2025年7月の『日々の聖句』

この日々の聖句は、聖書箇所を「ヘルンフート兄弟団『日々の聖句2025』(べテスダ奉仕女の家)」からいただきました。
聖書の本文は、日本聖書協会が発行している『聖書新共同訳』から転記しています。
『聖書新共同訳』:(c)共同訳聖書実行委員会(c)日本聖書協会、1987,1988。

●1日(火)

【旧約聖書】
わたしの肉もわたしの心も朽ちるであろうが、神はとこしえにわたしの心の岩、わたしに与えられた分。詩編 73編26節
【新約聖書】
聖なる方、真実な方…が次のように言われる。「わたしはあなたの行いを知っている。見よ、わたしはあなたの前に門を開いておいた。だれもこれを閉めることはできない。」ヨハネの黙示録 3章7、8節

 イエス様は、ダビデの鍵を持っておられる。この鍵とは一体何なのか、詳しい所はわからない。でも、このお方は、その鍵を使って、門を開けることも閉めることもおできになる。その門を、あなたの前に開いておくと約束されている。
 この門は一体どこに続く門なのであろうか。それはきっと、神様の元へとたどり着ける門だ。でも、そこに入るのは簡単ではない。そこに入るには、たくさんの忍耐が必要とされる。でも、ありがたいのは、「あなたは力が弱かったが…」と言っていただけることだ。つまり、その忍耐する力を与えてくださるのはイエス様ご自身ということ。その力をいただいて今日も歩もう。

●2日(水)

【旧約聖書】
主は高くいましても、低くされている者を見ておられます。遠くにいましても、傲慢な者を知っておられます。詩編 138編6節
【新約聖書】
『さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ…』。しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。ルカによる福音書 12章19~20節

 最近、老後が気になり始めた私の心に突き刺さる言葉だ。だって、誰しもが、将来への不安を抱えているから。だから、蓄えをするのは当然ではないだろうか。それなのに、蓄える人を愚か者呼ばわりするなんて、イエス様は意地悪になられてしまったのだろうか。
 もちろん、そうじゃない。イエス様は、本当はその心配をするのは、あなたではなくて神様なんだと言いたいのだ。だって、私達はこの先どうなるかを知らないし、それを変える力も無いから。それは神様の担当である。だから、あなたは、神様を頼れと言われている。傲慢な者とは神様に頼らない者。神様の助けをいただこう。

●3日(木)

【旧約聖書】
人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる。箴言 16章9節
【新約聖書】
何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。コロサイの信徒への手紙 3章17節

 昨日の今日で、人生の計画の話が出てきた。もちろん、計画を立てるなということではない。ポイントは同じだ。それは、私達の立てる計画にも神様は関わってくださるということである。でも、できれば、計画を立てる前に神様に祈って、神様と一緒に計画を作るのが望ましい。
 私の人生の計画にさえ関わってくださる神様だからこそ、私達も同じでありたいと願う。神様にもご計画があり、その計画を私達に知らせてくださっている。だからこそ私達が生きる時にも、神様との関わりの中で生きよと勧められている。この日も全てを主の名によって行えますように。

●4日(金)

【旧約聖書】
あなたはわたしの隠れが、わたしの盾。御言葉をわたしは待ち望みます。詩編 119編114節
【新約聖書】
わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。ヨハネによる福音書 6章40節

 イエス様は唯一、父なる神様のことを知っておられるお方だ。だからこそ、神様の御心も熟知しておられる。その心はたった一つ。イエス様を信じる者を死(滅び)で終わらせず、復活させることにある。それは、御心であると同時に、意志であり、希望となる。私達も復活の希望をいただいているということだ。
 もちろん、私達を復活させて、後はほったらかしとなることはないだろう。その先があるはずだ。その先とは、きっと、神様と共に永遠に生きることでは無いだろうか。そこは、悩みも悲しみも嘆きもない世界だと聖書は語っている。その希望に向かって私達は歩んでいる。

●5日(土)

【旧約聖書】
御覧ください、主よ、この苦しみを。胸は裂けんばかり、心は乱れています。わたしは背きに背いたのです。哀歌 1章20節
【新約聖書】
「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」ヨハネによる福音書 4章29節

