2025年8月の『日々の聖句』

この日々の聖句は、聖書箇所を「ヘルンフート兄弟団『日々の聖句2025』(べテスダ奉仕女の家)」からいただきました。
聖書の本文は、日本聖書協会が発行している『聖書新共同訳』から転記しています。
『聖書新共同訳』:(c)共同訳聖書実行委員会(c)日本聖書協会、1987,1988。

●1日(金)

【旧約聖書】
我々の神、主よ。我々はあなたを待ち望みます。あなたこそ、すべてを成し遂げる方です。エレミヤ書 14章22節
【新約聖書】
その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。ヨハネの手紙一 5章11節

 預言者エレミヤの時代、人々は、神様を信じられなくなっていた。苦しみが続いていたからだ。でもそれは、人々が神様を見捨てたからなんだ。それにも関わらず、エレミヤにとって縋りつくことができるのは、神様だけだった。神様に期待し、待ち望むことが唯一の救いであった。
 しかし神様は、人々の罪のゆえに、彼らをあしらい続けることをせず、ご自身の命を御子イエス様を通して、私達に与えてくださった。それは、罪が赦され、神様と共に生きる者とされているということ。つまり、神様への希望は、イエス様を通して実現したのだ。だから、私達はもう嘆く必要はない。このお方こそ、私の希望だ。

●2日(土)

【旧約聖書】
互いに災いを心にたくらんではならない。ゼカリヤ書 7章10節
【新約聖書】
皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。ペトロの手紙一 3章8節

 旧約聖書の語る互いって誰の事かなと思って調べたら、どうやら兄弟のことのようである。そうしたら、なんて難しいことを聖書は求めるんだろうと思った。果たして、一度も喧嘩せずに過ごしてきた兄弟ってどれほどいるんだろう?
 もちろん、ここでの兄弟とは、教会に集う兄弟姉妹のことを指している。しかし、兄弟を愛しなさいとわざわざ、聖書が語るのは、教会に集うキリスト者同士でもそれが難しいからではないだろうか。どれほど、私達が他人を愛することができないかということの現われなのかもしれない。でも、だからこそこの日、み言葉に従って愛してみよう。そこに必ず喜びが待っているから。

●3日(日)

三位一体後第7主日
 【主日早天礼拝】
   眞木 重郎 伝道師
 【主日礼拝】
   眞木 重郎 伝道師

●4日(月)

【旧約聖書】
まことに、主は正義の神。なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。イザヤ書 30章18節
【新約聖書】
あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。ヤコブの手紙 1章5節

 始めは、神様にお願いすれば与えられると聞いて喜んだけれど、よく読んだら、知恵の欠けている人はと言われていた。これが神様に頼ろうとするときの難点だ。自分は力ない者、知恵なき者だと認めなければならないからだ。私も少しはできると思いたい気持ちを誰しもが持っているからこそ、そもそも神様に頼ることさえ難しい。
 でも、もし私が本当に少しはできるのだとしたら、その力もや能力や才能も、また神様からのいただきものなのだ。それに気づけたら、もう少し気が楽になるのかも。必要な物を神様が、全て、誰にでも、惜しみなく、与えてくださると約束してくださっているのだから。

●5日(火)

【旧約聖書】
主はモーセに言われた。「わたしが命じるすべてのことをあなたが語れ…」。出エジプト記 7章1、2節
【新約聖書】
御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。テモテへの手紙二 4章2節

 牧師は神様から、み言葉を語るようにと選ばれた者である。だから、話すのが得意なのかと言えばそんなことはない。モーセも、自分は口下手だから、兄アロンを遣わしてくださいと神様に頼んでいるほどだ。でも、神様はそのモーセにこそ言葉を語れという。神様は、きっと、モーセの心を見ておられるのかも。だって、この後、金の雄牛像で人々を惑わしたのは、アロンだからだ。
 実は、み言葉を語るのは、牧師だけじゃない。全てのキリスト者が遣わされている。それは、あなたの愛する家族の元へ、あなたの愛する友人の元へだ。さぁ、この日も愛する人たちにみ言葉を宣べ伝えよう。

