2023年11月の『日々の聖句』
【旧約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)
●1(水)
神は地を御覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた。(創6・12)
ノアの大洪水が起こる〝前夜〟のこと。神は、豊かな人生を送るようにと人を造られたのに、人は自己中心に生きていた。神の悲しみは激しく、人を造られたことを後悔されたほどだったのだ。
今、自分で書いているこの文章の「人」という箇所に「辻川篤」と自分の名前を入れて読み直してみた。ドキッとした・・・。主を悲しませる人の姿が、他人事でなくなった。
●2(木)
自分自身を知恵ある者と見るな。主を畏れ、悪を避けよ。(箴3・7)
「自分自身を知恵ある者と見る」ってどういうことだろう。ボクはその逆で、「自分には知恵がないなぁ」って、いつも思っているのに。でも・・・。自分の遣り方こそ正しいと思って、人を責める。心の中で人を批判してしまう。それって、自分の知恵を誇っているからしてしまうこと。それが正に、主を畏れない姿、悪に歩む姿なのかも。今日、気付けて良かった。今日を、立ち帰る日とできるから。
●3(金)
あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。(出20・3)
これは「十戒」の第一戒。この直前に、主である私こそが、あなたがたを奴隷の国エジプトから救出したんだよと、言われている。民の嘆きの声を聞いて心を動かしたのは私だよと。その私だから、私以外を神とするはずがないよねと確認しているのだ。無理に掟を押し付けているんじゃない。
この響きが、全ての戒めの底流にある。その響きを聞き取れる人が、十戒を守ろうとする人になれる。
●4(土)
殺してはならない。(出20・13)
これは、十戒の中の第六の掟だ。「ボクは人を殺していないし、当然この掟だけは守れているよ」と思う。人殺しじゃないもん、と胸を張る。
でもその時に気付くのだ。「刀も銃も持たないけど、言葉で刺した。その傷は肉体への傷より深く、痛みは激しかったはず。あの人、うつむいて泣いていたから・・」と。そして「ああ、ボクも人を殺す者。この掟は、ボクへの戒めの言葉としてあるんだ」と。
●5(日)
礼拝説教
(召天者記念礼拝)
主日早天 藤森誠 伝道師
主 日 藤森誠 伝道師
●6(月)
「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」(出3・6)
ホレブの山で、神がモーセに顕現された時、ご自身と彼との関係を開示された。そこに「アブラハム」の名があるということは、生きてアブラハムに働かれた神の御手が、延々と受け継がれて、いまモーセにも等しく及ぶということだ。
その関りは、実にボクにも及んでいる。ボクも、大きな祝福の歴史の中に入れられているんだ。
●7(火)
(主は言われる)「わたしは慈しみを彼から取り去りはしない。」(サム下7・15)
主の言葉が、預言者ナタンを通してダビデに伝えられた。「彼」とは、後にダビデの子となるソロモン。つまり遠い将来にまで関わる祝福を、今ここでの約束として与えられたのだ。
未来までも祝福されているって、良いなって思う。子供のことまで神様が心に掛けていて下さるって、良いなって思う。その「良いな」は、私たちにも与えられているんだ。このみ言葉を信じる時に。信じる者たちだけに。
●8(水)
呼んでください、お答えします。わたしに語らせてください、返事をしてください。(ヨブ13・22)
苦難の中のヨブ。全ての財産を失い、友人たちは自業自得だと責める。家族の中で唯一残った妻も、「死んだほうがまし」と言う。そんなヨブが神様に訴えかけた「自分に罪と悪がないことを弁明させてほしい」と。
この叫びは、苦難の日、ボクも同じかも。「主よ、なぜこんな苦しみを与えるのですか」と祈る。そうやって主にぶつかる。真剣に叫ぶ。そんな関係は、無垢なヨブと一緒かもと思った。
●9(木)
わたしの訴えをあなたに打ち明け、お任せします。(エレ20・12)
預言者エレミヤが、南ユダ王国の人々に、これから起こるバビロン捕囚を伝えた時、人々は非難の集中砲火を浴びせた。何とかしてくれ、と叫ぶエレミヤ。人々に復讐したいと、怒りも抱える。その時に彼が祈った言葉がこれだ、「あなたに打ち明けます」と。同時に「お任せします」と。
