2025年9月の『日々の聖句』

この日々の聖句は、聖書箇所を「ヘルンフート兄弟団『日々の聖句2025』(べテスダ奉仕女の家)」からいただきました。
聖書の本文は、日本聖書協会が発行している『聖書新共同訳』から転記しています。
『聖書新共同訳』:(c)共同訳聖書実行委員会(c)日本聖書協会、1987,1988。

●1日(月)

【旧約聖書】
今日までしてきたように、ただあなたたちの神、主を固く信頼せよ。ヨシュア記 23章8節
【新約聖書】
ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。ヘブライ人への手紙 10章25節

 イスラエルの民を導いて来た指導者ヨシュアの最後の言葉が今日の旧約聖書の言葉だ。それは、ただ、これまでと同じように神様を信頼することの勧めである。きっと私だったら、残される人たちを心配してあれやこれやと言葉を残したくなるに違いない。しかし、ヨシュアはただ一言、神様を信じなさいと言う。それは、これまでの人生で神様がどれほどの力をもって支えてくれたかを知っているからだ。
 それは、私が知っているだけではなく、同じ神様を信じる兄弟姉妹もまた知っている。そして、それは励ましになる。あなたとも神様は必ず共におられるとの励ましだ。

●2日(火)

【旧約聖書】
ダビデ王は主の御前に出て座し、次のように言った。「主なる神よ、何故わたしを、わたしの家などを、ここまでお導きくださったのですか」。サムエル記下 7章18節
【新約聖書】
彼女も家族の者も洗礼を受けたが、そのとき、「私が主を信じる者だとお思いでしたら、どうぞ、私の家に来てお泊まりください」と言ってわたしたちを招待し、無理に承知させた。使徒言行録 16章15節

 ダビデの問いはきっと私達も抱える問いではないだろうか。どうしてこんな私を導いて下さるのかと。それは、神様からいただける恵みがあまりにも大きすぎるため、神様のお考えが分からなさ過ぎて、心配になるんだ。それも、神様は、ご自分の祝福に対して、ダビデに何の見返りも求められない。だから、ますます心配になる。
 きっと、神様がダビデにして欲しいと願っていることを、もうダビデはしていたから見返りを求めなかったんじゃないだろうか。神様の望みは、いつだって神様と頼り神様と共に生きることだ。ダビデは何かにつけて、神様どうしましょうか?と神様にたずねてきた。だから私達も神様に頼ってこの日を歩もう。

●3日(水)

【旧約聖書】
わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。エゼキエル書 36章26節
【新約聖書】
敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。マタイによる福音書 5章44~45節

 初め、ここで言われているのは、敵を愛することが新しい心であり、それを与えたと言われているのだと思った。でも、よく読み直してみたら、ちょっと違うのかもと思った。それは、「天の父の子となるため」と言われているから。神様が私達に与えてくださった新しい心って何だろう?
 それは神様の言葉を素直に受け止めることができる心ではないだろうか。神様を第一に生きることのできる心。それがあれば、私達は敵をも愛することのできる者となれるんだ。だって、私の敵をも神様が愛しておられるから。私達はその心を既にいただいた。さらに、助け手である聖霊も与えられている。安心して歩みだそう。

●4日(木)

【旧約聖書】
どうか、あなたの父の神があなたを助け、全能者によってあなたは祝福を受けるように。創世記 49章25節
【新約聖書】
福音は、…信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。ローマの信徒への手紙 1章16節

 旧約聖書はヤコブが12人の息子たちに祝福を与える場面だ。ヤコブが父イサクから受け取った祝福を子どもたちに受け渡している。そのようにして、イスラエルの民は、父祖アブラハムが神様からいただいた祝福を連綿と子孫たちに伝え続けてきた。この方の祝福を受け取り、この方に助けられて歩むようにと。しかしながら、イスラエルの民はその方を捨ててしまったのだ。
 神様は、その祝福を取り除くどころか、ますます祝福を増して、イスラエルの民を超えて、イエス様を信じる者であれば誰でもに与えようと約束してくださった。その故に私達も神様に祝福された存在としていただいているんだ。だから、この日も神様の助けをいただいて歩もう。

