2024年6月の『日々の聖句』

この日々の聖句は、聖書箇所を「ヘルンフート兄弟団『日々の聖句2024』(べテスダ奉仕女の家)」からいただきました。
聖書の本文は、日本聖書協会が発行している『聖書新共同訳』から転記しています。『聖書新共同訳』:(c)共同訳聖書実行委員会(c)日本聖書協会、1987,1988。

●1日(土)

【旧約聖書】
主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました。サムエル記上1章15節
【新約聖書】
(女は)後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。ルカによる福音書7章38節

 旧約聖書の言葉はよくわかる。私も、神様の前で、願いを祈りを通して注ぎだすから。でも、それと、新約聖書の女性の行いが何だか重ならない気がした。つい気になって、他の翻訳も調べてみたら、どれも、「心を注ぎだしていた」となっていた。この女性は自分の心の内にある全てを神様にぶつけていたんだ。
 あ!って、思った。もしかして、新約聖書の女性の振る舞いも、同じなのかもと。私たちの思いは行動になる。彼女はイエス様のために心の内にある全てを注ぎだしたんだ。私たちの心の内にある思いは、ちゃんと行動になるはずなんだ!

●2日(日)

三位一体後第1主日
【主日早天礼拝】
  辻川 篤 牧師
【主日礼拝】
  辻川 篤 牧師

第一主日のため、礼拝の中で聖餐式が
執行されます。

●3日(月)

【旧約聖書】
ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、主よ。あなただけが地上のすべての王国の神であり、あなたこそ天と地をお造りになった方です。列王記下 19章15節
【新約聖書】
ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。ローマの信徒への手紙 10章12節

 神様は全ての国の神であると聖書は告げる。それはつまり、この世界に神様のご支配の下にいない人間は一人もいないということ。
 でも、と思った。私は王様に直接お願いできるような存在じゃないような気がすると。普通、僕は王様の命令に従うだけ。許可のない言葉は許されない。それなのに、私は神様と気やすく呼びかけていいのかな?さらにはお父さんなんて呼んでいる。ますます不敬かも。
 でも、大丈夫。神様はご自分を呼ぶ人を喜んでくださるお方だと言われているから。恵みをくださるお父さんの名を呼びながら、この日一日を過ごしてみよう。

●4日(火)

【旧約聖書】
主が、「わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう」と言われる。出エジプト記33章14節
【新約聖書】
安息日の休みが神の民に残されているのです。ヘブライ人への手紙4章9節

 キリスト者の私たちは日曜日を安息日として過ごしている。実は以前から不思議だった。安息日って休息の日なのに、教会に行って、奉仕や集会があって、家に帰ったらクタクタになっている。それでも、日曜日って安息日なのかな?と。
 今日のみ言葉でちょっとわかった気がする。神様の安息は、のんびり過ごすということでは無くて、神様自らが与えてくださるものなんだ。だから、神様の所へ受け取りに行かなければならない。だって、神様の所しか、「何の心配・苦痛もなく静かに休むこと」なんてできないから。何だか日曜日が待ち遠しいな!さぁ、今週も神様の御前に進み出よう。

●5日(水)

【旧約聖書】
息絶えようとするとき、わたしは主の御名を唱えた。わたしの祈りがあなたに届き、聖なる神殿に達した。ヨナ書2章8節
【新約聖書】
どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。フィリピの信徒への手紙4章6節

 ヨナが主の御名を唱えたのは、魚の腹の中で、息絶えようとするときだった。いつも思う。どうしてもっと早く神様を呼ばないのか、と。でも、私はどうだろうか?きっと、私もヨナと同じようにギリギリにならないと神様に頼らないんじゃないだろうか。それは、自分の力でできるという思いと、神様に任せられないという思いがあるから。
 まさにこれが思い煩うこと。「しなさい」と聖書が語るのは、できない私がいるから。それは、私への問いかけである。今、思い煩っていないか?もしそうなら、今すぐそれを手放して、祈りと願いをささげる方が神様にとって、あなたにとって良いよと勧められているのだ。

●6日(木)

【旧約聖書】
恐れるな、わたしはあなたと共にいる。イザヤ書43章5節
【新約聖書】
ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。使徒言行録18章9~10節

 神様はいつも私たちにいう。私があなたと共にいるのだから、恐れる必要はないと。ちゃんと頭ではわかっているはずなのに、どうして、すぐに忘れてしまうんだろうか。
 それは私達が恐れずにはいられない存在だから。恐れるなと言われて恐れないでいられるのなら、きっとこんな何度も語られるはずがない。でも、恐れてしまうから、「さぁ思い出せ。あなたは恐れる必要なんてないんだ。だって、私があなたと共にいて守るから」と神様は語ってくださるんだ。せめて今日一日は、そのことを思い続けたい。たとえ恐れることがあっても、主が共におられるのだと。