 私達は日々、沢山の苦しみを抱えて生きている。今日のみ言葉は、ご覧くださいと、率先して神様にその現実を知ってもらいたいと願っているのだ。実は、これって大切なことなのかもと気づかされた。それは、つい私達は苦しみを隠してしまう者だから。
 もちろん、それは、相手に気を遣わせたり、心配させたりしないようにとの配慮からきている。でも、もし、兄弟姉妹が苦しんでいたのを後から知ったとしたら、むしろ、私達はより辛いのかもしれない。何かできたかもしれないのにと。もちろん、自分の苦しみをひけらかす訳ではないけど、でも、一緒に悩める兄弟姉妹がいることは大きな助けとなるはずだ。

●6日(日)

三位一体後第3主日
 【主日早天礼拝】
   藤森 誠 牧師
 【主日礼拝】
   藤森 誠 牧師

●7日(月)

【旧約聖書】
低くされたわたしたちを、御心に留めた方に感謝せよ。慈しみはとこしえに。詩編 136編23節
【新約聖書】
わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。エフェソの信徒への手紙 6章19~20節

 パウロは私のために祈ってくださいと告げている。でも、私達は、聖書の中で、パウロがどれほど大胆に福音を語っているかを知っている。あんなに立派で力強いパウロなのに、祈って欲しいとはどういうことなのだろうか?
 それは、パウロは、その力が自分のものでないことをよく知っているからなのかも。パウロは自分の無力さを知っていた。でも、それを嘆く訳ではない。なぜなら、その力がどこから与えられるかをパウロは知っていたからだ。だから、祈りは私達にとっても大きな力となるものだ。私のちっぽけな祈りも神様に聞かれて、隣人を強めることができるなんて、何て嬉しい事だろう。

●8日(火)

【旧約聖書】
奥義と秘義を現し、闇にひそむものを知り、光は御もとに宿る。ダニエル書 2章22節
【新約聖書】
正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。ヨハネによる福音書 17章25節

 私達が神様のことを知るためには、誰かに教えてもらうか、自分で探すしかない。しかし、神様のことに関しては、この世のどこを探しても見出すことはできない。もしかしたら、世界を見て、神様のことを少しは知ることができるかもしれない。でも、肝心の神様の御心は知りえない。
 けれども、神様はご自分の御心を隠してはおかれない。神様の御心は、イエス様を通して明らかにされる。御子が地上に来られたことも、御子が十字架で死なれたことも、御子が復活させられて天へと昇られたこともすべてが神様の思いへとつながっている。あなたを愛しているがゆえに、あなたを救いたいと言う願いへと。

●9日(水)

【旧約聖書】
かつて、彼らを抜き、壊し、破壊し、滅ぼし、災いをもたらそうと見張っていたが、今、わたしは彼らを建て、また植えようと見張っている、と主は言われる。エレミヤ書 31章28節
【新約聖書】
実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、…ています。テトスへの手紙 2章11~12節

 神様は私達を見張っていると言われている。そんな恐ろしい事を言われたら、私なんて、何をなすにも心配でしょうがなくなってしまう。でも、実は大丈夫だ。なぜなら、神様の見張りは、私達を滅ぼすためではなく、私達を生かすためだと語られているから。
 神様は、私達を滅ぼしたいのではなくて、私達に生きて欲しいんだ。でも、ただ生きていては、また失敗してしまう。だから、私達は神様と一緒に生きるようにと招かれている。それが正しく、信仰深く生活することにつながる。たとえ失敗したとしても、そこに待つのは、滅びではなく赦しだから、安心して歩もう

●10日(木)

【旧約聖書】
あなたたちはわたしの戒めを忠実に守りなさい。わたしは主である。レビ記 22章31節
【新約聖書】
わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。ヨハネによる福音書 14章23節