御心を歩んでも苦しみを背負う。その時、この祈りをボクも祈ろう。自分の手と口に、武器を持たずに。
●10(金)
主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が、神とお前たちとの間を隔てる。(イザ59・1-2)
「主よ、助けて下さい」と苦難の日に祈る。それも必死に祈る。でも応えられない時「どうして助けがないの」と不満や不安が心の中に芽生えて来る。それがボクの信仰生活かも。
イザヤは捕囚の民の嘆きに、今日のこの言葉を神に預かって伝えた。ボクも祈りも変えねば、「一方的願いを赦して下さい。心を低くして『我、罪人なれど』と立ち帰ります」と。その低き場で主に出会えるから。
●11(土)
主は先祖と共にいてくださった。またわたしたちと共にいてくださるように。(王上8・57)
「先祖」って誰のことを考えているのか?それは間違いなく、アブラハム、イサク、ヤコブ、そして父ダビデだろう。それは、神の祝福の系図だ。その福福が、自分にも流れ込むようにと願っているのだ。彼の名は、統一王国イスラエルの王ソロモン。生涯にわたって主の祝福は尽きなかった。
ボクも祈ろう「主がわたしと共に居て下さるように」と。これこそが、祝福の中身そのものなのだから。
●12(日)
礼拝説教
主日早天 辻川篤 牧師
主 日 辻川篤 牧師
(こども祝福式)
●13(月)
わたしのすべての掟、すべての法を守り、それを行いなさい。わたしは主である。(レビ19・37)
神が与えた律法を完全に行いなさいと厳命される!でもこの言葉の前に「わたしはあなたたちをエジプトの国から導き出した神」だよと加えられていた。あなたを守り救ったのは、私だからね、と。
律法厳守という事じゃない。「あなたを慈しんだ私の言葉だから、大事にしてくれるね」と、天の父が子供を信じて語り掛けている言葉だ。どうして守らずにおれようか。
●14(火)
どうか、天を裂いて降ってください。(イザ63・19)
廃墟となった神殿。そこに立つイザヤが神に訴えた。民の罪によって起こったバビロン捕囚。でも主はこのまま怒られたままなのかという思いをもって言った言葉が、これだった。
救いを求めるとは、罪を償い終えたから求められるという事じゃない。ただ神の憐れみに頼ること。すがること。彼はすがりつくお方、神の憐れみ深さを知っているんだ。ああ、ボクもただすがろう。ただ信じて頼ろう。
●15(水)
神に逆らう者はその道を離れ、悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。(イザ55・7)
主の憐れみは必ず注がれると、背信の民にイザヤが告げる。しかしその恵みを受け取るのは、条件があった。悪の道を捨てて、主に立ち帰ること。
「なんだ、そんなこと当然」と軽く思って、ふと立ち止まった。悪の道って、自分の外にあるのじゃなくて、自分中心な生き方そのものだから。悪のたくらみを捨てるというのは、自分自身への執着を捨てること。本当は、簡単なことじゃないんだよね。
●16(木)
それは、地上のすべての民が主の御手の力強いことを知るためである(ヨシュ4・24)
全ての民が神の御手の力を知るって、何が起こったのだろう・・・。聖書を見たら、出エジプト後の人々がヨルダン川を渡った時、水が壁のように左右に分かれて立った出来事だった。葦の海を渡った時のように。
ボクにも「これは神様の奇跡」って思う時がある。海が分かれたわけじゃないけど、でもボクも証ししなきゃならないのかも。周りの人も知ることを、主が望んでおられるのだから。
●17(金)
全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。(詩100・1)
これは礼拝の「招きの言葉」としてよく読まれるみ言葉。主が「喜びの叫びをあげるんだ」と呼んで下さる。でも加えて、1節の冒頭では「感謝のために」という一言も添えられていた。
改めて、信仰者同士が、「さあ主に感謝して賛美をささげよう」と互いに言い合っている言葉なんだと思った。礼拝はそういう神と人、人と人との呼び掛け合いの中に始まるんだ。なんて素晴らしい時なんだ!