●6日(水)

【旧約聖書】
主に向かってわたしは歌おう。主は大いなる威光を現し、馬と乗り手を海に投げ込まれた。出エジプト記 15章1節
【新約聖書】
霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊で賛美し、理性でも賛美することにしましょう。コリントの信徒への手紙一 14章15節

霊と理性は一見すると相反するもののように思える。霊はどちらかと言えば、感情的なもので、理性とは異なるもののように思えるから。でも、聖書は霊でも理性でも祈り、霊でも理性でも賛美しようという。どういうことなのだろうか?
もしかしたら、それは、私の体の全てをもって祈り、全てをもって賛美すると言うことなのかも。私達は心の動きとしての感情でも、論理的な理性でも神様に向かって言葉を発することができる。まさに、旧約聖書の場面がそれだ。神様がエジプト軍を海の中に沈められ、イスラエルの民を守ってくださった。その出来事に心からも理性からも歌うことができるのだ。

●7日(木)

【旧約聖書】
お前たちは多くの収穫を期待したが、それはわずかであった。しかも、お前たちが家へ持ち帰るとき、わたしは、それを吹き飛ばした。それはなぜか、と万軍の主は言われる。それは、わたしの神殿が廃虚のままであるのに、お前たちが、それぞれ自分の家のために、走り回っているからだ。ハガイ書 1章9節
【新約聖書】
あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが。ルカによる福音書 11章42節

 旧約聖書で、神様が怒っておられる理由はわかる気がする。神様の事を後回しにして、自分のために走り回っているからだ。では新約聖書はどうだろう?ファリサイ派の人たちはきちんと、十分の一を献げているとイエス様も認めている。神様が与えられた義務をはたしているのだ。それなのに、非難されている。一体どうしてなのか?
 それは、ファリサイ派の人たちの行いは、神様のためと言いながら、実は、人々から献げものをしている自分を認めて欲しい、よく思われたいという願いから来ているのだ。結局は神様のためではなくて、自分のため。でも、同じ思いを私も抱えているのかも。神様お赦しください。

●8日(金)

【旧約聖書】
わたしは言いました。「わたしの道を守ろう、舌で過ちを犯さぬように」。詩編 39編2節
【新約聖書】
同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。ヤコブの手紙 3章10節

 口は災いの元ということわざが日本にもあるが、聖書の時代にも同じことが言われていたようだ。それも、旧約の言葉を聞き続けたキリスト者たちも、全く同じことを戒めあっている。そして、現代を生きる私達もだ。そう考えると人間は全く変わらない存在と言えるのかもしれない。
 私達はいつだって、言葉で失敗する。思わず出てしまった言葉で、そんな意味で言った訳ではない言葉で相手を傷つける。でも、私達は黙っては生きられない。だから私達は、十分に注意して、吟味して言葉を使わなければならないのだけれども、それができないから悩んでしまうんだ。神様、どうか助けてくださいますように。

●9日(土)

【旧約聖書】
それではあなたたちのもとにある外国の神々を取り除き、イスラエルの神、主に心を傾けなさい。ヨシュア記 24章23節
【新約聖書】
役に立つことは一つ残らず、あなたがたに伝え、また教えてきました。神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきたのです。使徒言行録 20章20、21節

 イスラエルの民が「私達は主を選び、主に仕えます」と言った時、指導者ヨシュアが語ったのが旧約の言葉だ。神様を選び、仕えるということは、他の神を取り除くことに他ならない。あっちの神様に仕えながら、聖書の神様にも仕えるということはあり得ないのだ。
 それは、私の愛する人が私以外の人を愛していたら嫌な思いになるのと同じように、神様が私達の心を何より求めておられるからなのかも。私は神様以外に愛している存在はいないかな?お金とか、地位とか、名誉とか。それらの物から目を逸らし、神様に心を傾けることこそが悔い改めるということだ。この日も主を思おう。

●10日(日)

三位一体後第8主日
 【主日早天礼拝】
   藤森 誠 牧師
 【主日礼拝】
   藤森 誠 牧師

●11日(月)

