2025年4月の『日々の聖句』
この日々の聖句は、聖書箇所を「ヘルンフート兄弟団『日々の聖句2025』(べテスダ奉仕女の家)」からいただきました。
聖書の本文は、日本聖書協会が発行している『聖書新共同訳』から転記しています。
『聖書新共同訳』:(c)共同訳聖書実行委員会(c)日本聖書協会、1987,1988。
●1日(火)
【旧約聖書】
(主は)虐げられている人のために裁きをし、飢えている人にパンをお与えになる。詩編 146編7節
【新約聖書】
種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。コリントの信徒への手紙二 9章10節
新約聖書のみ言葉は何を語ろうとしているのかな?と思って聖書を開いたら、献金に関する部分だった。今日のみ言葉は、神様は種蒔く人の種を与えてくださると言う。私は、自分が手に入れた種を献げる事によって、パンという実りが与えられるのだと思っていた。でも、どうやら違うらしい。私達の献げる種も、与えられるパンもすべては、神様が私達にくださるものなんだ。
そうか、献金って、神様からいただいたものをお返しすることなんだ。だから、私の手の中にあるものが減っても心配はない。なぜなら、神様は私達が献げた以上に増し加えて、私達に与え返してくださる方なのだから。
●2日(水)
【旧約聖書】
子は父を、僕は主人を敬うものだ。しかし、わたしが父であるなら、わたしに対する尊敬はどこにあるのか。マラキ書 1章6節
【新約聖書】
わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。コリントの信徒への手紙二 1章3節
最近、家庭で父親の威厳や尊厳が失われていると聞いたことがある。さぁ、このみ言葉をもって、父の威厳を取り戻そう…としては、もちろんダメだ。なぜなら、聖書は他者に振りかざす言葉ではなくて、私自身に語られている言葉だからだ。だからここで、問われているのは、私は子として、父を敬っているかという点だ。
私達は肉親としての父母と、創造主としての父が居る。そして、そのどちらもが私達にとって、かけがえの無い存在だ。神様への尊敬はどのようにして表したらいいだろう。それは、ひとえに神様を褒めたたえることだ。私も神様の子とされた御業をいただいたのだから。
●3日(木)
【旧約聖書】
まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて、無用の水溜めを掘った。水をためることのできない、こわれた水溜めを。エレミヤ書 2章13節
【新約聖書】
(イエスの言葉)わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。ヨハネによる福音書 4章14節
人間にとって、水は無くてはならないものである。食事はしばらく取らずとも生きられるが、水を飲めなくなるとあっという間に死んでしまう。そんなこと常識なはずなのに、真の水を与えてくださる方を捨て去ったと神様は指摘される。でも、イスラエルの人たちはなお、水が必要だからと、他所へ行って水を飲もうとする。
イエス様は、その真の水を与えようと言われる。それも、飲む者は決して渇くことの無い水をだ。だから、私の所においでと言われる。大切なのは水そのものというよりも、それを与えることができるお方自身なのだ。その方のそばにいることこそ、私達の安心である。
●4日(金)
【旧約聖書】
主は再び我らを憐れみ、我らの咎を抑え、すべての罪を海の深みに投げ込まれる。ミカ書 7章19節
【新約聖書】
自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。ヨハネの手紙一 1章9節
聖書の神様は、厳しいお方であると同時に憐れみを持っておられる方である。それゆえに、神様は、私達の罪を赦してくださる方だ。でも、私は、悪いことをした人が、何のお咎めもなく赦されるなんて、それが神様の正しさなのと思ってしまった。悪い事をしたならば、相応の償いを受けてもらわないと気が済まないじゃないかと。
でも、神様の赦しには、きちんと償いが伴っているのだ。それは、イエス様が一身に引き受けてくださった。十字架の出来事のゆえにだ。だから、あと必要なのは、私の告白である。自らの罪を見詰め、神様にお詫びすること。そこから赦しの生活は始まるのだから。
●5日(土)
【旧約聖書】
主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高めてくださる。サムエル記上 2章7節
【新約聖書】
わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。ローマの信徒への手紙 12章3節
神様は、私達を貧しくすることも、富ませることも自由にできるお方だ。すべては神様からのいただきものと言うこと。だからこそ、新約聖書は、自分を過大評価することなく、慎み深く評価しなさいと言われる。それは、私達ができることも、できないことも、神様によって与えられているものだからだ。
