2026年1月の『日々の聖句』
この日々の聖句は、聖書箇所を「ヘルンフート兄弟団『日々の聖句2026』(べテスダ奉仕女の家)」からいただきました。
聖書の本文は、日本聖書協会が発行している『聖書新共同訳』から転記しています。
『聖書新共同訳』:(c)共同訳聖書実行委員会(c)日本聖書協会、1987,1988。
●1日(木)
【旧約聖書】
主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい、御自分の民の恥を、地上からぬぐい去ってくださる。イザヤ書 25章8節
【新約聖書】
神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。ヨハネの手紙一 4章9節
神様は、いつだって、ご自分の民を愛しておられる。そしてその民が悲しんだり、苦しんだりすることを喜ばれない方だ。だからこそ、そのためにご自分が先立って行動される。その行動は具体的な出来事となって実現した。それがクリスマスの出来事だ。神様は、独り子をこの世界に送ってくださることで、私達皆をご自分の民にしようと招いてくださっている。
だからこそ、私達は、喜んで生きる者とされている。神様の愛が真に示されたのだから、私達もまた、神様へと真の愛をもってお応えしたい。さぁ、新しい一年も神様の愛の内に歩んで行こう。
●2日(金)
【旧約聖書】
主を畏れる人を祝福し、大きな人も小さな人も祝福してください。詩編 115編13節
【新約聖書】
悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。ペトロの手紙一 3章9節
私達は誰だって、神様の祝福をいただきたいと願っている。きっと、祝福が欲しくない人なんて一人もいない。そう分かっているのに、私は果たして、祝福をくださいと願っているかな?もちろん、私自身のための祝福は願っている。でも、周りの人の祝福はどうだろう。頭ではそれを願うけれども、でも、祝福されている人をみた時、私の心には嫉妬の思いが湧いてくるのではないだろうか。
それは、きっと、私が一番じゃなきゃ我慢ならないからかもしれない。あの人の方が私よりも祝福されるなんて妬ましいと。でも、聖書は私達は祝福を受け継ぐ者だと言われている。でも、それは、神様に救われた人たち全員だ。だから、せめて兄弟姉妹のために祝福を祈ろう。
●3日(土)
【旧約聖書】
主よ、御目は、真実を求めておられるではありませんか。エレミヤ書 5章3節
【新約聖書】
愛する者よ、あなたは、兄弟たち、それも、よそから来た人たちのために誠意をもって尽くしています。ヨハネの手紙三 5節
ヨハネは教会に宛てて、あなたたちは兄弟たち、それもよそから来た人たちを愛していると告げています。よそから来た人と言うのは、ユダヤ人ではない異邦人のことです。文化も考え方も全く異なる中で、イエス様の出来事を知らされ、信じてキリスト者となった兄弟たちだったはず。だから、これはかなり難しい事だろう。しかし、それをヨハネは喜んでいるんだ。
神様は真実を求めておられる。それは、神様のみ言葉に自分の力で従える者は一人もおられないということ。だからこそ、神様はイエス様と聖霊とを送ってくださって、私達を御心に叶う存在へとしてくださっているのだ。
●4日(日)
降誕後第2主日
【主日早天礼拝】
藤森 誠 牧師
【主日礼拝】
藤森 誠 牧師
●5日(月)
【旧約聖書】
主は油注がれた者の力、その砦、救い。詩編 28編8節
【新約聖書】
わたしたちの主イエス・キリスト御自身、ならびに、わたしたちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださる、わたしたちの父である神が、どうか、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い働きをし、善い言葉を語る者としてくださるように。テサロニケの信徒への手紙二 2章16~17節
今日の詩人のみ言葉は、何だか私と関わりないかもと思ってしまった。だって、私は油注がれた者ではないから。でも、この詩人は誰なのかを調べてみてよくわかった。この詩人は、ダビデであった。つまり、この言葉は、主は私の力、砦、救いだという宣言であり、願いだ。神様が私の助け主となってくださると言う信頼の告白である。
それならば、私達も同じ告白をすることができる。何よりイエス様を通して、希望の約束を私達に与えてくださっているからだ。だから私達もダビデと共に願おう、主よどうぞあなたが、この日も私の力であり、砦であり、救いであってくださいますようにと。
●6日(火)
【旧約聖書】
あなたは誇り高い海を支配し、波が高く起これば、それを静められます。詩編 89編10節
【新約聖書】
イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。マタイによる福音書 8章26節