【旧約聖書】
主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。ヨエル書 3章5節
【新約聖書】
イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。ルカによる福音書 21章8節

 先日も、ある日に世界が滅びるという噂が日本を駆け巡っていた。それは結局実現しなかった訳だけれども、いつだって、私達をだまそうとする存在がいる。世界の終わりがいつ来るかは、イエス様だって知らないと言われたのに、それを知っている人達はイエス様よりもすごいってこと?
 私達の救い主はただお一人、イエス様だけだ。聖書は語っている。主の名を呼ぶ者は救われると。改めて、この日、そのみ言葉に感謝したい。だって、私達はいつでも、どこでも、その名を呼ぶことができるから。動けなくなっても、ベッドの上でだってできるじゃないか。この日、また、その名を呼ぼう。私達の救い主の御名を。

●12日(火)

【旧約聖書】
主は命の神。わたしの岩をたたえよ。わたしの救いの神をあがめよ。詩編 18編47節
【新約聖書】
次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する』。ルカによる福音書 24章46節

 神様は、命を造り出すことがおできになる方だ。だから、人の命を奪い取ることも、与えることもおできになる。イエス様の命を取られたのも、イエス様に命を与えられたのも、神様だからこそ為せる業だ。
 その方は私達に永遠の命を約束された。永遠をどのように捉えるかは難しい部分があるが、一つには、もう死なないということがある。なぜなら、イエス様は、ご復活なさった後、今も生き続けておられるからだ。その同じ命を私達もいただくことができる。それは、神様とずっと一緒に生きるためにだ。これこそが神様が与えてくださる救いである。感謝して受け取ろう。

●13日(水)

【旧約聖書】
神のまことは大盾、小盾。詩編 91編4節
【新約聖書】
しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。ヨハネによる福音書 3章21節

 神様のまこと、正しさって、私を見張っていて、裁くためにある怖いものだと思っていた。神様のそばに行くと、私の悪い所が全て見抜かれてしまうから、離れていたいと感じていた。私は真理を行う者ではなくて、むしろ悪を行う者だから。それなのに、詩人は、それは私達を守る盾であるという。一体どういうことなのかな?
 でも、それは思い違いであった。私が真理を行うことができるのは、神様に導かれたからだと聖書は語る。神様の導き無しに私達は正しくあれないのだ。だからこそ、私達は神様の助けが必要で、神様が支えてくださることは私達を守ることとなる。この日も神様の導きに従おう。

●14日(木)

【旧約聖書】
主は言われた。「あなたの言葉のゆえに、わたしは赦そう」。民数記 14章20節
【新約聖書】
また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。マルコによる福音書 11章25節

 誰かを赦す道は、相手のために自分を殺す歩みだと思っていた。でも、イエス様は、そうじゃないという。それはあなたのためなんだと。あなたが赦すならば、あなたも神様から赦してもらえるのだからと言われている。私の利益のために、してごらんと言われている。
 さらに神様は、誰かのとりなしの言葉にも耳を傾け、赦してくださる憐れみ深い方だ。それはきっと神様が、私たちを裁きたいのではなく、赦したいと願っておられるからなのかも。だからこそ、私達を究極的に赦してくださるために、イエス様を与えてくださったのだ。神様の赦しを受け取ろう。

●15日(金)

【旧約聖書】
命のある限り、あなたをたたえ、手を高く上げ、御名によって祈ります。詩編 63編5節
【新約聖書】
民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。使徒言行録 3章9節

 詩人の言葉はある意味で、私達キリスト者にも通ずる理想の姿と言えるかもしれない。どうしたらそうなれるのかなと思って、新約を見たら、神様の力で癒された者が賛美する者とされていた。だから、旧約の詩人もきっと何かをいただいたんだろうと思ったのだけれども、どうやら違うようだ。63編1節には、「ダビデがユダの荒れ野にいたとき」と記されている。この神様への信頼ってどこから来るのかな?
 それもきっと、癒された男と同じように神様が関わってくださった経験に基づいているんだと思う。神様からのいただきものへの応答が祈りであり、賛美なのだから。