では、私達はどう生きるのがいいのだろう。それは、なぜ、私にこの恵みが与えられているのかをよく考え、それを生かすことではないだろうか。だって、神様は私達にその恵みを使ってほしくて与えてくださったのだから。そうすればきっと慎み深くあれるはず。
●6日(日)
受難節第5主日
【主日早天礼拝】
藤森 誠 牧師
【主日礼拝】
藤森 誠 牧師
●7日(月)
【旧約聖書】
主はすべて虐げられている人のために、恵みの御業と裁きを行われる。詩編 103編6節
【新約聖書】
人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。ヤコブの手紙 4章17節
私達はつい自分のことになると棚に上げてしまいやすいのかもしれない。もし、神様が私を助けてくださらないとしたら、私はどうしてですかと文句を言ってしまう。じゃぁ、私は誰かに助けを求められたときに、その声に応えているだろうか?そうできていない時の方が多いだろう。それなのに、神様には文句をいい、自分のことは仕方ないと正当化する。それもまた罪なのかも。
だから、聖書はそれを指摘する。なすべき善を知りながら行わないことは、罪なのだと。だって、神様は、私のためにも恵みの御業と裁きをしてくださるのだから。だから、私も一歩進んで、神様に仕える者となろう。
●8日(火)
【旧約聖書】
あなたたちの神、主は恵みと憐れみに満ちておられ、そのもとにあなたたちが立ち帰るなら、御顔を背けられることはない。歴代誌下 30章9節
【新約聖書】
しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。ルカによる福音書 22章32節
神様は立ち帰るならば、赦してくださるという。頭では分かっているのに、気づいたら、そこから離れて行ってしまうのはどうしてなんだろう?と思う。そして、どうやったら、ずっと神様と共に居られるのだろう?
イエス様は、ペトロに信仰が無くならないように祈ったと言われた。私達の信仰はすぐに消えてしまいそうになるのかも。でも、イエス様が祈ってくださるからこそ、私達はギリギリの所で、神様へと立ち帰ることができるんだ。きっと、同じように信仰が無くなりそうになっている兄弟姉妹が沢山いる。だからこそ、そこから立ち直った私達が励ましてあげなくちゃ。
●9日(水)
【旧約聖書】
主を仰ぎ見る人は光と輝き、辱めに顔を伏せることはない。詩編 34編6節
【新約聖書】
わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。ヨハネによる福音書 13章15節
主を仰ぎ見る人ってどんな人だろうかと思って、聖書を開いた。そうしたら、神様に求め訴えかけた人のことを言っているようだ。そうであるならば、私も神様に求め訴える一人だ。でも、光と輝き、顔を伏せることは本当にないのかな?
イエス様は、私達の模範となられたという。それは、私達がこれからどのように生きるべきかを、イエス様ご自身が先に示してくださったということ。私達の救いがイエス様にかかっているのだとしたら、イエス様を仰ぎ見る人こそ、その期待に答えてもらえる人となるのかもしれない。それはこの方こそ、希望と光そのもののお方なのだから。
●10日(木)
【旧約聖書】
勢いと力は御手の中にあり、またその御手をもっていかなるものでも大いなる者、力ある者となさることができる。歴代誌上 29章12節
【新約聖書】
神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。ペトロの手紙一 5章6節
私達は誰しもが神様の御手の下にいる。だから本当は、神様はこうしようと考えられたことを何でも自由に叶えることができる。力ある者が力を持っているのは、神様がそれを許しておられるからなんだ。
その神様の前で私達はどのようにして自分を誇ることができるだろう?私の全ては、神様の許可の下でこそ実現しているのだから。神様は与える方であると同時に、奪う方でもある。だからこそ、私達は神様の前で自らを低くせよと言われている。そうしないと今持っている分まで奪われてしまうかも。必ず、神様が必要な時に力を与えてくださると信じて低くいよう。
●11日(金)
【旧約聖書】
あなたの主権はとこしえの主権、あなたの統治は代々に。詩編 145編13節
【新約聖書】
また、わたしは、天と地と地の下と海にいるすべての被造物、そして、そこにいるあらゆるものがこう言うのを聞いた。「玉座に座っておられる方と小羊とに、賛美、誉れ、栄光、そして権力が、世々限りなくありますように。」ヨハネの黙示録 5章13節
主権とは、「他の意思に支配されない力」のことを指す。こうしようと考えた時、他に邪魔できる者はいないということ。全ての生き物も詩人も神様に、とこしえの主権があるようにと願っている。では、私はどうだろう?