 相手の言葉に耳を傾けること。これって人との関係においてとても大切なことではないだろうか。ちゃんと聞いてくれる相手に、人は相談するものだ。でも、耳を傾けるだけで終わってしまったらどうだろう?果たしてそこに信頼関係は生まれるのかなと思った。
 神様との関係もきっと同じ。神様の戒めやイエス様の言葉を沢山受け取ってきたし、耳を傾けてきた。でも、そこで終わってないだろうか。私は、ちゃんとみ言葉に生きられているかな?私達の主である方が、こうだよと道を示されているのだから、私達はそこに従って歩んでみよう。そこに神様が必ずいてくださるから。

●11日(金)

【旧約聖書】
あなたの裁きはとこしえに堪えることを思い、主よ、わたしは力づけられます。詩編 119編52節
【新約聖書】
わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。コリントの信徒への手紙二 5章1節

 今日のみ言葉の「とこしえに堪える」ってどういう意味なのかなと思って、ヘブライ語を調べてみたら、堪えるに該当する言葉はなかった。おそらく、永遠に変わらないとか、永遠に存在するということを言いたいのかもしれない。
 でも、裁きに力づけられるってどういうことだろう?この裁きという言葉は、正しさとも言い換えることができる言葉だった。そうであるならば、力づけられる詩人の気持ちも少しは理解できるかも。でも、神様は、正しい者だけでなく、罪人をも救おうと働いてくださった。それは私達にとってさらに大きな励ましだ。この日も、神様に頼って生きよう。

●12日(土)

【旧約聖書】
主はこう言われる。わたしは恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。イザヤ書 49章8節
【新約聖書】
今や、恵みの時、今こそ、救いの日。コリントの信徒への手紙二 6章2節

 私達は誰しもが生まれながらにキリスト者ではない。それぞれの時が与えられている。ある人は生まれてすぐに、またある者は青年期に、場合によっては大人になってからや死の間際にという方もいる。一体どうして、そんなに一人一人がバラバラなのだろうかと思う。その問いに今日のみ言葉は答えてくれている。
 それは、あなたにとっての恵みの時、救いの日があるということだ。私たち一人一人にあわせて神様がそれを備えてくださっている。もちろん、それが早く訪れるにこしたことは無いだろうが、何歳でも遅すぎるということもない。今や、すべての人に救いがもたらされているのだ。

●13日(日)

三位一体後第4主日
 【主日早天礼拝】
   藤森 誠 牧師
 【主日礼拝】
   藤森 誠 牧師

●14日(月)

【旧約聖書】
お前が造った神々はどこにいるのか。彼らが立ち上がればよいのだ。災難に遭ったお前を救いうるのならば。エレミヤ書 2章28節
【新約聖書】
わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。コリントの信徒への手紙一 10章14節

 聖書はいつも、偶像礼拝をしてはならないと言い続けている。私はその戒めを守れていると思っていた。だって、お寺や神社に行くことは無いし、礼拝にも出ていたから。でも、今日のみ言葉は少し違う事を教えてくれているように思う。
 それは、私が災難にあった時に、それは私を救ってくれるのかと問われているから。それはある意味、私達の心の拠り所と言ってもいいのかもしれない。私達が持っているものが、私の心の拠り所となっているならば、それは、偶像となりえるのだ。私達の心の拠り所を神様へとおいているかを神様は問われている。私達を心配されているからだ。今日も神様の助けをいただこう。

●15日(火)

【旧約聖書】
天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。列王記上 8章27節
【新約聖書】
まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。ヨハネによる福音書 4章23節

 ソロモンは、神様のためにそれは豪華絢爛な神殿を建てあげたにも関わらず、神様にとって、ふさわしくないと語っている。神殿は神様を礼拝する場所であった。しかし、イエス様は、霊と真理をもって神様を礼拝する時が来ていると言われる。神様への礼拝で重要なのは、神殿の豪華さではなく、霊と真理なのだ。
 その二つは、私達の心に現れると言ってもいいのではないだろうか。しかし、神様を礼拝しようと言う思いは、私の心から出てきたものではなく、神様から与えられたものだ。神様がそのような礼拝を望んでおられるから。さぁ、この日も霊と真理をもって神様に向き合おう。

●16日(水)

【旧約聖書】
主御自身が守ってくださるのでなければ、町を守る人が目覚めているのもむなしい。詩編 127編1節
【新約聖書】
王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。テモテへの手紙一 2章2節

