2026年2月の『日々の聖句』

この日々の聖句は、聖書箇所を「ヘルンフート兄弟団『日々の聖句2026』(べテスダ奉仕女の家)」からいただきました。
聖書の本文は、日本聖書協会が発行している『聖書新共同訳』から転記しています。
『聖書新共同訳』:(c)共同訳聖書実行委員会(c)日本聖書協会、1987,1988。

●1日(日)

顕現後最終主日
 【主日早天礼拝】
   藤森 誠 牧師
 【主日礼拝】
   藤森 誠 牧師

●2日(月)

【旧約聖書】
イスラエルの人々が主に助けを求めて叫んだので、主はイスラエルの人々のために一人の救助者を立て、彼らを救われた。士師記 3章9節
【新約聖書】
だから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。ヘブライ人への手紙 10章35節

 イスラエルの民は、神様に向かって助けを求めた。その苦しみは、人々が神様を裏切り、他の神に仕えるようになったからだ。人々が神様を忘れた結果だった。それにも関わらず、神様は、人々の叫びを聞き、救助者を立てられ、人々を救われた。しかし、助けられた人々は、またしばらくすると神様を離れるのである。
 聖書に記されている人間の姿はいつも同じ。神様を忘れ、神様を離れ、神様を怒らせている。でも、私も同じかも。救っていただいたはずなのに、いつの間にかそれを忘れてしまっている。しかし、それでも、私には救い主が必要だ。そのために、神様は最高の救助者としてイエス様を立てられた。この方に支えていただこう。

●3日(火)

【旧約聖書】
貧しい人を嘲る者は造り主をみくびる者。災いのときに喜ぶ者は赦されない。箴言 17章5節
【新約聖書】
神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。ヤコブの手紙 2章5節

 人の不幸は蜜の味ということわざがある。他者の不幸を見聞きした時に生じる、喜びの感情のことのようだ。調べてみたら、2歳の赤ちゃんにも同様の反応が見られるらしい。そう考えると、もう人間の本質的なものとさえ言えるのかも。しかし、聖書は、それを赦されないと語る。
 聖書はむしろ、「泣く人と共に泣きなさい(ローマ12:15)」と教えている。私達に求められるのは、相手を思いやる心ではないだろうか。だからこそ、神様は貧しい者にさえ、目をかけて下さり、憐れんでくださるのだ。神様に倣って私達も、歩もう。

●4日(水)

【旧約聖書】
祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り、暑さが襲うのを見ることなく、その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく、実を結ぶことをやめない。エレミヤ書 17章7~8節
【新約聖書】
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。ヨハネによる福音書 15章5節

 昨年、何を思い立ったか、プチトマトを育てようと思い立ち、道具をそろえて、苗を買い、育て始めた。せっせと水をやり、肥料を蒔いてお手入れをした。少し茎が伸びてきた頃には、間引きをしたりもした。けれども、茎は伸びるが、花は咲かず、だから実もならなかった。残念ながら実りはなかった。水と栄養さえあれば、植物は育つと思っていたがどうやら違うらしい。
 では何が足りなかったのだろうか?それはきっと、神様につながっていることだ。素人園丁では、苗の力を引き出すことはできなかったが、神様が育てる木や枝は、最善が尽くされる。だから、安心してお任せしよう。主につながっていれば、実りは約束されているのだから。

●5日(木)

【旧約聖書】
神よ、守ってください。あなたを避けどころとするわたしを。詩編 16編1節
【新約聖書】
主は真実な方です。必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます。テサロニケの信徒への手紙二 3章3節

 神様はいつだって、私達を守り、導いて下さる方であることを私達はよく知っている。しかし、私の祈りはいつだって、私を守ってください。私を救ってくださいとの願いである。そして、聖書の中にも同じように、求める人たちの姿が沢山描かれている。それって一体どうしてなのか?
 それはきっと、神様を信じていても苦難は起こり続けるからではないだろうか。確かに神様の助けはある。しかし、それと同じくらい苦難があるんだ。神様を頼らなければ歩めない私だからこそ、日々の祈りは助けてくださいとの言葉で埋め尽くされている。神様は真実な方だから、必ずその祈りに答えてくださるのだ。

●6日(金)

【旧約聖書】
主よ、あなたは正しくいます。…今日のように恥を被っているのは当然なのです。ダニエル書 9章7節
【新約聖書】
そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』。マタイによる福音書 25章45節

