2024年5月の『日々の聖句』

この日々の聖句は、聖書箇所を「ヘルンフート兄弟団 『日々の聖句 2024』(べテスダ奉仕女の家)」からいただきました。
聖書の本文は、日本聖書協会が発行している『聖書 新共同訳』から転記しています。
『聖書 新共同訳』:(c)共同訳聖書実行委員会 (c)日本聖書協会、1987, 1988。

●1日(水)

【旧約聖書】
わたしがお前と共にいて救うと、主は言われる。エレミヤ書 30章11節
【新約聖書】
事実、(イエス)御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。ヘブライ人への手紙 2章18節

 この朝も神様の救いの約束が与えられている。神様の救いは、私たちを右から左にヒョイと移し替えるという形でなされるのではない。その苦しみの只中に来て、共に苦しまれるのだ。
 イエス様も同じである。イエス様は人となられて、私たちと同じ試練を受け、苦しまれた。それゆえに、私たち以上にその苦しみをご存じでいてくださるのだ。そして、試練を受ける時には、助け手が不可欠であることも知っておられる。だからこそ、私たちのすぐそばで支え続けてくださっているんだ。この方に支えてもらって今日を歩もう。そして、試練で苦しむ人に、イエス様が共にいることを伝えよう。

●2日(木)

【旧約聖書】
わたしの民がわたしに聞き従い、イスラエルがわたしの道に歩む者であったなら。詩編 81編14節
【新約聖書】
ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。コロサイの信徒への手紙 1章23節

 「~であったなら」ってどういうことなのかと考えてみたら、そうできていない時に使う言葉だった。もし、私が神様に従う者であったなら…、だがそうではないという形で。私はやはりどこまでも神様に逆らい敵対する者なのだ。
 でもと、新約聖書は語る。確かにあなたたちは神様に敵対する者であった。しかし、イエス様の十字架と復活によって、とがめるところのない者とされている、と。だから、揺るぐことなく、この希望に踏みとどまり、離れるなと言われている。自分だけを見たら敵対者。でも、神様をみるならば、救われた者なのだ。今日もこの希望を握って歩みだそう。

●3日(金)

【旧約聖書】
耳の聞こえぬ者を悪く言ったり、目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない。あなたの神を畏れなさい。レビ記 19章14節
【新約聖書】
(イエスの言葉)あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。ルカによる福音書 6章36節

弱い人たちを虐げてはならないとのご命令である。でもと思ったのは、「神を畏れよ」とあったから。一体どういうことなの?と思った。
新約聖書を読んでちょっとわかったかもしれない。私たちが弱い人たちを虐げてはならないのは、どこまでも神様との関わりの中におかれているからなんだ。相手が強いか弱いかということではなく、どこまでも神様が憐れみ深い方だから、私たちもまた憐れみ深いものとなる必要があるんだ。だって、罪びとの私が赦されたということが一番の憐れみだから。私もこの日、憐れみ深い者として、隣人と関わっていきたい。

●4日(土)

【旧約聖書】
お前たちは豊かに食べて飽き足り、驚くべきことを、お前たちのために成し遂げられた主。お前たちの神なる主の御名を、ほめたたえるであろう。ヨエル書 2章26節
【新約聖書】
イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した。マルコによる福音書 6章42節

 何だか聖書って、食べ物の話が多いなと、ふと思った。アダムとエバは善悪の木の実を食べて追放されたし、カインは神様への献げ物の件で、アベルを殺した。新約聖書でも、食べ物の話が沢山ある。それは、私たちが生きる上で、無くてはならないものだからなのだろう。
 その食べ物について、神様は食べて飽き足りる、満腹するほどに与えてくださると言う。つまり、私の必要を満たしてくださるのは神様なのだ。そういえば、イエス様も主の祈りで「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」と祈れと教えてくださった。この日も私の必要を満たしてくださる神様にお願いしよう。

●5日(日)

復活後第5主日(いのれ)
【主日早天礼拝】
  藤森 誠 牧師
【主日礼拝】
  辻川 篤 牧師

第一主日のため、礼拝の中で聖餐式が執行されます。

●6日(月)

【旧約聖書】
災いの日には必ず、主はわたしを仮庵にひそませ、幕屋の奥深くに隠してくださる。詩編 27編5節
【新約聖書】
主は真実な方です。必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます。テサロニケの信徒への手紙二 3章3節

 主は真実な方です、と聖書は語る。でも、それってどういう意味なのと思って、少し前の箇所を読んでみた。すると、「悪人どもから逃れられるように、と祈ってください」と書かれていた。それに対して、神様は悪いものから守ってくださるよと言われている。
 つまり、神様の真実さは、私たちの祈りに耳を傾け、真剣に受け止めると言うことなんじゃないだろうか。私の願いを最善の方法で叶えようとしてくださるんだ。でも、気づいてしまった。それって私がどう祈るかが重要ということだ。手紙の著者は悪人への復讐は願わなかった。神様私は今日、どう祈ったらいいでしょうか?

