2024年7月の『日々の聖句』

この日々の聖句は、聖書箇所を「ヘルンフート兄弟団 『日々の聖句 2024』(べテスダ奉仕女の家)」からいただきました。
聖書の本文は、日本聖書協会が発行している『聖書 新共同訳』から転記しています。
『聖書 新共同訳』:(c)共同訳聖書実行委員会 (c)日本聖書協会、1987, 1988。

●1日(月)

【旧約聖書】
恵み深い主に感謝せよ、慈しみはとこしえに。詩編 106編1節
【新約聖書】
そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。コロサイの信徒への手紙 3章17節

 神様への感謝を、イエス様を通して行いなさいと新約聖書は勧めている。どうしてかなぁと思いめぐらして、もしかしてと思った。それは、神様が与えてくださった恵みとは、イエス様そのものだからなのかもしれないと。イエス様が私たちと同じ人間となられたのも、人々にあざけられ苦しまれたのも、十字架での死も、そして復活されたことも、すべては私たちのための出来事であった。
 この方なしには私たちの救いは実現しなかったから。だから、神様はイエス様に特別な栄光を与えられた。この方を通して、私たちは神様とつながるものとされたのだ。だから、その喜びを神様へとお伝えしよう。

●2日(火)

【旧約聖書】
主を愛する者が日の出の勢いを得ますように。士師記 5章31節
【新約聖書】
(イエスの言葉) あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。マタイによる福音書 5章14、16節

 イエス様はあなたの光を人々の前に輝かせよという。でも、私のどこにそんな光があるのかなと思った。人のことを羨んで、足りない自分を人のせいにしてきた私のどこに、他者を照らせるほどの光があるんだろう、と。
 聖書はいつも語る。光とは神様のことであり、イエス様のことであると。私自身は光っていないけれども、わたしの内に居るイエス様が光を放っておられる。そのイエス様を世界に示すことが、ここで求められていることなのかも。こんな私だけれども、イエス様が共にいてくださるのだと。だから、主を愛する者にこそ、それが成し遂げられるんだ。今日も主を愛する者とならせてください。

●3日(水)

【旧約聖書】
衣を裂くのではなく、お前たちの心を引き裂け。あなたたちの神、主に立ち帰れ。ヨエル書 2章13節
【新約聖書】
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。コリントの信徒への手紙一 6章20節

 神様は私達のことを本当によくわかっておられるなと思った。それは、私達は、悪いと思っていなくても、ごめんなさいということができるからだ。心と一致しない行動も平気でできてしまう。でも謝っているんだからいいでしょと思っていた。しかし、神様は行動よりも、私たちの心を求められるのだ。私たちが本当に神様を必要としているのか、そのことを見ておられる。
 そして、私たちの心の思いは案外、他人からもよくわかるものだ。あぁ、この人、反省してないなと態度でわかることもよくあるから。だから、私達は心から神様に立ち帰ることが求められているのだ。

●4日(木)

【旧約聖書】
いかに幸いなことでしょう、弱いものに思いやりのある人は。災いのふりかかるとき、主はその人を逃れさせてくださいます。詩編 41編2節
【新約聖書】
善い行いと施しとを忘れないでください。このようないけにえこそ、神はお喜びになるのです。ヘブライ人への手紙 13章16節

 このようないけにえって何だろうと思って、聖書を開いたら、「賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実」とあった。あぶない、あぶない。危うく善い行いと施しこそが神様が喜ばれるものだって勘違いするところだった。
 もちろん、善い行いも施しも大切だ。でも、それだって、まず始めに神様を褒めたたえることから始めなければならない。善い行いが先になったら、こんなに頑張ったと、神様にあれこれ要求してしまうから。神様が既に私たちのために働いていてくださっている。だから、私たちは善い行いと施しをするのだ。神様の御業への応答として神様に喜んでいただくために。

●5日(金)

【旧約聖書】
主を畏れる人よ、主に依り頼め。詩編 115編11節
【新約聖書】
空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。マタイによる福音書 6章26節

