2025年10月の『日々の聖句』
この日々の聖句は、聖書箇所を「ヘルンフート兄弟団『日々の聖句2025』(べテスダ奉仕女の家)」からいただきました。
聖書の本文は、日本聖書協会が発行している『聖書新共同訳』から転記しています。
『聖書新共同訳』:(c)共同訳聖書実行委員会(c)日本聖書協会、1987,1988。
●1日(水)
【旧約聖書】
主が、…すべての霊を奮い立たせられたので、彼らは出て行き、彼らの神、万軍の主の神殿を建てる作業に取りかかった。ハガイ書 1章14節
【新約聖書】
わたしは、あなたの行いと労苦と忍耐を知っており…。ヨハネの黙示録 2章2節
神様を信じたからと言って、全てが万事うまくいくわけでも、贅沢できるほどのお金が降って来る訳でもない。だから時に気づいたら、神様の事よりも自分の事を優先している私がいる。そんな生き方はダメだとわかっているけれども、私が生きるために、仕方ないと諦めてしまっている。
そんな私達を見て、神様は言われる。その苦しみは、私を離れてしまったからだと。神様から、心も体も離れてしまう時、私達は沢山の苦しみを味わうんだ。神様はその苦しみを知っておられ、私の所へ戻ってきなさいと言われる。なぜなら、「わたしはあなたたちと共にいる」との神様の語り掛けが私達の勇気の言葉となるから。
●2日(木)
【旧約聖書】
来て、神の御業を仰げ。人の子らになされた恐るべき御業を。詩編 66編5節
【新約聖書】
そして、百人隊長に言われた。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。マタイによる福音書 8章13節
神様は「来て、見よ」と言われる。神様の業は隠された所で起こるのではなく、私達が実際にその目で確認できる形でもたらされる。そして、その証言が沢山聖書におさめられている。エジプトでの10の災い、海が二つに分かれる奇跡、病が癒され、死者さえ甦る御業。そして、神の御子であるイエス様が、確かに復活され、天へと昇られた出来事だ。聖書のみ言葉は、神様の恐るべき御業を見た人たちの証言集なんだ。
今を生きる私達は、過去の御業を直接に見ることはできない。でも、神様は今も働いておられる。だから、私達もまた、神様の御業をこの目で直接見ることができるんだ。この日も神様の業を見詰めよう。そして、証言者となるんだ。
●3日(金)
【旧約聖書】
わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。イザヤ書 53章1節
【新約聖書】
マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。ヨハネによる福音書 20章18節
神様の起こされる御業はあまりに突拍子もない。だから、私達は、その出来事を聞いただけでは信じられないのかもしれない。マグダラのマリアは、この時、復活のイエス様に出会ったのだ。確かにそれを見、話までした。でも、そのことを弟子たちは信じなかったのである。
彼らがいつ信じたか。彼ら自身が復活のイエス様にお会いした時に他ならない。私達は直接にイエス様にお会いすることはできないけれど、確かにお会いすることができる。それは、聖書において、説教において、教会において、あぁ、イエス様がおられると信じることのできる日が来るんだ。それもまた神様の偉大な御業である。
●4日(土)
【旧約聖書】
あなたはその僕、わたしの父ダビデになさった約束を守り、御口をもって約束なさったことを今日このとおり御手をもって成し遂げてくださいました。列王記上 8章24節
【新約聖書】
あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。テサロニケの信徒への手紙一 5章24節
神様はいつだって有言実行されるお方だ。助けると約束されればその通りになる。滅ぼすと決めればその通りになる。しかし、時に神様はご自分の決定を翻される時がある。それは、いつだって、誰かを愛するがゆえの行いだ。人々が悔い改める時、あるいは誰かが必死にとりなしをする時、神様は人々を赦される。
そして、その願いの行き着く先は、イエス様の十字架の出来事に違いない。私達が犯した罪は何の償いも無しに赦していただけるものではない。しかし、あなたを救おうと言われた神様は、イエス様を通して、真にその約束を実現してくださった。後は、私達がそれを受け取るだけだ。
●5日(日)
三位一体後第16主日
【主日早天礼拝】
藤森 誠 牧師
【主日礼拝】
藤森 誠 牧師
●6日(月)
【旧約聖書】
わたしは信じます。命あるものの地で主の恵みを見ることを。詩編 27編13節
【新約聖書】
信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。ヤコブの手紙 5章15節
み言葉にある信仰に基づく祈りって何なのかな?と思った。もしかしたら、私の信仰が足りないから、病は癒されず、日々は苦しみに満ちているの?と思ったから。私の信心が足りないせいなのかな?
