2025年1月の『日々の聖句』
この日々の聖句は、聖書箇所を「ヘルンフート兄弟団『日々の聖句2025』(べテスダ奉仕女の家)」からいただきました。
聖書の本文は、日本聖書協会が発行している『聖書新共同訳』から転記しています。
『聖書新共同訳』:(c)共同訳聖書実行委員会(c)日本聖書協会、1987,1988。
●1日(水)
【旧約聖書】
若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行って、わたしが命じることをすべて語れ。エレミヤ書 1章7節
【新約聖書】
わたしは福音を恥としない。ローマの信徒への手紙 1章16節
今日のみ言葉を読んで、真っ先に思ったのは、「私は若くなくてよかった」だった。きっと、その思いを神様は見抜かれたのだ。「私はもう若くありませんから」と神様のご命令を断ろうとする私を神様はたしなめておられるのだ。
神様のご命令の前に、私達は年齢を言い訳にできないのかも。神様はできないことをせよという方ではない。だから、たとえ若くとも、たとえ歳をとっていても、神様が与えられる働きがあるのなら、それは私にとって実現できる働きなんだ。この年の初めの日にも神様の願いは変わらない。私の言葉を語れと。この一年も神様のご命令によって、歩みだそう。
●2日(木)
【旧約聖書】
人は恐怖の罠にかかる。主を信頼する者は高い所に置かれる。箴言 29章25節
【新約聖書】
小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。ルカによる福音書 12章32節
私たちの人生は不安の連続だ。幸せの真っただ中に置かれている時にさえ、この幸せが壊れてしまったら、失われてしまったらどうしようと心配になる。いやむしろ、順調な時ほど心配は大きいのかもしれない。
しかし、その私達に向けてイエス様の言葉が与えられた。恐れるなと。それは根拠のない励ましではない。イエス様の根拠はただ一つ。あなたたちを心配する父がおられる。この父は私達に必要なものを喜んで与えてくださるお方だからだ。その方がこの一年も共に居てくださると信じるならば、私達には何も恐いものはないのだ。安心して歩みだそう。
●3日(金)
【旧約聖書】
(神が)言われたことを、なされないことがあろうか。告げられたことを、成就されないことがあろうか。民数記 23章19節
【新約聖書】
そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。マタイによる福音書 7章24節
神学校に通っていた時、先生からこんなことを教わった。神様の預言は、予言でもあるのだと。それは、神様は語られたことを必ず成し遂げられるから。今日の旧約聖書のみ言葉は、神様ご自身の言葉。だから、それは確かなことなのだ。
それゆえに、私達は神様の言葉に従うならば、賢き者となれる。なぜなら、神様が私達に与えてくださる言葉は、全て、私たちのための言葉だからだ。神様が得をするための言葉ではない。私たちが平和に愛し合って生きることができるようにと、与えてくださった言葉だ。だから、今日もみ言葉に生きよう。そこにこそ、神様の約束が実現されるのだから。
●4日(土)
【旧約聖書】
まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。わたしを贖ってください。詩編 31編6節
【新約聖書】
だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。ヘブライ人への手紙 4章16節
今日の旧約聖書のみ言葉は、十字架の上でイエス様が語られた言葉の一つである。イエス様は十字架の上で、自分を苦しめる者たちではなく、ただ神様だけを見詰めておられた。そこにこそ、ご自分の平安があると信じておられたからだ。
私達も自分の安息がどこにあるのかと考える。実はもうその答えを私達は握っているのだ。なぜなら、私達は十字架の上のイエス様を見詰めるからだ。イエス様を見詰める時に、イエス様の言葉もよくわかるのかもしれない。主の安息が神様の御許にあるように、私達の安息も神様の御許にある。喜びつつ、神様の御許へと大胆に近づこう。そこにイエス様もおられるから。
●5日(日)
降誕後第2主日
【主日早天礼拝】
藤森 誠 牧師
【主日礼拝】
藤森 誠 牧師
●6日(月)
【旧約聖書】
主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。詩編 23編2~3節
【新約聖書】
あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。ペトロの手紙一 2章25節
これを読んでおられる皆様はきっと、もう立派な大人である方が多いだろう。それも、これまでに沢山の困難を切り開いてきた勇士たちである。そんな勇士たちに、今更導き手が必要なのであろうか?幼い子どもたちに対してであればよくわかる。でも、もう必要ないと思いませんか?