●7日(火)

【旧約聖書】
麗しさの極みシオンから、神は顕現される。わたしたちの神は来られる。黙してはおられない。詩編 50編2~3節
【新約聖書】
律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。」マルコによる福音書 12章32節

 聖書の神様はおしゃべりだなぁと思ったことがある。こんなに人間と言葉を交わす神様は珍しいのではないか。それも一方的に言葉を告げるだけでなく、人間の言葉に耳を傾け人と対等に語る神はなお珍しい。
 でも、聖書の言葉は昔の人とのやり取りではない。神様の言葉は今を生きる私たちにも、届けられている。この日々の聖句で語られる言葉もまた、すべては神様からの語りかけである。それは私たちに伝えたいことがあるから、知ってほしいことがあるから。今日も祈りながら神様と対話しよう。神様、今日は私に何を伝えてくださるのですか、と。

●8日(水)

【旧約聖書】
(主は)わたしの口に新しい歌を、わたしたちの神への賛美を授けてくださった。詩編 112編1節
【新約聖書】
(あなたがたは)心の底から新たにされなさい。エフェソの信徒への手紙 4章23節

 新約聖書の語る新たにされるって何だろうと思って、聖書を開いた。そこには、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨てよと書かれていた。それってきっと神様と出会う前の私のことじゃないだろうか。だって、神様と出会わなければ、神様を礼拝することも、神様を賛美することも知らなかったはずだから。
 わざわざ、日曜日の朝早くに、眠い目をこすりながら礼拝に集うのは、もう私たちが新しくされているからだ。そして、そこで新しい歌、自分を賛美するのではなく、神様をほめたたえる歌を与えられている。この歌はいつでも歌っていいんだ。今日も神様を賛美して生きよう。

●9日(木)

【旧約聖書】
主が彼らに喜びを与えられたからである。エズラ記 6章22節
【新約聖書】
いつも喜んでいなさい。テサロニケの信徒への手紙一 5章16節

 エズラの語る神様が与えられた喜びって何だろうと聖書を開いたら、それは、イスラエルの神殿が再建されたという喜びであった。それも、ただ神殿が再建したと言うだけでなく、神様が働きかけたことによってそれがなされたということに喜びを見出している。私たちの喜びの根源は神様にこそあるのかもしれない。
 だって、いつも喜んでいるなんて、この苦難だらけの人生においてできるはずがないから。でも、その日々の中で神様が働いて私を支えてくださっていると知るならば、少し変わってくるかもしれない。この日も神様への喜びに満たされますように。

●10日(金)

【旧約聖書】
わたしはあなたたちを顧み、あなたたちに子を生ませ、その数を増し、あなたたちとわたしの契約を立てる。レビ記 26章9節
【新約聖書】
キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。エフェソの信徒への手紙 4章16節

 子どもが生まれ、数が増すというのは、聖書では平和と祝福の象徴として描かれている。でも、一体どうして神様は、人に平和と祝福を与えるのか。それはたった一点、「わたしはあなたたちの神、主だから」と言われる。神様がご自分のゆえに、人々に祝福と子孫繁栄を約束されるのである。
 私達はさらにイエス様を通して、体全体は成長すると言われている。この体とは教会のこと。イエス様を通して、神の子が生まれ、その数が増やされていく。そして、教会は成長していくんだ。私たちが今、教会に集えるのも、すべては神様の祝福がなす業だったんだ。

●11日(土)

【旧約聖書】
彼(神)は傷つけても、包み、打っても、その御手で癒してくださる。ヨブ記 5章18節
【新約聖書】
すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。ローマの信徒への手紙 11章36節

 神様は私を包み、癒してくださると聞いて、とてもうれしい気持ちになった。そこで、あれ?と気づくことがあった。なぜなら、神様は傷つけ、打つことがあるって言われているから。一体どういうことだろうか?それは、神様の懲らしめだと聖書は語っている。たとえ懲らしめることがあっても、必ず癒してくださるのだ。
 でも、懲らしめを受けるのは、やっぱりつらい。それがたとえ神様によって保たれ、神様へと向かっていても、である。しかし、その苦しみも神様から与えられているということは私の唯一の助けではないだろうか。なぜなら、その先には回復が約束されているから。

●12日(日)

昇天後主日(ききたまえ)
【主日早天礼拝】
  辻川 篤 牧師
【主日礼拝】
  辻川 篤 牧師

●13日(月)

