2025年11月の『日々の聖句』
この日々の聖句は、聖書箇所を「ヘルンフート兄弟団『日々の聖句2025』(べテスダ奉仕女の家)」からいただきました。
聖書の本文は、日本聖書協会が発行している『聖書新共同訳』から転記しています。
『聖書新共同訳』:(c)共同訳聖書実行委員会(c)日本聖書協会、1987,1988。
●1日(土)
【旧約聖書】
あなたのどの戒めに照らしても、恥じ入ることがないでしょう。詩編 119編6節
【新約聖書】
良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。ルカによる福音書 8章15節
詩人は、神様の命令、掟を守れるようにと強く願っている。それによって、神様の前に恥入ることがないためだと言う。もちろん、それが理由ではなく、神様の前に、熱心で真剣だからに違いない。だからこそ、神様の前に正しくありたいと願うんだ。しかし、それを願っているという事は、同時に、そうあれない自分を自覚しているということでもある。その願いが強いほどに、自分の無力さも強く実感しているのだろう。
だからこそ、神様の助けが必要なのだ。自分の力で実を結ぶことがどれほど困難かを知っているということ。でも、その願いに神様は必ず応えて、私たちを支えてくださる。
●2日(日)
三位一体後第20主日
【主日早天礼拝】
藤森 誠 牧師
【主日礼拝】
藤森 誠 牧師
●3日(月)
【旧約聖書】
このような時にも、見よ、天にはわたしのために証人があり、高い天には、わたしを弁護してくださる方がある。ヨブ記 16章19節
【新約聖書】
さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。ヘブライ人への手紙 4章14節
ヨブは苦しみの真っただ中にいる。財産は全て奪われ、子どもたちも失った。体は病に犯され、励ましに来たはずの友人たちは、ヨブの思いを知ろうともしない。しかし、その苦しみの中にあって、それでもなお、ヨブは神様への信仰を告白する。ヨブは最後まで神様を離れなかった。一体どうしてなんだろう?
それは、やはり、自分のことを真にご存じで居てくださる方が居ることをヨブは知っていたからではないだろうか。神様は、私達の全てを知っておられる。神様の前では私達は裸同然にされる。しかし、そのお方は私達をどこまでも愛してくださる方だ。今日も、信じて歩もう。
●4日(火)
【旧約聖書】
命あるものの地にある限り、わたしは主の御前に歩み続けよう。詩編 116編9節
【新約聖書】
あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。ローマの信徒への手紙 6章11節
詩人はどうやら、絶体絶命のピンチから神様によって救い出してもらったようだ。その内容はよくわからないけれども、一度死にかける目にあい、それでも、神様に救われたことで命が永らえたという体験のようである。それゆえに、生涯神様の御前を歩み続けることを決心したようだ。
では、私達はどうだろう。私達はそこまでの経験をしていないから、神様の御前を歩まなくていいってことになるかな?もちろん、そうでは無い。なぜなら、私達は本当は罪に死んでいたはずなのに、イエス様の十字架を通して、新しい命をいただいたからだ。だから、私達もこの詩人と同じように告白しよう。私は主の御前を歩み続けますと。
●5日(水)
【旧約聖書】
わたしたちは自らの道を探し求めて、主に立ち帰ろう。哀歌 3章40節
【新約聖書】
わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり…。フィリピの信徒への手紙 1章9~10節
一昔前、“自分探し”というものが流行ったらしい。多くは知らない土地へ旅行することで自分を見出そうとしたようだ。では、聖書はどう語るかと言えば、自分を探して、神様の元へ帰ろうと言う。どこか知らない場所へ旅をするのでも、自分の心の中を掘り進めて行くのでもない。私達は神様によって、自己を認識できるというのだ。
だからこそ、新約聖書も知る力と見抜く力が必要だと祈っている。でもそれは、自分のことを知るのではなく、神様の御業を見抜く力ではないだろうか。神様が私のためにどれほど尽くしてくださるかによって、私達は自分の価値をも見出すことができるのだから。
●6日(木)
【旧約聖書】
わたしは、わたしの名のために怒りを抑え、わたしの栄誉のために耐えて、お前を滅ぼさないようにした。イザヤ書 48章9節
【新約聖書】
マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。マタイによる福音書 1章21節
