2025年12月の『日々の聖句』
この日々の聖句は、聖書箇所を「ヘルンフート兄弟団『日々の聖句2025』(べテスダ奉仕女の家)」からいただきました。
聖書の本文は、日本聖書協会が発行している『聖書新共同訳』から転記しています。
『聖書新共同訳』:(c)共同訳聖書実行委員会(c)日本聖書協会、1987,1988。
●1日(月)
【旧約聖書】
あなたの光とまことを遣わしてください。彼らはわたしを導き、聖なる山、あなたのいますところに、わたしを伴ってくれるでしょう。詩編 43編3節
【新約聖書】
(シメオンの言葉)「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」。ルカによる福音書 2章29~32節
神様がこの世界に真の光を遣わしてくださったのは、ひとえに、私達を神様のおられるところに伴なうためであると言えるだろう。神様の救いとはまさにそのための出来事である。シメオンは幼子イエス様を見た時に、そのことを察したのだ。この方こそ、私達を導かれる光そのものであると。
一体どうして、ただの赤ちゃんにそこまでの望みを託せたのか、詳しい所はわからない。しかし、シメオンは、聖霊に導かれてイエス様と出会った。私達も同様に、聖霊によって、イエス様と出会ったと言えるだろう。神様の願いは、このようにして実現していくに違いない。
●2日(火)
【旧約聖書】
どうかわたしを立ち帰らせてください。わたしは立ち帰ります。あなたは主、わたしの神です。エレミヤ書 31章18節
【新約聖書】
あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。使徒言行録 14章15節
今日の旧約聖書のみ言葉は、全てのキリスト者に共通する思いではないだろうか。新しい聖書の翻訳では、「私は立ち帰りたいのです」となっていた。立ち帰りたい、でも立ち帰れない。この葛藤の中で生きるのが私達だ。それは、もう自分の努力とか理性といったものではどうにもなら無くて、だからこそ、神様に縋りつかざるをえないという、詩人の深い思いが、このたった一言で伝わってくるように思える。
そして、神様はそのための道を用意してくださった。何時までも放ってはおかれない。私達が神様に立ち帰ることができるように、福音を与えてくださったのだ。それこそ、イエス様を信じて救われるということに他ならない。私達のその苦しみをイエス様が解決してくださるのだ。
●3日(水)
【旧約聖書】
モーセは彼に言った。「…わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。」民数記 11章29節
【新約聖書】
あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。使徒言行録 1章8節
今日のみ言葉を読んで、モーセは面白い事を言うなと思った。神様の霊をいただいて全ての人が預言者になればいいなんて。一体どういうことなのかなと思って聖書を開いたら、こう書かれていた。「民の重荷をあなたと共に負うことができるようになる」ために私の霊を分け与えようと神様がいわれたのだ。モーセを支えるために、主の霊が必要だと言うことだ。
私達は、主の霊である聖霊をいただいた。それは、神様に従い、神様と共に歩むために必要であり、教会を支えるためにも必要である。私達は聖霊を通して、み言葉を理解する。聖霊は私達にとって欠かせない存在なのだ。
●4日(木)
【旧約聖書】
これ[律法]をまだ知らない彼らの子供たちも聞いて学び、…あなたたちの神、主を畏れるようになるためである。申命記 31章13節
【新約聖書】
父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。エフェソの信徒への手紙 6章4節
祭りの中で律法が朗読される時、子どもたちにもそれを聞かせ、学ばせなさいと命じられている。大切な掟をちゃんと学ばせなさいということかなと思った。でも、よーく考えてみたら、もっと深い意味があるのかもと思い直した。それは、神様の律法には、神様の思いが詰まっているからだ。律法の掟は、神様と神様に救われた民との約束だ。あなたを救った私の言葉だから従ってくれるよねという思いが詰まっている。だから、子どもたちには、約束を守ること以上に、神様の思いを知り、受け取って欲しいのだ。
新約聖書も同じだ。子どもたちを怒らせることが目的ではない。イエス様の思いを子どもたちに受け取ってもらう育て方が必要だ。
●5日(金)
【旧約聖書】
主よ、慈しみをわたしたちに示し、わたしたちをお救いください。詩編 85編8節
【新約聖書】
救いはユダヤ人から来るからだ。ヨハネによる福音書 4章22節