私達は日々主の祈りで、御心が地でも行われますようにと祈っている。でも、その最中、私の思いが優先されるようにとも考えてしまっている。私の思いが優先される時、そこに沢山の躓きと失敗が起こる。一方で、神様の考えを選ぶことができたなら、必ず最善の結果が待っているのだ。本当は考えるまでも無い。でも、そうできないからこそ、助けを祈るんだよね。
●12日(土)
【旧約聖書】
ヨシュアは地にひれ伏して拝し、彼に、「わが主は、この僕に何をお言いつけになるのですか」と言うと…。ヨシュア記 5章14節
【新約聖書】
私が、『主よ、あなたはどなたですか』と申しますと、主は言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起き上がれ。自分の足で立て。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである』。使徒言行録 26章15~16節
ヨシュアも、サウルも神様とイエス様の言葉を直接聞いた人たちだ。だから、いいなぁと思った。だって、神様からの直接の言葉があれば、疑わずに従うことができるのにと。私達の現実は、これは神様からの言葉なのかな?と迷い続ける日々だから。
でも、本当に神様は沈黙しておられるのだろうか?もしかしたら、私が神様の言葉を聞き逃しているだけなのかも。だって、神様はいつだって、ご自分の事を私達に伝えたいと必死のお方だから。だからきっと、私に足りないのは、「私に何を伝えたいのですか?」という祈りなのかも。神様は必ず応えてくださる方なのだから。
●13日(日)
受難節第6主日(棕櫚主日)
【主日早天礼拝】
藤森 誠 牧師
【主日礼拝】
藤森 誠 牧師
●14日(月)
【旧約聖書】
地は主の慈しみに満ちている。詩編 33編5節
【新約聖書】
神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。使徒言行録 14章17節
神様は恵みを注がれるという。確かに私達の周りは様々な物で満たされている。これも確かに神様の恵みだ。でも、と思った。でも、そんな私達の周りには、喜びよりも、悲しみや嘆きの方が多いじゃないかと。果たしてこの地上には主の慈しみが満ちているのかな?