●7日(金)

【旧約聖書】
見よ、わたしはあなたの前に使いを遣わして、あなたを道で守らせ、わたしの備えた場所に導かせる。出エジプト記23章20節
【新約聖書】
占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」マタイによる福音書2章13節

 神様はイエス様の父ヨセフの所へ天使を遣わして、危険を知らせてくださった。でも、と思ってしまう。どうして神様は危険そのものを無くしては下さらないのだろうかと。ヘロデを改心させたり、思いとどまらせたりという方法は用いないのかな?って。
 けれども、これが神様のやり方だ。神様は“私”に働きかけてくださる。それは、「あなたは私のことを信じてくれるはず」という期待の表れでもあるんだろう。神様は私たちの苦しい現実に介入される。それも私を救い出すという方法を使って。この日も、神様の導きに従うことができますように。

●8日(土)

【旧約聖書】
父母はわたしを見捨てようとも、主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます。詩編27編10節
【新約聖書】
そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました。ガラテヤの信徒への手紙4章14節

 私達が生きる世の中は非情である。愛すべき家族であっても、憎しみあうことが平気で起こる。でも、たとえ、家族が見捨てようとも私を見捨てない方がおられると聖書は語る。それこそが私たちの神様だ。神様は私たちの全てをご存じであるからこそ、私たちの一切によらず、私を愛してくださるのである。
 実はそんな、愛にあふれた場所がある。それは、教会だ。神様に愛され、イエス様に救われた私たちだからこそ、本当は兄弟姉妹の一切によらず、互いに受け入れ、愛し合うものとなりたい。明日は日曜日。ぜひ、兄弟姉妹を受け入れて一日を過ごしてみよう。

●9日(日)

三位一体後第2主日
【主日早天礼拝】
  藤森 誠 牧師
【主日礼拝】
  藤森 誠 牧師

この日は花の日・子どもの日のため、
主日礼拝に子どもたちをお招きして、

●10日(月)

【旧約聖書】
モーセとアロンはファラオのところに行き、彼に言った。「ヘブライ人の神、主はこう言われた。『いつまで、あなたはわたしの前に身を低くするのを拒むのか。わたしの民を去らせ、わたしに仕えさせなさい。出エジプト記10章3節
【新約聖書】
この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。ガラテヤの信徒への手紙5章1節

 現代を生きる私たちは自由な身です。誰の奴隷でもないと思っています。でも、本当にそうでしょうか。現代に生きる私たちだって、本当は様々な物に縛られて生きているのではありませんか。お金に、仕事に、人間関係に。
 それでは神様は、そういったものを一切捨てて、俗世間から離れ、一人で生きなさいと言っているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは、そういったものから既に解放されているんです。それはイエス様を通して。私たちは強いられて仕えるのではなく、喜んで自ら神様に従う者としていただいているのですから。さぁ、この日も神様のみ言葉に聞きましょう。

●11日(火)

【旧約聖書】
平和を勧める人の心には喜びがある。箴言12章20節
【新約聖書】
できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。ローマの信徒への手紙12章18節

 今日の新約聖書のみ言葉は、何だか必死な様子がうかがえる。「できれば、せめて…」と呼びかける姿に、何だか切実な願いを受け取ることができる。でも、旧約聖書は一転、不思議な言葉を語る。平和を作り出す人に喜びがあるのではなくて、それを勧める人に喜びがあるという。互いに勧め合うことに喜びを見出している。
 それってきっと、ここで言われている平和って、私たちの考える平和ではなく、神様が与える平和のことだからなのかも。神様を中心に考える時、私たちは他者を傷つけることはできなくなる。平和って神様が与えて下さるものだから、
それが与えられるようにと祈り勧めあうのだ。

●12日(水)

【旧約聖書】
御手によって造られたものをすべて治めるように、その足もとに置かれました。詩編8編7節
【新約聖書】
「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、わたしは何事にも支配されはしない。コリントの信徒への手紙一6章12節

 足元に置かれたと聖書は語るけれども、一体誰の足元に置かれたのだろうと思ったら、人間の足元だった。神様は、ご自分が造られたもの全てを治めるよう人間に託されたのだ。
 でも、人間は罪人だから、神様が造られた物を上手には治めることができないでいる。だからこの世界は問題で満ち溢れているんだ。でもと思った。そのことを神様はわからなかったんだろうかと。そんなことないはず。それでも、人間の足元に全てを置かれたのは、きっと神様からの期待の現われなんだ。そして、もう一つの約束がある。それは、私はあなたと共にいるということ。神様が共にいるからきっと大丈夫だ。