しかし、聖書はそうでは無いと言う。この導き手は、私たちの魂を生き返らせて下さる方だと語る。それは、私達が生きている限り、魂の渇きを憶えるから。だから、この方は私達がどれ程に歳を重ねても、必要な方なのである。私達は実はさまよっていたけれども、この日、またこの方の元へと連れ戻していただいたのだ。
●7日(火)
【旧約聖書】
わが子よ、主の諭しを拒むな。主の懲らしめを避けるな。箴言 3章11節
【新約聖書】
(イエスは)権威ある者としてお教えになった。マルコによる福音書 1章22節
幼いころから、沢山のお小言をもらいながら生きてきた。そして、その大半は、聞きたくもない、耳障りな言葉である。もちろん、それが私のために言われていることだということは、分かっている。でも、そんなこと聞きたくないと耳を閉ざしてしまうのが私たちなのではないだろうか。
しかし、今日のみ言葉はそれを避けてはダメだと言う。なぜなら、それは、やっぱり私のために必要だと神様が与えられたものだから。その懲らしめや諭しを超えた先に、私の幸せが待っているからだ。神様が私のためにと与えてくださる諭しと懲らしめであるならば、喜びはできないけれども、せめて忍耐を持って受け取ろう。
●8日(水)
【旧約聖書】
神よ、わたしの心は確かです。わたしは賛美の歌をうたいます。「わたしの誉れよ。目覚めよ」。詩編 108編2~3節
【新約聖書】
(足の不自由な男は)躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。使徒言行録 3章8節
詩人も足の不自由な男も、神様から助け出されたがゆえに、神様を賛美している。でも、何かをしてもらったから神様を賛美するって、その思いへの純粋さが失われているような気がして、気が引ける思いだった。
でも、と思わされた。でも、私だって、やっぱり何かをしてもらったからこそ、その喜びが賛美となるのではないだろうかと。何より詩人や男たちは命に関わる救いをいただいたのだ。だからこそ、賛美があふれ出たんだ。私も、神様に救い出された時、心に賛美があふれていたはず。どうしてそのことを忘れてしまったんだろう。この日、新たに取り戻そう。神様を賛美する心を。
●9日(木)
【旧約聖書】
あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。申命記 8章2節
【新約聖書】
それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。マルコによる福音書 1章12~13節
もし、私が神様に試されたらどうするだろう。神様の戒めを守って神様に従えます!と言いたいところだが、きっとうまくはいかないだろう。むしろ、従えない私の姿を見て、神様はがっかりされるに違いない。その点、イエス様は完璧だ。だから私達はイエス様のようになろうとする。でも、できなくて、その現実に苦しむのだ。
しかし、聖書はイエス様のようになれとは言われない。私達は神様の戒めに従えないからこそ、戒めを全うされたイエス様の助けが必要なのだ。なぜなら神様は、私達を苦しめることそのものが目的なのではなく、神様を信じてくれるかを見たいのだから。不従順な私を導いて下さい。
●10日(金)
【旧約聖書】
どうか、彼らが生きている限りわたしを畏れ、わたしの戒めをことごとく守るこの心を持ち続け、彼らも、子孫もとこしえに幸いを得るように。申命記 5章29節
【新約聖書】
あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。ヨハネによる福音書 13章34~35節
神様の掟は、私達を幸せに導くために存在している。だからこそ、その掟に生きるならば、私達はとこしえに幸いを得ることができるのだ。この日、イエス様は私達に新しい掟を与えられる。互いに愛し合うようにと。
でも、その戒めを守ることができないのは一体どうしてなのだろう。きっと、自らの力で神様の掟を守ろうとしているからかも。自分で頑張ろうとするから、失敗する。神様もイエス様もいきなり掟を守れとは言われなかった。お二人とも、私がしたようにと言われる。さらに神様は、幸いを得ることができるようにと祈ってくださっている。その助けをいただいて歩みだそう。
●11日(土)
【旧約聖書】
わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。それは彼らとの永遠の契約となる。エゼキエル書 37章26節
