2025年6月の『日々の聖句』
この日々の聖句は、聖書箇所を「ヘルンフート兄弟団『日々の聖句2025』(べテスダ奉仕女の家)」からいただきました。
聖書の本文は、日本聖書協会が発行している『聖書新共同訳』から転記しています。
『聖書新共同訳』:(c)共同訳聖書実行委員会(c)日本聖書協会、1987,1988。
●1日(日)
昇天後主日(ききたまえ)
【主日早天礼拝】
藤森 誠 牧師
【主日礼拝】
藤森 誠 牧師
●2日(月)
【旧約聖書】
娘なるわが民の破滅のゆえに、わたしは打ち砕かれ、嘆き、恐怖に襲われる。ギレアドに乳香がないというのか。そこには医者がいないのか。 エレミヤ書 8章21~22節
【新約聖書】
イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」。ルカによる福音書 19章9~10節
神様はご自分の民の背きのために、心を痛められる。でも、そんな神様っているのかな?私だったら、心を痛めるよりも先に怒りが起こってきそうだから。でも、神様は違う。この後、私はこの娘たちのために泣こうと言われる。それほどに神様は私達に心を注いでくださるお方なのだ。
だから、神様は、私達を放ってはおかれない。たとえ、人々から蔑まれ、嫌われている人でも、神様に逆らい続ける人でも、そこに救いを送ってくださる。この日、この家を訪れたのは、イエス様に他ならない。イエス様は、神様から離れる私達の所へと来てくださって、神様との仲を取り持ってくださるお方だ。この方こそ救いなんだ。
●3日(火)
【旧約聖書】
聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。イザヤ書 6章3節
【新約聖書】
(天使は)大声で言った。「神を畏れ、その栄光をたたえなさい。神の裁きの時が来たからである。天と地、海と水の源を創造した方を礼拝しなさい。」ヨハネの黙示録 14章7節
天使は、裁きの時が来たから、神様を礼拝しなさいと語る。何だか変だなと思った。だって、神様は私を裁く相手なのにだ。もちろん、それは、神様を誉めそやすことで、私の裁きを軽くしてもらおうということではない。きっと、裁きの時にこそ、神様の御業と御心がよく表れるからだ。
そこで表される神様の御業とは、赦しの御業に他ならない。本当は、軒並み有罪となり続けるであろう私の裁きは、イエス様を通して与えられる赦しのゆえに、無罪となるのだ。でも、私達はもう既にその赦しの約束を握っている。だから、裁きの時が来る前に、もう礼拝できるはずだ。さぁ、一緒に神様を礼拝しよう。
●4日(水)
【旧約聖書】
あなたはわたしの父、わたしの神、救いの岩。詩編 89編27節
【新約聖書】
わたしたちに必要な糧を今日与えてください。マタイによる福音書 6章11節
いつも主の祈りを祈っていて、不思議に思うことがある。それは、罪の赦しよりも、誘惑から遠ざけることよりも先に、糧を与えてくださいと祈っているからだ。私の食べ物は、赦しや誘惑よりも優先順位は低いはずと思ってしまうから。いや、もっと大切で優先すべきことがあるのにと思ってしまうからだ。
でも、今日のみ言葉を見てちょっとわかったかも。なぜなら、赦しも、誘惑から遠ざかることも、結局は生きていなければ意味が無いからだ。私達の父である神様はそのことをよくご存じなんだ。まず、食べて元気になること。ここから、私達の人生は始まっていくのだから。
●5日(木)
【旧約聖書】
神は背く者に言われる。「お前はわたしの掟を片端から唱え、わたしの契約を口にする。どういうつもりか。」。詩編 50編16節
【新約聖書】
わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。マタイによる福音書 7章21節
聖書はどこを見ても掟ばかりだ。あれをしなさい、これをしなさいと、語られている。私達はそれを聞いてありがたがるけれども、ちゃんとそこに生きているだろうか?もちろん、不完全な私だから、み言葉に生きられないことはよくわかっている。でも、できないことと、やらないことは必ずしも同じではないのかも。