神様の怒りが行き着く先は、いつだって滅びである。だが、もちろん、逆らったからすぐに滅ぼそうだなんて短絡的なお方でもない。神様は何度も、何度も、立ち帰れと人々に呼びかけられた。けれども、人々はそれを受け入れなかった。だからこそ、神様が滅ぼされるはずだったのだ。しかし、神様は自らの存在のために忍耐することを選ばれた。
だが、この問題は、神様が我慢していれば解決する訳ではない。だから、神様はイエス様を遣わしてくださった。この方の名は、「救い主」であり、「神は我々と共におられる」という名前だ。この方が神様の怒りを引き受けられたゆえに、私達は赦されて、神の子としていただけるのだ。
●7日(金)
【旧約聖書】
あなたを尋ね求める人が、あなたによって喜び祝い、楽しみ、…ますように。詩編 40編17節
【新約聖書】
主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光。ルカによる福音書 19章38節
神様を必要とする人が喜び、楽しむ、それって当たり前の事なんじゃないかと思った。だって、聖書には、神様に従ったら祝福があり、神様に逆らったら呪いや災いがあると書かれているからだ。でも、今日のみ言葉を見てみたら、旧約も新約も「~ように」となっている。これって願いの言葉のようだ。つまり、現実はそうなっていないってことなのかな?
きっと、そうだ。だって、私自身を振り返ってみたら、そうなっていないことが明らかだから。苦しい状況の中にあるから、私は神様を尋ね求めるのだ。でも、やっぱり私の理想も同じ願いだ。この日も、神様の祝福がありますように。
●8日(土)
【旧約聖書】
目の見えない人を導いて知らない道を行かせ、通ったことのない道を歩かせる。イザヤ書 42章16節
【新約聖書】
イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」ヨハネによる福音書 8章12節
先日、車で出かけた時の事、スマートフォンの案内に従って運転していたら、妙に細い道に案内された。対向車が来ないかとドキドキしながら道を通ったことを憶えている。私達は、幾度となく、知らない道を進まなければならない。たとえ案内があったとしても、そこには不安が付きまとう。もし、目が見えなかったなら、その不安は何倍になるのだろうか。
でも、神様は言われる。私が導く、私が歩かせると。それは、一人きりでの歩みではない。神様が共にいてくださる道のりだ。さらにイエス様はいう。私こそが光である。私と一緒に居れば、たとえどこであろうとも、そこは暗闇とはなりえないと。この日もこのお方と共に歩もう。
●9日(日)
終末前々主日
【主日早天礼拝】
藤森 誠 牧師
【主日礼拝】
藤森 誠 牧師
●10日(月)
【旧約聖書】
なぜ、あなたは神と争おうとするのか。神はそのなさることを、いちいち説明されない。神は一つのことによって語られ、また、二つのことによって語られるが、人はそれに気がつかない。ヨブ記 33章13~14節
【新約聖書】
耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。ヨハネの黙示録 2章7節
神様はなさることをいちいち説明しないと聖書は語る。確かにそうであろう。でも、それは、ご自分のすることを決して説明しないという訳でもない。神様は、その御業の理由を説明してくださる。でも、中々、その理由はわからない。それは、私達が神様の言葉を聞かず、気づかないからのようだ。
一つのこと、二つのこととは、方法のことのようだ。神様は色々な方法を用いて、私達に語り掛けてくださる。でも、私達はそれに気づくことができないのだ。だから、私達に何より必要なのは、神様の言葉を聞き分けることのできる耳ではないだろうか。語る口よりも聞く耳の方が重要である。
●11日(火)
【旧約聖書】
恐れてはならない。おののいてはならない。ヨシュア記 8章1節
【新約聖書】
イエスが二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、二人は目が見えるようになった。マタイによる福音書 9章29~30節
今日のイエス様のみ言葉は、ありがたいように見えて、恐ろしい言葉だと気づいてしまった。私が、もし、「信じている通りになるように」と言われたら、果たして何が起こるだろうか。それは、私の心の中にイエス様の事を信じ切れない思いがあるからだ。祈って願いはするけれども、でも、叶いはしないだろうなと思う気持ちがある。