【新約聖書】
今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、恵みと平和があなたがたにあるように。ヨハネの黙示録 1章4~5節
「一国一城の主」という慣用句がある。最近は自分の家を手に入れた人に使ったりするが、自らの領地を手に入れた人を指す言葉である。領地なんて大げさかもしれないが、自分の住まい、自分が帰って来られる場所は、私達に大きな安心を与えてくれるものだ。
今日、神様が人々と結ばれた契約も同じだ。神様の用意された場所に、永遠に住まうことができると。さらにそこには、人々を導く牧者がいる。だから、人々は安息することができるんだ。この牧者こそイエス様。でも、本当の安心は、牧者であるお方がおられるからこそだ。その方が私達に恵みと平和を与えてくださるのだから。
●12日(日)
顕現後第1主日
【主日早天礼拝】
辻川 篤 牧師
【主日礼拝】
辻川 篤 牧師
●13日(月)
【旧約聖書】
むなしいものを見ようとすることから、わたしのまなざしを移してください。詩編 119編37節
【新約聖書】
あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。ルカによる福音書 11章34節
詩人は空しいものから目をそらして欲しいと願っている。その気持ちはよくわかる気がする。私たちの周りにも空しいものがたくさんあるからだ。でも、私達はそういうものにこそ、振り回されているんじゃないだろうか。イエス様もともし火は目だと言われた。目が正しい方を見ていれば、体全体は明るいのだと。
では、私達は何を見詰めるべきなのだろうか。詩人は、それはあなたの掟ですと告白する。私達は何と告白すればいいのだろうか。きっとそれは、神様のみ言葉だ。私達を正しい道へ導く道しるべはみ言葉そのものだから。どうか、私たちの目を正しいものへと向けてください。
●14日(火)
【旧約聖書】
造り主を尊ぶ人は乏しい人を憐れむ。箴言 14章31節
【新約聖書】
イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」マタイによる福音書 19章21節
貧しい人を助けることが良いことであることは、きっと誰しもが賛成するだろう。でも、なぜそれをするのかと問われたならば、答えは様々に違いない。聖書は、その答えを神様と結びつけて考える。道徳とか損得というものを一切抜いて、ただ、神様が造られたという一点なのだ。
イエス様の言葉もきっと同じだ。私は完全になるために、お金が邪魔をするから、最善の使い道として施すことを勧めているのだと思っていた。しかし、神様が私達に本当に求めておられることは、隣で困っているその人を助けること。それこそが神様の御心に適う行いなのだ。だってその人のことも神様は心配されるのだから。
●15日(水)
【旧約聖書】
姦淫してはならない。出エジプト記 20章14節
【新約聖書】
夫は妻に、その務めを果たし、同様に妻も夫にその務めを果たしなさい。コリントの信徒への手紙一 7章3節
今日のみ言葉は、難しいテーマだ。それは、夫婦の関係は昔と今とで変わりつつあるから。でも、2000年以上たった今も、変わらないことがある。それは、夫婦とは神様が結び合わせたものであるということだ。私達はそのことを忘れてはならない。
様々な事情で、夫婦関係が壊れてしまうこともあるだろう。その時も、夫婦の間には神様が立っておられることを意識したい。神様が二人に何を望んでおられるのかを聞くことが求められている。夫婦の関係が壊れないように、良い関係を保つことも、また求められている。神様、私の最も身近な隣人とよき関係を築けますように。
●16日(木)
【旧約聖書】
その日には、人間の高ぶる目は低くされ、傲慢な者は卑しめられ、主はただひとり、高く上げられる。イザヤ書 2章11節
【新約聖書】
神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。コリントの信徒への手紙一 1章27~29節
今日のみ言葉を読みながら、ふと思った。どうして、神様の前で誇ってはダメなんだろうかと。こんなに才能がありますと神様に自慢してはダメなのかな?と思いめぐらしていて、ふと気づいた。私の才能って、実は神様からのいただきものなのじゃないか、と。私に才能を与えてくださったのは神様なのだ。それなのに、こんな才能を持っていてスゴイでしょと神様に誇ることはできないのだ。