もちろん、そうなのだ。私達は物があふれているから嬉しいんじゃない。それを与えてくださるお方が確かにおられるということを知るからこそ嬉しいんだ。あぁ、神様は確かにおられて、私のためにあれも、これも準備し、私の必要を満たしてくださっていると知る時に、私達の心は喜びで満ちあふれるのだから。
●15日(火)
【旧約聖書】
賢者は恥を受け、打ちのめされ、捕らえられる。見よ、主の言葉を侮っていながら、どんな知恵を持っているというのか。エレミヤ書 8章9節
【新約聖書】
知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。コリントの信徒への手紙一 1章20節
私達はきっと誰しもが賢い者でありたいと願っている。そして、同時に賢くあろうと努力をする。しかし、本当の賢さとはどこにあるんだろうか。聖書で最も知恵ある者と言われたソロモンでさえ、私は力なき者と言った。そして、彼は神様の知恵を求めた。本当の賢さって、神様を抜きにしては考えられないことなのかもしれない。
だからこそ思う。本当の賢さとは神様ご自身の事なのだと。私達は誰も持ちえない物だ。だから、私達は、神様に頼って生きることが肝心なのかも。だって、そこにこそ私の幸せがあるのだから。一番難しいのは、神様の言葉に従って生きること。神様どうか助けてくださいね。
●16日(水)
【旧約聖書】
人の生涯は草のよう。野の花のように咲く。風がその上に吹けば、消えうせ、生えていた所を知る者もなくなる。(しかし)主の慈しみは世々とこしえに。詩編 103編15~17節
【新約聖書】
この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。コリントの信徒への手紙一 15章53節
子どもたちに大人気のアンパンマン。その主題歌の中にこんな歌詞がある。「何のために生まれて、何をして生きるのか。答えられないなんて、そんなのはいやだ」と。
この問いはきっと誰しもが抱える問いだ。確かに、私達が死んで終わりなのだとしたら、この問いに答えを出すことは難しいだろう。でも、もし、その先があるとしたらどうだろうか。 聖書はそのことを語っている。私達は神様と永遠に共に生きるために朽ちない者になるのだと。私達は、神様と共に生きるために生まれた存在なんだ。そのために、私達は一人一人が創り出されたのだ。さぁ、この日も神様と共に歩もう。
●17日(木)
【旧約聖書】
あなたがわたしの右の手を取ってくださるので、常にわたしは御もとにとどまることができる。詩編 73編23節
【新約聖書】
「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。ルカによる福音書 22章42~43節
イエス様は私のために、喜び勇んで十字架に架かってくださったのだと思っていた。だって、イエス様は、何度もご自分の死を予告しておられたし、同時に、復活のことも語っておられたから。だから、そこに恐れはなかったんだと思っていた。
でも、聖書が語るイエス様のお姿は決してそんなことはなかった。最後の最後まで、イエス様は悩まれ苦しまれた。できれば、十字架につきたくないと願っておられた。しかし、それでも、神様がそれを望まれるならばと、決死の覚悟で十字架へと架かられたのだ。でも、神様は、いつだってイエス様を支えてくださっていたことをも聖書は語っている。イエス様、感謝いたします。
●18日(金)
【旧約聖書】
その名は、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。イザヤ書 9章5節
【新約聖書】
つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。コリントの信徒への手紙二 5章19節
【教会の予定】
午後7時から 受難日礼拝
いよいよ、この日が来た。イエス様が十字架に架かられたその日だ。長かった受難の日々もここで決着が着く。神の御子が死ぬという出来事を通してだ。その意味は、まさに、新約聖書のみ言葉が語ってくれているとおりだ。でも、今日の旧約聖書はどうしてここが選ばれたのだろう?このみ言葉は、クリスマスによく聞く言葉だから。
それは、きっとクリスマスの出来事はまさにこの十字架へとつながる道だからだ。救い主が来られた日、その瞬間から、イエス様の歩むべき道は定められていた。その命を持って、私達が神様と和解できるようにするための歩みであられた。この日、この世の光は奪い取られたのだ。
●19日(土)
【旧約聖書】
主は、…わたしを遣わして、…主が恵みをお与えになる年、わたしたちの神が報復される日を告知(するために)イザヤ書 61章1、2節
【新約聖書】
するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。ルカによる福音書 23章43節