 神様が町を守ってくださるということと、王や高官のために祈ることとどう関わりがあるんだろうか?と思った。思いめぐらしていて、もしかしたら、王や高官の働きにも神様が関わってくださっているということなのかなと思った。教会はずっと、為政者のためにも祈ってきた。それは、その人たちを選ばれたのも神様だという信仰があったから。
 私達が、日本の中で、今、毎週礼拝にあずかれているのは、それを守ってくれる人たちがいるからでもある。だからこそ、私達も祈ろう。「政治に当たるものが真理と公平とをもって、御心を行うことができますように」と。

●17日(木)

【旧約聖書】
主よ、あなたがいやしてくださるなら、わたしはいやされます。あなたが救ってくださるなら、わたしは救われます。エレミヤ書 17章14節
【新約聖書】
「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われた。その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った。ルカによる福音書 5章24~25節

 何だか、今日の旧約のみ言葉を読んで、ドキッとした。果たして私は神様にお願いする時に、神様の力をどこまで信じて願っているかなと思ったからだ。もちろん、必死さはある。でも、心のどこかで、神様だってこれは癒せないかもしれないと思っている私がいるからだ。
 しかし、聖書は、神様にできないことは何も無いと語り伝えてきたではないか。イエス様もまた、罪を赦す権威さえ、ご自分は持っておられることを示された。そして、人を癒し、復活させることさえおできになる。だから、私達は信じよう。神様が働いてくださるならば、不可能ということなど、あり得ないのだから。

●18日(金)

【旧約聖書】
背きの罪はわたしたちと共にあり、わたしたちは自分の咎を知っている。主に対して偽り背き、わたしたちの神から離れ去り…。イザヤ書 59章12~13節
【新約聖書】
たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。ヨハネの手紙一 2章1節

 神様に対する悪とか罪って一体何なのだろうか?神様に背いたことがあるだろうか?なんて思ってしまう。でも、私達は何かにつけて神様に背いてしまうのかも。神様の求めが厳しいからということもあるけれども、きっと私達は神様に心から頼ることができないでいるからだ。
 それが聖書の語る罪ということ。私達を神様から遠ざけてしまうものがある。それは、悪いことをした子どもが、親の前に出ていけない状態に似ているのかも。でも、聖書は神様のそばには、私達の弁護者であるイエス様がいるという。この方が私達を助けて下さるから、安心して神様のみ前に進み出よう。

●19日(土)

【旧約聖書】
わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。詩編 62編2節
【新約聖書】
神は正しいことを行われます。あなたがたを苦しめている者には、苦しみをもって報い、また、苦しみを受けているあなたがたには、わたしたちと共に休息をもって報いてくださるのです。テサロニケの信徒への手紙二 1章6~7節

 詩人は、続く言葉を見ると、どうやら敵がいる状況の中にあるらしい。その中で、神様に希望をおいている。私も困難の中にあってこうありたいなと思った。つい、自分でその状況を解決しようと動き回り、あるいはこれこそが最善の策ですと神様に向かってあれしてこれしてと願っている。
 でも、聖書は語る。神様が正しいことをなさると。私達を敵から救うのも、敵に報復されるのも神様がなさることだ。だから、本当はまず、神様に、この苦しみから助け出してくださるようにと祈ることが肝心なのかも。あとは、神様が最善をなしてくださると信じて行動しよう。神様が必ず答えてくださるから。

●20日(日)

三位一体後第5主日
 【主日早天礼拝】
   眞木 重郎 伝道師
 【主日礼拝】
   眞木 重郎 伝道師

●21日(月)

【旧約聖書】
平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。わたしは彼をいやす、と主は言われる。イザヤ書 57章19節
【新約聖書】
神がイエス・キリストによって――この方こそ、すべての人の主です――平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を…。使徒言行録 10章36節