●5日(金)

【旧約聖書】
真実をわたしの口から奪わないでください。詩編 119編43節
【新約聖書】
神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です。ローマの信徒への手紙 1章25節

 私達は誰しもが、生まれながらに神様を信じているということは無かったはずだ。神様と出会い、神様を信じるようになるまでにはそれなりの時間がかかる。だから、神様のことを知る前には、信じる前には、私達は神様とは違うものに望みをおいていたと言える。特に日本の中にあってはその傾向は強いかもしれない。
 でも、心配する必要はない。確かに昔は神様とは違うものを信じていたかもしれない。でも、今は、神様と出会って、神様を信じる者とされている。それが一番大切だ。だから、私達は、今は神様の言葉を喜びとし、神様を褒めたたえる者とされている。この日も喜んで歩もう。

●6日(土)

【旧約聖書】
露のようにわたしはイスラエルに臨み、彼はゆりのように花咲き、レバノンの杉のように根を張る。ホセア書 14章6節
【新約聖書】
だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。…あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。マタイによる福音書 6章31、32節

 今日の新約聖書の言葉は、「今日はご飯を食べようか?それとも、パン?パスタ?」と悩むことを咎められているの?と思っていた。どうやら違うようだ。これは極限の状態。食べるものが何も無くて、でも食べなければ死んでしまう。だから何か食べるものはないか?との悩みだった。
 一見すると今を生きる私達には縁遠い悩みに思える。しかし、私達の心の片隅に、この悩みは存在しているのかも。もしも、けがや病気で働けなくなったら…と。でも、何も心配はない。なぜなら、私達の事を誰よりも思ってくださる方がいるからだ。だから、神様に頼ることが最も確実である。そこにこそ私達の真の幸せがある。

●7日(日)

三位一体後第12主日
【主日早天礼拝】
  眞木 重郎 伝道師
【主日礼拝】
  眞木 重郎 伝道師

●8日(月)

【旧約聖書】
天から遣わしてください。神よ、遣わしてください、慈しみとまことを。詩編 57編4節
【新約聖書】
霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。ガラテヤの信徒への手紙 5章22~23節

 神様が遣わしてくださる慈しみとまことは、いつだって、私達の救いと関わっている。旧約聖書の時代には、それは、神様の御手を通して実現された。イスラエルの人々を敵の手から助け出すということを通して。一方、新約聖書の時代には、それは、イエス様を通して実現された。十字架と復活という出来事を通して。
 しかし、それで終わりではない。イエス様が天に戻られた後も、神様の慈しみとまことは私達に届けられている。それは聖霊を通してだ。この方が、私達に救われた者として生きるための力を備えてくださる。だからこの朝、改めて願おう。この日も聖霊が豊かに働いて下さるようにと。

●9日(火)

【旧約聖書】
主はあなたたちを御自分の民と決めておられるからである。サムエル記上 12章22節
【新約聖書】
「神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を賛美した。使徒言行録 11章18節

 神様は私達を自分の民にすると決めておられると聖書は語る。でも、どうして神様は私を選んでくださるのだろうかと。聖書はその理由はたった一つだという。それは、「主はその偉大な御名のゆえに」である。神様はご自分のゆえに、私達を選ばれたのである。だから私達は何もできずとも、神様の民である。
 それも、神様は異邦人さえも選び取られた。神様の選びは私達に一切関わらない。血筋も功績も一切関係なく、それでも、私を選びとってくださったのだ。だから、私達は全力で主に仕えよう。それは選びとられるためでは無くて、選びとられたことへの応答だから。

●10日(水)

【旧約聖書】
わたしたちの神よ、偉大にして力強く畏るべき神よ、忠実に契約を守られる神よ。…あなたの民の皆が被ったその苦難のすべてを、取るに足らないことと見なさないでください。ネヘミヤ記 9章32節
【新約聖書】
わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。ローマの信徒への手紙 8章38~39節