でも、み言葉を読んでいてちょっと違うかもと気づいた。なぜなら、祈りが癒すとは言われていなかったからだ。祈りが病人を救うのは、主が働いてくださるからだ。罪が赦されるのも、主が赦してくださるからだ。そうすると、祈りとは何なのか?それはきっと、主を動かす原動力となり得るものではないだろうか。私達の事を最も大切に思ってくださる方は、私達の祈りを待っているに違いない。さぁ、祈ろう。
●7日(火)
【旧約聖書】
あなたは全能であり、御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。ヨブ記 42章2節
【新約聖書】
神にできないことは何一つない。ルカによる福音書 1章37節
神様の御業を人間は妨げることはできないと聖書は語る。もちろん、その通りだ。でも、そうであるならば、どうして世界は神様のご意思と異なる方向に進もうとしているんだろう?私達があがこうとも、神様が人間を救うと決められたのだから、神の国の完成はとっくに来ていてもいいはずなのにと思った。
その理由は、ヨブが告白する通り、私達が悟ることを待っているからなのかもしれない。神様は無理やり従って欲しいのではなく、私達にわかって欲しいのかも。私達を救いたいという思いがどれほど大きいものなのかを。それを気づくのに時間がかかっているんじゃないだろうか。
●8日(水)
【旧約聖書】
主よ、あなたは貧しい人に耳を傾け、その願いを聞き、彼らの心を確かにし…。詩編 10編17節
【新約聖書】
「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。ルカによる福音書 19章5~6節
イエス様の救いを受け取るのに相応しい時ってあるのかな?といつも思う。それは、もう少し勉強してから、聖書のこと神様のことがわかってから洗礼を受けたいと言われるからだ。その気持ちも痛いほどによくわかる。でも、いつになったら大手をふって、さぁ、救いを下さいとイエス様の前に進み出ることができるのだろう?
イエス様は「今日、あなたの家に泊まりたい」と言われる。私の所に救いを届けてくださるためだ。でも、つい、もう少し時間が経ってからと言いたくなる。しかし、イエス様が「今日」と言われるのであれば、私達は既にそれを受け取るのに相応しいと言われているということ、なんじゃないだろうか。さぁ、救いを受け取ろう。
●9日(木)
【旧約聖書】
地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。創世記 12章3節
【新約聖書】
信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。ガラテヤの信徒への手紙 3章9節
今日の旧約聖書のみ言葉は、とても有名な箇所で、アブラハムの子孫たちへの祝福が約束されている場所だなぁと思いながら、み言葉に聞いてみたら、ふと、あれ?おかしいなと思った。この氏族と訳され ている元の言葉は、一般的な人とか、種族という意味も持っているからだ。そうすると、実はもうこの時点で神様は、全ての人がアブラハムを通して祝福される事を宣言しておられたということになる。
そうであるならば、もう既にこの箇所において、神様の祝福は全ての人に与えられる可能性を秘めていたということだ。だから私達もアブラハムと同じ信仰によって祝福をいただこう。
●10日(金)
【旧約聖書】
わたしはあなたを、甘いぶどうを実らせる。確かな種として植えたのに、どうして、わたしに背いて、悪い野ぶどうに変わり果てたのか。エレミヤ書 2章21節
【新約聖書】
神は、前もって知っておられた御自分の民を退けたりなさいませんでした。ローマの信徒への手紙 11章2節
神様はイスラエルの民を選ばれた。しかし、イスラエルはその選びに応えきれず、神様を捨ててしまった。さらには、遣わされた救い主さえ捨てたのだ。では、それに対して神様はどうされただろうか。イスラエルを捨て、その代わりに異邦人を選ばれたのだろうか?もちろんそうでは無い。神様は、その救いの対象を拡大されたのだ。イエス様を信じる人が皆、救われるために。
神様は、言われる。どうしてよい種を植えたのに、悪いぶどうとなってしまったのかと。それは、イスラエルの人たちだけで無く、私達も同じではないだろうか。しかし、その悪いぶどうのために、神様は救い主を与えてくださったのだ。だから、私達はその恵みを喜んで受け取ろう。
●11日(土)
【旧約聖書】
主よ、わたしたちの主よ。あなたの御名は、いかに力強く、全地に満ちていることでしょう。詩編 8編2節
【新約聖書】