今日のみ言葉を読んで、ユダヤ人から来る救いって何だろうと思った。ユダヤ人たちが、今の私達を救ってくれるということ・・・では、おそらくなさそうだ。このユダヤ人とはきっとイエス様のことを指している。イエス様を通して起こった出来事、それこそが神様が与えてくださった救いなのだ。
詩人は救ってくださいと願っている。それは、まだ救いが到来していなかったからだ。では、私達はどうだろう?イエス様の出来事は既に起こっている。つまり、もう、救いは私達の所にきているんだ。だから、後は受け取るだけ。さぁ、主の救いを受け取ろう。
●6日(土)
【旧約聖書】
どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを。詩編 118編25節
【新約聖書】
聖霊が告げた。「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた。使徒言行録 13章2~3節
詩人は神様に、救いと栄えとを願っている。神様はその願いを聞き届けられ、私達に救いを与えてくださった。しかし、その救いは、勝手に伝わったり、与えられたりするものではない。その救いを私達の所へ知らせてくれる届け手を必要としているのである。その届け手を神様は起こされた。
しかし、その届け手もまた、勝手に選ばれて、勝手に遣わされるのではない。その届け手を選ぶのも、遣わすのも、神様の業だ。しかし、イエス様は、ご自分を信じる全ての人を遣わされた。私達が救われたのは、届け手の人たちが、私の所にも、救いの知らせを届けてくれたからだ。感謝しつつ、私達も救いの知らせを届けよう。
●7日(日)
待降節第2主日
【主日早天礼拝】
藤森 誠 牧師
【主日礼拝】
藤森 誠 牧師
●8日(月)
【旧約聖書】
神のもとに立ち帰れ。愛と正義を保ち、常にあなたの神を待ち望め。ホセア書 12章7節
【新約聖書】
「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。テモテへの手紙一 1章15~16節
神のもとに立ち帰れと預言者ホセアは告げる。しかし、この言葉は、ホセアだけが語った訳ではない。沢山の預言者たちが語り続けてきた言葉だ。しかし、その言葉が実現することはなかった。
だからこそ、イエス様がこの世に来てくださったのだ。罪びとの救いとは、神様の元に立ち帰ることだから。そのために、イエス様が十字架の上で忍耐し、救いを示してくださった。しかし、なお、神様の元に立ち帰り切れない私がいる。そのことをも主は忍耐して待っていてくださる。この日、イエス様の十字架を見詰めつつ、神様の元に立ち帰ろう。そのためにこそ、イエス様は死んでくださったのだから。
●9日(火)
【旧約聖書】
同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。イザヤ書 46章4節
【新約聖書】
身寄りのないやもめを大事にしてあげなさい。テモテへの手紙一 5章3節
今日のみ言葉は、神様からの約束だ。たとえ私が白髪になっても、神様は私を背負い続けてくださる。でも何だか、今日はこのみ言葉が約束ではなく、神様の決心、決断のように思えてならない気がした。それはきっと、神様が私を背負ってくださるのは、私の資質とは一切関係が無いからだ。私が一緒にいて楽しいから、私が背負うに値するから背負ってくださるの ではない。ただ、神様が造ったという一点においてになってくださるのだ。
それは、私達の救いに関しても同じ。先に神様の決断があった。それゆえに、私達には御子イエス様が与えられたのだ。神様、感謝です。
●10日(水)
【旧約聖書】
主なる神よ、まことにあなたは大いなる方、あなたに比べられるものはなく、あなた以外に神があるとは耳にしたこともありません。サムエル記下 7章22節
【新約聖書】
わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。ヨハネの黙示録 22章13節
今日の旧約聖書のみ言葉は、ダビデ王の言葉だ。少し、お世辞が過ぎるように思われるが、きっとこれがダビデの本心であったのだろう。それは、神様がダビデのゆえに、その子孫繁栄を約束されたからである。神様が確実に未来を約束してくださった。それがゆえに、ただただ神様を褒めたたえるだけである。
神様がそれを約束できるのは、真に神様は力を持っておられるから。世界の初めから終わりまで存在し、その中にあって、全てを自由にできる力を持っておられる。その約束の通りに、神様はイエス様を与えてくださった。私達にできることは、ただ喜んで神様を褒めたたえて生きることではないだろうか。
●11日(木)
【旧約聖書】
わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し、変わることなく慈しみを注ぐ。エレミヤ書 31章3節
【新約聖書】
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。ヨハネによる福音書 3章16節
旧約聖書の神様からの約束は、苦しみの中にいるイスラエルの民たちに与えられたものだった。まだ、その約束は兆しさえ見えない。しかし、その約束を受け取った民は、大いに喜んだに違いない。それは神様が自分たちの事を忘れずに気にかけてくださっていたことがはっきり分かったからだ。
ふと、思った。愛されるって気にかけてもらえるということなのかもと。私が苦しい時に、辛い時に声をかけてもらえる。嬉しい時に楽しい時に一緒に喜んでもらえる。いつだって神様は私達を気にかけてくださっている。イエス様が来られたことがその決定的な証拠だから。
●12日(金)
【旧約聖書】
どうか、天を裂いて降ってください。イザヤ書 63章19節
【新約聖書】
(天使のマリアへの言葉)「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる」。ルカによる福音書 1章31~32節
イザヤは、神様に天を裂いて降ってくださいと願う。それは、自分たちのそばに来て、敵から救い出し、神様のご支配の中で生きたいと願ったからだ。神様のそばで、神様のご支配の中にいることが最も幸せであると気づいたのだ。
そのイザヤの願いは、だいぶ時間が経ってからではあるが、まさしくかなえられた。一人の男の子が与えられた。この子の名は、「主は救う」という意味を持つイエスと名づけられた。真にイザヤの願いを聞き届け、神様の支配をもたらすためにやって来られたのだ。しかし、人々は、その支配を受け入れようとしなかった。きっとその結末を神様は知っておられただろう。それでも、ご自分の支配を完成させるために、イエス様を送ってくださったのだ。
●13日(土)
【旧約聖書】
見よ、主にささげられたこの都が、…再建される日が来る、と主は言われる。エレミヤ書 31章38節
【新約聖書】
更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって…」。ヨハネの黙示録 21章2~3節
神の都とは、神様が住まわれる場所のこと。でも、それが再建されるってどういうことなのかな?どうやら、人々の背きのゆえに、神様の住まいは破壊されてしまったようである。しかし、神様はそこを再建されると約束されるのだ。
神の都は、人里離れた所にあるのではない。人々が集う場所にある。それは、神様が人々と共にあることを願っておられるから。だからこそ、その都を再建するという出来事を通して、神様の願いは変わっていないことを知らせてくださるのだ。その都へ、私達も招かれている。喜びと希望をもって、その日を待ち望もう。
●14日(日)
待降節第3主日
【主日早天礼拝】
眞木 重郎 伝道師
【主日礼拝】
眞木 重郎 伝道師
●15日(月)
【旧約聖書】
彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。イザヤ書 53章5節
【新約聖書】
わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。ローマの信徒への手紙 8章32節
イエス様はどうして、人となってこの地上に来てくださったのか。それにはちゃんと理由がある。神の子であるはずの方が来られたのは、私に変わって刺し貫かれ、打ち砕かれるためであった。それも、私が犯した背きと咎を償うためにだ。神様の思いによって成し遂げられた。
それってつまり、神様は私達のことを愛しておられるということ。イエス様の命さえ、私のために与えても惜しくないと思えるほどに大切に思われているのが私だ。だからこの時、改めて思い起こそう。イエス様のご降誕は、十字架と深く結びついていることを。それによって、私は真に神様と共に生きる者とされているということを。
●16日(火)
【旧約聖書】
わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、わたしは希望をおいている。詩編 62編6節
【新約聖書】
また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。テトスへの手紙 2章13節
今日の詩人の言葉は、自らの魂に語り掛けている。ただ沈黙して神に向かえと。それは、きっと、あまりに周りが騒がしく、それゆえに自らの心もあわただしさの中にあるからなのかもしれない。私達も、忙しさの中で、心静めることを忘れてしまいがちなのかも。
