2025年5月の『日々の聖句』

この日々の聖句は、聖書箇所を「ヘルンフート兄弟団『日々の聖句2025』(べテスダ奉仕女の家)」からいただきました。
聖書の本文は、日本聖書協会が発行している『聖書新共同訳』から転記しています。
『聖書新共同訳』:(c)共同訳聖書実行委員会(c)日本聖書協会、1987,1988。

●1日(木)

【旧約聖書】
その御業はまこと、その道は正しく、驕る者を倒される。ダニエル書 4章34節
【新約聖書】
百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。マルコによる福音書 15章39節

 旧約聖書の言葉は誰の言葉なのかな?と思って聖書を開いてみたら、バビロニア帝国の皇帝であるネブカドネツァルの言葉だった。新約聖書もローマ帝国の兵隊である百人隊長の言葉だ。神様は、信じる者たちにとってだけ、神様であられるのではなく、この世界に住む全ての人にとって神だということなのだ。
 そして、ご自分の御業を秘密にはしておかれない。神様の業を見た人は、本当は皆、その先におられる神様を意識せずにはおられないのではないだろうか。私はどうだろう?この日、もう一度、神様の御業を見詰めよう。私達のために神様は働いて下さるのだから。

●2日(金)

【旧約聖書】
(主の言葉)(私は)あなたを見放すことも、見捨てることもない。ヨシュア記 1章5節
【新約聖書】
そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。マタイによる福音書 3章16節

 神様はあなたを見捨てることは無いと言われる。イエス様も世の終わりまであなた方と共にいると言われた。でも私達は、神様もイエス様もそのお姿を見ることはできない。そうであるならば、どうやって神様が共におられることが分かるのだろう?
 実はそれをイエス様が体験してくださっている。それは、神の霊が降って来るという出来事だ。神様は私達と聖霊を通して共におられるということ。それも、イエス様が洗礼を受けられたときに、聖霊が与えられた。私達も、洗礼を受けたあの日、確かに聖霊をいただいている。安心して、神様の言葉を受けとろう。

●3日(土)

【旧約聖書】
不当な利益にではなく、あなたの定めに心を傾けるようにしてください。詩編 119編36節
【新約聖書】
あなた自身、良い行いの模範となりなさい。教えるときには、清廉で品位を保ち、非難の余地のない健全な言葉を語りなさい。そうすれば、敵対者は、わたしたちについて何の悪口も言うことができず、恥じ入るでしょう。テトスへの手紙 2章7~8節

 何だか今日のみ言葉も不思議だ。旧約聖書は、利益を追い求めるよりも定めを追い求めることを願っている。一方、新約聖書も求めることは同じかもしれないが、それは、敵対者が悪口を言うことができないためという。結果的にそうなるというよりも、非難されないようにそうしなさいと言われているからだ。
 でも本当は、悪事を働いて得られる利益よりも、神様の定めに従って得られる利益の方が良い物だと分かっている。だから、そちらに心を傾ける者でありたいと願う。それがひいては、良き模範であり、非難されるところの無いものへと変えていただけることとなるのだから。

●4日(日)

復活後第2主日(主のあわれみ)
【主日早天礼拝】
  藤森 誠 牧師
【主日礼拝】
  藤森 誠 牧師

●5日(月)

【旧約聖書】
主は、決して、あなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんでくださる。哀歌 3章31~32節
【新約聖書】
父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚いた。すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。ルカによる福音書 1章63~64節

 ザカリアは神様の約束を信じることができなかったがゆえに、しゃべることができずにいた。しかし、神様の約束が実現したとき、彼の口は開かれ、神を賛美する者とされたのだ。
 神様の与える懲らしめは、永久に続くものではない。なぜなら、その懲らしめにさえ、意味があるからだ。そして、その意味を私達が理解する時、神様の憐れみが何倍にもなって与えられる。でも、いつその懲らしめが終わるかはわからない。だから、私達には忍耐もまた必要だ。しかし、そこには、神様はいつまでも捨て置かれないという希望がある。その希望を信じて、この日も、神様と共に歩みだそう。

●6日(火)

【旧約聖書】
遠くにいる者よ、わたしの成し遂げたことを聞け。近くにいる者よ、わたしの力強い業を知れ。イザヤ書 33章13節
【新約聖書】
イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。ヨハネによる福音書 11章40節