イエス様も告げておられる。父の御心を行う者だけが天の国に入るのだと。そこでは結果は問われていない。でも、ちゃんとやっているかと問われている。神様に救っていただいた私だから、従う者になりたいと願う。さぁ、この日こそは、み言葉に生きてみよう。
●6日(金)
【旧約聖書】
山々はエルサレムを囲み、主は御自分の民を囲んでいてくださる。今も、そしてとこしえに。詩編 125編2節
【新約聖書】
(イエスの祈り)わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。ヨハネによる福音書 17章15節
イエス様が言われる彼とは一体誰のことなのかと思い、聖書を開いた。どうやら、神様がイエス様に与えられた人々のことであり、イエス様のことを信じる人たちのことのようだ。イエス様はこれから天へと戻られるが、彼らは地上に残される。だからこそ、神様が悪い者から守ってくださるようにと祈っておられるのだ。
そのイエス様の祈りは、今を生きる私達にも注がれている。私達は地上を一人で生きるのではない。イエス様の祈りを通して、神様の絶対的な守りの内に置いていただいているのだ。だから、私達も共に祈ろう。悪より救い出したまえと。
●7日(土)
【旧約聖書】
御手には力と勢いがあり、あなたに立ち向かうことのできる者はいません。歴代誌下 20章6節
【新約聖書】
総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。ルカによる福音書 4章29~30節
神様は世界を統べられる方。何でもしたいようにできる力を持っておられる。その同じ力をイエス様も持っているはずなのに、今日のみ言葉は、何だかイエス様が弱々しく見えてしまう。それは、ご自分の命の危機にも関わらず、人々に立ち向かうことなく、逃げ出してしまわれたからだ。
でも、ふと思った。もし、イエス様がご自分の力を用いられたら、この人たちはみな滅ぼし尽くされるに違いない。でも、イエス様は忍耐をもって、赦しの時を待っておられるのではないだろうかと。失敗ばかりの私が滅ぼされずに生かされているのは、きっと神様に立ち帰るためなのだ。神様に逆らう罪をどうかお赦しください。
●8日(日)
聖霊降臨祭(ペンテコステ)
【早天祈祷会】
飛田 惠子 姉妹 奨励
【主日礼拝】
藤森 誠 牧師
●9日(月)
【旧約聖書】
主に従う人には災いが重なるが、主はそのすべてから救い出し…。詩編 34編20節
【新約聖書】
引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。マルコによる福音書 13章11節
よく人から言われることがある。神様を信じていれば、順風満帆の人生なのか?と。残念ながら、そうではないことを、詩人もよくわかっている。主に従う人にだって災いはある。それも、重なって襲い掛かると言われている。そうならば、神様を信じる意味なんてあるのだろうか?
もちろん、意味はある。今日のみ言葉も神様の助けを約束してくれている。神様はその全ての災いから救い出してくださると言うし、たとえ、王の前に立たされて弁明しなければならない時も、神様ご自身が語ってくださるという。だから、安心して大丈夫。でも神様、できれば災いは少ない方がありがたいです。
●10日(火)
【旧約聖書】
主はわたしの岩、砦、逃れ場。サムエル記下 22章2節
【新約聖書】
しかし、わたしを通して福音があまねく宣べ伝えられ、すべての民族がそれを聞くようになるために、主はわたしのそばにいて、力づけてくださいました。そして、わたしは獅子の口から救われました。テモテへの手紙二 4章17節
いつの時代も、いつの人も神様を頼りに生きてきたことが聖書には沢山物語られてている。神様こそ、真にピンチの時の助け主なのだと。神様はいつだって、ご自分を求める人たちを助けてくださっている。だからこそ、こうやって感謝をもって告白できるのだ。
