2025年2月の『日々の聖句』

この日々の聖句は、聖書箇所を「ヘルンフート兄弟団『日々の聖句2025』(べテスダ奉仕女の家)」からいただきました。
聖書の本文は、日本聖書協会が発行している『聖書新共同訳』から転記しています。
『聖書新共同訳』:(c)共同訳聖書実行委員会(c)日本聖書協会、1987,1988。

●1日(土)

【旧約聖書】
多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。ダニエル書 12章2節
【新約聖書】
キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。ローマの信徒への手紙 14章9節

 み言葉は、多くの者が眠りから覚めると語る。それもある者は永遠に続く恥と憎悪の的となるのだと。こんな言葉を聞いたら、私の心はいつも戸惑ってしまう。私は永遠の生命なのか、永遠の憎悪なのかと。
 でも、実は、ちっとも心配する必要なんて無い。なぜなら、私たちの主であるイエス様がおられるから。この方が十字架で死なれ、そして、復活されたのは、私たちの先駆けとなられるためであった。この方は、生きている間だけでなく、私達が死んでなお、私たちの主で居てくださる方だ。だから、何の心配もいらない。私も永遠の生命を約束された一人なのだから。

●2日(日)

顕現後最終主日
【主日早天礼拝】
  藤森 誠 牧師
【主日礼拝】
  辻川 篤 牧師

●3日(月)

【旧約聖書】
道中待ち伏せる敵の攻撃も、神の御手に守られて、免れることができた。エズラ記 8章31節
【新約聖書】
わたしにふりかかったような迫害と苦難をもいといませんでした。そのような迫害にわたしは耐えました。そして、主がそのすべてからわたしを救い出してくださったのです。テモテへの手紙二 3章11節

 今日のみ言葉は、私達を力づけ、勇気づけてくれる言葉だ。私達はあらゆる場面において、あらゆる迫害や苦難から神様によって守られているのだから。でも、と思った。それは、私達を待ち受ける敵の攻撃や迫害や苦難はあるということだから。本当はそれらのものから遠ざけてくださることこそ、真の守りだと思っていた。でも、神様のなさる業は、ピンチの時に私を救い出してくださるということなのだ。
 だから、私達もパウロと同じように、忍耐が必要になる。しかし、そこにも希望がある。必ず、その場所にも神様が共に居られて私達を支え続けてくださっているのだから。

●4日(火)

【旧約聖書】
わたしの言葉は火に似ていないか。岩を打ち砕く槌のようではないか、と主は言われる。エレミヤ書 23章29節
【新約聖書】
神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。ヘブライ人への手紙 4章12節

 今日のみ言葉が語ろうとしていることは何だかわかる気がする。私達は、聖書のみ言葉を聞くたびに、心を見透かされる思いがするからだ。自分の不十分さ、至らなさを思い知らされる。
 でも、そこで聞こえてくる神様の言葉は、私を責める言葉ではない。なぜなら、この方は私たちのことを、本当に愛してくださっているがゆえに、言葉を与えてくださるのだから。だから、そこにあるのは、どこまでも私達を心配する思いだ。「あなたは、ちゃんとできているか?思い煩いを抱えてはいないか?」と。だからこそ、私達には、神様のみ言葉が必要なのだ。さぁ、この日も神様の言葉をいただいて歩みだそう。

●5日(水)

【旧約聖書】
打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。イザヤ書 50章6節
【新約聖書】
友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。ヨハネによる福音書 15章13節

 今日のみ言葉はよく知るみ言葉。でも、あらためて、イエス様の言葉が大きく胸を貫いた。それは、友のために命を捨てるということがいかに難しいことか気づかされたからだ。家族のために、命を捨てるならば、もしかしたら可能かもしれない。しかし、友のために命を捨てるということは余程の覚悟がいることではないだろうか。
 しかし、イエス様は私のことを友と呼んでくださる。そして私のために、本当に命を捨ててくださったのだ。それは、私にそうしなさいと言うことでは無くて、ご自身がどれほど私のことを愛してくださっているか、その表れとしてなのだ。あなたの愛を感謝いたします。

●6日(木)

【旧約聖書】
主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」。創世記 8章21節
【新約聖書】
神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。ヨハネによる福音書 3章17節