(あなたがたは)エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。使徒言行録 1章8節
神様の御名は全地に満ちていると詩人は語る。でも、イエス様は、地の果てまで、私の証人として語り継げよと命じられた。それって一体どういうことなのだろう?と思った。でも、そうかと気づいた。それは、人々も神様の名、つまり神様という存在は知っていたとしても、神様がなさった御業までは知られていないからかもと。
神様がなさった御業とは、イエス様に詰まっている。イエス様の行動に、イエス様の振る舞いやしぐさに、イエス様の言葉に詰まっているんだ。だから、全てのキリスト者たちは、それを告げ広めよ言われている。私達は私とイエス様との出来事を宣べ伝える一人なのだ。
●12日(日)
三位一体後第17主日
【主日早天礼拝】
眞木 重郎 伝道師
【主日礼拝】
眞木 重郎 伝道師
●13日(月)
【旧約聖書】
主はこう言われる。「お前の切り傷はいえず、打ち傷は痛む。…(けれども)わたしがお前の傷を治し、打ち傷をいやそう」。エレミヤ書 30章12、17節
【新約聖書】
あなたがたも知っているように、御子は罪を除くために現れました。御子には罪がありません。ヨハネの手紙一 3章5節
イスラエルの負う傷は神様によってもたらされたものである。それは、彼らを正しく懲らしめるためであり、罰せずにはおられないからだ。しかし、それは正しく反省するならば、癒しが与えられるということでもある。だからこそ、人々の癒し、回復もまた宣言されている。
でも、果たしてイスラエルは正しく反省したから癒されたのかな?聖書を読んでいてもちっともそうとは思えない。実は、この癒しはただ、神様の憐れみによってもたらされたものだ。その最大の回復はイエス様による罪を取り除く出来事。私達はそのことを通して、全ての痛みを取り除かれているのだから。
●14日(火)
【旧約聖書】
あなたはわたしの魂を死から、わたしの目を涙から、わたしの足を突き落とそうとする者から、助け出してくださった。詩編 116編8節
【新約聖書】
ときに、十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた。この女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった。ルカによる福音書 8章43~44節
神様は私達にとって、絶望の中で見出す希望の光なのかもしれない。詩人は語る、私は死から、涙から、足のつまづきから助けられたと。同じように、一人の女性がイエス様に最後の願い、いちるの望みをかけて、衣の房に触れた。すると、途端に癒された。12年もの間、誰一人治すことのできなかった病をだ。
私達はたとえ絶望の中に落ちようとも、この方に向かって手を伸ばせば、必ずこの方が手を掴んでくださる。いや、そのどん底にまで降ってきてくださって、私達を癒し、助け出してくださるお方だ。だからこそ、私達は安心し、信頼することができる。でも、できれば神様、どん底に落ちる前に、救い出してくださいね。
●15日(水)
【旧約聖書】
あなたたちは喜び祝いながら出で立ち、平和のうちに導かれて行く。イザヤ書 55章12節
【新約聖書】
七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」イエスは言われた。「悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」。ルカによる福音書 10章17、18、20節
旧約聖書と新約聖書でつながりがあるように思えたが、ちょっと違っていた。旧約は喜びながら出発すると語り、新約は喜んで帰ってきたという。でも、どうして彼らが喜ぶかと言えば、その道中に神様の導きがあるからではないだろうか。旧約は平和に導かれることに、新約は、主の名によって悪霊さえ支配できることに。
だから、イエス様は言われる。天に名前が記されていることを喜べと。本当に嬉しいことは、悪霊がいうことを聞くことでは無くて、神様がどれほど力を持った方であるかを知り、その方が私達を知っておられるということ。その方が私達を導いてくださることこそ喜ぶべきことだ。
●16日(木)
【旧約聖書】
恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを祝福し、子孫を増やす。創世記 26章24節
【新約聖書】
わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。エフェソの信徒への手紙 1章3節