私はどうだろう?私も神様にいつも助けてもらっている一人と自信をもって告白できる。でも、全ての事を告白できないのは何故だろう?もしかしたら、こんなことを神様に頼っていいのかなと思う私がいるからかも…。この日から全てのことで、神様を頼って生きよう。それが神様の願いであり、私の助けそのものだから。
●11日(水)
【旧約聖書】
六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。出エジプト記 20章9~10節
【新約聖書】
(イエスの言葉)そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」マルコによる福音書 3章4節
神様は週に一度の安息日を制定された。それは人間自身が疲れ果ててしまわないようにとの神様の配慮である。でも、時代が経つにつれて、それは、人間同士を制限し、裁きあう道具となってしまった。安息日ですから、私はあなたを助けることもできないのですと。
それを見てイエス様は怒られた。どうして神様の思いを悟らないのかと。神様が安息日を制定されたのは、ひとえに神様を礼拝するためだ。そこにこそ真の癒しがあるから。でも、その途上に、帰りに困っている人がいたら、助けなくて良いということでは決してない。神様に癒された私たちだからこそ、み言葉に生きられるのだから。
●12日(木)
【旧約聖書】
あなたたちは、あなたたちの神、主に従い、これを畏れ、その戒めを守り、御声を聞き、これに仕え、これにつき従わねばならない。申命記 13章5節
【新約聖書】
(あなたたちは)世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。フィリピの信徒への手紙 2章15~16節
神様の命令は、私達の生活に、事細かに関わっている。一体どうしてなのだろうか。旧約聖書を開いてみて少しわかったかも。神様は、私達を試し、神様をちゃんと愛するかどうかを知ろうとされるからのようだ。私を愛するならば、私の言葉に従ってくれるはずとの神様からの期待の現われだ。
私はちゃんとできているかな?もちろん失敗だらけの歩みだ。とても、神様に誇れる所はない。でも、私は知っている。神様のみ言葉は私の命に結びついていることをだ。み言葉に生きる時に、私達の最善がなされていくのだ。今日もみ言葉に従える者としてください。
●13日(金)
【旧約聖書】
主に不可能なことがあろうか創世記 18章14節
【新約聖書】
十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。マルコによる福音書 16章14節
弟子たちの所に、イエス様が現れて、不信仰をとがめられたとある。それは、イエス様の復活の知らせを聞いた弟子たちの所であった。復活のイエス様に出会った人たちの言葉を、彼らは全く信じなかったのだ。でも、それって私も同じかもしれない。神様は全知全能のお方であると知りながら、そんなことが起こるはずがないと、神様をさえ私の常識で推し量ろうとするからだ。
でも本当は、神様に不可能はない。たとえどれほど私の常識から離れていようとだ。いや、今、私が信じる者とされていること自体、奇跡ではないだろうか。神様どうぞ、信じない者ではなく、信じる者とならせてください。
●14日(土)
【旧約聖書】
女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。創世記 3章6節
【新約聖書】
世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。ヨハネの手紙一 2章17節
神様は善悪を知る木からは食べてはダメだと約束された。でも、エバは蛇からの誘惑の中で、その木が非常においしそうに見えたと言う。ふと、思った。食べちゃいけない木の実なら、もっとまずそうにしてくださったら、エバも食べなかったかもしれないのにと。
でも、自分の生活を見詰めなおして分かった。それは、私達の生活の中には、あちこちに美味しそうに見える木の実がなっているから。だからつい手を延ばしてしまいそうになる。でも、それを掴んでもいずれは無くなってしまう。だから、本当に私達が手を伸ばすべきは神様のみ言葉だ。そこに神様の御心があるのだから。