●18(土)
息絶えようとするとき、わたしは主の御名を唱えた。わたしの祈りがあなたに届き、聖なる神殿に達した。(ヨナ2・8)
神の命令に背いて、船で逃げ出したヨナ。そこで大嵐に遭い、海の藻屑となりかけた時、主が大魚に飲み込ませて助けた。その腹の中で彼は、不従順な自分のこと、そんな彼になお注がれる主の救いを想って祈った。
真の悔い改めは、自分で自分の罪を悔いることじゃない。愛されているという中でこそ、そのお方へ心を向けられる。然り、悔い改めは、愛されているという腹の中でこそ起こるんだ。
●19(日)
礼拝説教
主日早天 藤森誠 伝道師
主 日 藤森誠 伝道師
●20(月)
生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主(ルツ2・20)
未亡人ルツが、姑のナオミの故郷に来た。「落ち穂でも拾って命を繋ぐしかない」と、見知らぬ人の畑に入る。でもそこは、縁続きの人の土地。そこで厚意を得たルツに、ナオミがこの言葉を言ったのだ。
「死んだ人」という一言に心が留まる。亡くなった人じゃない。生きているのに死んだも同然の人ということかも。その辛さの中にいる一人に、主の慈しみが満ちるんだ。
●21(火)
わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し、変わることなく慈しみを注ぐ。(エレ31・3)
もしこれが、聖書の言葉だと知らなければ「熱烈なラブレター」と思うだろう。正にこれは、神様からのラブコール。いやそれよりも激しい愛の言葉。だってご自身を裏切った相手を、なお愛していると言うのだから。
これは、バビロン捕囚後のエルサレム帰還の預言。それらの歴史は、すべて主の熱い想いの中で起こる出来事なんだ。そして、そんな主の熱い想いは、ボクの歴史にも注がれている。
●22(水)
神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された。(創19・29)
腐敗の町ソドムに住むアブラハムの甥っ子ロト。神の怒りに触れた町が亡びようとしていた。そのときアブラハムが執り成したのだ。
神は執り成しによっても救いを与えられる。本人の信仰とか正しい行いによらず、執り成す人の祈りによってだ。ああ、ボクの祈りの重大さが分かった気がした。執り成したい家族がいる、友人がたくさんいる。その祈りも、神に聞かれるのだから。
●23(木)
あなたのような神がほかにあろうか、咎を除き、罪を赦される神が。(ミカ7・18)
人々は神を捨て、自分勝手に生きていた。「神の民」と呼んでいただいたのに、その神を裏切った。赦されない背信。それゆえのバビロン捕囚だったのに。それなのに、その人々が今朝の言葉を改めて告げたのだ。背信への神の応答が、赦しだと知ったゆえに。
こんな神は他にいない。こんなに深い愛は他にない。神が愛であるという時、その意味は、忍耐と赦しの方という事。それが、ボクの神なんだ。
●24(金)
主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように。(ルツ2・12)
夫に先立たれた後も、姑ナオミに仕えたルツ。ナオミの故郷につき従って来たルツに、夫の一族のボアズが声を掛けた。その一言は、ルツが来た場がどんな所なのかをハッキリ伝える言葉であった「主の御翼のもと」と。
私たちも、この世でそれぞれ一週間の歩みをする。辛いなと思う日もある。でも主の日に礼拝堂に帰るなら、今朝の御言葉で迎えられるんだ。「御翼のもとに帰って来たね」と。
●25(土)
御口をもって約束なさったことを今日このとおり御手をもって成し遂げてくださいました。(王上8・24)
神がダビデに約束して下さった神殿建築を、その子ソロモンの時に完成して下さった。資金も資材、主が整えて下さった。約束の言葉の成就を前に、ソロモンが祈った言葉がこれだ。
私たちも、自分への主の御手の業を見たいと思う。そのためにすべきことが、今日分かった。ボクの側ですべきことは、何よりも先ず約束の言葉を聞くことだ。それが抜けては、何が成就するかも分からないのだから。
●26(日)
礼拝説教
主日早天 辻川篤 牧師
主 日 辻川篤 牧師
●27(月)
男と女に創造された。(創1・27)
神が人を造られた時「あなたを造った」と言わず、わざわざ「男と女に」と言われた。それは「あなたと同じ大切さで、あなたの隣人も造ったよ」ということなんだ。
イエス様が「隣人を自分のように愛しなさい」と言われた言葉は、天地創造からの神の御心だったんだ。それなのにボクは、自分だけが大事で、他人の大事さに生きていない。それは由々しき背きだった。
●28(火)
この民は、口でわたしに近づき、唇でわたしを敬うが、心はわたしから遠く離れている。(イザ29・13)
ああ、この言葉は正にボクへの忠言。神は見逃されないんだ。ボクが「礼拝はしているし、聖書を聞いているし、祈ってもいるけれど、そのみ言葉によって少しも自分が変われていない」、そんな生活をしている姿を。結局それは、口では敬うが、心は自分中心な姿。神が嘆く姿なんだ。
これは、イスラエルの民への審きじゃない、「他人事じゃない」と気付けることが、信仰生活の第一歩かも。
●29(水)
わたしはイスラエルの人々の中に住み、わが民イスラエルを見捨てることはない。(王上6・13)
ソロモン王がエルサレム神殿建築に取り掛かる時、この言葉が主から臨んだ。父ダビデも成し得なかった大事業。それも民族の悲願。その時に何よりも必要なのは、資金調達でも資材確保でもない。ただ主が共に居てくださること。それはまた、主の願いであり、約束でもあられたのだ。
ボクも祈ろう。今日一日を歩むということも、本当は大事業。だから、「主よ、我が内に住み給え」と。
●30(木)
自分の口を警戒する者は命を守る。いたずらに唇を開く者は滅びる。(箴13・3)
これは、ちょうどボクへの戒めだ。今朝、このみ言葉を聞けて良かった。だって今日の一日を、口から出る言葉に気を付けて慎重に歩めるから。
でもなぁー。口が災いするって分かっていても、失敗する時は、その瞬間忘れているんだよなぁ。どうしたら良いんだろう。そうだ、今朝のこのみ言葉のあとに、この言葉を加えて心に刻もう「隣人を自分のように愛しなさい」と。