくださったから、そうしなさいと。その最優先の相手は、私たちの身近である父と母である。そこから始めよう。その先に隣人との関わりが生まれるから。
●17日(土)
【旧約聖書】
御言葉のゆえに、御心のままに、このように大きな御業をことごとく行い、僕に知らせてくださいました。サムエル記下 7章21節
【新約聖書】
あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。ガラテヤの信徒への手紙 3章29節
大きな御業って何だろうかと聖書を開いてみた。神様のなした御業とは、イスラエルの民を導き、王国を建て、王を選びとった。さらに、ダビデ王家の繁栄を約束されたのだ。それは、ひとえに、あなたたちと共に居たいとの御心のゆえにである。
その思いは、イスラエルの国を超えて、イエス様を通して実現された。私達はイエス様によって救いを与えられた。それは、旧約の時代から続く神様の約束につながっているのだ。それこそがアブラハムの約束の相続者ということである。神様の思いは今も変わらない。あなたと共に居たいとの御心のゆえになのである。
●18日(日)
三位一体後第12主日
【主日早天礼拝】
辻川 篤 牧師
【主日礼拝】
辻川 篤 牧師
●19日(月)
【旧約聖書】
怒りを解き、憤りを捨てよ。自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはならない。詩編 37編8節
【新約聖書】
だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。テサロニケの信徒への手紙一 5章15節
怒るな、憤るなと聖書は語る。私もそうできたらと願うけれども、周りが私を苛立たせ、憤らせるのだ。だから、私も嫌だけれども、怒らざるをえないんだと思っていた。でもと、ふと思った。私もまた、誰かを憤らせる者となっていないだろうかと。私は悪に対して、悪を持って報いたことはなかっただろうかと。
周りから受ける悪意を消すことは、できないかもしれない。しかし、せめて、私は苛立たず、悪事を諮ろうとせずに生きてみたらどうだろうか。それは何より、神様が私にそう望んでおられるから。せめてこの日、皆に対して善を行うよう努めてみよう。きっと何かが変わるはずだ。
●20日(火)
【旧約聖書】
その間、僕は主がこの旅の目的をかなえてくださるかどうかを知ろうとして、黙って彼女を見つめていた。創世記 24章21節
【新約聖書】
彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた。使徒言行録 13章2~3節
僕は主人からの命令により、主人の息子の妻を探しに来ていた。そこで、彼は神様に祈り、お願いをする。彼女がこう答えたら、それがあなたの選ばれた方であると考えさせてくださいと。そして、まさに、今、その願い通りの出来事が起こっていた。しかし、僕は黙って彼女を見つめるだけである。それは、そこで口を挟んでは神様との約束の意味がなくなるから。
神様のなさる御業を黙ってみていることはとても難しい。つい、自分の願った通りになるようにと、手を出し、口を出してしまう。しかし、神様は私たちの願いに言葉と出来事を持って、応えられる。今日も、主の応答を見つめよう。
●21日(水)
【旧約聖書】
天にいます神に向かって、両手を上げ心も挙げて言おう。哀歌 3章41節
【新約聖書】
あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。ヤコブの手紙 5章13節
旧約聖書の哀歌とは、文字通り哀しみの歌である。歌い手はひどい苦しみの中にある。それもただ苦しいというだけではない。歌い手はその苦しみが神様から来ていることを知っている。神様に従えない罪のゆえに、神様は怒って私を懲らしめられているのだと。
だが、歌い手には確信もある。それは、神様は、憐れみ深い方であるということ。だから歌い手は、心から言える。「主よ、助けてください」と。私達も苦しみの中で、神様へ手と心をあげて、祈ることができる。「主よ、憐れんでください」と。そして、喜びに満たされたなら、神様を褒めたたえる者としていただけるのだ。
●22日(木)
【旧約聖書】
それに対して、主はこう言われた。「あなたが帰ろうとするなら、わたしのもとに帰らせ、わたしの前に立たせよう。」エレミヤ書 15章19節
【新約聖書】
だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。マタイによる福音書 10章32節
今日のみ言葉も嬉しい言葉だ。でもどうして嬉しいと思えるのかなと考えてしまった。それは、私は“自分の意思”で神様のもとに立ち帰ることを選びとれると考えているから、受け入れられることを喜んでいるんじゃないだろうか。
神様に立ち帰ること、それは心の思いでは終わらない。イエス様が私の仲間であると言い表すならばと言われたが、それには、当然苦しみや困難も伴う。それなのに、本当に私は自分で神様のもとに帰れるのかな?きっと無理だ。だって、それができたら、イエス様はいらなかったはずだから。それができるのは、ひとえに神様の助けがあってこそだ。聖霊の助けがありますように。
●23日(金)
【旧約聖書】
「足がよろめく」とわたしが言ったとき、主よ、あなたの慈しみが支えてくれました。詩編 94編18節
【新約聖書】
「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。コリントの信徒への手紙二 12章9節
使徒パウロには、悩みがあった。その悩みを取り去ってほしいと三度も神様に願った。しかし、それは叶えられなかった。一方で、旧約聖書の詩人は、助けてくれと言わないうちに、神様の憐れみによって支えられたとある。神様は一体何をお望みなのだろうか?
それは、神様に頼ることを私たちが選びとることではないだろうか。私が神様を頼るのは、弱くなった時、それこそ足がよろめき倒れそうな時だ。元気な時には起こらない。だからこそ、神様は私たちに弱さを与えられた。でも、私たちは何も心配することはない。私が弱い時にこそ、神様の力が十分に発揮されるのだから。
●24日(土)
【旧約聖書】
「わたしはお前の罪を取り去った。晴れ着を着せてもらいなさい。」ゼカリヤ書 3章4節
【新約聖書】
父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』ルルカによる福音書 15章22、24節
罪を取り除かれ、晴れ着を着せてもらえるなんて羨ましいなぁと思った。それはどんな人なのかなと思って、聖書を開いてみたら、旧約聖書と新約聖書で全く異なっていて驚いた。旧約聖書では、神様の命令に従いぬいた人であった。一方で、新約聖書では、父の元を離れ、命令に背き続けた息子であった。真逆の二人。それなのに、二人とも晴れ着を着せていただいている。この違いはただ、イエス様に依っている。本当は前者の人しか晴れ着を着せてもらえない。しかし、神様に背き続ける私のためにイエス様が来てくださったから、私も晴れ着を着せていただけるのだ。神様、感謝します。
●25日(日)
三位一体後第13主日
【主日早天礼拝】
辻川 篤 牧師
【主日礼拝】
辻川 篤 牧師
●26日(月)
【旧約聖書】
あなたは死からわたしの魂を救い、突き落とされようとしたわたしの足を救い、命の光の中に、神の御前を歩かせてくださいます。詩編 56編14節
【新約聖書】
(イエスは)子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩きだした。マルコによる福音書 5章42節
この世を生きる私たちにとって、死とは最も恐ろしいものだ。それも、本人の問題というだけでなく、その人と共に生きる家族にとっても大きな問題である。その絶望の中にイエス様は来られた。そして言われる。「起き上がりなさい」と。それは、ただ復活するということだけでなく、その絶望の中から私たちを起き上がらせてくれる言葉そのものなんだ。このお方の言葉があるがゆえに、私達は起き上がることができるのである。
それもまた、神様が私たちにと与えてくださる救いである。この救いをいただけるからこそ、私たちは絶望の中にあっても光を見いだせるのだ。光である主の御前を今日も歩もう。
●27日(火)
【旧約聖書】
主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え、主の戒めは清らかで、目に光を与える。詩編 19編9節
【新約聖書】
しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」ルカによる福音書 11章28節
