2024年2月の『日々の聖句』

【新約聖書編】

その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)

●1(木)

正しい生活をしない者は皆、神に属していません。自分の兄弟を愛さない者も同様です。(1ヨハ3・10)
 「正しい生活をしない」ということと、「自分の兄弟(自分の隣人のこと)を愛さない」ということは、等置できることなんだと言われている。
 隣人を愛せないばかりか、赦せなかったり、傷つけているのだとしたら、その者は、主に「正しくない者」と断罪されるということだ。あ、「その者は」なんて他人事で言うまい。昨日の自分を思い出して、改めねばならないのはボク自身だと分かるから。

●2(金)

どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください(使20・28)
 パウロがエフェソの教会を去る時、長老たちにかけた言葉がこれだ。群れの世話をすることになる一人ひとりを気遣っての言葉だ。
 その気遣いは、「元気でお過ごしください」という類ではなかった。気を配ったことは「信仰から離れるな、神様から離れないで」ということ。この世の生活に巻き込まれる危険が、彼らの目の前にあったから。そして、信仰にこそ、真の命の生活があるから。

●3(土)

永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。(ヨハ6・27)
 「この世では、生活のために働くんだ」と思って来た。でもイエス様は、「今の命のためじゃない、永遠の命に至る食べ物のためだ」と、視点を変えさせる。その食べ物って何?イエス様は、ご自分が命のパンだとおっしゃる。そうだ!イエス様は、ご自分を得るために生きよ、と言われたのだ。
み言葉こそ、主ご自身。ならば、み言葉を食べよう。それが、ボクが日々を生きる(働く)姿となりたい。

●4(日)

礼拝説教
主日早天 藤森誠 伝道師
主  日 藤森誠 伝道師

●5(月)

あなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。(エフェ2・13)
 神から遠くに離れて、自分中心に生きていた私たち。でもキリストが、グイと私たちを御父のもとに引き戻してくれた。そのキリストのお陰で、神の子となれたんだ。でも!み言葉は繰り返してキリストを指差す。単にキリストのお陰と告げるのでなく、「キリストの血」のお陰だと。十字架の上で御子の血が流れた。その死の上に、この恵は立っている。御子の死と引き換えにしてボクは生きている。

●6(火)

そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。(1コリ9・16)
 パウロは、イエス様の十字架の死を伝えないではいられないと言う。「ボクも同じ思い」って思って、待てよと立ち止まった。彼が「知らせないなら、不幸だ」って言ってたから。
 告げ知らせた途端に迫害に遭うのに。その苦難って不幸なことのはずなのに。その苦しみが、幸福だなんて。やっぱりパウロはボクとは違うなー。って、そういう線引きに安住して、主は喜ばれるだろうか?

●7(水)

信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。(エフェ6・16)
 キリスト者の生活には、誘惑の火が迫る。それは「神様のことを忘れさせる」誘惑。「神様になんてもう頼らない。何もしてくれないんだから」と御もとを離れさせる誘惑。
 でも、その火を防ぐ「盾」がある。「主よ、あなたのみ頼りです」と祈り続けること。「み言葉を下さい、それによって導かれますから」と生きること。「信仰」とは、心の問題じゃなく、生きる現実の姿なのだから。

●8(木)

ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。(使2・22)
 聖霊が降ったペトロが、立ち上がって証言し始めた。自分がイエス様の弟子だと知られて迫害されるのを恐れていたのに、会衆に向かって、一番隠していた言葉を告げたのだ。「イエス様こそ神の御子なんだ」と。
 私たちも、今朝の言葉を、知識として話すのは簡単。でも周りの家族や友人に、自分の告白として伝えるのはどうだろう。人目を気にせず証言者となるには、聖霊が必要だ。

●9(金)

一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。(2コリ4・17)
 信仰に生きる者には、どの時代でも艱難が襲って来る。それは誰にとっても身近な問題。レストランで、皆の前で食前の祈りをするのか、主日礼拝を必ず守るのか、仏式の葬儀でどう振舞うのか、祭りで神輿を担ぐのか、自治会のどんど焼き行事に子供を行かせるのか。全ては身に降りかかって来ること。どうするのかに模範解答はない。しかし、自分の選択が、永遠の栄光に繋がるものでありたい。

●10(土)