神様はよく、恐れるなと言われる。イエス様も同じだ。それはきっと、私達が何かにつけ、恐れてしまう者だからに違いない。だから、神様は、私はあなたと共に居ると約束される。さらに、イエス様の祝福、恵みをも加えられている。だから、私達は恐れる必要など全くないのである。
それでも、恐れてしまうのは何故なのだろうか?神様の祝福が足りないからだろうか?もちろん、そんなことはない。神様の祝福は私に十分注がれている。むしろ、足りないのは、神様への信頼かもしれない。神様をすぐに頼れない私の弱さが、私自身を苦しめている。でも、大丈夫。だからこそ、神様は「恐れるな」と語り掛けて下さるから。
●17日(金)
【旧約聖書】
「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」創世記 32章27節
【新約聖書】
イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。マタイによる福音書 19章13節
私達は神様やイエス様の祝福をいただくということに少し鈍感になっているのかもしれない。頭のどこかで、祝福って勝手に注がれて、与えられるものと思っている節があるからだ。自分からそれを受け取りに行かなくても、神様が与えてくださると考えている。
私達が神様に祝福を下さいと強要することはできないのかもしれない。だから、弟子たちは親を叱ったんだ。でも、自分が、家族が、幸せに生きるためと考えたら、もっと必死になるはずだ。だから、ヤコブは無理やりにでも、それを受け取ろうとした。だって、本当はそれ無しには私達は生きられないのだから。さぁ、私達もこの日、神様の祝福を受け取りに御前に進み出よう。
●18日(土)
【旧約聖書】
憐れみと赦しは主である神のもの。ダニエル書 9章9節
【新約聖書】
わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。エフェソの信徒への手紙 1章7節
ダニエルの言葉を聞いて、ドキッとした。それは、私にとっての神様は、憐れみと赦しというよりも、正しさと裁きのお方だったからだ。でも、きっと、ダニエルのいう通りだ。神様は正しいお方でありながら、私を愛し、私を憐れんでくださる。だからこそ、裁きの結果をそのまま背負わせることをためらい、赦しを与えてくださるのだ。
でも、それって、神様が正しい裁きを曲げられると言うことなのだろうか?もちろんそうでは無い。実は、御子イエス様が私の裁きを背負ってくださったから、私達の罪は赦されたのだ。これこそが神様からいただける最大の恵みだ。さぁ、この日も、赦しの恵みを受け取ろう。
●19日(日)
三位一体後第18主日
【主日早天礼拝】
藤森 誠 牧師
【主日礼拝】
藤森 誠 牧師
●20日(月)
【旧約聖書】
彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ。ゼカリヤ書 9章10節
【新約聖書】
悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン」。マタイによる福音書 4章8~10節
旧約聖書の彼って誰かなと思って聖書を開いてみたら、救い主のことだった。神様が遣わす救い主は王として、世界の果てにまでその支配が及ぶことが語られている。新約聖書のみ言葉は、しかし、その力はさらに上であることを示してくれる。救い主の支配は、世界だけではない。神様に敵対する悪魔にさえ通用する。悪魔もまた、救い主の支配には逆らうことができないのだ。
その方は、私を救うために来られたイエス様に他ならない。イエス様は、悪魔から権力をもらう必要はない。なぜなら、既に神様からそれらの全てを託されているのだから。この方に全てをお任せしよう。
●21日(火)
【旧約聖書】
アブラムは、主の言葉に従って旅立った。創世記 12章4節
【新約聖書】
神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。ローマの信徒への手紙 9章24節
アブラハムはどうしてすぐに神様の言葉に従うことができたのかなといつも思う。神様の言葉に感動したからか、これ以前に神様との関わりがあったのか。詳しい所は分からない。でも、神様はこのアブラハムのゆえに、子孫たちへの祝福を約束された。
しかし、一方で、その系譜に連ならない人たちも沢山いた。その人たちは、神様の祝福からは遠く離れた存在として蔑まれてきたのだ。しかし、神様は、その人たちにも憐れみを注いでくださった。まさに、イエス様を信じる全ての者がその祝福の中に入れるようにしてくださったのだ。さぁ、この日も、神様の祝福の中を歩もう。
●22日(水)
【旧約聖書】