でも、だからこそ、神様は言われる。恐れることは無い。おののく必要は無いと。新約聖書を開いてみたら、その直前で、イエス様は、「わたしにできると信じるのか」と問いかけられている。イエス様の前でなら、信じますと素直に告白できるように思える。恐れず、主に近づこう。
●12日(水)
【旧約聖書】
裁判に当たって、偏り見ることがあってはならない。身分の上下を問わず、等しく事情を聞くべきである。人の顔色をうかがってはならない。裁判は神に属することだからである。申命記 1章17節
【新約聖書】
しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。ヤコブの手紙 2章9節
聖書は分け隔てしてはならないと語る。私はこの言葉を見て、その通り、弱きを助け強きを挫くことこそ、神様の正義だと思っていた。もちろん、私が弱い立場に居ることは、言うまでも無い。
でも、もしかしたら、違うのかもと思った。聖書は、そんなこと一言も言っていないからだ。むしろ人の顔色を伺うなという。それは、強い人に対してだけでなく、弱い人に対しても同じだ。弱いから助け、強いから懲らしめるのではない。何が起こったのか事情を確認し、正しい判断を行うこと。善悪の判断は、神様だけができることだ。だからイエス様も、裁いてはならないと言われた。それほどに裁くことは難しいからだ。むしろ、私達は神様に裁きをお任せしよう。
●13日(木)
【旧約聖書】
ハンナは祈って言った。「主にあってわたしの心は喜び、主にあってわたしは角を高く上げる。…御救いを喜び祝う。サムエル記上 2章1節
【新約聖書】
わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。コリントの信徒への手紙一 15章57節
神様がくださる勝利って何だろうと思い、聖書を開いた。それは、死に対する勝利の事のようだ。私達がずっと恐れて来て、今もなお恐れている死にイエス様が勝利された。そして、その勝利は私達にも与えられている。つまり、私達は死を克服した存在とされているのだ。一方ハンナは生まれたサムエルの事で神様喜びを表している。つまり、神様の与えてくださる救いとは命に関わる出来事なのだ。
しかし、死を克服するとは、不死になるということでは無い。私達は復活の希望をいただいているということ。死にさえ打ち勝つ勝利をいただいているのだ。
●14日(金)
【旧約聖書】
鷲が巣を揺り動かし、雛の上を飛びかけり、羽を広げて捕らえ、翼に乗せて運ぶように(して守られた。)申命記 32章11節
【新約聖書】
わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。ヨハネによる福音書 10章29節
私達は、イエス様を信じることによって、イエス様のものとされ、神の子と呼ばれる存在とされた。神様は、鷲のように羽を広げて私達を選び取り、翼に乗せて守ってくださる。そして、私達はこの方の手の中で守られているのだから、たとえどのような存在であっても、私達を奪い、害することはできないのだとイエス様ご自身が教えてくださっている。
だから私達は何も心配する必要が無い。もちろん、悪意ある存在に対して、警戒を怠ってはいけない。しかし、たとえそのような相手と向かい合う時にも、必ず神様が共にいて守っていてくださるのだ。さぁ、この日も、その守りの内で歩もう。
●15日(土)
【旧約聖書】
朝にはあなたの慈しみに満ち足らせ、生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください。詩編 90編14節
【新約聖書】
わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指すものです。テモテへの手紙一 1章5節
詩人の願いは希望の願いと言えるだろう。でも、生涯喜び祝わせてくださいと願っているということは、今、詩人はそのような状況にはいないということに他ならない。朝には…という願いも、今、苦しみの暗闇の中にいることを暗示しているのだろう。一方、新約の手紙では、「異なる教えに心を奪われないように」と勧めている。それは、神様の愛を無駄にしてしまうものだ。
異なる教えの具体的なことはわからない。でも、それはきっと私達をキリストの愛と救いから引き離そうとするものに違いない。私達が生涯、喜び祝うためには、この救いを受け取る以外に方法は無い。感謝して、受け取ろう。
●16日(日)
終末前主日
【主日早天礼拝】
眞木 重郎 伝道師
【主日礼拝】
眞木 重郎 伝道師
●17日(月)
【旧約聖書】
その契約と定めを守る人にとって、主の道はすべて、慈しみとまこと。詩編 25編10節