●15日(日)
三位一体主日
【主日早天礼拝】
藤森 誠 牧師
【主日礼拝】
花の日・子どもの日を憶えて
子どもたちと合同礼拝
藤森 誠 牧師
●16日(月)
【旧約聖書】
柔らかな応答は憤りを静め、傷つける言葉は怒りをあおる。箴言 15章1節
【新約聖書】
キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。テモテへの手紙二 1章13節
言葉ってなんて難しいんだろうといつも思う。相手に届いた言葉が私の思いと違って受け取られるということが多々あるからだ。そんなつもりでは無かったのにと弁解したくなることがたくさんありすぎる。でも、もちろん、それを相手のせいにするわけにはいかない。だからこそ、私達は用いる言葉を十分に吟味しなければならない。
その助けとして、み言葉は、私から聞いた言葉を手本とせよという。それってつまり、聖書の言葉そのものなのかも。そこにこそ、イエス様の愛と信仰が詰まっているからだ。そして、それを用いる時、聖霊が私達を助けてくださる。さぁ、この日も相手を活かす言葉を語ろう。
●17日(火)
【旧約聖書】
わたしは神、あなたの父の神である。わたしがあなたと共にエジプトへ下り、わたしがあなたを必ず連れ戻す。創世記 46章3~4節
【新約聖書】
ペトロが、「このとおり、わたしたちは自分の物を捨ててあなたに従って参りました」と言った。イエスは言われた。「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受ける。」ルカによる福音書 18章28~30節
ヤコブは神様からエジプトへ下れとの命令を受けた。それは、彼らの故郷を捨てての旅立ちを意味していた。もう、生活の保障はなくなってしまう。それでも、神様は私が一緒に行くから大丈夫だと励まされている。
神様のために何かを捨てる者には、何倍もの報いがあるという。もちろん、報いが欲しいから捨てるのではない。ひとえに神様のご命令に従うからこその決断だ。私の持ち物と神様の命令とどちらを優先するかが問われている。でも神様は、言われる。私が必ず連れ戻すと。それは必ず取り返してくださるとの約束だ。だから、私達は安心して神様に委ねればいいのだ。
●18日(水)
【旧約聖書】
あなたの御言葉は、わたしのものとなり、わたしの心は喜び躍りました。万軍の神、主よ。わたしはあなたの御名をもって、呼ばれている者です。エレミヤ書 15章16節
【新約聖書】
フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けた。彼らが水の中から上がると、主の霊がフィリポを連れ去った。宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた。使徒言行録 8章38~39節
神様のみ言葉が私のものとなったとエレミヤは喜ぶ。それは、エレミヤが神様の言葉の中にこそ、自らの救いを見出したということ。神様の救いの約束が言葉として与えられていることに喜んでいるんだ。
同じように、み言葉の中に神様の救いを見出した人がいた。それは不思議なことに、神の民と呼ばれたイスラエルの人たちではなく、異邦人の宦官であった。でも、神様は、その異邦人にさえ、救いを与えてくださるのだ。それはまさに、異邦人も神の民と神様の名をもって呼ばれる者とされたということ。そして、私達もその救いに入れられていることをこの日、再び喜ぼう。
●19日(木)
【旧約聖書】
主なる神は言われる。既に集められた者に、更に加えて集めよう、と。イザヤ書 56章8節
【新約聖書】
(イエスの言葉)御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。マタイによる福音書 24章14節
旧約聖書において、神様が集めると約束されたのは、イスラエルの民だけであった。しかし、イエス様が来られたことで、その対象は全く変えられた。イエス様が集められる人々は、あらゆる民、全世界にいる人々に対してである。そして、そこに届くまで、終わりは来ないというのだ。全ての人に、神様の招待を受けるチャンスがあるんだ。