 神様の正しさが私達に向けられるならば、それは、私達は正しく裁かれるということになる。神様の正しさに沿って歩むことができたのかどうかを問われるのだ。そこでは、言い訳はできない。何時、神様の前に不正を働いたでしょうかと。だから、私達は、恥を受け、罰を受ける。
 しかし、そこで終わりではない。むしろ、その状況の中にあって、イエス様は、私達と共にその恥も罰をも受けてくださる。主はいつだって、私の隣に居て、私の受ける苦しみを共に味わってくださるのである。だからこそ、私達は悔い改めて、方向転換しよう。私の力では不可能なことも、主が共にいてくださるのであれば、きっと、実現できるはずだから。

●7日(土)

【旧約聖書】
ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。イザヤ書 9章6節
【新約聖書】
実に、キリストはわたしたちの平和であります。エフェソの信徒への手紙 2章14節

 聖書はイエス様こそが私達の平和であると告げている。イエス様がもたらしてくださる平和は争いのない状態と言えるだろう。戦いが無くなる時、それがイエス様の平和の実現である。私達はそう聞くと、人間同士の争いを真っ先に思い浮かべてしまうけれども、でも、聖書は神様と人間との争いに視線を向けている。
 イエス様がもたらす平和は、私と神様との間を和解させ、私達の持つ敵意を滅ぼされると語っている。それによって、私達は真に神の子とされ、神様と共に歩むことのできる存在としていただいた。さぁ、この日も、キリストの平和が実現されるように祈ろう。

●8日(日)

受難節前第2主日
 【主日早天礼拝】
   眞木 重郎 伝道師
 【主日礼拝】
   眞木 重郎 伝道師

●9日(月)

【旧約聖書】
寄留者があなたの土地に共に住んでいるなら、彼を虐げてはならない。レビ記 19章33節
【新約聖書】
わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。ヨハネによる福音書 15章14節

 聖書には沢山の約束事が記されている。今日のみ言葉もその一つと言えるだろう。寄留者を虐げてはならないと。沢山ある約束事は、相手のためにそう生きなさいと言われていると思っていた。相手のためにあなたは我慢するのだよと。でも、聖書をよく読んでみると、その理由は大きく異なっていることが多かった。
 それは、相手のためであると同時に、私のためなのだ。あなたもそうされたのだから、同じようにしなさいと言われている。イエス様も、命令を守るのは、私の友となってくださるためだという。それなら、少しは頑張れるかも!さぁ今日も、み言葉に従おう。

●10日(火)

【旧約聖書】
わたしは、あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるに足りない者です。創世記 32章11節
【新約聖書】
しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。テモテへの手紙一 1章16節

 今日のみ言葉は、私達の姿勢を正してくれるかもしれない。神様からいただける慈しみもまことも、私は受けるに足りない者であるという言葉だ。私たちは神様から救いの恵みを与えられた。神様の憐れみによって、罪赦されている。ふと、それを当たり前だと思っている自分がいないだろうか?何だか、勝手に立派な人間になっているという勘違いが心の片隅にある気がした。
 でも、本当はそうでは無い。本当は憐れみを受ける価値もない罪人である私なのに、神様は私を見出してくださって、限りない祝福を注ぎ続けてくださっている。だからこの日、原点に帰ろう。私は神様の慈しみをいただくに足りない者にも関わらず、恵みを注がれたのだと。感謝。

●11日(水)

【旧約聖書】
エフライムはわたしのかけがえのない息子、喜びを与えてくれる子ではないか。彼を退けるたびに、わたしは更に、彼を深く心に留める。彼のゆえに、胸は高鳴り、わたしは彼を憐れまずにはいられないと、主は言われる。エレミヤ書 31章20節
【新約聖書】
神は、前もって知っておられた御自分の民を退けたりなさいませんでした。ローマの信徒への手紙 11章2節

 旧約聖書に記されている神の民の歩みは、いつだって、裏切りと悔い改めの歴史であった。神様は、その民をご自分の元に立ち帰らせるために、様々な裁きや試練を与え、預言者を通して、立ち帰れと繰り返し告げて来られた。それはひとえに、彼らに立ち帰って欲しかったからだ。時に怒って、彼らを退けることがあったとしても、その度に、民を深く心に留められた。
 正にここに、神様の愛と忍耐が示されている。結局、神様は最後まで民を諦めることができず、御子の命を与える方法を選ばれた。その愛の中に私達も主の民として置かれている。だから、安心して、主と生きよう。

●12日(木)

【旧約聖書】
わたしはあなたの背きを雲のように、罪を霧のように吹き払った。わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った。イザヤ書 44章22節
【新約聖書】
あなたがたも知っているように、御子は罪を除くために現れました。御子には罪がありません。ヨハネの手紙一 3章5節