 旧約の神様は厳しいお方で、新約の神様は愛のお方であると言った人が居た。確かに聖書を読むならば、言いたいことはよくわかる。しかし、今日のみ言葉は、まさに、神様の愛を感じられる場面ではないだろうか。神様は、人間の姿を見て、考えを改められた。それは、人間が正しい存在であると考えるならば、滅ぼし尽くさなければならないということだから。
 しかし、神様は世を救う決心をされた。それゆえに、イエス様が遣わされたのである。悪い存在となってしまう人間を滅ぼさずに、救い出す道を備えるために。私が神の子と呼んでいただけるのは、神様の憐れみと愛のゆえになのだ。

●7日(金)

【旧約聖書】
神よ、あなたはわたしの神。わたしはあなたを捜し求め、わたしの魂はあなたを渇き求めます。詩編 63編2節
【新約聖書】
渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。ヨハネの黙示録 22章17節

 詩人は神様に向かって、あなたを渇き求めると願っている。神様は渇いている者は誰でも、命の水を与えようと言われる。つまり、命の水とは、神様と共にいるために必要なものなのだ。それを価無しに、つまり、ただであげると言うのだ。でも疑り深い私は、そんなうまい話あるはずがないと思ってしまう。きっと、後から見返りを求められるに違いないと。
 でも、神様は、本当に無償でそれをくださるのだ。それは神様ご自身が私達と共に居たいと願っていてくださるから。だから、それが欲しいと願う者には、分け隔てなく与えてくださる。喜んで命の水を受け取ろう。

●8日(土)

【旧約聖書】
主は驚くべき御業を記念するよう定められた。主は恵み深く憐れみに富み…。詩編 111編4節
【新約聖書】
わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。コリントの信徒への手紙一 10章16節

 記念日のお祝い。これは旧約聖書の時代から、イスラエルの人々の間で大事にされてきた習慣だ。そして現代を生きる私たちにとっても、大切にすべきことである。結婚記念日、召天記念日、受洗記念日、誕生日も立派な記念日だ。
 どうして記念日を祝うのか。それは、その記念すべき出来事を忘れないためにである。私達が大切にしている聖餐式も記念するために行っている。それは、私が確かに救われたという記念であり、私のためにキリストが十字架で死なれたという記念である。聖餐をあずかることを通して、私達はイエス様の十字架の出来事を思い起こし、神様の救いを確認しなおすんだ。

●9日(日)

受難節前第4主日
【主日早天礼拝】
  藤森 誠 牧師
【主日礼拝】
  藤森 誠 牧師

●10日(月)

【旧約聖書】
力も策も神と共にあり、迷うこと、迷わせることも神による。ヨブ記 12章16節
【新約聖書】
神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。テモテへの手紙一 2章4節

 神様は全ての人が救われることを願っておられる。そのことを頭ではよくわかっている。しかし私の心は、この人はよいけれど、あの人はダメだと思ってしまうことがあるのではないだろうか。でも神様は、「王たちやすべての高官」さえも、救いたいと願っておられるのだ。
 つまり、神様は本当にすべての人を救おうとしておられる。金持ちも権力者も不正を行う者たちをさえもだ。私があんな奴、滅ぼされて当然だと思う相手さえ神様は救いたいと願っておられるのだ。アッと気づかされた。私だって神様に救ってもらった神様の敵なのだと。私が救われたのだから、皆、救われるんだと。

●11日(火)

【旧約聖書】
あなたたちは不正な裁判をしてはならない。あなたは弱い者を偏ってかばったり、力ある者におもねってはならない。レビ記 19章15節
【新約聖書】
わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。ヤコブの手紙 2章1節

 神様は不正な裁判をするなという。もちろん、権力者や金持ちを優遇してはダメだよねと思いながら、聖書を読んでいて、あれ?と思った。それは、弱い者を偏ってかばうなとも言われていたからだ。弱い者を助けるのもダメなの?と。
 新約聖書も人を分け隔てするなという。それも、イエス様を信じながら…と言われている。イエス様は、文字通りに人を分け隔てされなかった。貧しい者達の所だけを訪ねた訳ではなく、金持ち達の所にも行って、み言葉を語ったではないか。だから私達は、弱い者も強い者も分け隔てをせずにいよう。全ての人を神様は救いたいと願っておられるのだから。

●12日(水)

【旧約聖書】
身分の低い者から高い者に至るまで、皆、利をむさぼり、預言者から祭司に至るまで皆、欺く。彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して、平和がないのに、『平和、平和』と言う。エレミヤ書 6章13~14節
【新約聖書】
愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、…。ローマの信徒への手紙 12章9節