 神様に依り頼む生き方ってどういうことなのだろう?鳥のように、種もまかず、刈り入れもしないでいたら、神様に依り頼んだことになるのかな?でも、神様全部お任せしますと言って、何もしない生き方を神様が喜ばれるとは思えない。
 もしかしたらって思った。イエス様はここで、鳥が何もできなくても神様は鳥を大切にされることを伝えたかったのかも。そして、私はなおのこと、大切にしていただけるのだと。それって、つまり、私たちには養い主がおられることを知って生きることが大切なんだ。それこそが、主を畏れるという生き方た。今日も神様に支えていただきながら、一日を過ごそう。

●6日(土)

【旧約聖書】
いと高き神のもとに身を寄せて隠れ、全能の神の陰に宿る人よ。主に申し上げよ、「わたしの避けどころ、砦、わたしの神、依り頼む方」と。詩編 91編1~2節
【新約聖書】
私は今日まで神の助けをいただいて、しっかりと立ち、小さな者にも大きな者にも証しをしてきました。使徒言行録 26章22節

 以前、とある絵を見たことがある。大きなイエス様が私の前に立ち、手を広げて私を沢山の石から守ってくださっている場面の絵だ。そのイエス様は石のせいで頭から血を流しておられた。
 私は神様の元に隠れることが平安だと思っていた。確かに私にはそうだ。でも、それは、神様が私の代わりに私が受けるはずの痛みを背負ってくださるから、平安なのだということを忘れてはならない。でも、神様はそれさえも喜んでくださる。私が痛んでもあなたが平安でいるならば、私は喜んであなたの砦、あなたの盾となろうと言ってくださる方だ。だから、私達はこの方の助けをいただいて、しっかり立とう。

●7日(日)

三位一体後第6主日
【主日早天礼拝】藤森 誠 牧師
【主 日 礼拝】辻川 篤 牧師
第一主日のため、礼拝の中で聖餐式が執行されます。

●8日(月)

【旧約聖書】
主のなさった大いなる御業をすべて、あなたたちは自分の目で見てきた。申命記 11章7節
【新約聖書】
わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。ペトロの手紙二 1章16節

 神様は出来事を起こされる方だ。その出来事はどこかでひっそりと行われるのではなく、全ての人の前に明らかにされている。そして、私たちも自分の目で神様の御業を見ることができる。
 神様が私たちに示してくださる御業の中で、最たるものは、救いの御業である。イスラエルの人たちを救い出した出エジプトの出来事、そして、イエス様の十字架と復活の出来事を通して成し遂げられた、救いである。罪びとの私が、その罪を赦され、神の子とされた出来事。それこそが大いなる御業であり、私達は礼拝において、その御業を繰り返し目撃しているのである。神様の大いなる御業を見逃しちゃもったいない。

●9日(火)

【旧約聖書】
神がわたしたちを憐れみ、祝福し、御顔の輝きを、わたしたちに向けてくださいますように詩編 67編2節
【新約聖書】
(イエスは)子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。マルコによる福音書 10章16節
 神様の祝福は全ての人に向けられている。神様を信じる人や能力・才能のある人たちだけが祝福されるわけではない。イエス様は子どもたちをも喜んで祝福された。当時、子どもたちは半人前で価値の無い存在として扱われてきた。しかし、イエス様は、その子たちを抱き上げてまで、祝福される。
 神様の憐れみは全ての人に及んでいる。それは、神様を裏切り、神様から離れる私にも、である。神様はその私に顔を向けて、話を聞いてくださる。実は、神様が関わろうとしてくださることこそ、私たちへの祝福なのかも。今日も神様の祝福を受け取ろう。

●10日(水)

【旧約聖書】
今より後も、わたしこそ主。わたしの手から救い出せる者はない。わたしが事を起こせば、誰が元に戻しえようか。イザヤ書 43章13節
【新約聖書】
ですから、だれも人間を誇ってはなりません。すべては、あなたがたのものです。あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。コリントの信徒への手紙一 3章21、23節