神様はよく事後報告をされる。事前に告知してくださることも多いが、大抵の場合、先に神様が行動を済ませておられるのだ。今日のみ言葉も、完了形で記されている。もう、してしまったよと。そして、神様が求めるのは、立ち帰れという1点である。立ち帰ったら、贖ってあげようと言うのでもない。もう贖いは完了しているのだ。
神様は私の罪の代わりとして、御子イエス様を遣わされた。罪の報いは、自らの命である。だから、罪人には他者の罪を背負うことはできない。だから、神様は、罪なき者であるイエス様にしか、その務めを任せることができなかったのだ。さぁ、この日、改めて立ち帰ろう。既に私は贖われているのだから。

●13日(金)

【旧約聖書】
もし主の御声に聞き従わず、主の御命令に背くなら、主の御手は、あなたたちの先祖に下ったように、あなたたちにも下る。サムエル記上 12章15節
【新約聖書】
あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。コロサイの信徒への手紙 2章6~7節

 今日のみ言葉は、私達に新しい生き方を提示する。あなたたちはこれまで、神様とイエス様と関係なく歩んできた。しかし、今、神を知っただろう、キリストを受け入れただろう。だから、新しい生き方を始めなさいと言われているのだ。旧約の民には、主の御声に聞き従い、命令に背かないようにとの生き方であり、新約の民には、キリストに結ばれ、キリストに根を張り、教えられた通りの信仰を守って感謝して生きる生き方だ。
 どうして、そうせよと言われているのか。それは、私達が神様の守りの内に幸せに生きるためである。これこそが人生の道しるべだと神様が教えてくださっている。だから、そう生きてみよう。

●14日(土)

【旧約聖書】
主の慈しみに生きる人の魂を主は守り、神に逆らう者の手から助け出してくださる。詩編 97編10節
【新約聖書】
こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。使徒言行録 9章31節

 神様はご自分の計画を進めるために、自分に敵対する者さえ豊かに用いられる。それが新約聖書に登場するパウロだ。神の敵であるキリスト者を打つことを至上の喜びとしていた彼であったのに、イエス様と出会い、180度生き方を変えられた。キリストを憎んでいた彼が、キリストを愛する者とされた。彼は、キリストを愛する者とされたがゆえに、命を狙われる。けれども、神様はそのパウロを助け出してくださり事なきを得た。
 まさに、詩人の言葉は、その通りである。神様を信じても、危機はある。しかし、必ず、神様は助け出してくださるのだ。この日も神様を信じて安心して歩もう。

●15日(日)

受難節前第1主日
 【主日早天礼拝】
   眞木 重郎 伝道師
 【主日礼拝】
   眞木 重郎 伝道師

●16日(月)

【旧約聖書】
見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。マラキ書 3章1節
【新約聖書】
そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。マルコによる福音書 13章27節

 神様が遣わす使者は道を備えると言う。それは、神様が私達の所へ来られるための道であり、私達が神様の元へと集まるための道でもあるようだ。
 ふと、神様が来られるのと、神様の所へ行くのとだったら、どっちがいいだろうか?と思った。一見すれば、この苦しい現実の中に神様が来て、世界を変えてくださる方が良さそうだけ れども、神様が帰ってしまったら、また同じに戻る。それだったら、神様の所へ行き、神様の支配の中で過ごす方が幸せかもと思った。その出来事は人の子、つまりイエス様が再び地上に来てくださる時に実現する。その日が待ち遠しいな。

●17日(火)

【旧約聖書】
隠されている事柄は、我らの神、主のもとにある。しかし、啓示されたことは、我々と我々の子孫のもとにとこしえに託されており、この律法の言葉をすべて行うことである。申命記 29章28節
【新約聖書】
神の秘められた計画であるキリストを悟るようになるためです。知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。コロサイの信徒への手紙 2章2~3節

 神様のご計画は全てが私達に明らかにされているわけではない。こっそり勧められていることも、実現されてから明らかになることもある。しかし、一方で、神様は私達にこれから行うことを明らかにしてくださることも多い。そして、明らかにされたことは私達の歩みにとって、なくてはならない出来事である。だからこそ、神様はわざわざ私達に預言してくださるのだ。時にその言葉は希望となるが、時に悔い改めを求める厳しい言葉となることもある。
 そして、神様が秘めておられたけれども、私達に明らかにしてくださった事柄がイエス・キリストの出来事だ。聖書は知恵と知識があるというが、そこには、私達が生きるための命そのものが詰まっている。この方こそが希望だ。

●18日(水)

【旧約聖書】
主よ、あなたの慈しみと救いが、仰せのとおり、わたしを訪れますように。詩編 119編41節
【新約聖書】
人々は皆驚いて、互いに言った。「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。」ルカによる福音書 4章36節