 今日の旧約聖書の言葉は何だかすごいことが語られている。神様のことを知らない者たち、信じない者たちが悪をなしているだけでなく、神様に仕える祭司や、神様の言葉をあずかる預言者までもが、人々を欺き、虚偽をなしているというのだ。そこは、他者のことを思いやるふりをした自己中心があふれている場所となっている。
 しかし、その人たちに向けて神様は言われる。「私に立ち帰れ」と。それは神様の愛がなせる業だ。神様の愛には偽りがない。その愛は、その人たちを救うために、イエス様の十字架の出来事として示された。私達もその愛によって救われたのだ。この日も、その愛の内に留まろう。

●13日(木)

【旧約聖書】
主はこう言われる。「さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ。どれが、幸いに至る道か、と。その道を歩み、魂に安らぎを得よ。」しかし、彼らは言った。「そこを歩むことをしない」と。エレミヤ書 6章16節
【新約聖書】
わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです。ヘブライ人への手紙 6章11~12節

 今日のみ言葉は昨日の続き。神様は不正にまみれた人たちに手を替え品を替え、ご自分のもとに帰るようにと促している。しかし、人々はそれを真っ向から断っているのだ。どうしてそんな恐ろしいことを神様に言えるのかと思いながら、でも、もしかしてと思った。私にも心当たりが沢山あったからだ。
 神様は、私が幸せに至る道を沢山示してくださっている。それは、「裁くな、赦しなさい、愛しなさい、信じなさい、恐れてはならない」などのみ言葉によってだ。でも、私はそれを受け入れない。それは必要ありませんと言っているではないか。どうか主よ、お赦しください。

●14日(金)

【旧約聖書】
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。イザヤ書 53章3節
【新約聖書】
ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。ヨハネによる福音書 19章5節

 ピラトは懸命にイエス様を調べたが、死罪となる程の罪を見出すことができなかった。さらには、人々が言う救い主とはほど遠いと思っていた。だから、人々の前でそのことを宣言すれば、彼らは諦めると思ったのだ。
 それによって、奇しくも、宣言がなされた。見よこの男をと。それは、まさにイザヤが預言した姿そのものであった。この人の姿は、人々に捨てられ、痛みを負い、さらには、無視される者となった。それが神を捨てた者の代償なのだ。しかし、その全ては、私たちの罪の身代わりとなるためであった。だから、私も救っていただけたのだから。

●15日(土)

【旧約聖書】
わたしの神よ。昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。詩編 22編3節
【新約聖書】
キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。ヘブライ人への手紙 5章7節

 イエス様は、最後の晩餐を終えられた後、弟子たちを連れてゲッセマネの園で祈られた。それは、血の汗を流すほどだったと聖書は語っている。イエス様もまた、十字架を前にして、神様との壮絶な戦いを繰り広げられたのだ。しかし、最後には、神様の御心に従う事を選びとられた。
 もしかしたら、その戦いの中で、神様はイエス様に黙しておられたのかも知れない。イエス様は旅を続ける中でご自分のなすべき務めを知っていた。語られないということは、神様の考えは変わらないということだったのかも。しかし、その故に、神様の救いは完成された。私達は神様のものとされたのだ。主よ、感謝いたします。

●16日(日)

受難節前第3主日
【主日早天礼拝】
  辻川 篤 牧師
【主日礼拝】
  辻川 篤 牧師

●17日(月)

【旧約聖書】
恵みの御業を心に秘めておくことなく、大いなる集会であなたの真実と救いを語り、慈しみとまことを隠さずに語りました。詩編 40編11節
【新約聖書】
わたしたちの神に勇気づけられ、激しい苦闘の中であなたがたに神の福音を語ったのでした。テサロニケの信徒への手紙一 2章2節

 私達は、イエス様のことを知らない人たちの前で、イエス様のことを語ることに恐れを抱いている。「あなたは罪人だから、イエス様の救いが必要なんです」などと言おうものなら、相手を怒らせ、嫌われてしまうんじゃないだろうかと心配になるからだ。でも聖書はむしろ苦しめられる中でこそ、神様の福音を語ったというのである。
 彼らにも恐れも不安もあったはず。迫害がさらに悪化した可能性だってある。それでも、一人でも多くの者が神様の救いに与って欲しいと願ったからこそ、彼らは語り続けたのだ。まさに、それは人間の力ではなく、神の力のなせる業に他ならない。さぁ、私達も神の福音を語ろう。

●18日(火)