だから、本当に誇るべきは神様だ。本当は、何もできない私なのに、神様は、私にこんな才能を与えてくださったから、頑張れるんだ。神様、あなたの御業に感謝します。
●17日(金)
【旧約聖書】
人の歩む道は主の御目の前にある。その道を主はすべて計っておられる。箴言 5章21節
【新約聖書】
主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。コリントの信徒への手紙一 4章5節
「歩む道のすべて計っておられる」なんて言われて、監視されているようなイメージを持ったけれども、どうやら、この計ると言うのは、心を配るとか、見守るという意味のようだ。それがわかって一安心。神様は私たちの歩みすべてに心を傾けてくださっているということだから。
私たちの歩みは何が正解なのかよくわからない。失敗したと思っても良い道もあれば、大成功と思っても悪い道もある。だから私達は性急に結論を見出してはならないのかもしれない。なぜなら、私達の歩む道の全てに神様が関わっておられるからだ。だから、そのつまづきにもきっと意味があるはずなんだ。
●18日(土)
【旧約聖書】
あなたは、今日、上の天においても下の地においても主こそ神であり、ほかに神のいないことをわきまえ、心に留め(なさい)申命記 4章39節
【新約聖書】
あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。フィリピの信徒への手紙 4章5、7節
私達キリスト者は皆、神様はお一人であるということをよく知っている。だから、わざわざ言われなくてもよいはずだ。それなのに、み言葉は、語り掛ける。主こそ神、他にいないと知れと。
それはもしかしたら、私が他のものを神様のように信じ、頼っているからかもしれない。お金に人に名誉に地位に。それらが時として、神様以上の信頼を与えてくれると勘違いしているんだ。それは、きっと、神様がすぐそばにおられることを忘れてしまうから。私を支えてくださる方が居ることを忘れる時に、私は不安になり、神様以外のものを求めようとするのかも。主よ、どうかこの日も共にあってお守りください。
●19日(日)
顕現後第2主日
【主日早天礼拝】
藤森 誠 牧師
【主日礼拝】
辻川 篤 牧師
●20日(月)
【旧約聖書】
主があなたのとこしえの光となり、あなたの神があなたの輝きとなられる。イザヤ書 60章19節
【新約聖書】
わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。ヨハネによる福音書 12章45~46節
旧約聖書の預言が語られた時、人々は、捕らえられ奴隷として暮らしているという暗闇の中にいた。しかし、そこに神様の言葉が光として与えられた。でも、神様のくださる言葉は、抽象的なものではなく、現実に起こされる言葉だ。
その出来事はイエス様が来られることによって成し遂げられた。私たちの主である方は、私たちの光として、希望となるために来られたのだ。それはまさに、私たちの罪を赦し、イエス様と神様の傍に立つことができるためだ。光そのものであるイエス様の横に立つ時、そこには暗闇は存在できないから。この日もイエス様の光の中を歩んで行こう。
●21日(火)
【旧約聖書】
あなたの仰せによりすがらせ、命を得させてください。わたしの望みを裏切らないでください。詩編 119編116節
【新約聖書】
(イエスの言葉)わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。ヨハネによる福音書 5章24節
詩人の語る望みって何なのだろうと思って聖書を開いてみたら、それは神様の掟を守るということのようだ。詩人は、神様の掟を守ることで、命を得ることができると知っているのだ。同時に、掟に逆らう者は、皆、捨てられ滅ぼされたということも。
しかし、その現実は、イエス様の到来によって大きく変えられた。その命は、イエス様を信じる者へ与えられるようにされたのだ。それはきっと、掟に従うことができない者があまりにも、多かったから。今は、イエス様を信じる者は皆、命をいただくことができるのだ。神様、感謝いたします。
●22日(水)
【旧約聖書】