●16日(土)

【旧約聖書】
もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。創世記 4章7節
【新約聖書】
イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。マタイによる福音書 27章3~4節

 アベルが神様に選ばれ、カインが選ばれなかった理由は、今現在まで不明なままである。始め、今日のみ言葉は、アベルを殺したことを責められているのだと思ったけれども、よく読んでみたら、神様への献げものを携えてきた所の場面だった。ここで、カインが神様に何かを告げていたら、結末は変わったのかもしれない。
 ユダは、自らの罪を認めて告白をした。しかし、彼はその後、自殺をしてしまう。それは、赦しが与えられることを知らなかったからなのかも。もう少し生き長らえていたならば、復活のイエス様に出会えたのに。私達は自らの罪を告白できているだろうか。イエス様の赦しにあずかろう。

●17日(日)

三位一体後第9主日
 【主日早天礼拝】
   眞木 重郎 伝道師
 【主日礼拝】
   眞木 重郎 伝道師

●18日(月)

【旧約聖書】
諸国の民に御業を示し、気高い御名を告げ知らせよ。イザヤ書 12章4節
【新約聖書】
あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。マタイによる福音書 28章19~20節

 私たちは、嬉しいことがあると、つい、周りに伝えてしまう。実はこないだこんないいことがあったんだと。それは、嬉しさのあまり伝えずにいられないという思いと、同時に、相手に一緒に喜んでほしくて伝えたいと願うのではないだろうか。それも、相手にもお得な情報があったなら、すぐに共有しなきゃと思ってしまう。
 今日のみ言葉も同じ。神様は私達に救いを与えてくださる。それも、私だけじゃなくて、イエス様を信じる者たちは漏れなく、その救いを受け取れるのだ。先にその救いを受け取り、良い物だとわかった私達だから、一人でも多くの人に伝えたい。あなたも受け取ったらいいよと。

●19日(火)

【旧約聖書】
天が煙のように消え、地が衣のように朽ち、地に住む者もまた、ぶよのように死に果てても、わたしの救いはとこしえに続き、わたしの恵みの業が絶えることはない。イザヤ書 51章6節
【新約聖書】
完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。コリントの信徒への手紙一 13章10節

 世界には終わりがある。そのことを私達はよく知っている。聖書の中にもあちこちに終わりについての描写があるからだ。だから、普通はその終わりの日は恐ろしいものであり、できれば生きている間には来て欲しくないと願うものである。
 しかし、キリスト者は違う。少なくとも私はその日が一日も早く来ることを願っている。別に破滅願望があるからではない。その日に、世界の完成が起こる事を知っているからだ。完全なものが来るとき、世界は変わらずにはいられない。でも、その中でも、唯一神様の救いと恵みは変わらず続くと言われている。それを受け取っている私達だから、この日を待ち望めるのだ。

●20日(水)

【旧約聖書】
人の子らは空しいもの。人の子らは欺くもの。共に秤にかけても、息よりも軽い。詩編 62編10節
【新約聖書】
富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。マタイによる福音書 6章20~21節

 詩編の詩人が語ろうとしていることって何なのかなと思って、聖書を開いた。どうやら、人間に価値がないと言いたいのではなくて、人間に頼る虚しさを語っているようだ。力を持っているのは神様であり、だからこそ、神様をこそ頼るべきだと詩人は歌う。
 実は、全てにおいて、神様がおられるところが一番の安全地帯だ。富を保管しておくのだって、神様のそばが良い。私達がいる場所も、住む場所も本当は神様のそばが良い。なぜなら、この方こそ私達を完全に守る力を持っておられるのだから。この日も神様の傍へと進み出よう。そこにこそ本当の安心があるから。

●21日(木)

【旧約聖書】
お前は顔に汗を流してパンを得る。土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。創世記 3章19節
【新約聖書】
自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。ガラテヤの信徒への手紙 6章8節