 神様のなされることは得てして、私達の常識をはるかに超える。病を癒したり、食べ物の無い所から食べ物を与えたり、さらには死んだ人間をさえ復活させるお方だ。だから、神様が何かを成し遂げられたとき、人々はその御業を語らずにはいられないのではないだろうか。
 今を生きる私達の所はどうだろう?神様の御業はあまり伝わってきていないように思える。でも、それは私達が神様の御業に気づけていないだけなのかも。だって、イエス様を信じる者たちが生まれ続けているという現実は、まさに神様の御業そのものなのだから。さぁ、この日も、神様の御業を語り伝えよう。

●7日(水)

【旧約聖書】
わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。「ここまでは来てもよいが越えてはならない。高ぶる波をここでとどめよ」と命じた。ヨブ記 38章4、11節
【新約聖書】
イエスは起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。人々は驚いて、「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言った。マタイによる福音書 8章26~27節

 旧約聖書の高ぶる波とは、文字通りに自然現象の波だと思った。神様は世界を創造されたお方だから、波にも言うことを聞かせることができると思ったからだ。しかし、別の日本語訳の聖書には、 “あなたの高ぶる波”と記されていた。この波とは、自然の波ではなく、私達の心の思いなのかもしれない。
 ヨブは、この時、神様に怒られている。でも、神様は、その波が「ここまでは来ても良い」という。それって神様に思いをぶつけることは許されているということなのかも。でもそこを超えてはならないと言われる。その先は、神様がお決めになることだから。最善がなされると信じよう。

●8日(木)

【旧約聖書】
主は契約を告げ示し、あなたたちが行うべきことを命じられた。それが十戒である。主はそれを二枚の石の板に書き記された。申命記 4章13節
【新約聖書】
(イエスの言葉)私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。マタイによる福音書 5章17節

 イエス様は、神様が与えられた約束や掟は、廃止されるのではなくて、完成されるのだと告げられた。それは、人々が与えられた掟の上辺だけに従っていたから。なぜ、それをしなければならないのかという部分が軽んじられていたのだ。だから、イエス様が、どうして神様がその掟を与えられたのかを告げ知らされたのだ。
 今を生きる私達にとっても、神様の掟は廃止されていない。新約の時代に生きる私達も、旧約の時代に結ばれた十戒は有効な掟である。それは何千年も経った今の時代も、人間の自己中心は変わっていないから。神様が与えてくださる掟の先に私達の最善があるのだ。

●9日(金)

【旧約聖書】
それなのに、あなたの同胞は言っている。『主の道は正しくない』と。しかし正しくないのは彼らの道である。エゼキエル書 33章17節
【新約聖書】
神に不義があるのか。決してそうではない。ローマの信徒への手紙 9章14節

 神様に対して、なんて、恐れ多いことを言うのかと思った。私はそんなこと言いはしないと。でも、もしかしたら、私も同じことを言っているのかもと思った。それは、神様がこっちに行けと言われた時に、私はそっちに行きたくありませんと答えるのは、同じことなのかもと思ったから。
 なぜなら、そこにはきっと、別に行きたい道がある。だから、神様の言葉に逆らってしまうんじゃないだろうか。その先に死が待っているとしてもだ。自分の力では方向転換できない私だからこそ、神様の助けが必要だ。この朝、改めて言おう。「神様の最善の道を歩むことができるよう、私をお助け下さい」と。

●10日(土)

【旧約聖書】
わたしはただ近くにいる神なのか、と主は言われる。わたしは遠くからの神ではないのか。エレミヤ書 23章23節
【新約聖書】
三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味である。マルコによる福音書 15章34節

 何だか今日のみ言葉は怖いことが宣言されているように思えた。神様は私を愛して、守ってくださるのではないのですかと言いたくなる。しかし、だ。神様は、悪事を水に流すということはされないお方。だから、悪事には裁きが与えられる。私達は誰しもが神様からの裁きを免れることはできないのだ。
 しかし、その裁きを私の代わりに受けてくださった方がおられる。それこそがイエス様。イエス様の叫びは、本当は私の叫びであった。でも、私達は自分の罪を知るからこそ、何故と問うこともできないはずだった。しかし、イエス様の十字架によって、私達は裁きを免れたのだ。感謝。