 今より後もってどういうこと?と思ってしまった。神様が私の主でない時なんてあったんだろうかと。でも、聖書を開いて気づかされた。この43章で神様は繰り返し、私が主、私こそが主だと語っておられた。それは、つまり、私達は神様以外のものを主としているからだ。どうして、こんなにあなたのために尽くしているのに気づいてくれないのかと、ちょっと重い神様の思いが伝わってくる。
 私達は神様のものなのだ。でも、神様から離れてしまう私達。それは自分でできると、自分を誇ってしまうから。この日再び、告白しよう。神様、あなたこそ私の主であると。

●11日(木)

【旧約聖書】
彼らは、「あなたたちは、ロ・アンミ(わが民でない者)」と、言われるかわりに、「生ける神の子ら」と言われるようになる。ホセア書 2章1節
【新約聖書】
ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。ガラテヤの信徒への手紙 4章7節

 神様は、私たちを子よと呼びかけてくださる。でも、どうしてなのだろうか。それは、私たちを御自身の子どもとすることが神様の目的だからと聖書は語っている。私の愛する子と呼びかけることが神様にとって喜びなのだ。
 それも、私達はただ、神様の子どもとされるだけではなく、相続人としていただける。一体何を相続するのかと言えば、神様のもの全てである。子は親の財産を全て相続するからだ。本当はイエス様だけがいただける神様の財産に、私たちも等しく与らせていただける。その喜びを携えて今日も私達は父である方に感謝をささげよう。

●12日(金)

【旧約聖書】
その僕モーセによって告げられた主の恵みの御言葉は、一つとしてむなしいものはなかった。列王記上 8章56節
【新約聖書】
モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。ルカによる福音書 24章27節

 神様は有言実行のお方である。旧約聖書の「むなしいものはなかった」というのは、すべてが実現したということ。神様がモーセを通して語られた救いのみ言葉は全て、実現したのである。
 神様はモーセの後も預言者たちを通して恵みのみ言葉を語り続けられた。その最たるものは、あなたを贖い、あなたを救うということである。私たちの自己中心を解き放ち、神様に従うものとすること。それこそが神様が与えてくださる救いである。それは、まさに、イエス様が十字架で死なれ、復活された時に成就された。でも、それは、過去の出来事ではなく、私を救うという神の言葉も必ず成就するのである。

●13日(土)

【旧約聖書】
この事を起こし、成し遂げたのは誰か。それは、主なるわたし。初めから代々の人を呼び出すもの、初めであり、後の代と共にいるもの。イザヤ書 41章4節
【新約聖書】
恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。ヨハネの黙示録 1章18節

 神様は人を呼び出される。そのことを教会では召しと呼んでいる。神様があなたを必要として、あなたを呼び集められたのだと。私たちが礼拝に集うのも、神様が私たちを呼び出されたからに他ならない。
 神様はどうして私たちを呼ばれるのだろうか。旧約聖書の「この事」とは、人々をご自分の元に呼び集められたことのようである。神様は、私たちと共にいたいと願っておられるのだ。そのために、ご自分が動かれて事を起こされる。でも、神様は人を集めて終わりとはされない。なぜなら、このお方は生きておられる方だから。そこで新たな使命を私たちに与えてくださる。

●14日(日)

三位一体後第7主日
【主日早天礼拝】藤森 誠 牧師
【主 日 礼拝】藤森 誠 牧師
この日は相模原教会の創立76周年を憶えての礼拝です。

●15日(月)

【旧約聖書】
万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。詩編 46編8節
【新約聖書】
イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。マルコによる福音書 6章34節

 飼い主のいない羊はかなり悲惨なようである。羊たちは自分で食べるものを見つけることも、水場を探すことも、敵から身を守ることもできない。それゆえに、その群れはいずれ死ぬこととなる。
 私達はどうだろうか。きっと私を見てもイエス様は憐れまれるに違いない。お前を導く存在が必要だと。そして、ご自身が私たちを導く、飼い主となってくださるのだ。それこそが、私たちが恐れずに済む最大の秘訣である。この日もこのお方が私たちと共にいてくださる。だから、私達は安心してこのお方にすべてを頼って歩んだらいいんだ。

●16日(火)

【旧約聖書】
ヤコブよ、なぜ言うのか、イスラエルよ、なぜ断言するのか、わたしの道は主に隠されている、と、わたしの裁きは神に忘れられた、と。イザヤ書 40章27節
【新約聖書】
メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。ルカによる福音書 24章26節