まことに、主はこう言われる。かつて、この民にこの大きな災いをくだしたが、今や、彼らに約束したとおり、あらゆる恵みを与える。エレミヤ書 32章42節
【新約聖書】
あなたがたについてわたしたちが抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているからです。コリントの信徒への手紙二 1章7節
神様は公平・公正な方だ。だから私達に、恵みだけを与えるのではなく、災いを降される。一方で、災いだけでなく、恵みも与えてくださるとも言える。私達に降りかかる災いも神様がご存じでおられて、関わっておられるのだ。
さらに手紙の著者であるパウロは語る。たとえ、苦しみがあっても、希望は揺らぐことは無いと。それは、その苦しみが私達を、ダメにしてしまうことはないことを知っているからだ。たとえどんな苦しみの中にあっても、神様は、必ずやそこから、私達を救い出してくださる。だから、この日も希望を持って歩もう。神様の御手の内に私達はおかれているのだから。
●23日(木)
【旧約聖書】
女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない。イザヤ書 49章15節
【新約聖書】
神は愛だからです。ヨハネの手紙一 4章8節
時に神様は、私を忘れてしまったのではないかと思うことがある。何だか、災難続きの時、祈り続けているのに何も起こらない時。そんな時に、不安の現われとして、心にそんな思いがよぎるのだろう。でも、聖書は、はっきり語る。私があなたを忘れることは決してないと。なんて嬉しい言葉だろうと思う。天地を造られた神様がこんな小さな私の事さえ知っていてくださるなんて。それも、決して忘れないと 約束してくださる。
それは、ひとえに神様が愛のお方だから。何より、私達を生かすために、イエス様の命さえ与えてくださったからこそ、私達を忘れることはできないのかも。今日も神様に憶えられることを胸に歩んで行こう。
●24日(金)
【旧約聖書】
あなたの未来には希望がある、と主は言われる。エレミヤ書 31章17節
【新約聖書】
神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。エフェソの信徒への手紙 2章7節
神様は、言われる。「未来には希望がある」と。一昔前なら受け入れられたかもしれない。でも、今、それをそのまま受け取ることができる人は、果たしてどれほどいるだろうか。支出ばかりが増えて、収入は増えない日々。政治は腐敗にまみれ、人々は互いを疑い、ギスギスしている。そんな日々にあって、私達はこの日を生きることに精一杯で、未来にまで思いを馳せることができないでいるのではないだろうか。
しかし、それでも、神様は、希望があると語ってくださる。そのために、イエス様を遣わしてくださったのだから。私達の希望は、赦されて、神様と一緒に過ごすことができるという点だ。
●25日(土)
【旧約聖書】
あなたたちは食物に飽き足り、国のうちで平穏に暮らすことができる。レビ記 26章5節
【新約聖書】
神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。ヨハネによる福音書 6章33節
旧約聖書で食物と訳されている言葉は、他の翻訳ではパンとなっていた。食べるものの心配なく、他者から脅かされずに生きることができると神様は約束される。そんな平穏な日々が過ごせたらどれほどありがたいかと思う反面、でも、そんな日はきっと来ないだろうと諦めてしまっている自分がいることに気が付いた。たとえ、神様を信じていても、食べるに困り、トラブルや悩みを抱える日々を歩んできたからだ。
しかし、イエス様は言う。神のパンは命を与えるものだと。そのパンとは、イエス様ご自身のことかもしれない。この方が一緒に居て、私にパンを与え、全てを整えてくださるなら、私は平穏に生きられるのかもと思う。さぁ、今日こそ、全てをイエス様にお委ねしてみよう。
●26日(日)
三位一体後第19主日
【主日早天礼拝】
眞木 重郎 伝道師
【主日礼拝】
眞木 重郎 伝道師
●27日(月)
【旧約聖書】
ものみながあなたに目を注いで待ち望むと、あなたはときに応じて食べ物をくださいます。すべて命あるものに向かって御手を開き、望みを満足させてくださいます。詩編 145編15~16節
【新約聖書】
ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。ルカによる福音書 3章11節
神様は、私達に必要な物をすべて与え、満足させてくださると語られている一方で、ヨハネは、持っている者は、持っていない者に分け与えよと語る。一体、私の手の中にあるものは、どうやって用いるべきなのかな?