神様は、恵みと報復を告げ知らせるために人を遣わしたという。まさに神様の正義の完成と言えるだろう。心配なのは、私は恵まれる方か、報復される方かということ。でも、神様の正しさから見たら、明らかに私は報復される方にいる。
でも、イエス様は、はっきりと言われた。あなたは今日私と一緒に楽園に居ると。それは、まさにイエス様を信じた人への言葉であった。どうか私のことを思い出してくださいと。それは、信仰の言葉であり、助けを求める言葉であったのではないか。そして、イエス様はその思いに答えてくださった。私達の信仰に、必ずイエス様は答えてくださる方だ。
●20日(日)
復活祭(イースター)
【早天祈祷会】
千野 拓也 兄 奨励
【主日礼拝】
藤森 誠 牧師
●21日(月)
【旧約聖書】
あなたたちが心を尽くして主に立ち帰るというなら、あなたたちの中から異教の神々やアシュトレトを取り除き…なさい。サムエル記上 7章3節
【新約聖書】
わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。コリントの信徒への手紙一 8章6節
私達は心のどこかで、神々を信じるということが成立するものだと思っているのかもしれない。それは、日本が八百万の神を信じて来たからなのかも。安産祈願はあの神様、商売繁盛はこの神様、受験祈願はアッチの神様とその目的に応じて、神様を使い分けて来たからだ。だから、聖書の神様にお願いしつつ、別の神様へもお願いに行けてしまうのかも。
でも、聖書の神様はそれを許されない。いつだって神様が語るのは、私が唯一の神であると言うことだ。そして、私に立ち帰れとどこまでも語り続けておられる。だから、神様を信じる私たちは、このお方だけを拝み、お仕えするんだ。
●22日(火)
【旧約聖書】
わたしたちは羊の群れ。道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。イザヤ書 53章6節
【新約聖書】
(キリストは)十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。ペトロの手紙一 2章24節
何だか、今日の旧約聖書の言葉があまりにも理不尽すぎて、腹が立ってきた。どうして、あいつの誤りや罪を、私が背負わなければならないのかと。神様はそんな理不尽を認めるのかと。
でも、もちろん、この罪を背負ったのは私ではなかった。むしろ、私の失敗、私の罪を、神様がこの方に背負わせられたのだ。それは、私達が生きるようにするためだ。そのままでは、罪に押しつぶされて、死ぬしか無いはずの私を助けるために、イエス様は、その身に私の罪を背負って死なれたのだ。私ができることはただ一つ。もう道を誤らないようにと助けを願いながら、神様に感謝して生きることだけだ。
●23日(水)
【旧約聖書】
わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。創世記 17章1節
【新約聖書】
(イエスは)トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。ヨハネによる福音書 20章27節
神様は中々、酷なことを求めるものだと思ってしまった。神様に従って全き者となれだなんて。それができないから、神様の赦しを求めているのにと。でも、新約の言葉を見て、全き者って、私の想像と違うのかもと思った。それは、イエス様が信じる者となれと言われたからだ。
この言葉を告げられた時、アブラハムは、神様の約束を信じられないでいた。子どもを与えると言われたのに、いつまでたっても生まれないから。もしかしたら、神様はそんなアブラハムのことを見抜いておられたのかも。私達が神様に従うためには、まず、神様の言葉を信じる所から始めなきゃ。神様、私を信じる者として下さい。
●24日(木)
【旧約聖書】
わたしの心は御救いに喜び躍り、主に向かって歌います。「主はわたしに報いてくださった」と。詩編 13編6節
【新約聖書】
すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」マルコによる福音書 7章37節
詩人の言葉を聞いて、うらやましいと思った。だって、私の心が喜び躍ることなんて滅多に無いからだ。だから、一体どんな喜ばしいことが起こったのかなと聖書を開いてみた。でも、詩人のおかれた現実は、全く喜ばしくなく、むしろ苦しみそのものであった。問題が解決する兆候さえ見られないほどだ。一方、新約聖書の群衆たちは、癒しの奇跡を前にして喜んでいた。なんと素晴らしいのかと。
でも、群衆は奇跡を見てもイエス様を信じなかった。一方、詩人は現実が変わらずとも、神様が私の声を聞いて下さったと信じているのだ。対照的な二人。さぁ、私はどっちを選ぼう?