 私達は時に、神様とはこういうお方という神様像を勝手に造り出してしまう存在だ。神様ならこんなことはされないはず、神様ならこんなことは許さないはずと。そして、それを他者に、自分に当てはめて、時に憤慨し、時に絶望する。それは、本当の神様の姿を見失わせることとなる。
 だからこそ、私達は聖書に尋ねることが必要だ。聖書は神様のことを何と言っているだろうかと。私の思いと聖書のみ言葉とどちらが正しいか。もちろんみ言葉が正しい。そうやって私の神様像を正確なものとしていかなければならない。そうじゃないと神様の恵みを正しく受け取れないからね。

●17日(水)

【旧約聖書】
しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。エレミヤ書 31章33節
【新約聖書】
彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。ローマの信徒への手紙 9章4節

 律法とは神様が私たちに与える掟集だ。あれをしてはいけない。これをしなければならないと細かく定められている。元来それは、私たちを救いへと導く指針だった。これを守れば救われるというように。しかし、人は自分の力では律法を守ることができず、それは私たちが罪人であることを指し示すものとなった。
 それでは律法の役目はもう終わったのかと言えばそうでは無い。イエス様の救いをいただいた私達は神様の支えをいただいている。だからこそ、私達は改めて問うのである。イエス様が喜ばれる生き方って何かと。そして、それこそが律法に記されている。私たちの生きる指針である。

●18日(木)

【旧約聖書】
わたしの名を知る者だから、彼を高く上げよう。詩編 91編14節
【新約聖書】
思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。ペトロの手紙一 5章7節

 今日の旧約聖書のみ言葉は何だか変だ。どうにも腑に落ちない気がする。高く上げるとは尊重するとか、大切にするという意味だ。でも、名前を知っているだけで大切にされるなんて、あまりにも話が良すぎないだろうか?なんだか裏がありそうで怖い。
 でも、これが神様の御心そのものなんだと思う。神様はご自分の名を人々に知らせることに躍起である。それは、そこで神様との関係が始まるからなのかも。このお方が私たちの思い煩いを背負ってでも、私たちに関わりたいと願っておられる方だ。だから、私たちもこの日、父よと呼びかけてすべてをお任せしよう。

●19日(金)

【旧約聖書】
見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。イザヤ書 65章17節
【新約聖書】
わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。ヨハネの黙示録 21章1節

 神様はどうして新しい天と新しい地を造ろうとされるのだろうか?聖書を読むと、自らの民を喜びとし、楽しみとするためだと書かれていた。それは、これまでの古い地において、人々は主を捨て、お前たちを滅ぼすと言わせるまでのことをしてきたからだ。
 そこで、神様は新しい地を造り、これまでのことを忘れようとしてくださるのである。何と破格の対応だろうか。神様の負債を、神様が水に流すというのである。それこそが神様の赦しである。神様がこれまでの人の過ちをただ我慢するという方法を取られるのだ。神様の赦しは神様の忍耐なしには成し遂げられないことを、心に刻まなければならない。

●20日(土)

【旧約聖書】
あなたの神である主を捨てたことが、いかに悪く、苦いことであるかを、味わい知るがよいと、万軍の主なる神は言われる。エレミヤ書 2章19節
【新約聖書】
(弟が)何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。ルカによる福音書 15章14~15節

 今日のみ言葉は、一見すると、私たちが神様を見捨てたから、神様の罰として苦しみを味わっているように思える。しかし、実際はそうでは無い。私達は神様を離れ一人で生きられると考える時に、苦しみを味わうのだ。自分一人では生きられないから。神様が私に立ち帰れと言われるのは、そこにいてはあなたが苦しむということを知っているゆえになのである。
 だからこそ、私たちは神様と共にいることが最も幸せの時である。しかし、頭ではわかっていてもそうできないのも私達だ。けれども神様はご自分の所に戻って来る者を何度でも受け入れてくださる。喜んで父のもとに戻ろう。

●21日(日)