 今日の旧約聖書のみ言葉は、これまでの苦難を取るに足りないものとみなさないでくださいと神様に願っている。その苦難は、人々が神様を背いたゆえに与えられた裁きであった。一見すると、その苦難が過ぎ去ったからこその言葉のように思えるが、現実は、まだ、奴隷とされているのだ。だからこの言葉はきっと、神様への憐れみをいただくための言葉だ。
 しかし、一方で、イスラエルの民が滅ぼされていないのは、神様の愛から来る憐れみだ。もちろん、人々はわかっている。だからこそ、神様に願う。私達を忘れないでくださいと。どんな苦しみも神様の愛から私達を引き離すことはできないのだ。

●11日(木)

【旧約聖書】
わたしは自分の語ることを実行する、と主なる神は言われる。エゼキエル書 12章25節
【新約聖書】
聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。ガラテヤの信徒への手紙 3章8節

 神様は、ご自分の語られたことを実現される。正に、その通りの出来事がこれまで起こり続けてきた。神様に逆らい続ける人たちを神様が見捨てなかったのは、ご自分が人々と交わした約束のゆえにであった。そして、その実現は、父祖アブラハムにまで遡る。
 そのアブラハムと交わされた約束を神様は、それから数千年の後に、イエス・キリストを通して実現された。聖書は、神様の行動を見越して、予告したとあるけれども、私は逆に思う。あのアブラハムにした約束がゆえに、神様は、異邦人を祝福する道を開かれたのではないだろうか。その故に、私も神様の祝福を頂けているのだ。

●12日(金)

【旧約聖書】
突然襲う恐怖…に、おびえてはならない。主があなたの傍らにいまし、足が罠にかからないように守ってくださる。箴言 3章25、26節
【新約聖書】
弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」マタイによる福音書 14章26~27節

 弟子たちは突然現れたイエス様にさえ驚き、怯え始めた。当時、幽霊の存在が信じられていたのかは、定かではないけれど、私達もまた、自分の理解を超えることが起こった時に、恐れるのかもしれない。あるいは自分の力の及ばぬ出来事を前にするとおびえるしかないのである。大きな災害も、前代未聞の病をも前に、私達はただ、恐怖し、混乱してきた。
 しかし、それで終わりではない。なぜなら、私達に向けて、安心しなさいと言ってくださる方、恐れるなと言われる方がいるからである。この方が共に居てくださるならば、私達はたとえ何が起ころうとも大丈夫だ。その方が力を持っておられるのだから。

●13日(土)

【旧約聖書】
神に依り頼めば恐れはありません。人間がわたしに何をなしえましょう。詩編 56編12節
【新約聖書】
こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。使徒言行録 9章31節

 使徒達は、大きな迫害の中を歩んでいた。エルサレムの町に居ては、命の危険があると、周りの地方に逃げて行ったのだ。しかし、その道すがら彼らは、伝道を続けていく。伝道するせいで迫害されているのに、伝道を止めないのだ。一体どうしてなのだろうか。
 それこそがイエス様が求めておられることだからだ。彼らは、人間を恐れているようで決してそうでは無かった。そこにも神様の御心があると信じたのだ。私達も、命を投げ打って戦うことだけが神様の意志に従うことでは無いのかもしれない。逃れの道の先でも、そこで神様に用いられる道が備えられているのだから。

●14日(日)

三位一体後第13主日
【主日早天礼拝】
  藤森 誠 牧師
【主日礼拝】
  藤森 誠 牧師

敬老の日を憶えての礼拝

●15日(月)

【旧約聖書】
わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。申命記 18章18節
【新約聖書】
多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。…「この人は、大工ではないか」。マルコによる福音書 6章2、3節

 神様は、ご自分の言葉を伝えるために人を用いられます。それは、直接神様の姿を見、声を聞いたら死んでしまうからです。だから、人を通して、言葉を語られます。しかし、み言葉を受け取る私達は、つい、これまでのその人と比べてしまいます。どうしてあの人が神様の言葉を語るのだろうかと。ですが、神様があなたを用いようと告げられる出来事はいつだって、私達の人生の途中で告げられます。ですから、それまでの私達の人生とは切っても切れない状況にあります。
 ですが、その点に捉われていて、大切な言葉を見失ってはもったいありません。神様の言葉を今日も受け取りましょう。