神様は、そしてイエス様も海を支配し、波を静める力を持っています。私達はそのことを頭では、知識ではよく理解しています。でも、いざ、激しい嵐に巻き込まれる時、そのことはすっかり頭から抜け落ちてしまうのです。自然を支配する力を持っておられる方が私達と共にいてくださるから、私達は何も恐れることが無いということをです。
でも、これがきっと私達の本当の姿なのでしょう。たとえ、どれ程の安心があっても、恐れ、戸惑ってしまう私達です。だから、私達に大切なのは、そのような時にも神様に、イエス様に向かって助けてと叫ぶことです。その声を聞いたイエス様は、なぜなのかと言いつつも必ず私達を助けてくださいますから。
●7日(水)
【旧約聖書】
わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。エゼキエル書 33章11節
【新約聖書】
真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。ヨハネによる福音書 3章21節
神様は、人間に「産めよ、増えよ、地に満ちよ」とお命じになった。その思いは、天地創造の時から変わっていない。神様は悪人であっても、ご自分に逆らう者であっても、その者が死ぬ、つまり、滅びることを望んではおられない。それよりも、神様へと立ち帰って生きる事を願われる。
でも、罪にまみれた私は、神様の光があまりにもまぶしすぎるので、近づくことができない。いや、こんな私にとって、神様の光の中に立つこと自体があまりにも不相応だ。だから、そこから離れようとしてしまう。けれども、その私に、神様は語り掛けてくださる。「恐れるな。私の所へ立ち帰れ」と。赦しをいただいて立ち帰ろう。
●8日(木)
【旧約聖書】
わが主なる神よ、あなたは僕であるわたしにあなたの大いなること、力強い働きを示し始められました。申命記 3章24節
【新約聖書】
父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。ヨハネによる福音書 17章24節
神様のご計画はいつも、私達には不思議に見える。でも、神様は決して秘密主義の方ではない。ご自分の計画を人間に告げてくださる方だ。それは、クリスマスの日々を過ごしてきた私達は特によくわかるのではないだろうか。旧約の時代から、救い主の到来を予告し、マリアとヨセフに知らせ、さらには、羊飼いと博士たちにその出来事を知らせてくださったからだ。
神様の出来事をよく知る方法は、神様の傍にいることだろう。そうすれば、すぐそばで神様の御業を垣間見ることができるからだ。どれ程私達を愛してくださっているのか、いつだって神様は示してくださっている。その最たるものが、クリスマスであり、イースターなのだから。
●9日(金)
【旧約聖書】
わたしは彼らの嘆きを喜びに変え、彼らを慰め、悲しみに代えて喜び祝わせる。エレミヤ書 31章13節
【新約聖書】
あなたがたについてわたしたちが抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているからです。コリントの信徒への手紙二 1章7節
神様は私達に慰めと喜びを与えてくださると約束してくださった。だから、この言葉は喜びのお告げと言える。でもと、思ってしまった。慰められる人ってどんな人と思いめぐらしていたからだ。それは、悲しみや痛みを味わった人たちではないだろうか。苦しんでいるからこそ、慰めがある。喜んでいる人を慰めるとは言わないから。
つまり、神様を信じる人にも苦しみはあると言うことだ。神様を信じたら、全て人生バラ色とはいかない。そこには苦しみも嘆きもある。しかし、神様は、その全てをご存じで居てくださって、慰めを与え、私達を喜びで満たしてくださる。この日も主と共に歩もう。
●10日(土)
【旧約聖書】
今日、主に逆らい、主に背いて、主の幕屋の前にあるわたしたちの神、主の祭壇とは別に祭壇を築き、焼き尽くす献げ物、穀物の献げ物、和解の献げ物をささげるつもりなど、全くありません。ヨシュア記 22章29節
【新約聖書】
自分自身と教えとに気を配りなさい。以上のことをしっかりと守りなさい。そうすれば、あなたは自分自身と、あなたの言葉を聞く人々とを救うことになります。テモテへの手紙一 4章16節
旧約聖書の言葉は、私達は神様から離れることはありませんとの宣言だ。イスラエルの民は、祭壇を築いた。でも、それは、別の神様に仕えるためでは無くて、真に自分たちは神の民であり、神様との関係を表明するための取り決めだったまた、その祭壇を見て、神様を思い起こすためでもあった。
私達が見つめるべきは第一に神様である。そこから離れてしまっては、全てがおかしくなってしまう。だからこそ、私達は神様の言葉に気を配る必要がある。私の理解は間違っていないだろうか。教えが変わってしまってはいないだろうかと。この日も主の言葉に生きよう。
●11日(日)
顕現後第1主日
【主日早天礼拝】
眞木 重郎 伝道師
【主日礼拝】
眞木 重郎 伝道師