(イザヤの言葉)「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者」。イザヤ書 6章5節
【新約聖書】
(パウロの手紙)わたしは神を冒瀆する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、憐れみを受けました。テモテへの手紙一 1章13節
私達は、自らの中に悪いものがあることを知っている。その悪いものは私たちの心の中にもある。そして、その悪いものは、私の口から出ていき、周りの人々を傷つける。イザヤは神様を前にして、自らの汚れた唇のゆえに、自らの滅びを覚悟したのである。
しかし、イザヤはみ使いによって清められた。同じように神を冒瀆する者であったパウロも憐れみを受け赦された。本当は、イザヤが覚悟したように滅ぼされるはずであった。しかし、神様は、自らへの冒瀆さえ赦されるお方だ。それは、私たちを滅ぼしたくないからである。そのために、イエス様が来られたのだから。
●23日(木)
【旧約聖書】
人を侮るように神を侮っているが、神に追及されてもよいのか。ヨブ記 13章9節
【新約聖書】
そこで、イエスは言われた。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである」。ルカによる福音書 16章15節
神様を侮るってどういうことだろう?と思いめぐらしていて、もしかしたらと思うことがあった。それは、神様のご計画を前に、そんなことできるはずがないと思ってしまうことだ。教会を建てることも、修繕の計画も、伝道も、奉仕も、少し困難そうなことが目の前に立ちはだかると、途端に、そんなことできるはずがないと、否定から入ってしまう。しかし、いつ だって、み言葉は語っている。神様にできないことはありませんと。
だからこそ、この日、神様の力を信じる者となりたい。私には不可能なことだって、神様が望まれれば、実現されるのだ。信じる者とならせてください。
●24日(金)
【旧約聖書】
偽りの神々に従う者たちが、忠節を捨て去ろうとも…。ヨナ書 2章9節
【新約聖書】
何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え(なさい)。フィリピの信徒への手紙 2章3節
アメリカの大統領にトランプさんが選出された。彼は、「アメリカ・ファースト」を表明している。自国の利益を最優先ということのようだ。多くの人から批判されているけれども、でも、私たちの心の底にある思いは、みんな同じではないだろうか。私達だって自分の得することが最優先だ。バーゲンセールで必死になるのは、裏を返せば自分が得をするためだから。
でも、それだけではダメだとみ言葉は語る。相手のことにも注意を払うように求められているのだ。その根拠は、イエス様がそうであったから。神様が憐れみ深いお方であられるから、私達にもそうあって欲しいとの願いだ。
●25日(土)
【旧約聖書】
主はあなたの先祖たちの繁栄を喜びとされたように、再びあなたの繁栄を喜びとされる。申命記 30章9節
【新約聖書】
「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた」。ルカによる福音書 1章68~69節
神様は私達の繁栄を喜びとされ、それを望んでおられるという。しかし、旧約聖書において、神様の繁栄は無条件ではいただけなかった。神様に従う者、掟を守るものだけが繁栄をいただけると考えられていた。しかし、神様の御心はそうでは無い。もちろん、神様の掟に従うことは大切だけれども、それは、神様からの祝福をいただく条件にはされなかったのだ。
なぜなら、神様はご自分に逆らうイスラエルの民を救い出されたからだ。神様の思いはただ一つ。私達をどこまでも愛してくださっているということ。私達もイエス様によって救い出され、神様の繁栄の中に置かれているのだ。
●26日(日)
顕現後第3主日
【主日早天礼拝】
藤森 誠 牧師
【主日礼拝】
藤森 誠 牧師
●27日(月)
【旧約聖書】
わたしたちの救いの神よ、あなたの恐るべき御業が、わたしたちへのふさわしい答えでありますように。詩編 65編6節
【新約聖書】
何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。ヨハネの手紙一 5章14節