 今日から、約6週間に及ぶ受難節の歩みが始まる。そこで与えられたみ言葉は、救いが来ますようにとの願いだ。救い主が来て欲しい。それは、イスラエルの民にとっての悲願であった。しかし、イエス・キリストが来られて、言葉と行いを通して、ご自分が救い主であることを示されても、人々は不思議がるだけで誰も信じなかった。
 でも、今を生きる私達も同じかも。助け主が欲しいと願いながら、さぁ私だとイエス様が来られても、それを受け入れられないでいる。一度は信じる決心をしたけれど、不都合があれば捨ててしまうのだ。さぁ、受難節の歩みを通して、主を受け入れる準備をしよう。

●19日(木)

【旧約聖書】
諸国の民よ、我らの神を祝し、賛美の歌声を響かせよ。神は我らの魂に命を得させてくださる。我らの足がよろめくのを許されない。詩編 66編8~9節
【新約聖書】
忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。ローマの信徒への手紙 15章5~6節

 詩人は、神様のために賛美の歌声を響かせよと語る。それは神様が我らに命を与えて下さるからであり、足がよろめかないように支えてくださるからだ。同じように新約聖書でも、神様を讃えさせてくださるようにと願っている。それも同じ思いを抱き、心と声をあわせてという。
 名声と言ったものに関わりのない私には、賛美されるとか讃えられることがどれ程大切なことなのか今一つピンとこない。でも、神様はどれ程すごい方であるのかということはよくわかる。神様に感謝しても足りることがないということも。だから、神様が賛美と褒めたたえられることを求めておられるのであれば、その思いに答えよう。主よ、あなたを褒めたたえます。

●20日(金)

【旧約聖書】
主よ、あなたも憐れみの心を閉ざすことなく、慈しみとまことによって、いつもわたしをお守りください。詩編 40編12節
【新約聖書】
憐れみと平和と愛が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。ユダの手紙 2節

 はじめ、このみ言葉を読んだ時、憐れみや慈しみやまことがどうして私を守るのだろうと不思議だった。でも、ふと思った。もし、私に神様の憐れみと平和と愛があふれていたら、私を取り巻く人間関係はもっと良い物になるのかもと。それは自分の中に平和も愛も憐れみも無いから生まれる他者との衝突があるからだ。何気ない言動で相手を傷つけてしまう私がいる。だから、私も憐れみと平和と愛が欲しいなと思った。
 だからこそ、ユダと詩人は神様に願っている。それは私の努力で手に入れるものではなく、神様だけが与えられるものだから。神様、あなたの憐れみと平和と愛を与えて下さい。

●21日(土)

【旧約聖書】
初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。イザヤ書 43章18~19節
【新約聖書】
だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。コリントの信徒への手紙二 5章17節

 私達は良く昔のことを思いめぐらしている。あの時代は良かった。あの頃は良かったと。多少の思い出補正があるだろうが、それが悪いわけではない。しかし、神様は思い出すなと言われる。それは、神様の御業は何時だって、新しい出来事を起こしてくださるからだ。だから、過去に神様が起こされた御業にしがみつく必要はない。今、この時に、必要な御業を神様は計画し、実行してくださるからだ。
 だから、私達も未来を見詰めよう。過去の私を見るのではなく、新しくされた私をこそ見詰めて歩みたい。なぜなら、そこには神様が成し遂げてくださった救いの御業の成果が詰まっているのだから。神様が何をなしてくださるのか、期待しよう。

●22日(日)

受難節第1主日
 【主日早天礼拝】
   藤森 誠 牧師
 【主日礼拝】
   藤森 誠 牧師

●23日(月)

【旧約聖書】
声を響かせ、賛美せよ。そして言え。「主よ、あなたの民をお救いください。イスラエルの残りの者を。」エレミヤ書 31章7節
【新約聖書】
「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し…」。ルカによる福音書 1章68節

 預言者エレミヤは、人々に神様に向かって、あなたの民をお救いくださいと言えと語る。それは確実に神様に届き、神様がそれを実現してくださるからと。それは確かに実現した。そのことを洗礼者ヨハネの父ザカリヤが預言している。神様は民を訪れて解放してくださると。
 どうしてザカリヤがそのような預言ができたのか。それはきっと、イエス様を身ごもったマリアに会ったからではないだろうか。そして、妻エリサベトとマリアとのやり取りを聞いたのだろう。私の所に天使が来ました。私の所にも天使が来たのよと。そして、その子が神の子と呼ばれるようになると。神様は、私達を救うために、祈りを聞き、イエス様を遣わしてくださったのです。