●12日(月)
【旧約聖書】
主よ、あなたは力のある者にも無力な者にも分け隔てなく助けを与えてくださいます。歴代誌下 14章10節
【新約聖書】
イエスは汚れた霊を叱り、子供をいやして父親にお返しになった。ルカによる福音書 9章42節
今日の旧約聖書のみ言葉は、神様は、弱い者にも強い者にも平等であるという印象を持つ。でも、この後に続く言葉は、「この大軍に向かってやって来ました」である。つまり、神様は弱い者も助けることがおできになりますよねという願いだ。だからこそ、イエス様も、強者である霊を叱り、弱者である父親に子どもを返してくださったのだ。
私は弱者と強者のどちらかな?強者でありたいと願うけれども、でも、やっぱり弱者かもしれない。しかし、安心だ。神様は弱き者も等しく助け出してくださるから。安心して歩みだそう。
●13日(火)
【旧約聖書】
主は言われる。…わたしを重んずる者をわたしは重んじ、わたしを侮る者をわたしは軽んずる。サムエル記上 2章30節
【新約聖書】
イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。ヨハネによる福音書 14章23節
何だか今日のみ言葉を聞いて、やっぱり神様も普通のお方?なのだなぁと思った。それは、私を大切にしてくれる人を大切にし、侮る者を軽んずると言われているから。それって私達と同じ。私達も自分を愛してくれる人を愛している。
でも、と思った。でも、やっぱり、誰かが自分を大切にしてくれることは嬉しいことだ。だから、その人に何かしてあげたいと思ってしまう。つまり、この言葉は、宣言であると同時に問いかけなんだ。私はこういう存在だ。ではあなたは私を重んじるのか?私を侮るのか?どちらなんだいと。もちろん重んじたいと願います。今日もそのための力をくださいますように。
●14日(水)
【旧約聖書】
主の使いはその周りに陣を敷き、主を畏れる人を守り助けてくださった。詩編 34編8節
【新約聖書】
夜中に主の天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出し、「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と言った。使徒言行録 5章19~20節
神様はご自分を重んじる者を大切にされる。この詩人もそのことを具体的な実体験として味わったのだ。だからこそ、神様のなさった御業を歌に残している。そして、この後、詩人が呼びかける言葉は、主を畏れ敬えだ。それによってもたらされる喜びを詩人は知っているから。
使徒達を助けた天使も告げている。この命の言葉を神殿の境内で民衆に告げよと。しかしそれは、まさに、彼らの敵対勢力の本拠地である。敵地のど真ん中で、神様の御業を語れと告げる。だから命がけの出来事だ。しかし、神様とイエス様の救いを頂くことは、私達の命に勝る。たとえ私の命を失っても、一人でも多くの人が命を得るならば、そこには大きな喜びがあるから。
●15日(木)
【旧約聖書】
主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。詩編 95編1節
【新約聖書】
すべての国民が、来て、あなたの前にひれ伏すでしょう。あなたの正しい裁きが、明らかになったからです。ヨハネの黙示録 15章4節
今日のみ言葉を読んで、ふと、救いの岩ってどういう意味なの?と思って調べてみたけれど、今一つはっきりしなかった。おそらく、神様を岩の特徴に見立てているのだろう。ちょっとやそっとでは壊れない姿、変わらない姿。また、敵から身を守るための避け処としての意味もありそうだ。
その変わらない神様が救いをもたらしてくださった。だから、神様へと感謝するんだ。以前の口語訳聖書には、さぁという言葉が加えられている。さぁ、喜び歌おうと。それは、私達に神様への賛美を促す言葉だ。それってつまり、礼拝への呼びかけだ。心からの喜びの叫びをあげよう。
●16日(金)
【旧約聖書】
『あなたたちと共に行かせてほしい。我々は、神があなたたちと共におられると聞いたからだ。』ゼカリヤ書 8章23節
【新約聖書】
つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。コリントの信徒への手紙一 12章13節
あなたたちと共に歩みたい。これは神様の願いであると同時に私達の願いでもあるのかもしれない。それは、どうして地上に教会が建てられているのかという点と深くかかわっている。それは、私達は一人では生きられないし、神様を信じ、従いぬくことが出来ないからだ。だから、共に集まって、互いを支えあいながら、日々を歩んでいるのだ。そして、常にその歩みには、新しい人たちが加え続けられている。
今を生きる私達もまた、イエス様が始められた歩みに加えていただいた一人である。私もイエス様とそして教会と歩みたいと願い、洗礼を通して、その群れに加えられた。今度は私が、告げ知らせる番だ!