私の元には福音は届いたかな?私の家族の所は?私の友達の所は?もしかしたら、まだ、福音が届いていない所があるかもしれない。でも、そこにもイエス様が集めようとされている人がいるはず。福音を受け取った私達だから、そこにも福音を届けよう。待っている人がいるのから。
●20日(金)
【旧約聖書】
御顔を向けて、わたしを憐れんでください。わたしは貧しく、孤独です。詩編 25編16節
【新約聖書】
ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでくださいマルコによる福音書 10章47節
神様の憐れみを受けるのに、ふさわしい人って誰だろう。立派な人?お金持ち?み言葉にしっかり歩める人?…。詩人は語る。私は貧しく孤独ですと。ちっとも神様に顔を向けてもらえるような、神様に憐れんでもらえるような存在ではない。でも、それでも神様に縋りつかなければ生きていけないからこそ、詩人は必死に願うのだ。
新約聖書も同じ。盲人バルティマイはもうイエス様にすがるしかなかった。助けを求めて叫ぶことしかできなかった。でも、その声をイエス様は確かに聞かれた。そして、言われる。何をしてほしいのかと。苦しみの中で、私達も叫んでよい。その声を必ず聞いてくださる方がいるから。
●21日(土)
【旧約聖書】
主の中の主に感謝せよ。ただひとり、驚くべき大きな御業を行う方に感謝せよ。慈しみはとこしえに。詩編 136編3、4節
【新約聖書】
群衆は、フィリポの行うしるしを見聞きしていたので、こぞってその話に聞き入った。町の人々は大変喜んだ。使徒言行録 8章6、8節
今日の新約聖書のみ言葉を読んで私はちょっと物足りないなと思ってしまった。それは、人々が、信じる者とならなかったから。フィリポの徴はイエス様の力だ。イエス様がなされた驚くべき大きな御業と言ってもよい。それなのに信じないなんて、何て不信仰なんだと思ってしまった。
でも、旧約聖書は、不思議と信じることを求めていないことに気づかされた。そこではどこまでも感謝することが求められている。群衆はきっと不思議なしるしを通して喜び、感謝したことだろう。その感謝は当然、フィリポの背後にいるイエス様に向けられたはず。その感謝はいつか、人々を信じる者へと変えていくのだ。
●22日(日)
三位一体後第1主日
【主日早天礼拝】
藤森 誠 牧師
【主日礼拝】
藤森 誠 牧師
●23日(月)
【旧約聖書】
主はすべてのものに恵みを与え、造られたすべてのものを憐れんでくださいます。詩編 145編9節
【新約聖書】
被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。ローマの信徒への手紙 8章21節
神様はどうして私を愛してくださるのか、ずっとそんな疑問が心の片隅にあった。神様に愛してもらえるはずのない私なのにとの思いがくすぶっていたのだ。でも、今日のみ言葉がそのことを明らかにしてくれた。それは、神様が私を造られたという一点によっている。私の努力も、私の才能も関係がない。
全ては神様の中で完結している。そこに私が関わる余地は一切ない。でも、それでいい。いや、それがいい。だって私が関わることで神様の思いが変わってしまうのであれば、それは絶対に悪い方にしか進まないから。だから、ただ、神様の憐れみを受け取る者でありたい。
●24日(火)
【旧約聖書】
心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば、主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。箴言 3章5~6節
【新約聖書】
はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。ヨハネによる福音書 21章18節
御言葉はどこまでも神様に信頼して、自分の判断に頼らずに歩めと言われる。そうできたらと思うけれども、でも、自分の思いを捨てられないでいる。一体どうしたらいいんだろう?