いつも、神様にこんなこと願ってもいいのかなとドキドキしながら祈っている。今日のみ言葉は、さらにそのドキドキを増しているように思う。だって、神様の御心に適うかどうかが大きなポイントだって言われているから。だから、私の願いは御心に適っているか心配になるんだ。
でも、本当は何も心配する必要なんて無いのかも。だって、それを聞き入れるかどうか、最後の判断は神様が下されるから。もし、かなわなかったとしたら、神様には別のお考えがあるということだ。だから、私達は祈りが御心に適うかではなく、神様には別の考えがあると知った時に、自分の思いを変えられるかが肝心なんだ。
●28日(火)
【旧約聖書】
瞳のようにわたしを守り、あなたの翼の陰に隠してください。詩編 17編8節
【新約聖書】
しかし、主は真実な方です。必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます。テサロニケの信徒への手紙二 3章3節
神様は、私達を悪い者から守ってくださる方というけれども、本当にそうなのかな?だって、私たちは日常生活の中で、悪い者と出会うから。そう思うのはきっと、神様の守り方と私たちの守られ方の想像が異なっているからなのかも。私達は、悪い者と出会わないようにすることが守られることだと思っている。でも、神様の守り方は、出会ってしまった悪い者たちから逃げられるようにしてくださるという方法をとるんだ。
何より今、私たちが今、生きていられるのは、悪い者と出会っても、そこから逃れることができているからだ。感謝してこの日を歩もう。でも神様、避けられるならそうしてくださいね。
●29日(水)
【旧約聖書】
今日、わたしがあなたの命を大切にしたように、主もわたしの命を大切にされ、あらゆる苦難からわたしを救ってくださいますように。サムエル記上 26章24節
【新約聖書】
あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。コリントの信徒への手紙二 8章9節
私達は、イエス様に救い出されたという神様から与えられた恵みをよく知っている。それは素直に嬉しく、喜ばしいことだ。何より、神様が私たちの命を大切にしてくださるからこそ、イエス様を通して、永遠の命をいただくことができたのだ。
だからこそ、私達は知らなくてはならない。私を救うために、イエス様は貧しくなられたということをだ。イエス様は、ご自分の持っている物を全て捨てられた。イエス様は、神様の愛する独り子でありながら、十字架の上で、神に呪われた者として死なれた。それを成し遂げてでも、私を救い出すためにだ。主の大きな犠牲の上に、私は生かされていることを心に刻もう。
●30日(木)
【旧約聖書】
わたしの主なる神は、わが力。ハバクク書 3章19節
【新約聖書】
だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。コリントの信徒への手紙二 4章16節
ついこの間まで何気なくできたことが、できなくなっていく。身体が衰え、できないことが増えていく日々は私達にとって、大きな心の負担となっているのではないだろうか。それは、何もおじいちゃん、おばあちゃんだけの特権ではない。若くても、日々の衰えはあるのだ。
しかし、今日のみ言葉は、それでも、私は落胆しないと告白する。私たちの内なる人とは、神様を信じる思いではないだろうか。たとえ、体は動かずとも、聖書を読むことはできる。たとえ聖書が読めなくなっても、祈ることはできる。神様の力は、神様を信じる者に与えられるから。信じて、この日も祈り続けよう。
●31日(金)
【旧約聖書】
主よ、わたしの唇を開いてください。この口はあなたの賛美を歌います。詩編 51編17節
【新約聖書】
わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。使徒言行録 4章20節
私達は本当に良いものを手に入れたり、良いことを見た時、それを周りの人に話さずにはいられなくなる。そのはずなのに、どうして、私は、神様の御業については、口を閉ざしてしまうのだろうか。どうして、話さずにはいられないというほどの情熱が湧いてこないのだろうか。
自分の中にその答えを見出そうともがいていたけれども、み言葉に気づかされた。それは、詩人は、神様に唇を開いてもらえるように願っていたからだ。私たちが話さずにいられなくなるのは、自らの思いのためではない。神様が私たちの唇を開いてくださるからこそ、語ることができるんだ。どうか、私の唇も開いてください。