●16日(火)

【旧約聖書】
天は神の栄光を物語り…。詩編 19編2節
【新約聖書】
あなたがたは、…自分の体で神の栄光を現しなさい。コリントの信徒への手紙一 6章20節

 私達は、様々な美術品や絵画に心が動かされる。そこで感じるのは、作品の素晴らしさだけでなく、その作品を造り出した作者への称賛であろう。一体どんな人がこれを造ったのかと、気になるのではないだろうか。
 この世界は神様によって造られた。だから、この世界は、神様の栄光を物語る。一体、こんな美しく、また厳密に定義・規格された世界を造った方はどれほどすごい方なのだろうかと。そして、実は、私達も神様に造られた存在である。そうであるならば、私達もまた、神様の栄光を現すことができる存在だ。“私は”、一体どうやって神様の栄光を示すことができるだろうか?そのことを思いめぐらしつつ、この日を過ごそう。

●17日(水)

【旧約聖書】
主の名を口にすまい、もうその名によって語るまい、と思っても、主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて、火のように燃え上がります。エレミヤ書 20章9節
【新約聖書】
同時にわたしたちのためにも祈ってください。神が御言葉のために門を開いてくださり、わたしたちがキリストの秘められた計画を語ることができるように。このために、わたしは牢につながれています。コロサイの信徒への手紙 4章3節

 神様のみ言葉を語る時、同時に、人々から嫌われ、笑いものにされることが起こる。エレミヤはその現実に疲れ果て、神様の言葉も名前も、口にしないと決意した。しかし、そうできなかった。口から神様の言葉があふれ出てくるというのだ。
 パウロもまた、神様の言葉を語ったがゆえに、牢につながれていた。しかし、彼はなお、御言葉を語ることができるようにと願っている。でもそれは義務感とかではない。純粋に神様に助けられ、救われた者として、その喜びを伝えずにはおられないのだ。私達も同じはず。さぁ、この日も神様の言葉を語ろう。そうせずにはいられないから。

●18日(木)

【旧約聖書】
なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば、良いものを食べることができる。イザヤ書 55章2節
【新約聖書】
この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。マルコによる福音書 12章44節

 私達の手の中にあるお金は非常に限られている。何でも買うことができれば、不自由は少ないのかもしれない。でも、限りがあるからこそ、何にそのお金を使うのかを十分に吟味することが求められる。神様は言われる。「どうして私の所に来ないのかと。あなたが苦労して手に入れた物は、でも、あなたの飢えを満たしてはくれないではないか。だから私の所へおいで」と。
 貧しいやもめは、その限られたお金を神様のために使うことを選んだ。でも、それは、神様の良い物を受け取るためではない。むしろ、もう既に沢山の良い物を受け取ったからこその感謝と献身の思いによる献げものだ。私もこの手の中にあるお金をどう使うか、吟味しなきゃ。

●19日(金)

【旧約聖書】
ユダの家の中で難を免れ、残った者たちは再び根を下ろし、上には実を結ぶ。列王記下 19章30節
【新約聖書】
わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。ヨハネによる福音書 15章4節

 イエス様は、私につながっていれば実を結ぶと約束された。でも、実を結ぶってどういうことだろう?イエス様を信じたら、私達の人生は順風満帆、困ったこともトラブルも全く起こらず過ごすことができるのかな?もちろん、そうじゃないことは、多くのキリスト者の生き方が示してきた。
 では、結局実を結ぶってどういうこと?きっと、文字通りに実をつけるんだ。その実は私が生きるために食べる実となる。つまり、イエス様と結びついていれば、私達は生き永らえるということ。たとえ、困難があっても、トラブルが起こっても、私は幹であるイエス様に守っていただけるということじゃないだろうか。

●20日(土)

【旧約聖書】
あなたはわたしの神。恵み深いあなたの霊によって、安らかな地に導いてください。詩編 143編10節
【新約聖書】
神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。ローマの信徒への手紙 8章14節