●24日(火)

【旧約聖書】
わたしは知っています。主は必ず、貧しい人の訴えを取り上げ、乏しい人のために裁きをしてくださることを。詩編 140編13節
【新約聖書】
もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。ヤコブの手紙 2章15~16節

 神様は必ず貧しい人のためにも働いてくださると詩人は語る。では、私はどうだろう。私は相手の状況によって態度を変えていないだろうか。頭ではそのことをわかっていて、「貧しい者に支援を与えなければ」というような言葉は口から出てくる。でも、心の中では、きっと誰かが支えてくれるだろうと思っている。自分では動かない。
 でもそれが神様の求めておられることだろうか。むしろ、この困っている兄弟姉妹のために何ができるかと考えて欲しいと願っておられるに違いない。与えられるものは小さいけれども、神様が支えてくださるからやってみよう。

●25日(水)

【旧約聖書】
主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び、あなたの手を取った。イザヤ書 42章6節
【新約聖書】
光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。マタイによる福音書 17章 5節

神様は、私達の名前を呼び、私達の手を取ってくださると言う。でも、本当はその資格を持っているのは、お一人だけ。神様に愛する子と呼んでもらえるイエス様だけなのだ。それにも関わらず、私も手をとっていただける。一体どうしてなんだろう。
それは、神様が残された「これに聞け」という言葉に表されているように思う。神様が私達の所にイエス様を遣わしてくださったのは、イエス様の言葉に聞くためでもある。イエス様は、私を信じなさいと言われた。そして、私を信じる者には、私の父が何でも与えて下さると言われた。だからこそ、私達はこの方を信じて救いをも受け取ったのだ。それは、私がイエス様と同じように私の愛する子と読んでいただくために。

●26日(木)

【旧約聖書】
神に従う人の道は輝き出る光。進むほどに光は増し、真昼の輝きとなる。箴言 4章18節
【新約聖書】
しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。ペトロの手紙一 3章14節

 神様に従う人は、進むほどに真昼のように輝くと聖書は語っている。でも、私は果たしてそこまで輝いているだろうかと心配になった。そして、それは、私が神様に従えていないことの証拠となっているのではないだろうかと。
 私は周りの目を気にして神様の道を曲げてしまってはいないだろうか。それは、義のために苦しみを受けているとは言い難い状況にあるから。光は、暗闇と敵対する。正論ばかりをいう人が周りから嫌われるように。もちろん、苦しみを進んで受けよと聖書は語りたいのではないだろう。でも、苦しみを受けていない私はこれでいいのかな?私自身を見詰めなおそう。

●27日(金)

【旧約聖書】
耳を傾け、目を開き、あなたの僕の祈りをお聞きください。…今わたしは昼も夜も祈り…。ネヘミヤ記 1章6節
【新約聖書】
まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。ルカによる福音書 18章7~8節

 ネヘミヤは一体どうして、昼も夜も祈り続けているのだろうかと思って、聖書を開いた。そうすると、エルサレムの町が滅ぼしつくされている状況を聞き、そこに住む人たちのために祈りをささげていた。彼はこう語る。モーセとの約束を思い出してください。主に逆らうならば散らされるが、主に立ち帰り、戒めを守るならば、主が選んだ場所へ集められると。
 神様は平等な方であるけれども、同時に憐れみ深い方でもあられる。だから、必死に神様にすがりつくものを決して放ってはおかれない。私には、まだそこまでの必死さはないけれども、きっといつかその時が来る。でも、神様は必ず答えてくださると先に知っていることは大きな励ましとなるに違いない。

●28日(土)

【旧約聖書】
お前たちはなんとゆがんでいることか。陶工が粘土と同じに見なされうるのか。造られた者が、造った者に言いうるのか、「彼がわたしを造ったのではない」と。陶器が、陶工に言いうるのか。「彼には分別がない」と。イザヤ書 29章16節
【新約聖書】
わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。エフェソの信徒への手紙 2章10節

 時々、どうして、神様は私をもっと完全な存在として造ってくださらなかったのかと思う時がある。もっと完璧に失敗しない存在として造ってくださったら、神様に従うことのできる存在としてくださったら、私にとっても、神様にとっても良かったはずなのにと。
 でも、神様はそうなさらない。むしろ、アダムとエバを造られた時も、絶対服従を強いるのではなく、約束を破る自由さえ与えられた。それはよく考えて行動してほしいからに違いない。でも、私達は神様に逆らうためではなく、善い業を行うために造られたと言われている。神様の助けをいただいて、善い業に励もう。

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