●11日(日)

復活後第3主日(よろこべ)
【主日早天礼拝】
  藤森 誠 牧師
【主日礼拝】
  藤森 誠 牧師

●12日(月)

【旧約聖書】
わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。エレミヤ書 29章14節
【新約聖書】
そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからである。イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」マタイによる福音書 9章20~22節

 今日のみ言葉を最初に読んで、「そうか、懸命に神様を求めれば、病が癒されるのか」と考えた。でも、待てよと思った。だって、懸命に求めているのに、病が癒されていない人たちが大勢いるからだ。その人たちの求めが足りないからなんて、とても言えない。みんな必死に願っている。
 では、今日のみ言葉は何を伝えたいのだろう?それは、私に出会うと神様が語られたことだ。本当に大切なことは、私達が神様とイエス様と出会うことだ。なぜなら、この方たちは、私のことを私以上に大切に思ってくださるからだ。その方が私のことを思ってくださるならば、病の中に居たとしても安心できるのだから。

●13日(火)

【旧約聖書】
仰せを受けてわたしは喜びます。多くの戦利品を得たかのように。詩編 119編162節
【新約聖書】
天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。マタイによる福音書 13章44節

 神様の言葉が、価値が高いということは頭では分かっている。でも、実際に私はそこまで喜んで神様の言葉を受け取っているだろうか。しかし、改めて考えてみれば、世界を造った王であり、神である方が私に語り掛けてくださるなんて、恐れ多いことだ。そもそも、憶えられているということさえ、あり得ないこと。それなのに、私に向けて語り掛けてくださっている。
 もしかしたら、聖書からの言葉が当たり前になってしまう時、その価値は分からなくなってしまうんじゃないだろうか。この朝、改めて、受け取りなおそう。神様の言葉は、私にとって最も大切な贈り物ですと。

●14日(水)

【旧約聖書】
曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうともあなたはそこにもいまし、御手をもってわたしを導き、右の御手をもってわたしをとらえてくださる。詩編 139編 9~10節
【新約聖書】
(パウロの言葉)わたしが仕え、礼拝している神からの天使が昨夜わたしのそばに立って、こう言われました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』使徒言行録 27章23~24節

 パウロは今、絶体絶命のピンチの中にいる。でも、パウロはあきらめない。その根拠は神様の言葉が天使を通して伝えられたからだ。絶望の中で、さぁ立ち上がれとの神様の声が聞こえる。
 でも、神様は、一人で頑張れとは言われない。必ず、共にいて支えてくださるお方だ。赤ちゃんは、いきなり歩き始めることは無く、つかまり立ちを覚えた後に、一歩一歩と歩き始める。私達も立ち上がる時には、支えが必要なんだ。それも特に弱ってしまっている時には。その支えを必ず、神様は与えてくださる。それは、時に、み言葉であり、歌であり、家族や友人の支えであり、天使を通してだ。安心してこの道を行こう。

●15日(木)

【旧約聖書】
打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。詩編 51編19節
【新約聖書】
ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、…」ルカによる福音書 18章 13~14節

 神様はどうも私達の心を見ておられる。私達の心が欲しいようだ。だって、たくさん献金も奉仕もした人は、義と認められなかったから。神様はどうして行いよりも、心を求められるのかな?
 もしかしたらと思った。それは、神様は私達との関係を大事にされるからかも。色々なことができても、嫌々共にいるよりも、たとえ何もできなくても、喜んで傍にいてくれることを望んでおられるんじゃないかな。私が神様にできることって本当に小さいこと。だからこそ、神様は行いよりも、私の心を喜んでくださるのだ。でも、行いも忘れてはいけない。神様を思う心は神様のためにと行動へとつながるはずだから。

●16日(金)

【旧約聖書】
わたしは主を待ち望む。主は御顔をヤコブの家に隠しておられるが、なおわたしは、彼に望みをかける。イザヤ書 8章17節
【新約聖書】
彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。ローマの信徒への手紙 9章4節