 今日の種を肉に蒔くということと、霊に蒔くとは一体どういう意味なのだろう?この後すぐ、たゆまず善を行いましょうと勧められていることから、蒔かれる種は、善ということなのかな?それを肉に蒔くならば、それは行いのみによって善が行われるということを意味し、霊に蒔くならば、それは信仰も伴って善が行われるということなのかもしれない。
 私達は、霊による信仰の導きが必要だ。そうでなければ、行いや成果によって自分すら裁いてしまうから。その先には、滅びしかない。神様によって私達は永遠の命を与えられている。霊の導きによって善を行おう。

●22日(金)

【旧約聖書】
今、主への恐れがあなたたちにあるように。注意深く裁きなさい。わたしたちの神、主のもとには不正も偏見も収賄もない。歴代誌下 19章7節
【新約聖書】
何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。エフェソの信徒への手紙 5章10節

 神様は、不正も偏見もわいろも取られないという。絶対的な神様の基準があり、それは決して揺らがないのである。でも、それって、私も同じ基準で裁かれるということ。だから、最初は心強いと思ったみ言葉が途端に怖くなった。神様は、不正も不公平も行われないのだから。
 でも、私達は恐れることはない。それはイエス様によって赦しをいただいているから。だからこそ私達はむしろ、神様に喜ばれる生き方を探し求めたい。神様を恐れて生きるのではなく、神様に喜んでいただく生き方を過ごしたいから。さぁ、この日も共に考えよう。神様は何を喜んでくださるかなと。

●23日(土)

【旧約聖書】
あなたの罪のためにわたしを苦しめ、あなたの悪のために、わたしに重荷を負わせた。わたし、このわたしは、わたし自身のために、あなたの背きの罪をぬぐい、あなたの罪を思い出さないことにする。イザヤ書 43章24~25節
【新約聖書】
イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」ヨハネによる福音書 5章17節

 神様は、私達のために喜んで罪を赦してくださると漠然と考えていた。でも、そうでは無い。私達の罪は神様を苦しめ、重荷を負わせることであった。だから、神様は、むしろそれを思い出さないことによって、罪を帳消しにすると言われる。罪による負債よりも、それによって与えられる重荷の方が重いからと。
 そのようにして、神様は今も、私達を背負い続けてくださっている。それがどれほどの困難であり、忍耐が必要か想像もつかないほどだ。本当はその重荷を軽くしたいと願うけれども、それも難しい。だから、私にできることは神様にお詫びすることだけだ。神様ごめんなさいと。

●24日(日)

三位一体後第10主日
 【主日早天礼拝】
   藤森 誠 牧師
 【主日礼拝】
   藤森 誠 牧師

●25日(月)

【旧約聖書】
あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うならば、これらの祝福はすべてあなたに臨み、実現するであろう。あなたは町にいても祝福され、野にいても祝福される。申命記 28章2~3節
【新約聖書】
願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。ヤコブの手紙 4章3節

 今日のみ言葉は、矛盾しているじゃないかと思った。神様は、私を祝福されると言いながら、でも、願っても与えられないのは、間違った動機だからと言われる。自分の楽しみのために、何かを求めることは間違っているのだろうか?
 この箇所では、一体何を求めて、何が与えられないのか明言されていない。でも、もしかしたらと思うのは、自分の楽しみのためにと言われていることだ。誰かのためではなく自分のためだけに何かを求めるならば、それは、神様の御心には反しているということにならないだろうか。神様は隣人をも愛しておられるから。愛する兄弟姉妹と共に、神様の祝福を受け取ろう。

●26日(火)

【旧約聖書】
主はあなたを見守る方。あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。昼、太陽はあなたを撃つことがなく、夜、月もあなたを撃つことがない。詩編 121編5~6節
【新約聖書】
わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。フィレモンへの手紙 3節

 御言葉を読みながら、ふと、恐ろしいことに気づかされた。太陽や月が私を撃たないのは、神様がそうなさらないからだ。それってつまり、神様がその気になれば、太陽も月も私を撃つ存在となりえるということ。昼も夜も絶え間なく攻め続けられ、心休まる時なんて無くなってしまう。
 今、そうなっていないのは、神様の見守りがあり、神様の恵みがあるからではないだろうか。神様はどこまでも私達の事を思っていてくださる。この暑い夏に太陽が私達を焼き尽くさないのは、神様の助けそのものなのかも。だから、私達は全ての事を喜んで受け取ろう。そこに神様の思いが必ず詰まっているから。