●25日(金)
【旧約聖書】
サムエルに乞うた。「どうか黙っていないでください。主が我々をペリシテ人の手から救ってくださるように、我々の神、主に助けを求めて叫んでください。」サムエル記上 7章8節
【新約聖書】
というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです。フィリピの信徒への手紙 1章19節
イスラエルの民は、ペリシテ人の手からの救いを求めて、神様へと立ち帰った。しかし、ペリシテ軍が攻めてくると、途端に弱気になり、預言者サムエルに助けを求めたのだ。でも、この姿って私と同じなのかもと思った。私だって、神様のことを信じ、立ち帰るけれど、でも、ちょっと不安なことが起これば、すぐに助けてと叫んでいる。
でも、イスラエルの民も、私も、そこで神様に向かって叫ぶならば、神様はその声を聞いてくださるんだ。だから、肝心なのは、誰に向かって助けを求めるかだ。神様は、助けを求められても嫌な顔をされないお方だ。だから安心して、この日も神様に助けを求めて、叫ぼうじゃないか。
●26日(土)
【旧約聖書】
銀を愛する者は銀に飽くことなく、富を愛する者は収益に満足しない。コヘレトの言葉 5章9節
【新約聖書】
わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。テモテへの手紙一 6章7~8節
今日の言葉は心に刺さる。最近、老後のためにと、色々な準備を始めたばっかりだからだ。日本人は心配性で、ほとんどの人は、老後のためにと貯めたお金を使い切れずに亡くなる方がとても多いらしい。まさに、聖書が指摘する人間の姿そのものなのかも。どれだけの蓄えがあっても私達はこれで安心と満足できないのだ。
だからこそ、聖書は満足することを知れと語る。蓄えが悪いわけではない。でも、行き過ぎた心配は、私達の体も心をもむしばんでいくからだ。その心配は神様にお預けして、私達は満足し、安心することを得たいと願う。神様、どうかその心を与えてください。
●27日(日)
復活後第1主日(新生)
【主日早天礼拝】
眞木 重郎 兄
【主日礼拝】
眞木 重郎 兄
●28日(月)
【旧約聖書】
わたしの救い、わたしの主よ、すぐにわたしを助けてください。詩編 38編23節
【新約聖書】
イエスはお尋ねになった。「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。ルカによる福音書 18章40~43節
今、私を助けてくださいとの詩人の言葉が私の心の思いと重なった。そうなんだ。私は今、助けて欲しいんだと。「後で」ではダメで、「いつか」なんてもっての外。今、私を助けてくださいと願っているんだ。
イエス様と直接会えた人たちは幸せ者だ。だって、すぐに願いを聞いてもらえたのだから。癒された盲人もそうなんだ。でも、と思う。今を生きる私達はイエス様とお会いできないのだろうか。そんなことは無いはずだ。だってイエス様は生きて今も私達と共にいてくださるのだから。だから、私達は信じて願おう。共におられる主よ、すぐに私を助けてくださいと。
●29日(火)
【旧約聖書】
友を侮ることは罪。貧しい人を憐れむことは幸い。箴言 14章21節
【新約聖書】
自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」。ルカによる福音書 17章10節
新約聖書が語る命じられたことって何なのだろうと思って、聖書を開いたら、隣人への赦しの命令だった。何度でも赦してあげなさいと。そして、イエス様は、「すべきことをしただけです」と言いなさいなんて言われる。もし、私が隣人を赦してあげたなら、きっと、私はそのことを自慢したくなるに違いない。あんなに嫌なことをされたのに私は赦したんですよと。
でも、その思いは、隣人を赦したことよりも、赦した自分が高められることを望む思いなのかも。私達は友を赦す時にさえ、罪に陥る。だからこそ、赦して歩もう。なぜなら、神様が私にそれを命じられているのだから。
●30日(水)
【旧約聖書】
偉大さ、力、光輝、威光、栄光は、主よ、あなたのもの。まことに天と地にあるすべてのものはあなたのもの。歴代誌上 29章11節
【新約聖書】
(神は)秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。エフェソの信徒への手紙 1章9~10節
今この世界において、神様の物でないものは一つもない。きっと誰しもがよくわかっていることだろう。でも、改めて、聖書がそれを語るのはどうしてなんだろうか?それはきっと、私達はすぐにそのことを忘れてしまうからだ。全ては神様の御心によって、救いの業が成し遂げられた所に、神様の偉大さも力も威光もすべてが詰まっているということをだ。
だからこそ、その救いを成し遂げたイエス様の所へと全てのものは一つにまとめられていく。神様がご自分のものを全てイエス様に託されたからだ。私達にとって、私の救い主のもとにいることが何よりの喜びとなるからだ。