 神様は遠くにいる者も近くにいる者も、癒そうと言われる。神様にとって、私達の場所や距離は関係がない。遠くだから癒せないということは決してないのだ。私達は、本当は神様から遠くに居るはずだった。しかし、神様はイエス様を通して、み言葉を届けてくださった。あなたも神の子となれると。その言葉を信じた者たちは神様の近くに抱き寄せられているんだ。
 神様の傍にいることこそが神様の平和だ。それは神様との正しい関係の中に置かれていることを意味している。気まずい相手とは一緒に居られないはずだから。さぁ、この日もみ言葉を通して、神様の傍で癒しを得よう。

●22日(火)

【旧約聖書】
わたしは迷い出て、ついに卑しめられました。今からは、あなたの仰せを守らせてください。詩編 119編67節
【新約聖書】
イエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。ヨハネによる福音書 21章16節

 イエス様はペトロに私の羊の世話をしなさいと言われた。それは、ペトロ個人にというよりも、これからペトロ達がたてる教会への使命だと言ってもよいものだろう。教会はイエス様の所有物である羊を世話する場所である。一体何によってか。一番大切なのは、イエス様の言葉、イエス様の仰せによってだ。なぜなら、これが無いと私達はその群れから離れて迷い出てしまうのだから。
 だから、その世話にはさまよい出た羊たちを連れ戻すことも含まれている。一人っきりだったら迷ってしまう私たちだからこそ、イエス様の羊として、教会という群れで世話をされる必要があるんだ。

●23日(水)

【旧約聖書】
わたしを広い所に導き出し、助けとなり、喜び迎えてくださる。詩編 18編20節
【新約聖書】
神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず…。コリントの信徒への手紙一 15章10節

 パウロは、神様の恵みによって今の私があるという。それは、神の教会を迫害した迫害者であるはずの自分が、イエス様と出会い、イエス様を信じる者とされたという恵みである。そしてこの恵みはキリスト者全員がいただいている恵みだと言ってよい。神様の敵であった私も、イエス様と出会って、救われた一人だから。
 でも、最も大きな恵みは、神様が私を救ってくださったという出来事そのものではないだろうか。神様が敵であった私をさえ喜んで迎え入れてくださるという事実が私達にとって、何よりの希望となるんだ。それは神様の赦しが約束されている証拠だから。

●24日(木)

【旧約聖書】
主よ、わたしの祈りを聞き、助けを求める叫びに耳を傾けてください。わたしの涙に沈黙していないでください。詩編 39編13節
【新約聖書】
(一人の罪深い女が)後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。ルカによる福音書 7章38、50節

 私達の叫びは時に言葉にならないことがある。伝えたい思いはあるのに、祈りの中で、言葉が出てこなくなるんだ。そんな時は、文字通りにうめきが出てくる。それでも、神様に縋らなければならないからだ。
 イエス様は、その言葉にならない思いに気づいてくださった。一人の女は何も言葉を発することなく、イエス様に近づき、イエス様の足に香油を塗った。何か訴えたかったことがあったに違いない。しかし、彼女は一言も発さない。しかし、イエス様はその思いを汲み取ってくださり言われた。安心して行きなさいと。私達のうめきもきちんと神様に届いている。だから安心して行こう。

●25日(金)

【旧約聖書】
神よ、我らはこの耳で聞いています。先祖が我らに語り伝えたことを。先祖の時代、いにしえの日に、あなたが成し遂げられた御業を。詩編 44編2節
【新約聖書】
だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め…。テモテへの手紙二 4章3節

 詩人は、先祖の語り伝えを聞き喜んでいる。でも、一方で時代が進む中で、先祖の語り伝えは時代遅れとなり、現代を生きる私達には、意味をなさないものとなっている情報も多い。私達はどのように関わるべきなのだろうか。
 ふと、気づかされた。詩人の語る先祖の語り伝えはただの情報ではない。それは神様が成し遂げられた御業だということをだ。それってつまり、神様が私達とどのように関わってくださったかということ。その出来事を聞けば、その神様が私とも同じように関わってくださると信じることができるんだ。先祖の語り伝え。それは聖書に詰まっている。だからみ言葉に聞こう。

●26日(土)

【旧約聖書】
わたしはお前たちの悪事の結果に従って報いると、主は言われる。エレミヤ書 21章14節
【新約聖書】
主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』マタイによる福音書 25章21節