本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。(1コリ3・18)
 えっ、矛盾?いや、解きほぐすと、こう言える。「この世の知恵とは、真の知恵ではない。それは空しいものである。本当の知恵というものは、神に従う人として生きる者にある。主イエスのように、自分の十字架を負って生きる者の姿にある。それは、世には愚かに見えるが、それこそが栄光へとつながる本当の知恵だ」。パウロも最初からこう言ってくれればいいのに。ちょっと意地悪なのかなぁ。

●11(日)

礼拝説教
主日早天 辻川篤 牧師
主  日 辻川篤 牧師

●12(月)

わたしはこの福音を人から受けたのでもなく教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。(ガラ1・12)
 パウロは、福音を知ったのは人から聞いたことによるのじゃないという。主ご自身が示して下さったのだ、と。
 ボクも教会に連れて行ってくれたのは両親。両親の口から、また教会の兄姉からイエス様のことを聞かされた。でも、ボクもきっとパウロと同じ。全てのキリスト者も同じ。それは、主が、ボクの心にご自身を顕していて下さったということ。主を知る前から、ボクは主に出会っていたんだ。

●13(火)

福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。(ロマ1・16)
 福音(good news)は、どんな知らせか。もちろん神の御子が十字架で死なれたということだ。そのニュースが、なぜ救いをもたらすのか。もちろん人の罪の償いの身代になって、神との和解を得させたからだ。その出来事が、なぜ神の力なのか・・・。「神の力」を「神の愛」と入れ替えたら、少し分かる気がした。愛は、心情的なものでなく、出来事を起こす力となるから。

●14(水)

今は神を知っている、いや、むしろ神から知られている(ガラ4・9)
 これまでは真の神を知らないで、色々なものに頼らなきゃと、お金や知識や能力を、そして自分自身を、まるで神のように拝んでいた。でも、イエス様を知って、神様を知って全てが変わった。神のみを頼るボクになった・・・と思っていた。
それなのに何故、いまだに頼りにならないものに頼るんだろう。そのボクを、神様は、昔から、「立ち帰れ、愛する子よ」と呼び続けておられる。

●15(木)

だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。(ヨハ3・5)
 神の国(端的に言うなら天国だ)に、入るためには「水と霊によって生まれる」ということが、唯一必良なこと。それが、「洗礼」だ。言い換えるなら天国の門は、人間の側の信仰の強さとか、行いの聖さとか、それら一切を問わずに開くということなのだ。
 これ以上の、神様からの恵みはない。これ以外の救いの道もない。だから大声で、友人にも、家族にも言いたいんだ「洗礼を受けて欲しい」と。

●16(金)

わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。(2コリ4・7)
 自分のことを「私は土の器ですから」と謙虚に言う。でも人から「あなたは土の器ね」と言われたら、ムッとしてしまうのは、なぜだろう。自分のした奉仕が「素晴らしいね」と褒められたら有頂天になるのは、なぜだろう。逆に認めてもらえないと、焦るのはなぜだろう。
 このみ言葉を本気で言えるようになりたい。何がボクに足りないのか。きっと主との生きた交わりなのかも。

●17(土)

何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。(1コリ10・31)
 「信仰者として当然、そのようにします」と決心して、ふと思った。これって実際にはどうすることなの?と。
私たちが行う全ての業で、天地創造の主があがめられるって、一体どうすることなのか。それが分からないなら、このみ言葉も、私たちの決心も空虚になるじゃないか・・・。
 誰かに聞こう。そうだ!藤森先生に聞こう。いや自分で考えなきゃ。人それぞれに違うのかも知れないから。

●18(日)

礼拝説教
主日早天 藤森誠伝道師
主  日 藤森誠伝道師

●19(月)

一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。(1コリ12・26)
 「一つの部分」という箇所に、自分の名前を入れてみた。すると、なんだかホッとした。「すべての部分」と言う箇所に、相模原教会の兄弟姉妹の顔を思い浮かべてみた。そうしたら、もっとホッとして、心が温かくなった。
 教会って良いな。教会の家族って有難いな。それぞれは凸凹している一人ひとりだけど、その交わりは豊かなんだ。その「すべての部分」を纏めていて下さるのは、イエス様だから。

●20(火)

異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。(1ペト2・12)
 今朝のみ言葉を自分の生活の中で読み替えてみた。すると・・・
 「日本古来の文化と風中の間で立派に生活しなさい。そうすれば周りの人があなたを変わり者呼ばわりしても、あなたが主を愛して生きる姿をよく見て、終わりの日にはあなたの神を一緒に見上げて慕うようになるから」だな。
 主よ、このみ言葉に従います!