 神様は、イスラエルに怒られ、顔を隠してしまわれた。それは、神様の祝福が途絶されたことを意味する。しかしイザヤは、なお、神様に望みをかけるという。一体どうしてなのだろうか。
 新約聖書は語っている。なぜなら、イスラエルは神の子として、約束や契約をいただいているからだと。イザヤは、神様がダビデと結ばれた絶対的な幸いの約束を信じている。それがゆえに、彼は希望を持つのだ。そして実際に神様は、その希望に応えられた。この後、イザヤは、救い主の預言を受け取るのだ。私達もイエス様を通して、神の子としての契約をいただいている。だから、たとえ困難な中でも神様を待ち望もう。

●17日(土)

【旧約聖書】
主の慈しみは世々とこしえに、主を畏れる人の上にあり、恵みの御業は子らの子らに、主の契約を守る人、命令を心に留めて行う人に及ぶ。詩編 103編 17~18節
【新約聖書】
あなたは忍耐についてのわたしの言葉を守った。それゆえ、地上に住む人々を試すため全世界に来ようとしている試練の時に、わたしもあなたを守ろう。ヨハネの黙示録 3章10節

 神様から、お前はよくやったと褒めてもらえるこの人を羨ましいなと思った。試練の時に、守ってもらえるなんて、羨ましいと。だって、私は神様のみ言葉に従えないとわかっているから。だから、きっと私は守ってもらえないんだと。
 でも、み言葉は、いつだって、神様の戒めを守るようにと伝えている。しなくていいなんて一言も言っていない。もしかしたら、私はいつの間にか、できないことを言い訳にして、やらないでいはしないだろうか?それはきっと失敗だらけの歩みかもしれないけれども、でも、み言葉に生きてみよう。神様は慈しみ深い方だから、その私のことを喜んでくださるに違いない。

●18日(日)

復活後第4主日(うたえ)
【主日早天礼拝】
  藤森 誠 牧師
【主日礼拝】
  藤森 誠 牧師

●19日(月)

【旧約聖書】
わたしたちには、…何をなすべきか分からず、ただあなたを仰ぐことしかできません。歴代誌下 20章12節
【新約聖書】
(イエスは)彼ら(72人の弟子たち)に言われた。「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。」ルカによる福音書 10章2、5節

 「困った時の神頼み」という言葉がある。神様に頼ろうとするとき、いつもこの言葉が私の心を邪魔していて、素直に頼ることができないでいる。旧約聖書の言葉も、絶体絶命の危機の中で、神様にすがりついた言葉だ。しかし、神様はこの願いにきちんと答えてくださった。それも、あなたたちはただ、「主があなたたちを救うのを見よ」と言われる。絶対的な神様 の助けがある。
 だからこそ、私達は神様を思う時に、平和が与えられるのだ。それは神様から与えられる安らぎと言ってもいいのかも。たとえ何があろうとも神様が助けてくださると信じるならば、私達はどこに居ても、神様の平和の内にあるんだ。

●20日(火)

【旧約聖書】
主はこう言われる。わたしはあなたの祈りを聞き、涙を見た。見よ、わたしはあなたをいやし、三日目にあなたは主の神殿に上れるだろう。列王記下 20章5節
【新約聖書】
役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言った。イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。ヨハネによる福音書 4章49~51節

 神様は、私達の願いを込めた祈りを聞いていてくださる。旧約聖書では、神様の言葉を告げたイザヤがその建物を出る前に新たな神様の言葉が届けられた程だ。神様は私達の行いを見ておられ、祈りに耳を傾けてくださるお方なのだ。
 イエス様もまた、役人の必死の願いを無下には扱われなかった。「あなたたちはしるしを見なければ信じない」と厳しい言葉を残しつつも、しかし、最後には憐れみの内においてくださる方だ。その出来事を通して、役人と家族皆が、イエス様を信じる者とされた。理由がどうあれ、私達が必死に助けを求める声を聞いてくださるのだ。さぁ、この日も神様を頼って歩もう。

●21日(水)

【旧約聖書】
シオンよ、恐れるな。力なく手を垂れるな。お前の主なる神はお前のただ中におられ、勇士であって勝利を与えられる。ゼファニヤ書 3章16~17節
【新約聖書】
疑いを抱いている人たちを憐れみなさい。ユダの手紙 22節