【旧約聖書】
そのとき、あなたは知るようになる。わたしは主であり、わたしに望みをおく者は恥を受けることがない、と。イザヤ書 49章23節
【新約聖書】
会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。ルカによる福音書 12章11~12節

 イエス様は、人々の前でイエス様の仲間だと言う者は、イエス様もその人を自分の仲間であると言い表すと約束された。しかし、その結果がもたらすものは、どうやら役人や権力者の前に立たされるという状況の様だ。
 しかしイエス様は、その時も、何も心配する必要はないと語ってくださる。それは、聖霊がその時になすべきことも、語るべきことも教えてくださるからだ。その時にもまた、私達は、主に望みをおく者は、決して失望することが無いことを知る。なぜなら、イエス様に望みをおく者に対して、イエス様は見捨てることなく、その者たちを必ず支えてくださる方だからだ。

●19日(水)

【旧約聖書】
主御自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい。詩編 127編1節
【新約聖書】
シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。ルカによる福音書 5章5、6節

 「餅は餅屋」という慣用句がある。何事もその道のプロに任せた方がうまくいくという例えだ。しかし、今日のみ言葉はその逆を行く。プロの漁師であるシモンに対して、素人のイエス様が漁をしなさいというのだ。でも、結果として、あふれるほどに魚をとることができた。
 これがまさに詩人の言葉ではないだろうか。私達が何かを成す時、それがプロの仕事であっても、そこに神様がおられないならば、その働きは空しいものとなるのだ。なぜなら、全てのものは神様が与えてくださるのだから。逆に言えば、神様さえいてくださるならば、その先は安泰な日々となるのではないだろうか?

●20日(木)

【旧約聖書】
主は御自分の民の裁きを行い、僕らを力づけられる。申命記 32章36節
【新約聖書】
まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。ルカによる福音書 18章7節

 今日のみ言葉を読んで、神様が私を助けてくださるのは当たり前と考えている自分がいることに気づかされた。このお方は天地の造り主である。それなのに、人間の叫びに耳を傾け、その叫びを放っておかれないと言われている。でも、それは、決して当たり前のことでは無い。「何度も何度もしつこいぞ、不敬である」と言って、打たれても仕方のないことのはずなんだ。
 しかし、神様は、私たちの叫びに速やかに答えてくださる。それは、格別な恩寵の徴そのものではないだろうか。だから、私達は、神様の御業を大いに喜んで受け取りたい。神が私の声を聞くという奇跡がそこに起こっているのだから。

●21日(金)

【旧約聖書】
あなたの杖をもって、御自分の民を牧してください。ミカ書 7章14節
【新約聖書】
そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、…。エフェソの信徒への手紙 4章11~12節

 何だか今日のみ言葉は矛盾しているように思える。旧約は神様が牧するよう願っているのに、新約は人間の中から牧者を選んだと記されているからだ。結局、神様が導くの?人が導くの?
 もちろん、神様が導かれる。しかし、旧約の時代から、神様は、ご自分の民を人間を用いて導かれた。モーセやダビデ達が、導き手として選ばれたことを私達は知っている。イエス様も12弟子を選び、彼らに教会を託された。忘れてはいけないのは、導き手の背後には神様とイエス様が必ずおられるということだ。それが忘れられるとき、人々は誤った方向に進んで行くのだから。この日も主の導きの中を歩んで行こう

●22日(土)

【旧約聖書】
ただ正しいことのみを追求しなさい。そうすれば命を得、あなたの神、主が与えられる土地を得ることができる。申命記 16章20節
【新約聖書】
義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。マタイによる福音書 5章6節

 今日のみ言葉は何だか一歩間違えると、内容と行動が真逆のものとなってしまいそうだ。そのあいまいさは、「正しいこと」という言葉にある。この正しさとは、私の考える正しさということでは無い。もしそうであるならば、どこまでも自分の考えのまま進めということになる。
 しかし、聖書の語る正しさ、義とは、神様の考える正しさを指している。私たちが本当に追い求めるものは、この神様の正しさなのだ。神様の正義は変わらない。しかし、神様は、正義を執行することよりも、愛を優先されたことがある。それは、罪人を赦すということ。私が赦されたのは、神様の愛のなせる業なのだ。

●23日(日)

受難節前第2主日
【主日早天礼拝】
  藤森 誠 牧師
【主日礼拝】
  齋藤 彩 牧師

●24日(月)