でもどうして詩人は沈黙するんだろう?もしかしたら、神様の声を聴くためかもしれないと思った。あわただしさの中にあったならば、神様の語り掛けられる言葉を聞き逃してしまうかもしれない。だから、ただ、沈黙して、神様が語ってくださるのをじっと待つんだ。私が望みを置く方は必ず、応えてくださる方だから。
●17日(水)
【旧約聖書】
災いだ、悪を善と言い、善を悪と言う者は。彼らは闇を光とし、光を闇とし、苦いものを甘いとし、甘いものを苦いとする。イザヤ書 5章20節
【新約聖書】
悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。ローマの信徒への手紙 12章21節
人々は、苦いものを甘いと言い、甘いものを苦いという。ふと、子育て中の親御さんの姿が目に浮かんだ。子どもに栄養を取って欲しくて、苦いピーマンを美味しいよと言って食べさせる。子どもにお菓子を食べすぎさせないように、美味しくないよと言って、お菓子を遠ざける。
悪を善と言い、善を悪という者たちは、それが自分に都合が悪いからに他ならない。でも、親御さんたちの子育ては、子どものためである。だから、行動の是非はあるかもしれないが、イザヤが語っていることとは、全く異なっている。私達が戦うべきは、悪である。それは、神様に逆らう存在と言えるだろう。しかし、そこで求められるのは武力ではなく、善い行いだ。善をもって悪に勝とう。
●18日(木)
【旧約聖書】
イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。エレミヤ書 7章3節
【新約聖書】
だから、あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。ペトロの手紙二 1章5~7節
神様は、自らの道と行いを正すようにと言われる。でも、それって一体どういうことなのかな?その具体的な指針が新約聖書が語っていることなの?でも、それができたら、とっくにやっているよと文句を言いたくなってしまった。
ふと、新約聖書に“だから”という言葉が付いているのに気が付いた。そこで、聖書を読んでみたら、“主イエスは…命と信心とに関わる全てのものを、私達に与えてくださった”と記されていた。つまり、愛を加えて生きよとの勧めは、既にイエス様によって力が与えられているからなんだ。だから私達は心配しなくてよい。イエス様が隣で支えてくださるから、愛する者となろう。
●19日(金)
【旧約聖書】
岩と頼むのはわたしたちの神のみ。サムエル記上 2章2節
【新約聖書】
最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。エフェソの信徒への手紙 6章10節
今日のみ言葉にある、岩と頼むってどういうことなのかなと思った。それは、神様は岩のように壊されないってこと?岩のように硬い神様を私の土台とするということ?よくわからない。でも、何だか硬そうで、頼りになりそうな気がする。新約聖書も語る、主に依り頼みなさいと。
でも、神様に頼って生きていていいんだろうか?誰にも頼らず生きられるようになれと教えられてきたからだ。神様に頼らなければならない私なのだとしたら、私には価値が無いと言うことにならないだろうか?本当はその通りなのかも。できると思っているのは私だけで、本当はできない。だから、神様の助けが必要なのだ。きっと聖書もそのことをよくわかっていて、私に勧めてくれているのかも。主に頼って歩もう。
●20日(土)
【旧約聖書】
ヨセフはこのように、兄たちを慰め、優しく語りかけた。創世記 50章21節
【新約聖書】
互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。エフェソの信徒への手紙 4章32節
ヨセフは兄たちに外国へと売り渡され、そこで長いこと奴隷として生きてきた。それなのに、兄を赦すという。一体どうして?と思った。私は、聖書の教えの中で一番難しいのは、赦すことではないかと思う。それは、赦そうと思う時、私の正しさが主張するからだ。どうして私は悪くないのに、赦さなければならないのかと。
でも、聖書は明確に述べている。そこには神様が関わっておられる。何より、主が私を赦してくださったのだからと。私が赦されたように、この人も神様によって赦されている人。だからこそ、私の正しさよりも、神様の願いが優先するのがキリスト者だ。この日一歩踏み出してみよう。
●21日(日)
降誕祭・クリスマス礼拝
【主日早天礼拝】
藤森 誠 牧師
【主日礼拝】
藤森 誠 牧師
●22日(月)
【旧約聖書】
災いだ、自分のものでないものを、増し加える者は。いつまで続けるのか…。ハバクク書 2章6節