●17日(土)
【旧約聖書】
あなたは主を避けどころとし、いと高き神を宿るところとした。詩編 91編9節
【新約聖書】
ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。マルコによる福音書 10章47節
盲人バルティマイはが叫んだ時、イエス様は、ご自分の死を覚悟し、その場所へと向かっている最中であった。そんな切羽詰まった場面で、私だったらきっと、その叫び声を無視してしまいそうだ。今はそれどころじゃないのだと。しかし、イエス様はそうでは無い。きちんとその声にも耳を傾け、問いかけてくださる。「何をして欲しいのか?」と。
このお方は徹頭徹尾、人々に仕えるために歩まれた。最後には自分の命を与えてしまうほどにだ。だからこそ、私達は安心して叫ぶことができる。この方はどんな時だって、私たちのことを気にかけてくださるのだから。
●18日(日)
顕現後第2主日
【主日早天礼拝】
藤森 誠 牧師
【主日礼拝】
藤森 誠 牧師
●19日(月)
【旧約聖書】
まず主の言葉を求めてください。歴代誌下 18章4節
【新約聖書】
わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。ヨハネによる福音書 6章63節
今日の旧約聖書のみ言葉は、この一年、心に刻みたいと思わされた言葉だ。私はつい、何か行動した後に、神様、これがうまくいきますようにと願っている。でも、それって、神様を、私の願いを変えてくれる機械のように用いていることにならないだろうか。それよりも、神様どうしたらよいでしょうか、これでよいでしょうかと尋ねるならば、そこに神様のご意思が介入することができるからだ。
しかし、神様のご意思は多くの場合、私の考えと異なっている。けれども、神様に聞き続ける生き方をしたい。それこそが神様に救われた私のあるべき姿だからだ。さぁ、この日も問いつつ歩もう。主よ、どうぞ、お語りください。
●20日(火)
【旧約聖書】
夢や空想が多いと饒舌になる。神を畏れ敬え。コヘレトの言葉 5章6節
【新約聖書】
わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。ペトロの手紙二 1章16節
コヘレトは語る。「夢を見るのは悩みごとが多いから」だと。悩み事って、自分では解決することが難しいこと。だからあれやこれやとその解決策を夢見るのかもしれない。そして、そのあれやこれやを語りたくて、饒舌になる。しかし、コヘレトはもっと大切なことは神を畏れ敬うことだと告げる。それはきっと、神様の力を知り、神様に頼る事を選び取れということじゃないだろうか。
神様にはできないことは何一つない。だから、神様は、私達のために全てを備えてくださっている。イエス様のご降誕も、十字架も復活も、全ては出来事となった。これこそが神様の力の証である。さぁ、主に頼ろう。
●21日(水)
【旧約聖書】
神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て、神の御顔を仰ぐことができるのか。詩編 42編3節
【新約聖書】
それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。コリントの信徒への手紙二 5章6~7節
詩人は神様にお会いできず、魂は渇くと言う。私はそこまでの思いを感じたことはないが、何だか少しはその気持ちが分かる気がした。それは、牧師になる前に、仕事をしていた時、仕事の都合で礼拝に参加できない日があった。前もってわかっていたこととはいえ、何だかその日は心がそわそわして落ち着かない日だったことを憶えている。きっと、様々な事情で礼拝に参加できない方々の思いはさらに強いに違いない。
私達にとって、神様の御前に出て、神様の顔を仰ぐことは、私達の命に深く関わっているのかも。新約聖書が語るように、私達は普段、神様とは離れて暮らしているからだ。せめて、週に1回は神様の元で安らぎをいただこう。
●22日(木)
【旧約聖書】
国々の中から集めてくださった。東から西から、北から南から。主に感謝せよ。主は慈しみ深く、人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。詩編 107編3、8節
【新約聖書】
(あなたがたは)この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。エフェソの信徒への手紙 2章12~13節