三位一体後第8主日
【主日早天礼拝】辻川 篤 牧師
【主 日 礼拝】辻川 篤 牧師

●22日(月)

【旧約聖書】
彼らはあなたに戦いを挑むが、勝つことはできない。わたしがあなたと共にいて、救い出すと、主は言われた。エレミヤ書 1章19節
【新約聖書】
(イエスによる弟子たちへのための祈り)彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。ヨハネによる福音書 17章9節

 イエス様が神様に求めているのは、神様が地上に残る弟子たちを守ってくださるようにということだ。イエス様はこの後、地上を去るからこそ、その後のことを神様にお願いしてくださったのだ。そして、この祈りは、2千年経った今も、私たちのために祈られている。その祈りは、実は神様の御心でもあるのだ。
 この方が共にいてくださるなら、私達は何も恐れることはない。この方に勝つことができる者は何人もいないからだ。死も悪魔さえもこのお方には勝つことができない。そのお方がこの日も、イエス様の祈りによって私たちと共にいてくださる。安心して歩みだそう。

●23日(火)

【旧約聖書】
あなたの定めはわたしの楽しみです。わたしに良い考えを与えてくれます。詩編 119編24節
【新約聖書】
「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。マタイによる福音書 5章17節

 神様の定めが楽しみなんてこの詩人はすごいなぁと思ってしまった。人を愛することも、人を赦すことも、神様の定めは厳しくつらいことが多い。だから、イエス様が定めを全部帳消しにしてくれたなら、ちょっとはホッとできそうだったのに、イエス様はそうじゃないと言うのである。
 良い考えを与えてくれると訳されている言葉は、他の訳では「相談相手」と訳されている言葉だ。神様の定めとは、私たちがどのように生きるかを導いてくれる相談相手なのだ。これはしてもいいかな?これをしたら神様は悲しむかな?と私の生き方に指針を与えてくれるものなのだ。そう思えたら、ちょっとは楽しみになる…かなぁ?

●24日(水)

【旧約聖書】
主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わして、嘆いている人々を慰め(るために)。イザヤ書 61章1~2節
【新約聖書】
わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。コリントの信徒への手紙二 1章2~3節

 神様は、嘆く人たちを慰めるために、私達を遣わされるのだと最初は思った。でも、聖書をよくよく読んで見たらどうも違うということに気づかされた。ここでの私とは油注がれた者と言われている。聖書において、油注がれた者とは救い主を意味する言葉だ。つまり、この私とはイエス様のことなのだ。私が嘆く人を慰めるのではなく、イエス様がそれを成し遂げてくださるのだ。
 それが分かったら新約聖書の言葉もよくわかる。私がそれを成し遂げるのではなく、神様がイエス様を遣わして、それをなされるからこそ、神様を褒めたたえるのだ。この日もイエス様の慰めを受け取って、神様を褒めたたえよう。

●25日(木)

【旧約聖書】
すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。創世記 9章13節
【新約聖書】
しかし、現在の天と地とは、火で滅ぼされるために、同じ御言葉によって取っておかれ、不信心な者たちが裁かれて滅ぼされる日まで、そのままにしておかれるのです。ペトロの手紙二 3章7節

 神様は、人の悪事を精算するために大洪水を起こされた。神様は、ご自分に従わない者たちを滅ぼしつくされたのだ。そして、現在の天と地も実は同じように滅ぼされる運命にあるというのである。だが、同時に神様は二度と肉なるものを滅ぼさないという契約をしてくださった。そのしるしとして、虹を置かれたのである。
 しかし、それは、人間が悔い改めたからではない。ひとえに神様がそうしようと決断してくださったから。虹は神様が怒りを鎮めるためのしるしでもあるのだ。私達は、ただ、神様の憐れみと忍耐に生かされているだけなんだ。

●26日(金)

【旧約聖書】
神が破壊したものは建て直されることなく、閉じ込められた人は解放されることがない。ヨブ記 12章14節
【新約聖書】
イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」マルコによる福音書 9章24節