 今日の新約聖書は、有名なタラントンのたとえだ。私はいつも、1タラントン預けられた僕が、自分に重なる。彼はきっと、自分の能力以上のお金を預けられて、恐ろしくなったんだと思う。だから、使わずにしまっておいた。でも、本当は違うんだ。なぜなら、主人は僕たちの能力に応じて、お金を預けたのだから。だから、本当はそれを使えば必ず豊かに用いられたはず。だって、主人は僕と一緒に喜びたいと願っているのだから。
 神様は、私達に沢山のものを与えてくださる。私はそれをどのように扱おう。地面に埋めておくのか、それを豊かに用いるのか。主人の思いを知れば、選択肢は一つですよね。

●27日(日)

三位一体後第6主日
 【主日早天礼拝】
   藤森 誠 牧師
 【主日礼拝】
   藤森 誠 牧師

●28日(月)

【旧約聖書】
あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。出エジプト記 20章7節
【新約聖書】
天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。マタイによる福音書 6章9節

 時々聞かれることがある。みだりに主の名を唱えるってどういうことですかと。祈りの中で神様と呼びかけるのは失礼に当たりますかと。もちろんそんなことはない。私達も大切な人から名前を読んでもらうことを嫌だと思うことは無いだろう。みだりにとは、「自分勝手に」とか、「むやみやたらに」という意味がある。つまり、何の意味もなく、自分勝手に神様の名前を使うことを禁止されているのだ。
 主の祈りも同じ。私が神様の名前を大切にすることができるようにとの祈りだ。名は体を表すと言うが、神様の名前を大切にする時、神様自身をも大切にすることができるからだ。

●29日(火)

【旧約聖書】
御力を表される主をあがめよ。力ある御業をたたえて、我らは賛美の歌をうたう。詩編 21編14節
【新約聖書】
イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。ルカによる福音書 19章37節

 新約聖書は、イエス様がエルサレムに入城された時の出来事。いよいよ十字架の出来事が目前まで迫っている。そこで、弟子たちは神様を賛美し始めた。しかし、それは見た奇跡のことで喜んだとある。確かに神様はそのような奇跡をもって御力を示されることもある。でも、この時、イエス様がなそうとされていた業と人々の喜びは一致していなかった。
 私達はどうだろうか。私達はなぜ神様を賛美するのか。神様のなされた御業とは何だろうか?それは、ひとえにイエス様を通して成し遂げられた十字架と復活の出来事だ。その喜びを私達は賛美を通してお捧げするのだ。

●30日(水)

【旧約聖書】
戒めを守って、命を得よ。わたしの教えを瞳のように守れ。箴言 7章2節
【新約聖書】
そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」マタイによる福音書 19章20節

 旧約聖書は、戒めを守って命を得よという。神様の戒めは私達を生かすものである。しかし、新約聖書で青年は、そういうことはみな守ってきましたと告白する。彼は言葉通りに神様の戒めを守ってきた。でも、欠けがある気がしてならなかったのだ。
 それは、心が足りなかったのかもしれない。どうして神様は戒めを守れと言われるのか。それは、そこに神様の思いが詰まっているから。私にどのように生きて欲しいかという思いが詰まっている。私達はその思いを受け止めなければならない。それを受け止める時、私達の生き方は大きく変えられていくはずだ。

●31日(木)

【旧約聖書】
天が地を超えて高いように、慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。詩編 103編11節
【新約聖書】
しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。ローマの信徒への手紙 5章20~21節

 アメリカでは、裁判の量刑は、加算式で計算されるらしい。3つ悪いことをしたら、それぞれの量刑が計算されて、それが足し合わせられる。そのため、懲役何千年という判決も珍しくないのだとか。だから、本来罪が増すところには、ただ恐れが増すだけのはずだ。でも、聖書はそこに恵みが満ちあふれているという。一体どういうこと?
 それは、罪が赦されるという出来事によって起こる。一つの罪を赦された者よりも、三つの罪を赦された者の方が受け取る恵みは大きいということ。これこそが神様の成し遂げられた慈しみだ。それは私達の想像をはるかに超えてくる。神様の赦しの恵みに今日も感謝しよう。

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