私達は、本当は神様から遠い存在だったと聖書は語る。それは、神様の民として選ばれたのは、イスラエルの民だけだったからだ。それ以外の外国人たちは皆、神様から遠い存在と考えられていた。しかし、今や、近い者とされている。それは、イエス様が十字架で流された血によって、私達は、イスラエルも外国人も関係なく、全ての人が神の子と呼ばれる存在にしていただいたからだ。
だから、私達は何も心配することはない。私達は神様によって集められた存在だ。あなたも私の子どもとなるようにと私達は招かれている。さぁ、神様の恵みを受け取り、感謝しよう。
●23日(金)
【旧約聖書】
主は代々限りなく統べ治められる。出エジプト記 15章18節
【新約聖書】
彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。ルカによる福音書 1章33節
この世界は神様が造られた。だから、神様がこの世界を統べ治めるのは当然じゃないかと思った。私達の社会だって、会社を作った社長がその会社を統べ治めているのと同じ。そうだとしたら、一体誰が神様の統治の邪魔をしているんだろう?神様のなさろうとすることと、違うことをしようとすることが邪魔になっている。そう考えると、もしかしたら、それって、私自身なのかも。
神様がたくさん残してくださったこうしなさいと言うみ言葉に従うことのできない私こそ、神様の統治を邪魔してしまっている存在じゃないだろうか。しかし、神様は言われる。神にできないことは何もないと。私の邪魔さえ超えて、神様の統治は進んでいくのだから。
●24日(土)
【旧約聖書】
その集いは、わたしの前に固く立てられる。エレミヤ書 30章20節
【新約聖書】
使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、…。エフェソの信徒への手紙 2章20節
家を建てるために基礎は絶対に欠かせないものだ。適当な基礎の上に建てられた家は、あっという間に倒壊してしまう。しかし、堅固な基礎の上に建てられた家は余程の大きなトラブルがあっても、揺らぐことがない。今日のみ言葉が語る建物とは私達自身のこと。その基礎は、使徒と預言者によって築かれている。それは、つまり、神様のみ言葉である。神様の約束と言ってもいいのかも。そして、その中心には、イエス様がおられる。だから、安心だ。
でも、気をつけなければならない。それは、私達が時に、イエス様を中心から外してしまうから。さぁ、この日も主により頼もう。
●25日(日)
顕現後第3主日
【主日早天礼拝】
眞木 重郎 伝道師
【主日礼拝】
眞木 重郎 伝道師
●26日(月)
【旧約聖書】
神は時を移し、季節を変え、王を退け、王を立て、知者に知恵を、識者に知識を与えられる。ダニエル書 2章21節
【新約聖書】
そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさいテモテへの手紙一 2章1~2節
教会と国家との関係について、どうあるべきなのか。これは、キリスト者の中でも意見が分かれるテーマかもしれない。聖書はどう語っているか。聖書は一貫している。人間の支配者は神様ただお一人であると。しかし、神様は王を選んでくださる。それは、きっと、神様からのせめてもの妥協案ではないだろうか。だから、指導者たちは神様の選びに拠って立てられているといえる。
だからこそ、私達はその人たちのためにも祈らなければならない。なぜなら、たとえ神様に選ばれたとしても、罪びとであることは変わらないからだ。正しい判断をするためには、神様の支えが必要だから。
●27日(火)
【旧約聖書】
わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われる。イザヤ書 55章8節
【新約聖書】
よく聞きなさい。「今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう」と言う人たち、むしろ、あなたがたは、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。ヤコブの手紙 4章13、15節
神様は、私達の思いや道は神様のそれと異なっていると言われる。それって当然と言えば当然だ。だって、人間同士を見たって、考え方も歩み方も全く異なるから。では、神様の思いや神様の道って何だろうか?