 何に疑いを抱いているのかなと調べてみたら、どうやら、何が真理であって、誰が救い主であるのかと疑問を抱いている人たちのようだ。それは、周りに偽教師たちの教えと、聖書の教えとどちらが正しいか迷っている状況のようである。また、単に聖書の教えが本当かとの疑いもあるだろう。それって私も抱える疑いかも。
 聖書はその人を憐れみなさいと勧める。否定したり、戒めたりはしないんだ。それは、疑っているだけなら、まだ立ち帰ることができるから。本当の勝利を与えるお方は私達と共におられる神様だけなのだと、憐れみを持って伝えよう。そして再び信じる者としていただくのだ。

●22日(木)

【旧約聖書】
どうか、虐げられた人が再び辱められることなく…。詩編 74編21節
【新約聖書】
女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。マタイによる福音書 15章25~28節

 異邦人の女性がイエス様に助けを求めた。しかし、イエス様は、私は異邦人のためには遣わされていないという。でも、女性は諦めきれなかった。自分のためだったら諦めたかもしれない。でも、病にあったのは我が子だったからだ。
 女性の答えはとても秀逸である。でも、イエス様は、答えそのものよりも、彼女の思いを見てくださったのではないだろうか。子どもためにと必死に、知恵を働かせる彼女を見て、願いを叶えてくださったのだ。旧約聖書の言葉には続きがある。「御名を賛美することができますように」だ。イエス様の御業も、私達が、このお方を信じ、神様をあがめるためになされる業なのだ。

●23日(金)

【旧約聖書】
見よ、わたしは彼らを北の国から連れ戻し、地の果てから呼び集める。その中には目の見えない人も、歩けない人も、身ごもっている女も、臨月の女も共にいる。彼らは大いなる会衆となって帰って来る。エレミヤ書 31章8節
【新約聖書】
すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』ルカによる福音書 14章21節

 神様の国は、人々で一杯である。それは、何より、神様ご自身が人々を集めるから。でも、そうだとしたら、私はそこに入れてもらえるかな?だってそこに入れるのは、きっと、優れた人、信仰に篤い人たちが優先されて、ダメダメな私は順番が後になってしまいそうだからだ。
 でも、聖書はそうは語っていない。むしろ神様が集められるのは、周りの人からあいつはダメだと言われ、虐げられている人たちばっかりじゃないか。でもどうしてかな?と思って聖書を開いたら、その人たちは、主人の招待に喜んで応じたからだ。理由を付けた人たちは入りそこなっている。その招待を私達は喜んで受け取ろう。

●24日(土)

【旧約聖書】
まことにあなただけがすべての人の心をご存じです。列王記上 8章39節
【新約聖書】
イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと…。ヨハネによる福音書 1章47~48節

 神様は私の心の隅々までを知っておられるとは、なんて恐ろしいことかと思っていた。だって、神様の前では何も隠せないということだから。でも、今日、改めて思った。それってつまり、神様の前では、自分を隠すことも、取り繕うことも意味がないのかもと。少なくとも神様の前では、威勢を張って生きなくていいということだ。
 それは、とても心地よい場所ではないだろうか。私のありのままを知っておられる方は、それでもなお、あなたを愛しているよと語ってくださるお方だから。さぁ、この日も、神様の前に私の全てをさらけ出そう。神様の前ではそれが許されるのだから。

●25日(日)

復活後第5主日(いのれ)
【主日早天礼拝】
  眞木 重郎 兄
【主日礼拝】
  眞木 重郎 兄

●26日(月)

【旧約聖書】
武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって、と万軍の主は言われる。ゼカリヤ書 4章6節
【新約聖書】
天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」。ルカによる福音書 1章35節

 神様はあらゆる力を持っている。だから、ご自分の力を発揮するだけで物事は完結する。しかし、この時、神様は預言者ゼカリヤに語られた。私は一切の力を用いず、ただわが霊によってと。神様は一体何をなされるのかなと思ったら、どうやら、それは人間を救うということのようだ。力も権力もなしに人間を救うと。
 そして、人間の救いの第一歩が現された。それがイエス様のご降誕の次第である。そこに聖霊が現われ働かれた。イエス様が洗礼を受けられた時にも聖霊が現れた。聖霊とはまさに、神様の力そのものなのだ。その聖霊を私達もいただいている。神様の力に包まれて歩んで行こう。

●27日(火)