●13日(木)

【旧約聖書】
あなたたちは、わたしが命じることをすべて忠実に守りなさい。これに何一つ加えたり、減らすことがあってはならない。申命記13章1節
【新約聖書】
イエスは答えて言われた。「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。ヨハネによる福音書7章17節

 今日の聖書は、神様の命令を忠実に守ることを命じている。ふと気になった。命令を減らすことが駄目なのはよくわかるけれども、どうして、命令を加えることも駄目なんだろうか?
 それはきっと神様の御心から離れてしまうから。命令を加えるということは、私の思いが優先されてしまう。それはイエス様が言われたように、私が勝手に話していることなんだ。だからこそ、私たちは、忠実さが求められている。とはいえ、私達には、神様のご命令をそのまま実行することも難しいのだけれども…。でも、それが神様の御心であるならば、まずやってみよう。減らすことも増やすこともなく神様のご命令を。

●14日(金)

【旧約聖書】
主の神殿の基礎が据えられたので、民も皆、主を賛美し大きな叫び声をあげた。エズラ記3章11節
【新約聖書】
イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。コリントの信徒への手紙一3章11節

 最初、イスラエルの人たちは神殿が完成したので、喜んでいるのだと思っていた。でも、よく読んだら、まだ基礎が据えられただけで、神殿完成にはほど遠い。それなのに、人々が喜んでいるのは一体なぜだろうか?
 それは、家を建てるために、基礎が絶対的に必要だからだ。基礎が頑丈である程に、その上に建つ建物も頑丈な物となる。キリスト者の土台はイエス・キリストだと聖書は語る。なぜなら、私たちは神の建物と言われているから。イエス様が私たちを支えてくださるからこそ、私たちは神様を愛し、隣人を愛することができるんだ。今日も、この土台なる方へと喜びの声をあげよう。

●15日(土)

【旧約聖書】
恵みの業をもたらす種を蒔け、愛の実りを刈り入れよ。ホセア書10章12節
【新約聖書】
「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ』と言われた。」ルカによる福音書12章16~17、19~20節

 今日のみ言葉は何だか対照的な気がする。旧約で種を蒔き、刈り入れよと言われているのに、新約はそれをした人が愚かな者よと言われている。気になってホセア書を読んでみたら、人々が自分の力を頼りにしているからと怒られていた。
 これってこの金持ちと同じかも。金持ちもまた自分の力で蓄えた物で満足していた。だから、愚かな者よと言われているんだ。ここで言われていることはどちらも、主を求めよということなんだ。恵みの業も愛の実りも神様が与えてくださる物だから。そして、私たちの蓄えもまた神様が与えてくださるものなんだ。だから、私たちはそれを与えてくださる方を大事にしなきゃ。

●16日(日)

三位一体後第3主日
【主日早天礼拝】
  藤森 誠 牧師
【主日礼拝】
  藤森 誠 牧師

●17日(月)

【旧約聖書】
新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。詩編98編1節
【新約聖書】
わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。ヨハネによる福音書1章16節

 讃美歌って歌詞を読むと、私たちの日常に色濃く紐づいているということがよくわかる。悩みの日には、悩みの歌が心に響く。喜びの日には感謝の歌が心に刺さる。賛美って私たちの心からあふれる思い、あふれる言葉そのものなんだ。
 では私たちの心から溢れる本当の感謝って何だろう。それはきっとイエス様が私のために生まれ、死に、復活されたということじゃないだろうか。その喜びが私たちの心からあふれる賛美だ。私たちはイエス様を通して神の子としていただいた。この方の上に恵みをいただいているのだ。だからこの日も、神の子とされた者として、新しい歌を神様に向けて歌い続けよう。

●18日(火)

【旧約聖書】
そして、彼らにわたしの掟を与え、わたしの裁きを示した。人がそれを行えば、それによって生きることができる。エゼキエル書20章11節
【新約聖書】
神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。ヨハネの手紙一4章9節

 神様って命令ばっかりで、いつも怒っている私の母みたいだと思ったことがある。でも、どうして母が怒るのか。それは私がいけないことをしているから。神様も私が正しく生きることができるように事細かに口出ししてくださるのだ。
 でも、私たちは神様の命令に従うことができない存在だ。私のためって、頭では分かっているのに、従うことができない。だから、神様はイエス様を与えてくださった。この方を通して、私たちが神様と共に生きることができるようにである。神様は私たちを愛するがゆえに、その独り子を与えてくださるのだ。