 神様は旧約聖書で多くの人たちを文字通りに導いて来た。アブラハムしかり、モーセしかりだ。だから、神様の示される地は文字通りに土地であったはずだ。でも、新約聖書は神の子とされることと言う。一体どういうことなの?
 それは、きっと、神の子しか住めない土地があるということなのかも。せっかく、ある土地に導かれても、「ここに居られるのは今日だけ、住むことはできませんよ」と言われたら意味がない。だから、神の子とされることで神様がおられる場所に一緒にいることができるようにされるんだ。そのために、神様が私達を聖霊によって導いて下さっている。その導きを今日も受け取ろう。

●21日(日)

三位一体後第14主日
【主日早天礼拝】
  藤森 誠 牧師
【主日礼拝】
  藤森 誠 牧師

●22日(月)

【旧約聖書】
主の成し遂げられることは栄え輝き、恵みの御業は永遠に続く。詩編 111編3節
【新約聖書】
わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。フィリピの信徒への手紙 3章9節

 神様の恵みの御業とは、神様の義による業である。それが永遠に続くと詩人は語る。でも、それって嬉しい事なのかな?もちろん、そうだ。だって神様はえこひいきされない方だから。大人も子どもも、金持ちも貧しい人も、全ての人を平等に扱われる。与えられる裁きは、全く同じである。悪事を行っていながら、裁かれないあいつも神様の義によって裁かれるのだ。
 でもと思った。神様がえこひいきされないのであれば、同じ裁きが、私にも降って来るってことじゃないのかと。だから怖くなった。でも、安心だ。なぜなら、私達はイエス様を信じることによって神様の義をいただいているのだから。

●23日(火)

【旧約聖書】
わたしはお前たちを、すべての汚れから救う。エゼキエル書 36章29節
【新約聖書】
神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです。テサロニケの信徒への手紙一 4章7節

 聖書は私達は汚れていると語っている。そんなことないと否定したくなるけれども、実は、聖書の語る汚れとは、私達の考えるそれとは少し違っている。聖書は人間は本来良い物として造られたと語る。Very Goodだと神様は言われた。でも、神様との約束を破り、神様と共に生きられなくなった時、人間は汚れを背負ったのだ。その汚れを聖書は罪と呼ぶ。
 でも、神様は、私達を招いてくださって、その汚れを取り除いてくださるという。神様と共にいられなくなった私達だから、神様の傍にいることが私達が清められる秘訣なのだ。さぁ、神様の招きにお応えして、聖なる生活をしよう。

●24日(水)

【旧約聖書】
わたしたちの救いの神よ、わたしたちを助けて、あなたの御名の栄光を輝かせてください。御名のために、わたしたちを救い出し、わたしたちの罪をお赦しください。詩編 79編9節
【新約聖書】
罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。ルカによる福音書 24章47節

 私達は、神様から離れ罪人となってしまった。だからこそ、その罪が赦されなければ、神様と共に生きるという、人間が創造された本来の目的を果たすことができないのである。だから、詩人は神様に必死に罪の赦しを願うし、メシアと呼ばれる救い主は、罪の赦しを得させるために来られるのである。
 でも、詩人は、赦しの理由を人間の側にはおかない。私が○○したから赦してとは言わないのである。彼は、神様の御名のために赦してくださいと言う。それは神様のめんつと言ってもいいのかも。ただひたすらに神様の憐れみを求めるしか、私達が赦される道は無いのである。

●25日(木)

【旧約聖書】
見よ、神は山々を造り、風を創造し、その計画を人に告げ、暗闇を変えて曙とし、地の聖なる高台を踏み越えられる。その御名は万軍の神なる主。アモス書 4章13節
【新約聖書】
ハレルヤ、全能者であり、わたしたちの神である主が王となられた。ヨハネの黙示録 19章6節

 全能者である方が私達の王となってくださると聖書は語る。これって当たり前のことでは無くて、実はすごい事ではないだろうか。私達はいつだって、リーダーに振り回されている。だから、私達の幸せを真っ先に願い、私達の罪さえも赦してくださる神様が、私達のリーダーで居てくださるなら、こんなに安心なことはないはずだ。
 でも、このリーダーは同時に私達の生活に深く介入しようとされる。あれをしなさい、これをするなとあれこれ口を出される。もちろん、全て私達のためである。でも、それがどんどん負担と重荷になって、この方を王にいただきたくないと思ってしまう私がいるんだ。どうか、この日、神様を受け入れることができますように。