神様は時に、ご自分の働きのために、私達を用いられることがある。これってその出来事なのかも。神様は、私達に食べ物を与えてくださるけれど、でも台所に突然、食材が現れるということはないはずだ。お店で買ったり、人からもらったりすることで神様は私達の必要を満たしてくださる。だから、私達の手の中にあるものを分けてあげることって、神様の働きに協力することなのかも。神様が支えてくださいますように。
●28日(火)
【旧約聖書】
痛手に先立つのは驕り。つまずきに先立つのは高慢な霊。箴言 16章18節
【新約聖書】
(イエスの言葉)「人から出て来るものこそ、人を汚す」。マルコによる福音書 7章20節
今日のみ言葉はいつにも増して厳しい指摘だ。他者を傷つける言動は、私達の内から出てくると言われているからだ。旧約聖書はおごりと高慢によってと言われている。その先に待つのは痛手とつまづきだと。しかし、他の日本語訳聖書では、破滅と挫折だと訳している。痛手なんて軽いものじゃない。その先に待つのは破滅なのだ。でも、心から出てくる悪しき思いを消すことができないから苦しんでいる。
だからイエス様が来られた。その苦しみの現実から私達を救い出すためだ。まだ私達は完成への途上であるけれども、でも、この方を思う時、私達は少しずつ変えられていくのだから。
●29日(水)
【旧約聖書】
今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。出エジプト記 19章5節
【新約聖書】
あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。ヨハネによる福音書 15章10節
聖書はいつだって、み言葉に従いなさいと勧めている。でも、それができなかったというのが、旧約聖書の出来事ではなかったか。それなのにどうして、イエス様は、なお、掟を守れと言うのだろう?そんなことできるはずないのにと思ってしまった。
ふと、気づいた。イエス様は、愛に入るために、掟を守れとは言われなかった。守れたら、愛に留まることができると言う。旧約は掟を守れたら祝福がいただけると言われている。これって似ているようで、大きな違いなのかも。私達はたとえ失敗しても、イエス様の愛が無くなる訳ではないんだ。だから、あきらめずに挑戦しよう。失敗したら、「ごめんなさい」と言えばいいんだ。
●30日(木)
【旧約聖書】
主よ、立ち帰り、わたしの魂を助け出してください。あなたの慈しみにふさわしく、わたしを救ってください。詩編 6編5節
【新約聖書】
神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。コリントの信徒への手紙二 1章4節
神様はあらゆる苦難に際して、私達を助け出してくださる。神様が知らぬ苦しみは無く、神様が関わらない困難は無い。だからこそ、苦しみの時、神様に向かって、その思いを吐き出すんだ。
でも、手紙の著者であるパウロはそこで終わってしまわない。私が救われて、助けられて終わりではないと語る。その先にあるのは、その慰めを未だ苦難の中にある人たちの所へと届けることだ。今は、苦しみの中にあるけれども、でもそれも神様がご存じで必ずや助け出してくれるからと慰め、励ますことが、助けられた者に与えられた使命だ。それって、苦しみの中にある人に神様御自身を届けるということなのかも。
●31日(金)
【旧約聖書】
なぜ、わたしと争い、わたしに背き続けるのか、と主は言われる。エレミヤ書 2章29節
【新約聖書】
人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。ローマの信徒への手紙 3章23、24節
旧約聖書のみ言葉において、神様はかなり怒っておられる。それは、イスラエルの民が、神様に背き、偶像に従っているからだ。どれほど、あなた達をこれまで愛し、仕えて来たのかと。だから、何故と問うのである。何か私に落ち度があっただろうかと。
しかし、人間は、罪によって、神様に従うことができなくなっている。私達は悪いものとなってしまったからだ。しかし、神様はその私達のためにイエス様をくださった。その恵みにより、ただで赦していただける。ひとえに、神様との平和を回復するためだ。神様の平和とは、神様との正しい関係のこと。赦された私達は神様の栄光をいただくことができる者とされたのだ。