【旧約聖書】
主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。エレミヤ書 31章16節
【新約聖書】
今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。ヨハネによる福音書 16章22節

 今日のみ言葉も心温まる言葉だ。でもと思った。彼らは一体どうして泣いているのか、悲しんでいるのだろうかと。聖書を読んでみてよくわかった。彼らはみな神様と離れ離れになって泣いており、悲しんでいるんだと。
 しかし、その涙が報いられる時が来ると神様は約束される。それが果たされるのはいつか。それはイエス様がご復活された時である。このお方こそ、私たちの慰めそのものである。そして、イエス様に見出された私たちは、もう悲しむことも、泣くこともない。神様はイエス様を通して、聖霊として今日も私たちと共にいてくださるから。

●14日(火)

【旧約聖書】
わたしたちの神を尋ね求める者には、恵み溢れるその御手が差し伸べられ、神を見捨てる者には必ず激しい怒りが下ります。エズラ記 8章22節
【新約聖書】
イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。ヨハネによる福音書 6章67節

 今日のみ言葉はとてもシンプルでわかりやすい。神様を求めれば祝福が、神様を見捨てれば呪いが待っているといわれている。そんなの祝福を選ぶに決まっているじゃないかと思った。
 でも、私はどうだろうか。頭ではわかっているのに、神様を求めることができない私がいる。私も呪いの道かと思って、再びみ言葉に目を向けた。そうしたら、見捨てる者は、激しい怒りが下ると書いてあった。あれ、神様はご自分を見捨てるものを怒るだけで、見捨てることはされないのか、と。それは私にとって大きな喜びじゃないか。だって神様が怒るのは、気付いてほしいとの思いの裏返しだから。そこに赦しがある。

●15日(水)

【旧約聖書】
主よ、我らを憐れんでください。我々はあなたを待ち望みます。朝ごとに、我らの腕となり、苦難のとき、我らの救いとなってください。イザヤ書 33章2節
【新約聖書】
「この白い衣を着た者たちは、だれか。また、どこから来たのか。彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。彼らは、もはや飢えることも渇くこともない。ヨハネの黙示録 7章13、14、16節

 今日の新約聖書の言葉は、枕辺の祈りをする時に読まれるみ言葉だ。旧約聖書のみ言葉は生きている今、苦難の中で救いとなってくださいと願っている。新約聖書は、この地上を去った後、苦難を通って来た者に対しての報いを語ってくれている。
 神様は、生きている今も、地上を去った後も、変わらずに私に関わり続けてくださる方。神様を信じる私達には苦難があるが、その苦難は無駄ではない。神様がその苦難の中の私達をさえも喜んでくださるからだ。苦難をも喜べるなんて、キリスト者って不思議な存在だ。今日も神様の憐れみをいただきながら、歩んでいこう。

●16日(木)

【旧約聖書】
主は天上の宮から山々に水を注ぎ、御業の実りをもって地を満たされる。詩編 104編13節
【新約聖書】
人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。ヨハネによる福音書 6章13節

 神様が地上にもたらしてくださる御業の実りって何だろうと思った。神様の救いだろうか。神様の恵みや祝福だろうか。そう思って、新約聖書を読んだら、パンの話だった。文字通り、私たちの日々の食事である。人々が満腹した上に、さらに12の籠が一杯になる程、満ち足りていた。
 私は食べ物のことをないがしろにしていたのかもしれない。日本において食べ物に困ることはめったにない。でも、実は、その食べ物も神様の御業の実りである。そんな小さいことから神様は私たちの必要を全て満たしてくださるのだ。だからこの日も安心して、神様に頼って生きよう。神様の御業を見よう。

●17日(金)

【旧約聖書】
あなたは寄留者を虐げてはならない。あなたたちは寄留者の気持を知っている。あなたたちは、エジプトの国で寄留者であったからである。出エジプト記 23章9節
【新約聖書】
正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、…旅をしておられるのを見てお宿を貸し…たでしょうか』。そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』マタイによる福音書 25章37、38、40節

 神様のご命令は理由なくただ従えというものではない。「あなたは既にしてもらったのだから、あなたも同じようにしなさい」と言うのだ。もう良くしてもらっただろう、と。あるいは、「嫌な思いをしただろう。だからしてはいけないよ」と諭されるのである。
 私のその小さな行いをイエス様は喜んでくださる。それはイエス様へのもてなしと見ていただけるのだ。さらに、イエス様をもてなした者には、神の国を受け継ぐことができると言われている。私はしてもらったことのお返しをしているだけなのに、追加でたくさんのご褒美をいただけるのだ。これはやらなきゃ損でしょ。