イエス様は、「むしろ」と言われた。それは何かと比較する言葉だ。人々は、イエス様の不思議な力に驚き、イエス様の家族は何と幸いかと言っていた。しかし、イエス様は、神様の言葉に従うこと、これこそがもっと大きな幸いであると言う。
私達も信仰生活の中で不思議な体験をすることがある。癒されたり、声が聞こえたり等々。しかし、それが受けた人が、受けていない人よりも、幸いな人と言うことでは無い。誰しもが共通して受け取れるもの、それこそが神様のみ言葉である。それは神様のみ言葉は、私たちを活かすための言葉であるから。この日も、神様の助けをいただいて、み言葉に従う者としていただこう。
●28日(水)
【旧約聖書】
今こそ、心と魂を傾けてあなたたちの神、主を求め、神なる主の聖所の建築に立ち上がれ。歴代誌上 22章19節
【新約聖書】
フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」ヨハネによる福音書 1章45節
イスラエル王国のダビデ王は、神様が住まわれる場所である聖所を建築しようと考えた。それは、神様が人々と共に居たいと願っておられたからだ。しかし、聖なる神殿は誰でもが神様と自由にお会いできる場所ではなかった。
それゆえに、神様はイエス様を遣わしてくださって、本当に私達と共に生きることを選んでくださった。だからこそ、フィリポは、私はイエスと出会ったと告白できるのである。私達と同じ人間となってくださったからだ。そして、このフィリポの告白は私達も持っている告白である。私は、イエス様と出会いましたと。それはイエス様と共に歩む生活の始まりだ。この日も共に歩もう。
●29日(木)
【旧約聖書】
誰が烏のために餌を置いてやるのか、その雛が神に向かって鳴き、食べ物を求めて迷い出るとき。ヨブ記 38章41節
【新約聖書】
ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。コリントの信徒への手紙一 3章7節
私たちを養っているのはいったい誰なのだろうか?幼い頃には、親が、家族が、私を養ってくれた。大人になった今は、自分で自分を養っていると思っていた。でも聖書はそうじゃないと言う。私たちを成長させてくださるのは、私のために餌を与えてくれるのは、神様だと言うのだ。
植物を実らせるためには、土を耕し、種をまき、水を与えと、何かと手間がかかる。しかし、全く同じ条件に置いても、実をつける木と、実をつけない木がある。それは、そこに神様が関わっておられるから。私たちを成長させてくださる方が私の人生にも関わっておられる。安心してお任せしよう。
●30日(金)
【旧約聖書】
御心の計らいは代々に続く。詩編 33編11節
【新約聖書】
キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。エフェソの信徒への手紙 1章11節
神様は私達のために、計画を定めておられると聖書は語る。一体どんなご計画かと言えば、約束されたものの相続者としてもらえるという計画だ。約束されたものとは一体何だろうか?色々と考えることができるけれども、きっと、神様の子どもとして与えられるもののことだろう。御国を受け継ぎ、神のものとされる事だ。
この神様のご計画は特定の誰かにだけもたらされるものではない。なぜなら、御心の計らいは代々に続くと言われているから。全ての人が、神様のご計画の中に入れられているのだ。だから、一人でも多くの人に伝えたい。この神様の計らいを受け取ってもらいたいから。
●31日(土)
【旧約聖書】
彼らはわたしにとって宝となると、万軍の主は言われる。人が自分に仕える子を憐れむように、わたしは彼らを憐れむ。マラキ書 3章17節
【新約聖書】
平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。マタイによる福音書 5章9節
旧約聖書の語る彼らって誰かと思って聖書を開いてみたら、主を畏れ敬う者たちと言われていた。それは神様を大切に生きる人たちである。その人たちにあなたは私の宝だと言われる。そして憐れんでくださるのだ。
でも、と思った。神様に従えない人は、捨てられるのだろうか?そんなことは無い。神様はご自分に逆ら者のためにもイエス様を与えてくださったのだから。しかし、私達はそのことに甘えていないだろうか。赦してもらえるから、従えなくても大丈夫と考えている自分にハッとさせられた。神様の願いは一つ。私に立ち帰れである。そのことをひたすらに心に刻もう。