【新約聖書】
(イエスの言葉)ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。ルカによる福音書 16章10節
私達の信頼関係は、かなりギリギリのところで保たれていると言っても過言ではない。信頼を築くことは途方もなく時間がかかるのに対して、信頼を失うことは一瞬だからだ。それもほんの小さな失敗でさえ、信頼を失うことが起こるのだ。
だからこそ、イエス様は、小さな事にも忠実であれと教えてくださる。それは、イエス様からの「あなたに大きな事を任せたいのだ」という私たちへの希望の現れなんだ。イエス様が期待してくださっている。だから、私達は忠実に生きよう。たとえ小さいことにさえ、主は気をかけてくださるのだから。
●23日(火)
【旧約聖書】
国の民は皆、勇気を出せ、と主は言われる。働け、わたしはお前たちと共にいると、万軍の主は言われる。ハガイ書 2章4節
【新約聖書】
つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。コリントの信徒への手紙二 9章6節
今日のみ言葉は、嬉しい言葉だと思った。勇気を出せ、神様は私と共にいてくださるからと励ましの言葉をいただいているからだ。でも、ふと気づいた。その言葉の中に、変な言葉があるぞと。それは、「働け」という言葉だ。このハガイの時代、人々は戦争で破壊された神殿の再建をしていた。しかし、うまくいかない状況の中で、神様の言葉が届けられたのだ。
神様の言葉は、ただ、聞いて終わりではない。それは私達の行動の原動力になるんだ。新約聖書も語る。あなたは種を蒔けと。何も蒔かずに借り入れがあるわけではない。惜しまず蒔くならば、借り入れは豊かだと約束されているから。この日も、神様の傍で、一生懸命働こう。
●24日(水)
【旧約聖書】
正しい裁きは御座の基、慈しみとまことは御前に進みます。詩編 89編15節
【新約聖書】
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。ヨハネによる福音書 1章14節
【教会の予定】
午後7時から クリスマス・イヴ燭火礼拝
この夜、御子イエス様が地上へと来られた。正しい裁きがその足元にあり、慈しみとまことが共に進まれる。それがこのお方である。この方は、地上に裁きをもたらした。神様の御心は、人々が教えているものとかけ離れてしまっていたからだ。しかし、それは、混乱をもたらすためではない。慈しみとまことが満ちている。つまり、人々を、父の元に立ち帰らせるた めに、このお方は地上に来てくださったのだ。
そこには、恵みと真理が満ちていたと聖書は語る。この方こそ、真の救い主。私達に神様の恵みと真理を与えてくださる方。その方が来てくださった。大いにその出来事を喜ぼう。
●25日(木)
【旧約聖書】
主よ、御もとに立ち帰らせてください。わたしたちは立ち帰ります。わたしたちの日々を新しくして、昔のようにしてください。哀歌 5章21節
【新約聖書】
今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。ルカによる福音書 2章11節
イエス様は救い主と呼ばれるお方だ。でも、イエス様が実現なさる救いって何だろうか?それがわからなければ、イエス様のご降誕の喜びってよくわからないのかもと思ったからだ。
そのことを旧約聖書のみ言葉が教えてくれている。それは、主の元に立ち帰ることなんだ。それは、私達が神様との約束を破ってしまったがために、神様の傍にいることができなくなっ てしまった。私達が負い目に耐えられず、離れてしまったこともあるし、神様が怒りによって、散り散りにされたこともあった。しかし、私達は神様の傍にいなければ、生きることができない。そこで、私達が神様と共に生きられるように、イエス様が取り計らってくださったのだ。それこそがイエス様の救いであり、救い主と呼ばれるゆえんだ。
●26日(金)
【旧約聖書】
主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え、主の戒めは清らかで、目に光を与える。詩編 19編9節
【新約聖書】
最高法院の席に着いていた者は皆、ステファノに注目したが、その顔はさながら天使の顔のように見えた。使徒言行録 6章15節
天使の顔ってどんな顔なのかなぁと思いながら聖書を開いてみたら、ステファノの気持ちがわからなくなってしまった。それは、この出来事が、裁判所の裁判の席での出来事だったからだ。いわれのない罪で、訴えられている場で、ステファノの顔は天使のようであったと言うのだ。一体、彼はどんな思いだったんだろう?