【旧約聖書】
神のほかに我らの岩はない。詩編 18編32節
【新約聖書】
わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。コリントの信徒への手紙二 1章9~10節

 私達は日々色々なものに支えられて生きている。困った時に頼れそうなものはたくさんあるのに、どうしてこの詩人は、頼れるのは神様だけと告白できるのだろうか。それはきっと、これまでの人生において、神様との豊かな関係が築かれて来たからに違いない。具体的には語られないけれども、あの苦しみの時も、あの悲しみの時も、あの困難の時も神様は共にい て、支えてくださったという体験を詩人は重ねてきたのだろう。
 パウロもまた、同じであった。だからこそ、彼はこれからも救ってくださるに違いないと確信を持っていうことができるんだ。私はどうかな?神様からの恵みを確認しなきゃ。

●28日(水)

【旧約聖書】
終わりの日に…、国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。イザヤ書 2章2、4節
【新約聖書】
すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。ヘブライ人への手紙 12章14節

 終わりの日に、この世界には、争いや戦いは無くなると聖書は語る。そんな世界になったら、どれほど喜ばしい事だろう。でも、それは、ただ、平和を求めることだけで成り立つものではないらしい。なぜなら、その時、人々は「主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と言い合うからだ。それゆえに、争いは無くなるのである。
 新約聖書も同じことを語る。ただ平和を求めよというのではない。それと同時に、聖なる生活をも求めるように命じている。聖なる生活とはきっと、神様の言葉に従う生活だ。み言葉の先にこそ、まことの平和があるのだろう。

●29日(木)

【旧約聖書】
わたしは国に平安を与え、あなたたちは脅かされることなく安眠することができる。レビ記 26章6節
【新約聖書】
(イエスの言葉)わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。ルカによる福音書 11章20節

 私は、遠足の前の日と、テストの前の日に夜眠れなくなる。両方とも緊張して眠れないという理由は同じだが、その心中は正反対である。遠足の前はあまりにも期待が大きくて、あれをしたい、これをしたいと寝られなくなる。一方、テスト前は、あまりにも心配が大きくて、あれが出たら、これが出たらと寝られなくなる。
 神様は、あなたに平安を与えようと言われる。そうすればあなたを脅かすものは一切なくなるからと。さらにイエス様は、悪霊さえ追い出される。悪魔さえ、神様の守りの中では、私達に手を出せない。だから、私達は何もおそれることはない。安心してこの日も歩んで行こう。

●30日(金)

【旧約聖書】
あなたを避けどころとする者は皆、喜び祝い、とこしえに喜び歌います。詩編 5編 12節
【新約聖書】
それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。使徒言行録 5章41~42節

 何だか新約聖書のこの箇所だけを切り抜くと、キリスト者は変な集団だと思われてしまわないだろうか。彼らは、辱めそのものを喜んだのではなく、迫害を受けるほど重視される存在とされたことを喜んだのである。彼らは、しかし、迫害されることを恐れず、絶えず、福音を告げ知らせていた。
 詩人は、神様を避けどころとする者は、とこしえに歌うとある。もしかしたら、それは、神様の助けをいただけるからであり、また、神様を避けどころとしない者は、いずれ滅びに会うからなのかもしれない。私達が本当に恐れ、頼りにするのはたったお一人の方だけである。

●31日(土)

【旧約聖書】
憐れみ深く、貸し与える人は良い人。裁きのとき、彼の言葉は支えられる。詩編 112編5節
【新約聖書】
善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように。真の命を得るために、未来に備えて自分のために堅固な基礎を築くようにと。テモテへの手紙一 6章18~19節

 今日の聖書は新旧両方とも、他者に憐れみ深く与えよと命じている。もちろんそれは大切なことと思うけど、よくよく聖書を読んだらそれは、言葉が支えられるためであり、真の命を得るためと書いてあるではないか。つまり、それらの行いは、私の利益のためであると言うのである。
 聖書は、自分の利益を無視して行動せよとは言わない。私の行いには、相手に利益を与えるだけでなく、私にも利益があると言うのだ。つまりやればやる程、両者がお得だということになるのかも。一方が得して、片方が損をするのではなく、両方が得をするのだから。さぁ、早速この朝から始めよう。真の命をいただくために。

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