 旧約聖書のみ言葉は何を伝えようとしているんだろうか?と思って聖書を開いたら、どうも、力も知恵も全ては神様のものだということらしい。なんだ、当たり前じゃないかと思って、ふと手が止まった。でも、私はちゃんとそのことを受け止め信じているだろうかと。
 イエス様の言葉が胸に刺さる。「できればというか」と。正に、「お出来になるなら」と祈る私がいるから。神様にもできないことがあるかのような言葉を発してしまう。それは結局のところ、神様のことを信じ切れていないから。だから、私もこの父親と共にお願いしよう。信仰のない私をお助け下さい。

●27日(土)

【旧約聖書】
乏しい人は永遠に忘れられることなく、貧しい人の希望は決して失われない。詩編 9編19節
【新約聖書】
イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。」ルカによる福音書 6章20節

 以前、ある人にこんなことを言われた。神様ってお金持ちの人が嫌いなんですよね、と。それは、いつだって、聖書で大切にされるのは貧しい人たちで、金持ちたちには総じて厳しい言葉が告げられているからだろう。
 神様が貧しい人に目を留められるのは、その人には神様以外に頼るものが何も無いからだ。金持ちはそうでは無い。自分の持っている財産や才能に頼ることができる。それがあれば安心だと。神様は何より自分を頼って欲しいと思っている。だから、真っ先に自分を頼る者たちを憐れんでくださるのだ。でも、神様は金持ちも愛しておられる。私を頼って欲しいと願いながら。

●28日(日)

三位一体後第9主日
【主日早天礼拝】藤森 誠 牧師
【主 日 礼拝】藤森 誠 牧師

●29日(月)

【旧約聖書】
わたしたちの心を主に向けさせて、わたしたちをそのすべての道に従って歩ませ、先祖にお授けになった戒めと掟と法を守らせてくださるように。列王記上 8章58節
【新約聖書】
聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。コリントの信徒への手紙一 12章3節

 今日の旧約のみ言葉は何だか不思議である。この王は、自分がなすべきことを神様に願っているからだ。一体どうしてなのだろうかと思いめぐらしていてよくわかった。それは、これまで人々がそうできていなかったからである。この言葉はかのソロモン王の言葉だ。彼は富も知恵も与えられた人であった。過去の人と私は違うと言うこともできただろう。しかし、彼はそう考えなかった。神様に従うためには神様の力が必要なのだ。
 そのためにと、イエス様は私達に聖霊を与えてくださった。私達は神様である聖霊の助けを頂いて、神様に従える者としていただくのだ。この日もこの方の助けをいただこう。

●30日(火)

【旧約聖書】
荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ、わたしの選んだ民に水を飲ませるからだイザヤ書 43章20節
【新約聖書】
しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。ヨハネによる福音書 4章14節

 人間が生きるために、水は無くてはならないものだ。人は食べられなくてもすぐには死なないが、飲めなくなると1週間もたずに死んでしまうと言われている。人間にとって水は必要不可欠なのだ。
 その水はイエス様を通して私たちに与えられているという。でも、この水って何なのだろうか?それはおそらく、イエス様がもたらす神様の言葉ではないだろうか。神の言葉が私たちの心に根付くとき、泉となって無限に広がっていく。そして、それは永遠の命へとつながるのだ。永遠の命とは、神様とイエス様を知ることだとイエス様は言われた。この日も、命の水であるみ言葉をいただこう。

●31日(水)

【旧約聖書】
お前たちの悪い道や堕落した行いによることなく、わが名のゆえに、わたしが働きかけるとき、イスラエルの家よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。エゼキエル書 20章44節
【新約聖書】
わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。ローマの信徒への手紙 5章8節

 神様は正しいお方である。逆らう者には滅びが、従う者には祝福が与えられるはずだった。でも、神様は、私がまだ逆らう者であった時に、イエス様を十字架につけて殺すという形で、私に働きかけてくださった。それを通して、私達はイエス様の救いをいただき、罪を赦していただいたのだ。私が悔い改めたからでも、悪い道や堕落した行いを捨てたからでもない。私に先立って神様は行動されたのだ。だからこそ、私達はどれほど神様が私を愛してくださっているかを知ることができる。それは、私の行動の対価ではなく、ただひとえに神様の恵み、あわれみなのだと。神様、感謝いたします。

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