もしかしたらと思った。それは、この後、ステファノによって、旧約聖書から初めて、イエス様の出来事を証ししていくからだ。こんな大ピンチもステファノにとっては、大チャンスだったのかも。イエス様を宣べ伝える時、きっと私の目も光り輝いているに違いない。
●27日(土)
【旧約聖書】
わたしの主よ、わたしは力を奮い起こして進みいで、ひたすら恵みの御業を唱えましょう。詩編 71編16節
【新約聖書】
ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。コリントの信徒への手紙一 1章24節
力を奮い起こして進みというのは、どうやら、神様の力をいただいて進みと言うことらしい。だから、神様に助けていただいて歩みつつ、ひたすら神様の恵みの御業を唱えましょうと詩人は呼びかけている。それはつまり、神様の御業をあちこちに行って語りましょうということ。それって、教会がしている伝道と同じではないだろうか。
だから、新約聖書は、すべての人にイエス様の出来事を宣べ伝えるのだと語っている。でも、どうして、神様の御業では無くて、イエス様のことを伝えるのかな?それは、神様の最大の恵みの業がイエス様だから。イエス様が地上に来られたこと、死なれたこと、復活されたこと。そこに神様の恵みが詰まっているんだ。さぁ、この日、私達もキリストを宣べ伝えよう。
●28日(日)
降誕後第1主日
【主日早天礼拝】
眞木重郎 伝道師
【主日礼拝】
眞木重郎 伝道師
●29日(月)
【旧約聖書】
主よ、あなただけは、わたしを遠く離れないでください。わたしの力の神よ、今すぐにわたしを助けてください。詩編 22編20節
【新約聖書】
主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた。ルカによる福音書 5章17節
何だか、今日の詩人の願いは私の願いにそっくりだなと思った。特に“今すぐに助けてください”と願っているところだ。でも、何度か読んでいて、“あなただけは”という言葉に目が留まった。詩人は、私を助けてくれるなら誰でもいいわけではない。彼は、せめて神様は私を見捨てないで助けてくださいと願っているんだ。
でも、私はどうだろう?もしかしたら、自分の悩みや苦しみが解決さえされれば、助け主は神様でなくてもいいと思っているのかもと気づかされた。もし、そうだとしたら、神様が私を助けてくださらなかったら、神様を捨てるに違いない。他に助け手を求めてフラフラ離れていくんだ。でも、そうじゃない、私を助けてくださる方はたったお一人。そこから離れちゃダメだ。
●30日(火)
【旧約聖書】
主はモーセに言われた。「わたしは、あなたのこの願いもかなえよう。わたしはあなたに好意を示し、あなたを名指しで選んだからである。」出エジプト記 33章17節
【新約聖書】
神が据えられた堅固な基礎は揺るぎません。そこには、「主は御自分の者たちを知っておられる」と…刻まれています。テモテへの手紙二 2章19節
皆様は、ご自分の教会の教会員の名前を全て憶えていますか?小さい教会ならできるかもしれません。でも、200人、300人を超える人数になったら、中々難しいのではないでしょうか。だから、神様は全ての人のことを知っているなんて無いだろうと思っていた。それなのに、今日のみ言葉は語る。あなたを名指しで選んだ、と。
神様は、一人の漏れも無く、全ての人をご存じである。そして、私達は、あなたを愛していると名指しで選ばれている一人だ。さらに神様はご自分の計画のためにも私達を名指しで選ばれる。あなたが必要だと。その呼びかけにどう答えられますか?
●31日(水)
【旧約聖書】
あなたの国境に平和を置き…。詩編 147編14節
【新約聖書】
平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。マタイによる福音書 5章9節
国境に平和を置くってどういうことかなと考えていて、もしかしたら、国と国の境って一番争いが起こりやすい場所なのかもと思い至った。戦争は、相手の国の国境を超えることから始まっていくからだ。だから、そこに神様の平和がおかれるならば、平和は保たれ続けるのかもと思った。
日本は長い事、戦争をしていないから関係ないとは言えないだろう。それは、国の境は超えないけれども、人の境は超えるからだ。相手が踏み込まれたくないこと、気にしていることにさえ、つい踏み込んでしまう。それが良い結果を生じることもあるかもしれない。しかし、相手を傷つけることも起こっていく。だから、私達の間には、神様が必要だ。そうしたら、そこには平和があるのだから。