●19日(水)

【旧約聖書】
わたしの民よ、心してわたしに聞け。わたしの国よ、わたしに耳を向けよ。教えはわたしのもとから出る。わたしは瞬く間に、わたしの裁きをすべての人の光として輝かす。イザヤ書51章4節
【新約聖書】
シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」。ルカによる福音書2章28、30~32節

 神様は私の裁きは、すべての人の光だと言われる。一体どういうことなんだろう?どうして裁きが光なの?それはきっと、裁きによって私たちが救われなければならないことをはっきりと指し示すからだ。自分の姿は光に照らされなければ見ることができない。
 でも、聖書はそこで語り終わらない。なぜなら、イエス様が来てくださったから。この方こそ、私たちに赦しを与えることで、救ってくださる救い主そのものだ。シメオンは、そのことがよくわかったのだ。あぁこの方こそ、神様が与えてくださった光そのものであると。私たちにもこの光である方の救いが必要だ。

●20日(木)

【旧約聖書】
あなたたちはわたしたちの神、主と心を一つにし、今日そうであるようにその掟に従って歩み、その命令を守らなければならない。列王記上8章61節
【新約聖書】
なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。フィリピの信徒への手紙3章14節

 新約聖書は「後ろのものを忘れよ」と命じている。過去を振り返るなということなのかなと思った。でも、私たちは過去の過ちを忘れてしまっていいのだろうか?その償いをしなければならないのではないか?
 でも、聖書はそうは言わない。前のものに全身を向け、イエス様がくださる賞を得るために、走り続けなさいと言われている。なぜなら、私たちの過去の過ちはもう全て、イエス様が背負ってくださっているから。イエス様を通して神様が与えようとしてくださっているものに目を向けよと言われる。それが神様の御心だからだ。この日も、前を向いて歩いていこう。

●21日(金)

【旧約聖書】
殺してはならない。出エジプト記20章13節
【新約聖書】
わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。ヨハネによる福音書15章12節

 今日のみ言葉は珍しく、ちゃんと守れているなと思った。だって誰も殺したことなんてないから。でも、新約聖書を読んでよくわからなくなった。この二つのみ言葉はどう関わっているのと。
 神様のご命令はある意味で消極的なものだ。だって人と関わらなければ殺すことも、殺したいと思うことも無いから。でも、イエス様は積極的に人と関われと言われる。あなたは愛しなさいと。実はこの二つの命令に共通する思いがある。それは、神様が人間を愛しているという思いだ。神様が人を愛するがゆえに殺してはならないし、神様が人を愛するがゆえに、互いに愛し合いなさいと言われている。愛に生きる者としていただきたい。

●22日(土)

【旧約聖書】
主よ、憐れんでください、わたしは嘆き悲しんでいます。主よ、癒してください、わたしの魂は恐れおののいています。詩編6編3~4節
【新約聖書】
(イエスの言葉)疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。マタイによる福音書11章28節

 神様もイエス様も、強い人を求めているんだと思っていた。霊に燃えて、熱心に神様を求めることができる人を喜ばれるんだと。
 でも、今日のみ言葉はちょっと違っている。イエス様が来なさいと招かれるのは、重荷を負って、疲れ果ててしまった人だ。休みが必要な人だ。それも、神様の憐れみと癒しをいただくためにと招いてくださっている。私たちは元気だから神様の前にいくのではなく、疲れているからこそ、神様の前に立つんだ。それって、私が罪人だから、赦しが必要だということに似ている気がする。明日は日曜日、神様の前に進み出て、み言葉によって癒していただこう。

●23日(日)

三位一体後第4主日
【主日早天礼拝】
  藤森 誠 牧師
【主日礼拝】
  辻川 篤 牧師

●24日(月)

【旧約聖書】
御憐れみがわたしに届き、命を得させてくださいますように。詩編119編77節
【新約聖書】
わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、(ますように)。フィリピの信徒への手紙1章9節

 私達は神様から与えられているものによって生かされている。でも、それって具体的に何なのだろうか。どうやったらそれを知ることができるのかな?と思ったら、新約聖書が答えてくれていた。その知る力さえ、神様が与えてくださるものなんだと。
 さらには見抜く力も必要とされている。それは、神様の働きってよく見ないとわからないから。それも、私が苦しみや困難の中にある時は特に。でも、その苦しみの現実にさえ神様が助けてくださっていると知るならば、私達の喜びは一層大きなものとなるのではないだろうか。この日、神様の憐れみを、知る力と見抜く力を与えてください。