●21(水)

善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。(1ペト2・20)
 聖書は、善い行いをすれば賞賛を受けるね、とは言わない。かえって苦しみだという。この「善行」って何か。「御心に適うこと」と言われているから、み言葉に従うことに違いない。
 正にそうだ。何よりも神を愛する生き方なんて、この世の遣り方とは相容れないから。この世と衝突し、苦しむはず。この世に倣いながら、その延長線上には神の喜ぶ顔はない。ボクはどっちを歩むんだ。覚悟がいる。

●22(木)

だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。(1ヨハ5・5)
 「イエス様は、真に神であられる」と信じる人が、世に打ち勝つ人だと告げられる。でもこの「世に打ち勝つ」ってどういうことだろう?きっと自己中心に歩んで、奪い合い、傷つけ合う泥沼から隔絶して、御国を目指した人生を歩めるということかも。
 そうであるならば、「イエス様」の言葉は、「神」の言葉として、従うことが、信じるということ。信じるとは、心の中の話だけじゃないんだ。

●23(金)

いったいだれが、神の声を聞いたのに、反抗したのか。モーセを指導者としてエジプトを出たすべての者ではなかったか。(ヘブ3・16)
 これは、世の人々の不信仰を嘆いているのか。否、神の恩恵を受けた信仰者たちへの嘆きだ。出エジプトの恵みを受けた神の民なのに、その後すぐ水も食べ物もないと言って神に不平を言ったことを例に挙げている。
 喉元過ぎれば熱さを忘れると言うが、人間というのは神の愛の心さえも忘れてしまうものなのか。ああまた、他人事で御言葉を聞いているボクがいる。これボクへの警告なのに。

●24(土)

キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守りなさい(コロ2・7)
 信仰生活をしっかり守りたいと願う。礼拝厳守で、集会にも出席して、できる奉仕もして、毎日聖書も読んで、お祈りの生活もして・・・と。
でもそう計画するとき「第一のことはこれだよ」と、み言葉が届いた。「キリストに根を下ろせ」と。
 これって、具体的にはどういうこと?きっと、み言葉への聴従だ。み言葉こそ、主そのものだから。とても具体的だ。気持ちの持ち方じゃない。

●25(日)

礼拝説教
主日早天 辻川篤 牧師
主  日 辻川篤 牧師

●26(月)

永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。(ヨハ6・27)
 会社務めの頃は「食べるために働いている」と身を粉にして来た。でもイエス様は、本当に心を傾けるべきは、神から賜る「永遠の命だ」と示される。地上の儚い命のためじゃないと。
 「でも、ご飯のために働かないといけないでしょ」と思うボクは、大きな勘違いをしているのかも。結局、ご飯のためと言いながら、地上のことに夢中になって、神を忘れているから。日用の糧を与えるのも主なのに。

●27(火)

わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。(ルカ22・32)
 ペトロは次の日に、保身に走ってイエス様を見捨てる。大祭司の庭で「そんな人は知らない」と否認するのだ。その弱さをご存じの主が、この言葉を彼に掛けてあげたのだ「あなたのために祈ったから」と。
 ボクも主に従うより、周りの目を恐れてしまう。そんなボクを、主はもう知っておられて、祈っていて下さる。自分の信仰で立っているんじゃない。祈られて生きている。

●28(水)

イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。(マコ3・5)
 冒頭の「イエスは怒って」の一言にドキッとした。愛の主なのに、何が主を怒らせたのか。聖書を見たら、「安息日には一切の働きを禁止する律法があるが、手の萎えた男の癒しの働きをするだろうか」と人々がイエス様を観察していたことだ。苦しむ隣人がいても平気な無関心だった。
 その無関心は、主の「怒り」、そして「悲しみ」だ。愛することができない人間への愛の主ゆえの悲しみなのだ。

●29(木)

闇が去って、既にまことの光が輝いているからです。(1ヨハ2・8)
 「既にまことの光が輝いている」と告げられる。それはイエス様が、既に十字架の上で私たちの罪を処分して下さり、復活の勝利を賜ったからだ。だからもう「闇が去った」んだ。そのはずなのに・・・だ。
 このみ言葉の直後「兄弟を憎む者は闇の中におり」と言われる。キリスト者となったボクは、勝利の光の中にいるとあぐらをかいていないだろうか。危ない!自分を振り返り見よ。

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