●26日(金)

【旧約聖書】
多くの者がわたしに言います、「彼に神の救いなどあるものか」と。主よ、それでも、あなたはわたしの盾、わたしの栄え、わたしの頭を高くあげてくださる方。詩編 3編3~4節
【新約聖書】
その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。ルカによる福音書 17章15節

 新約聖書で癒された人はサマリア人であった。彼らは、神様の救いから最も遠い存在と考えられ、忌み嫌われていた。しかし、その人が癒され、救われたのである。私達のそばにも、そもそも救いなどあるものかという人たちがいるだろう。でもそれは、きっと神様と共に生きることをしていないからなのだと思う。神様と共に生きるならば、そこで沢山の救いを経験するからだ。
 でも、この経験は、神様の言葉に従ってみなければ起こらない。この人もイエス様の言葉に従わなければ癒しはなかったのだ。だから、私達もこの朝、神様の言葉に従おう。そこに救いと助けが必ずあるから。

●27日(土)

【旧約聖書】
恐れてはならない。勇気を出すがよい。ゼカリヤ書 8章13節
【新約聖書】
あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。ヨハネによる福音書 16章33節

 神様は、私達が弱い存在であることをよく知っておられる。だからこそ、この朝、「恐れるな。勇気を出せ」と私達を励ましてくださるのだ。イエス様も同じように私達を励ましてくださる。この世で苦難がある。でも、勇気を出しなさい。その苦難に打ち勝つ力を私はもう持っているからと。
 でも、私はきっと神様の想像を超えて弱い存在だ。だから神様の言葉だけでは、信じ切れないでいる。そのために神様は、私達に助け主である聖霊を与えてくださった。さぁ、これで私が物理的にも一緒に居るからもう大丈夫だろうと言ってくださる。神様とイエス様が力を持っておられるから、私達は安心なのだ。

●28日(日)

三位一体後第15主日
【主日早天礼拝】
  眞木 重郎 伝道師
【主日礼拝】
  眞木 重郎 伝道師

●29日(月)

【旧約聖書】
わたしはあなたのもの。どうかお救いください。詩編 119編94節
【新約聖書】
すると、主の天使がそばに立ち、光が牢の中を照らした。天使はペトロのわき腹をつついて起こし、「急いで起き上がりなさい」と言った。すると、鎖が彼の手から外れ落ちた。使徒言行録 12章7節

 牢屋に捕らわれていたペトロ。そのペトロのために、教会では熱心な祈りがささげられていたと聖書は語っている。その祈りを神様は聞き届けられ、ペトロの元に天使を遣わし、彼を救い出された。でも、それは、祈りの熱心さとか、ペトロの有用性によって起こされた出来事ではない。この出来事もまた、神様の憐れみによるのである。
 しかし、同時にこの出来事は祈りによって起こされたと言ってもよいのかもしれない。そうであるならば、私達の日々の祈りはどれほどの力を持っているのかということになりはしないか。私の祈り自体は小さいものかもしれない。でも、その祈りを聞いておられる方のゆえに、祈りは大きな力を持つんだ。だから、祈り続けよう。

●30日(火)

【旧約聖書】
立ち上がって、我らをお助けください。我らを贖い、あなたの慈しみを表してください。詩編 44編27節
【新約聖書】
しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。ペトロの手紙一 5章 10節

 何だか連日、神様に助けを求めるみ言葉が続いているような気がする。でも、よくよく考えてみるとそれって私の現実そのものかも。トラブルが起こって神様に助けを求める。何とか解決を見たと思ったら、また違う問題が見つかる。その繰り返しだ。だから、私達は日々、神様に助けを求めて祈り続ける者なんだ。
 でも、聖書は私達を完全な者とすると言っている。右往左往している私達は努力が足りないってことなのかな?きっと、そうじゃない。揺らがない事は私自身では無くて、神様の助けが必ずあると信じること。だから、トラブルが続いても、私達は御手の内に居るから大丈夫だ。

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