●25日(火)

【旧約聖書】
わたしに聞け、心のかたくなな者よ、恵みの業から遠く離れている者よ。わたしの恵みの業を、わたしは近く成し遂げる。もはや遠くはない。イザヤ書46章13節
【新約聖書】
実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。ローマの信徒への手紙10章10節

 神様の語られる恵みって何だろうと思って、続きを読んでみたら、救いをもたらすと記されていた。恵みの業って救いのことだったんだ。
 その恵みってどうやって受け取ったらいいのかなと思ったら、新約聖書が教えてくれた。心で信じること、口で言い表すこと。それによって私たちは神様の恵みの業を受け取れるというんだ。でも、そんな簡単でいいのかな?と思う。でも、それでいいんだ。だって救いは神様が成し遂げられる御業だから。もう神様とイエス様によって恵みの業は完成しているから、私たちはそれを受け取るだけでいいのだ。救われた者として今日も歩もう。

●26日(水)

【旧約聖書】
主の成し遂げられた驚くべき御業と奇跡を、主の口から出る裁きを心に留めよ。詩編105編5節
【新約聖書】
どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。テサロニケの信徒への手紙一5章18節

 今日の旧約のみ言葉は変なことを言うなと思った。どうして裁きを心に留めるんだろうと。赦しをと言ってくれたらすんなり受け入れられたのに。でも、もしかしたら私は神様の御業って良い事ばかりだと思っているのかもと気づかされた。
 新約聖書は「どんなことにも」と言っている。それは喜びだけでなく、悲しみや困難もまたそうだ。私たちは嬉しいことだけを感謝して生きればよいのではない。困難をも感謝しなきゃ。でもどうしたらそんなことできるだろうか?それは、その困難な状況にも神様が関わっておられ、その現実のただなかに神様がいてくださる。そのことを感謝しようじゃないか!

●27日(木)

【旧約聖書】
喉をからして叫べ、黙すな、声をあげよ、角笛のように。わたしの民に、その背きを、ヤコブの家に、その罪を告げよ。イザヤ書58章1節
【新約聖書】
イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。マタイによる福音書4章17節

 のどを涸らしてまで叫ばなければならないことは、あなたは罪びとだということだと神様は言われる。神様の目から見たら、私も罪人であると。でも、そんなに必死になってまで、私の罪を指摘して神様はどうされたいのだろう?そう思って、続きを読んでみたら、「彼らが、神に近くあることを望むように」と書かれていた。
 神様は罪を指摘しただけでは終わらない。イエス様も悔い改めよと言われる。それは神様との正しい関係に戻ること、神様の傍にいることだ。イエス様は、そのために人々に自らの罪を指摘して回った。私も今日、心を神様に向けなおして、イエス様の救いを受け取ろう。

●28日(金)

【旧約聖書】
主の助けを得てわたしの心は喜び躍ります。歌をささげて感謝いたします。詩編28編7節
【新約聖書】
だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。ヘブライ人への手紙13章15節

 聖書が語る出来事の起こり方はいつだって、神様が先に働かれて、それに対して私が応答するという形だ。今日の詩も先に神様が私を助けてくださって、その感謝として喜び躍り、歌を歌うことが語られている。でも、神様の助けに対して、歌や言葉での感謝だけでいいんだろうか?もっと他にもすべきことがあるんじゃないの?
 けれども思い巡らしていて気づいたことがある。それは、私は簡単だと思う感謝の言葉を述べることさえきちんとできていないということに。神様がなしてくださる助けにありがとうと癒えていない自分に。まずは、ちゃんと言葉を伝えるところから始めよう。他のことはその後だ。

●29日(土)

【旧約聖書】
青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と、言う年齢にならないうちに。コヘレトの言葉12章1節
【新約聖書】
ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』ルカによる福音書15章19節

 私達は一体いつから、誕生日が嬉しくなくなっただろうか。幼い頃は待ち遠しくて仕方なかったはずなのに。本当は、何歳になったって、誕生日は大切な日なのだ。なぜなら、この日は神様が私たちに命を与えてくださった日だから。そのことを理解するならば、「年を重ねることに喜びはない」なんて言えるはずがない。この一年も生かして頂いて感謝ですと歩むのがキリスト者ではないだろうか。
 放蕩息子も同じである。彼もまた、自分の人生に神様は必要ないと関係を切ってしまった。でも、その息子は変わらず息子として受け入れてもらえる。神様の憐れみのゆえに。

●30日(日)

三位一体後第5主日
【主日早天礼拝】
  辻川 篤 牧師
【主日礼拝】
  辻川 篤 牧師

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