【旧約聖書】
大杯でぶどう酒を飲み、最高の香油を身に注ぐ。しかし、ヨセフの破滅に心を痛めることがない。アモス書 6章6節
【新約聖書】
酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされなさい。エフェソの信徒への手紙 5章18節

 よく、キリスト者はお酒を飲んでも良いの?と聞かれることがある。私はいつもこう答える。「キリスト者だって、お酒を飲んでもいいんですよ」と。でも、同時に注意すべきこともあって、それは嫌がる人の前では飲まないということだ。
 それは、キリスト者がお酒を飲むなんてありえないと考える人もいるからだ。その人の前でお酒を飲んだとしたら、そこには仲違いが起こるに違いない。だから、教会ではお酒を飲まずに、気心の知れた人たちと集まって味わってもらうのがいいだろう。それに、お酒での失敗の話もよく聞く。不和を起こすよりも、聖霊に満たされて、神様を褒めたたえよと勧めているのだ。

●25日(火)

【旧約聖書】
主はわたしの砦、わたしの歌。主はわたしの救いとなってくださった。詩編 118編14節
【新約聖書】
あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。ヤコブの手紙 5章13節

 今日のみ言葉も新約と旧約が何だか結びつかないような気がした。そこで詩編を開いたら、この詩人は、窮地の中から救われたことを歌っていたことが分かった。この詩人は、苦しみの中にあって、神様の助けを求め、そして救われた喜びを持って、賛美の歌を歌っていたのだ。
 ふと、あれ、この姿って私の姿と同じかもと思った。私もピンチの度に神様に祈り、そして助けられて喜び感謝する。なんて事ないことのように見えて、でもそれが私たちの信仰生活に欠かせない出来事となっていくんだ。神様からの救いの体験を積み重ねるほどに、窮地におかれた時の神様への信頼度は上がっていくのだから。

●26日(水)

【旧約聖書】
主の霊を測りうる者があろうか。主の企てを知らされる者があろうか。イザヤ書 40章13節
【新約聖書】
風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。ヨハネによる福音書 3章8節

 新約聖書の語る風とは、聖霊のこと。それは、霊と言う言葉と、風という言葉は同じ単語だからだ。風も霊も自由に行動する。それがどこから来て、どこへ行くのか、私達には知る由もない。しかし、である。そんな私達でありながら、私達は主の企て、主のご計画を知らされているのだ。
 それは、神様は、イエス様を通して私達を救いたいと願っておられるということ。さらには、私達を愛し、大切に思ってくださっているということだ。その神様の思い、ご計画は実は聖書の中に詰まっている。神様のご計画を知れるはずのない私達に、神様は自らご計画を明かしてくださるのだ。さぁこの日も主の思いに生きよう。

●27日(木)

【旧約聖書】
心を尽くして主に仕えなさい。むなしいものを慕ってそれて行ってはならない。それはむなしいのだから何の力もなく、救う力もない。サムエル記上 12章20~21節
【新約聖書】
無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。エフェソの信徒への手紙 5章17節

 イスラエルは周りの国に影響され、自分達を導く王を下さいと神様に願った。それは、神様の支配から離れることを意味していた。だから預言者サムエルはここで改めて、神様に仕えることを強調する。たとえ人間の王がいたとしても、イスラエルは神様の国だからである。
 そう考えると、神様以外に仕えるという偶像礼拝は、ただ像を拝んだり、他の宗教に加わったりということだけではないのかもと思った。私達が困った時に助けを求めるものが、私たちの神と成り代わりうるのだ。だから、十分に注意して生きなければ。この日も主の御心に従って、あなたに仕える者としてください。

●28日(金)

【旧約聖書】
人が我らを駆り立てることを許された。我らは火の中、水の中を通ったが、あなたは我らを導き出して、豊かな所に置かれた。詩編 66編12節
【新約聖書】
虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。コリントの信徒への手紙二 4章9~10節

 神様は私達を試される。神様が私達を試される理由は沢山ある。苦しみの中で、私が神様を本当に頼るのか、神様を捨て離れて行ってしまわないか、その理由はいくつでも考えることができる。しかし、得てして、私の試練に対する理由が明らかになることは少ない。
 では、私達は、ただ、試練の中で忍耐し続けるだけなのだろうか。もちろんそんなことはない。私達は苦難の中にあって、大きな希望を持つことができる。それは、苦しみの中にもイエス様が共にいてくださるということだ。ご自分の命さえ与えてくださった方が、私達を支えてくださっている。だから安心して歩みだそう。

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