それは、神様と共に歩む道である。神様を頼って生きる道と言ってもいいのかも。私の道は私だけが生きる道だ。だから、自分の計画を一人でたてる。しかし、私達は自分の将来については何も分からない。だからこそ、計画を立てるのだけれども、むしろ、全てをご存じの神様と相談して計画を立てなさいとみ言葉は教えてくれている。それこそが神様の望む、神様の道だから。
●28日(水)
【旧約聖書】
主よ、わたしを見捨てないでください。わたしの神よ、遠く離れないでください。詩編 38編22節
【新約聖書】
しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」マルコによる福音書 5章23節
詩人の願いは、神様と出会う前だったらわからなかったと思う。神様のことを知る前ならば、別に神様に捨てられても、私は一人でやっていけるとか、他の神様を頼って行こうと思えただろう。しかし、聖書の神様と出会い、その力を知った今は、この詩人の願いがよく分かるんだ。
それは、もし、神様に見捨てられてしまったならば、私達は生きることさえできなくなるからだ。私の命も神様から預けられているものだから。そう分かっていながら、私がすること、なすことは神様に嫌われることばかり。だからこそ、私は一生懸命に神様に願うんだ。どうか見捨てないでくださいと。神様は必ず応えてくださる。
●29日(木)
【旧約聖書】
わたしの神、主よ、あなたは多くの不思議な業を成し遂げられます。あなたに並ぶものはありません。詩編 40編6節
【新約聖書】
その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。マルコによる福音書 2章12節
神様に並ぶ存在はいないことを、私達はよく知っている。他の神々と呼ばれる存在だって、神様には及ばない。いや、真に神と呼ばれるお方はお一人だ。でも、私はそのことを誰かから押し付けられた訳ではない。もちろん、知識として、神様ってこういうお方と学び、また聞いて来た。しかし、私が神様ってこんなお方と本当に理解できたのは、出来事によってだ。
何より、神様の御業が聖書にはあちこちにあふれかえっている。病を癒し、民を助け、敵を打倒す。そんな神様のお姿がいつだって聖書に描かれている。さらに、日々の生活の中で、「このようなことは、今まで見たことがない」と思わされる出来事が起こされ続けてきた。だからこそ、心から言える。神様だけが神ですと。
●30日(金)
【旧約聖書】
主は答えて、その民に言われた。「見よ、わたしは穀物とぶどうとオリーブを、お前たちに送り、飽き足らせよう。」ヨエル書 2章19節
【新約聖書】
イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した。マルコによる福音書 6章41~42節
神様のなさることはあまりにも細かすぎるように思える。本当なら、私達の食事のことなど、天使たちに任せてしまえばよいと思うのに、神様はご自分が進んで食事の用意をし、飽き足りるほどに与えてくださる。
それはきっと、私達にとって、食事とは命そのものであるからではないだろうか。教会でも、みんなで食事を一緒に持つとき、そこには笑顔があふれている。美味しいねと食べる時、そこに豊かな交わりが生まれているんだ。きっと、神様御自身もよくわかっておられる。だから、イエス様を通して、天の祝宴に私達を加えようとさえしてくださるのだ。感謝して受け取ろう。
●31日(土)
【旧約聖書】
主よ、あなたは、御業を喜び祝わせてくださいます。わたしは御手の業を喜び歌います。詩編 92編5節
【新約聖書】
躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。使徒言行録 3章8節
今日のみ言葉を読んでハッとさせられた。それは、私の心の片隅に、願いが聞かれて喜ぶことはあまりにも現金すぎるという思いがあったからだ。それではまるでご利益宗教の様ではないかと。しかし、今日のみ言葉は、病を癒された喜びを抱えて神様を礼拝しに行く人の姿が描かれている。いつから、私は自分自身さえを縛り付けるようになってしまったんだろうか。
だって、私達の喜びの原点は、何より神様の救いの御業だったじゃないか。こんな私も神様に救っていただいたとの喜びが、賛美と感謝なり、神様の御前に立っていた。そして、それさえも喜びであったはず。だから、大いに喜ぼう。神様の御業を喜び祝わせてくださいと願って詩人のように。