【新約聖書】
わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。マタイによる福音書 5章11~12節
私が持つ聖書の教えのイメージは、ずっと滅私奉公であった。自分の利益を考えず、神様のために、隣人のために、自分の全てを捧げて生きること。それを聖書も神様もイエス様も望んでいるとずっと思っていた。
でも、最近、よくよく聖書を読んでみると必ずしもそうでは無いことに気が付いた。今日の箇所も、私達が迫害される喜びについて語っているが、それは、天に大きな報い、つまり報酬があるからと言われている。迫害の苦しみの先に、ご褒美があるから頑張れって言われていると言うことだ。詩人も、主の道の先に、自分の最善があることを知っているからこそ、契約と定めを喜べるんだ。私自身のために、頑張ってみよう。
●18日(火)
【旧約聖書】
すべて御もとに身を寄せる人に、主は盾となってくださる。詩編 18編31節
【新約聖書】
(アブラハムは)希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。ローマの信徒への手紙 4章18節
世の中、そんなことできっこないと思ってしまうことが限りなくある。だから、そういうことをいう人は、夢追い人とか、怪しい人と言われる。きっと、イエス様の言葉も、そのように捉えられていたのではないだろうか。でも、本当はそうじゃ無い。確かに人間には限界があるが、神様とイエス様には限界が無い。だから、神様の約束は信じられるのだ。
でも、私達は神様の力を忘れ、見くびってしまう。だから、つい神様を疑ってしまうんだ。そんなこと起こりえようかと。けれど、疑いながらも、でも、神様ならと信じたい思いもある。神様、信じられる私としてくださいますように。
●19日(水)
【旧約聖書】
災いだ、寝床の上で悪をたくらみ、悪事を謀る者は。夜明けとともに、彼らはそれを行う。力をその手に持っているからだ。ミカ書 2章1節
【新約聖書】
イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない」。マタイによる福音書 20章25~26節
今日のみ言葉は、一見すると、力を持っていることが悪いと言うように聞こえてしまう。そんな力など捨ててしまいなさいと勧められているように思える。でも、そうなのだろうか?力を持っていることは悪い事なのだろうか?もしかしたらそうでは無いのかも。だってその力を与えてくださっているのも神様なのだから。
大切なことはその力の使い方だ。悪事を謀る者はその力を悪事に使う。支配者や偉い人は人々を支配するために使う。それって結局は自分のために使っているということ。でも、本当は、その力は、隣人のために使うようにと与えられたものだ。誰かの上に立つためではなく、誰かを支えるために私達は下に立とう。
●20日(木)
【旧約聖書】
主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。創世記 2章7節
【新約聖書】
わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。ガラテヤの信徒への手紙 2章20節
人は塵で肉体を形作られ、命の息を吹き入れられたことによって生きる者となったと聖書は語っている。だから、時々、肉体は悪いもので、命の息、つまり霊こそが私達の本質だという 説明を聞く。そう考えたくなる気持ちもよくわかる。日曜日の朝、目が覚めて、さぁ教会に行こうと頭では考えている。でも、あまりの眠さにまぶたが再び閉じてしまい、気が付け ばお昼になっていたということが私自身たびたびあったから(もちろん牧師になる前のことですよ)。
でも、そうじゃない。私達は肉体と命の息、この二つで、一つの存在とされている。そこに優劣は無い。神様に造られた者として歩もう。
●21日(金)
【旧約聖書】
主なる神よ、あなたは神、あなたの御言葉は真実です。サムエル記下 7章28節
【新約聖書】
わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。ヨハネによる福音書 8章31~32節
神様はいつも私達に言葉を用いて語り掛けられる。こう書きながら、自分でも当たり前だよなぁと思っていた。でも、果たして本当にそうだろうか?神様は何でもおできになる方だから、わざわざ言葉を用いなくても、目に見える形で現れたり、私達の心を直接的に刺激したりすることもできるはず。でも、言葉を用いてくださるのはなぜなのだろう?