●27日(水)

【旧約聖書】
かわいい息子を懲らしめる父のように、主は愛する者を懲らしめられる。箴言 3章12節
【新約聖書】
お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。ルカによる福音書 15章32節

 今日のみ言葉を読みながら、神様の懲らしめって何なのだろうと思った。旧約聖書では、息子を懲らしめる父のようにというが、放蕩息子は自分からお父さんのもとを離れていったじゃないか。それなのに、何だかお父さんのせいと言われている気がしたんだ。
 もしかして、お父さんが息子の好きにさせたのが、お父さんなりの懲らしめだったのかもと気づいた。きっとお父さんはある程度、結末が予想できていたのではないだろうか。でも息子を懲らしめるために、言われるがままにした。きっと父を離れる前から既に、弟はいなくなっていたからだ。彼を見つけるための行動なんだ。

●28日(木)

【旧約聖書】
あなたは主の御手の中で輝かしい冠となり、あなたの神の御手の中で王冠となる。イザヤ書 62章3節
【新約聖書】
招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。ルカによる福音書 14章10節

 謙遜な者として生きよと聖書は勧めている。謙遜は美徳だから、理解しやすいかもしれない。でも、「もっと上席に進んでください」と言われなかった時に怒りが湧いて来ないだろうか。この教えは、この世をうまく生きる処世術なのかな?
 もちろん、そうじゃない。どうして、謙遜さが求められるのか。それは、私は本来何の力も持っていない存在だからだ。すべては神様からのいただきもの。だからこそ、私は末席に座るにふさわしいのだ。もし、褒められるとしたら、神様こそふさわしい。その時、私を通して神様は栄誉を受けられる。でも、神様はその私を冠として受け入れてくださるのだ。神様、感謝いたします。

●29日(金)

【旧約聖書】
万軍の主よ。あなただけが地上のすべての王国の神であり、あなたこそ天と地をお造りになった方です。イザヤ書 37章16節
【新約聖書】
万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。ヨハネによる福音書 1章3節

 神様は天地の造り主であると私達は皆知っている。祈りでも信仰告白でもそう告白している。でも、私達はそのことをどこまで真剣にとらえているだろうか。この世界を造ったと言うことは同時に、この世界を自由にできるのであり、神様だけがこの世界の支配者であるということだ。
 さらに新約聖書はそこにイエス様を関わらせる。万物はイエス様を通して創造された。つまり、イエス様もまた、世界を自由にし、支配するお方であるということだ。その方以上に、私達が頼れる方って居るだろうか?この方こそ、この世界の頂点におられる方なのだから。さぁ、この日もこの方の助けをいただいて歩みだそう。

●30日(土)

【旧約聖書】
主が近くにいてくだされば、人々は生き続けます。わたしの霊も絶えず生かしてください。わたしを健やかにし、わたしを生かしてください。イザヤ書 38章16節
【新約聖書】
プブリウスの父親が熱病と下痢で床についていたので、パウロはその家に行って祈り、手を置いていやした。使徒言行録 28章8節

 私達の健康も、実は神様の支えによる。でも、そうだとしたら、私達がけがをしたり、病に罹ったりするのは、神様の力が足りないから?神様が離れてしまったから?もちろん、そんなことはない。むしろ神様は、私達を健やかにし、生かし続けてくださる方だ。私が今日、生き長らえているのは、神様のおかげなのだ。
 でも、癒されない病もあるじゃないか。それはどうなの?答えを出すことは難しい。でも、それでも、私は生きている。病を抱えながらでも、生かされているのだ。それは、神様が私達になさせようとしておられることがあるからに違いない。だから、この日も懸命に生きよう。

●31日(日)

三位一体後第11主日
 【主日早天礼拝】
   藤森 誠 牧師
 【主日礼拝】
   辻川 篤 牧師

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