新約聖書は、若い時は行きたいところへ行ったという。しかし、年をとると行きたくない所へ連れていかれるのだと。もちろん、若い頃はできなくて、年をとったらできるなんて単純な話ではないだろう。いや、これってもしかして、イエス様と出会う前と出会った後の話なのかもしれない。私達は行きたくない所へと向かわせられる。でも、それは、神の栄光が表される場所だ。そこにも神様が共にいてくださいますように。
●25日(水)
【旧約聖書】
遠方からも人々が来て、主の神殿の建築に携わる。ゼカリヤ書 6章15節
【新約聖書】
すべての国民が、来て、あなたの前にひれ伏すでしょう。あなたの正しい裁きが、明らかになったからです。ヨハネの黙示録 15章4節
ゼカリヤの語る神殿の建築は、エルサレムの街にあった神殿とは違う神殿のことを預言しているように思える。それは、イエス様のことを指しているのではないだろうか。イエス様は、3日で神殿を建て直してみせると言われた。それは、ご自分の体のことであり、復活の予告であられた。そうであるとすれば、神殿の建築とは、イエス様が成し遂げられた救いの御業そのものなのかも。
その御業は、裁きの時に明らかになる。私も赦されているという出来事を通してだ。だからこそ全ての人が神様にひれ伏すのだ。その神殿の建築に携わるとは、イエス様の救いを宣べ伝えることかも。私もその一人に加えられている。
●26日(木)
【旧約聖書】
民をわたしのもとに集めなさい。わたしの言葉を彼らに聞かせ、彼らが地上に生きる限り、わたしを畏れることを学び、またそれを子らに教えることができるようにしよう。申命記 4章10節
【新約聖書】
だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。テモテへの手紙二 3章14~15節
聖書の言葉は、神様が当時の人たちに語った言葉だ。しかし、それが何千年も経った私達を生かす言葉となっている。それは、神様の言葉を聞いた人たちが、ずっと語り伝えてきたからに他ならない。この言葉にこそ、神様の思いと約束が詰まっているからと語り継がれてきたのだ。
しかし、それとは異なる道へと私達を連れて行こうとする言葉がある。そちらに行ってはいけないと、神様は告げておられる。あなたたちは、最後、イエス様に結ばれて信じる者とされたはずだ。その教え、救いの言葉から離れてはいけないよと。私達も惑わされないようにしよう。いつだって、私達を導くのは聖書の言葉だ。
●27日(金)
【旧約聖書】
主は命を絶ち、また命を与え、陰府に下し、また引き上げてくださる。サムエル記上 2章6節
【新約聖書】
生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。ローマの信徒への手紙 14章8節
私は決まって朝に祈ることがある。それは、「この日、生かされた者として、与えられた務めを成し遂げることができますように」である。今日、私が生きているということは神様が私になさせたい何かがあるからに違いないと思うからだ。
神様は人を生かすことも、殺すこともおできになる。だからこそ、私達は生きるのも神様の許しの中にあるのであり、死ぬのも神様の許しの中にあるのだ。神様の許可なしには、私達は生きることも死ぬこともできやしない。だからこそ、私たち自身とは神様のものであると聖書はいう。この日、あなたが私になさせたいと願われる事を、私が成し遂げられますように。
●28日(土)
【旧約聖書】
弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する。イザヤ書 11章4節
【新約聖書】
イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」マタイによる福音書 11章4~5節
今日の旧約聖書のみ言葉は、クリスマスによく読まれるイエス様についての預言の言葉だ。だから、裁きを行い、弁護するのはイエス様ということ。それが分かったら、新約聖書の言葉もよくわかるのかも。
ヨハネは弟子たちを遣わして、イエス様が救い主かどうかを質問させた。イエス様は言われる。さぁ、見よ。病の人たちはみな癒され、死者は復活し、貧しい人に福音が届けられている様を、と。これこそまさに、旧約聖書が語り伝えてきた救い主の徴ではないかと。しかし、イエス様は直接には答えられない。その判断は見た者、聞いた者に委ねられる。私はどうお答えしよう。
●29日(日)
三位一体後第2主日
【主日早天礼拝】
眞木 重郎 兄
【主日礼拝】
眞木 重郎 兄
●30日(月)
【旧約聖書】
なぜ、労苦する者に光を賜り、悩み嘆く者を生かしておかれるのか。彼らは死を待っているが、死は来ない。ヨブ記 3章20~21節
【新約聖書】
あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです。ヤコブの手紙 5章11節
苦しみの中にもたらされる光、それは嘆くものにとって喜びとなるものだと思っていた。だがヨブは、光ではなく、死が欲しいという。一体、その絶望はどれほど深いのだろうか。しかし、ヨブは自ら命を絶つことはしなかった。必死に神様に死を願いながらも、忍耐をもって、問いかけ続けたのだ。そして最後、神様の言葉をいただいた。
神様は最後までヨブと向き合われた。そして、最後にヨブが望んだ神との対話を実現された。そして、ヨブは神様の赦しをいただいたのだ。これこそ、ヨブが受け取った恵みであろう。神様は必ず答えてくださる。それこそが私達にとっても、最大の希望である。