それはきっと、誰が聞いても同じように神様の思いや考えが届くためではないだろうか?現象や思いは受け止め方が人それぞれ異なるはず。でも、言葉は、皆に共通して届けることができるんだ。だから、この日もみ言葉に留まろう。そこにこそ、神様の思いが詰まっているから。
●22日(土)
【旧約聖書】
わたしは慈しみ深く、とこしえに怒り続ける者ではないと、主は言われる。ただ、お前の犯した罪を認めよ。お前は、お前の主なる神に背き…わたしの声に聞き従わなかったと、主は言われる。エレミヤ書 3章12~13節
【新約聖書】
わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を、赦しましたように。マタイによる福音書 6章12節
今日のみ言葉は、罪の赦しについてだ。新約聖書の言葉は、一見すると、私が赦したから、私も赦してくれと神様に迫っているように思える。確かにそうでもあるけれども、まず何より、神様は、私達が罪を犯したことを認めよと言われる。すべてはそこから始まるのだから。
きっと、それって当たり前すぎて忘れてしまっていることなのかも。私達が病院に行くのだって、自分が病気だと認めるからだ。病気じゃないと思っていたら、病院には行かないだろう。だから、赦されるためには、まず罪を犯したことを認め、神様にごめんなさいと言わなければならない。そこから赦しの道が開かれるのだから。
●23日(日)
終末主日(収穫感謝祭)
【主日早天礼拝】
藤森 誠 牧師
【主日礼拝】
藤森 誠 牧師
●24日(月)
【旧約聖書】
(ネブカドネツァル王の言葉)わたしはいと高き神がわたしになさったしるしと不思議な御業を知らせる。ダニエル書 3章32節
【新約聖書】
(イエスの言葉)わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。マルコによる福音書 9章40節
イエス様はご自分に逆らわないものは味方だと言われる。すごい拡大解釈だなぁと思いつつ、でも、それってありがたいことなのかもしれないと思った。それは、私達には、まだ神様のことを信じていない家族がいるからだ。多くの家族がこういう。「あなたの信仰は自由にしたらいい。でも、私は関わらないからね」と。
その家族も、イエス様は、私の味方だと言ってくださるのだ。それは、家族伝道に苦しむ私達にとって大きな慰めであり、大きな励ましではないだろうか。ペルシャ王国の王様さえ、神様の御業を語ったのだから、私達の家族もきっといつか、神様の御業に気づいてくれるはずだ。
●25日(火)
【旧約聖書】
主はわたしのために、すべてを成し遂げてくださいます。詩編 138編8節
【新約聖書】
(キリストは)完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり…。ヘブライ人への手紙 5章9節
神様が成し遂げてくださる全てって何だろう?とみ言葉を読みながら思った。神様が成し遂げてくださることだから、きっと私の想像を超えるほどのすごい事に違いないと思って、聖書を開いたら、今日はその通りだった。それは私の救いに関わることだ。神様は、私が頑張って救いを勝ち取る道ではなく、神様が全てを背負って、私を救う道を備えてくださった。そ れこそがイエス様の十字架であり、復活である。
だから、そこに私が入り込む余地はない。“私が頑張ったから、救われる”という成分は一切含まれていないのだ。そういう意味でも神様は全てをご自分で成し遂げられた。さらには、私達が生きるために、衣食住さえ備えてくださる。神様感謝いたします。
●26日(水)
【旧約聖書】
主よ、あなたは驚くべき計画を成就された。遠い昔からの揺るぎない真実をもって。イザヤ書 25章1節
【新約聖書】
約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。ヘブライ人への手紙 10章23節
神様は何故か人間と約束をされる。相手は神様だ。それは約束ではなく、命令でもいいじゃないか。でも、そうでは無い。神様は私達の事を対等な相手として扱ってくださるからだ。そして、神様は、ご自分の約束を決して違えられない。それは、約束相手の私達を尊重しているということであるけれども、私達が約束を果たせなくても、神様はご自分の名前にかけてその約束を実現してくださるのだ。
その約束の最たるものが私達の救いに関わること。私達を救うために、救い主を送ると約束され、実際にイエス様が来てくださった。だから、私達は、揺るがぬ希望を持つことができる。
●27日(木)
【旧約聖書】
わたしは苦難の中から呼び求めるあなたを救い…。詩編 81編8節
【新約聖書】
(ペトロは)強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ…。マタイによる福音書 14章30~31節
神様もイエス様も私達が苦難や恐れの中で呼びかける声に答えてくださる方だと聖書は語っている。そして、その声を聞いたならば、助け出してくださるのだと。嬉しい言葉だし、安心できる。でも、そうだとしたら、今、苦しみの中に居る私達の声は神様に届いていないということになるのだろうか?私の叫びが小さいから、神様の耳に届いていないということなの?
もちろん、そんなことは無い。神様が小さい声を聴き分けることができないなどと言うことは無い。きっと、神様なりのタイミングを図っておられるのかもしれない。私達の心が完全に神様だけに注がれるタイミングを、だ。だから、助けられるまで、叫び続けよう。「主よ、助けてください」と。
●28日(金)
【旧約聖書】
わたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前に永く続くように、あなたたちの子孫とあなたたちの名も永く続くと、主は言われる。イザヤ書 66章22節
【新約聖書】
ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」ヨハネによる福音書 1章49節
旧約聖書で神様が造ると言われる新しい天と地は、新しいイスラエルと表現されることが多い。そして、イエス様に向かって、あなたはイスラエルの王と告白しているということは、新しい天地とは、イエス様が治められる世界のことなのだろう。さらに、その天地が永く続くように、人々も永く続くと言われている。
初めは、終わりの日に来る完成された世界を考えていたけれども、もしかしたら、今のこの世界も既にそうなのかもと思った。それは、イエス様が来られ、十字架と復活の出来事を通して、それまでとは、全く異なる世界としてくださったからだ。主を信じる者が救われる世界だ。
●29日(土)
【旧約聖書】
あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。詩編 84編11節
【新約聖書】
イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」。ルカによる福音書 2章49節
今日のみ言葉は面白い箇所が選ばれている。詩編において、詩人が語る喜びは、神の家で神様と共に過ごす恵みだ。それって想像のものというか、将来の希望なのだと思っていた。しかし、新約聖書を読むならば、それは、神殿で過ごす時間、つまり、今の私達にとっては教会で過ごす時間が神の家で過ごす時間となっているんだと気づかされた。それぞれの知識はあったけれども、どうしてかうまく結びついていなかった。
教会において、神様と共に過ごす時間は、私達が千日過ごす時間よりも、深い恵みがあると語る。そうだ明日は日曜日。神様の庭で過ごせる限られた日だ。急いで、準備をしなければ。それに明日からは、イエス様のご降誕を待ち望む日々でもあるのだから。
●30日(日)
待降節第1主日
【主日早天礼拝】
眞木重郎 伝道師
【主日礼拝】
辻川 篤 牧師