●18日(土)

【旧約聖書】
主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。」出エジプト記 3章7節
【新約聖書】
もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。ヤコブの手紙 2章15~16節

 私たちはいつだって神様に対して苦しみを告白し、助けを求めている。神様は、その叫びの声を聞き、痛みを知り、働いてくださっている。その喜びを私たちはよく知っているはずだ。
 では私たちは、どうしているだろうか。私たちの周りにも、同じように苦しみの叫びをあげている人たちがいるのではないか。その人たちに私は何をしてあげているだろうかと、気づかされた。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」とイエス様は言われたじゃないか。それも困っているのは、見ず知らずの誰かではない。同じイエス様を信じる兄弟姉妹なのだ。この日こそ、具体的に手を差し伸べる者としていただこう。

●19日(日)

聖霊降臨祭(ペンテコステ)
【主日早天祈祷会】
  教会員 による奨励
【主日礼拝】
  藤森 誠 牧師

三大祝祭日のため、主日礼拝の中で聖餐式が執行されます。

●20日(月)

【旧約聖書】
主はこう言われる。天はわたしの王座、地はわが足台。あなたたちはどこに、わたしのために神殿を建てうるか。何がわたしの安息の場となりうるか。イザヤ書 66章1節
【新約聖書】
あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。コリントの信徒への手紙一 3章16節

 神殿とは、神様がおられる場所である。だから、イスラエルの人々は、神様のために財を尽くして、立派な神殿を建てた。しかしそれでも、そこは神様にとって相応しくない場所であった。
 それにも関わらず、新約聖書は、私が神様の神殿であると言う。金銀財宝がふんだんに使われた神殿さえ相応しくないのに、私が神殿?そんなこと言われても困ってしまう。でも、と気づかされた。「神の霊が住んでいることを知らないのか」とみ言葉は言う。それってつまり、神殿に神様がおられるのではなくて、神様がおられる場所が神殿となるのではないだろうか。神様、あなたの神殿としてふさわしい者にしてください。

●21日(火)

【旧約聖書】
主であるわたしはその番人。常に水を注ぎ、害する者のないよう、夜も昼もそれを見守る。イザヤ書 27章3節
【新約聖書】
神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。コリントの信徒への手紙一 10章13節

 今日の新約聖書のみ言葉は、きっと多くの方の愛唱聖句だ。私もこのみ言葉が好きな一人。でも、改めてこの朝、読み直してみて気づいたことがある。それは、試練に“耐えられる”ように逃れる道を備えていてくださるということだ。私はこれまで試練から逃れるために、逃れる道が備えられていると考えていた。でも、そうではないんだ。試練から逃げるためではなくて、試練によって潰れきってしまわないための道なんだ。だって試練は私のためにと神様が備えてくださるものでもあるから。旧約聖書も約束してくれている。常に水を注ぎ、夜も昼も見守ってくださっていると。

●22日(水)

【旧約聖書】
主は御自分の民に贖いを送り、契約をとこしえのものと定められた。詩編 111編9節
【新約聖書】
この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。ヨハネの手紙一 2章2節

 イエス様が私の罪を償ういけにえとなられたと今日のみ言葉は告げている。私にはイエス様に償っていただかなければならないほどの罪があるんだと。それは目を背けたくなるけれども、確かな事実なんだ。
 でも、聖書はそこで終わらない。なぜなら、イエス様は全世界の罪を償ういけにえであられたから。つまり、私の罪の償いはもう済んでいるということ。イエス様が私の代わりとなって贖割れたのだ。これこそ、神様がなされる驚くべき御業である。あなたを救うという契約は、イエス様を通して確かに果たされているんだ。あとは、それを私のこととして受け取るかどうかだ。

●23日(木)

【旧約聖書】
闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。イザヤ書 9章1節
【新約聖書】
学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。マタイによる福音書 2章11節

 今日のみ言葉は、イエス様がご降誕された時のみ言葉である。学者たちは、大いなる光を見た。でも、学者たちが星に導かれた先に居たのは、小さな赤ちゃんであった。彼らはがっかりしなかったのだろうか、どうして幼子を拝み、極上の宝物を献げることができたんだろう?
 それは彼らが、神様の約束を知っていたからではないだろうか。絶望の中にあって、それでも神様は私のことを忘れていなかった。約束を叶えてくださったと。だからこそ彼らは喜びあふれたのである。たとえそれがまだ、生まれたばかりの幼子であっても。今日も神様の約束は成就している。そのことを握って歩みだそう。

●24日(金)

【旧約聖書】
民は答えた。「主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません。」ヨシュア記 24章16節
【新約聖書】
シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。」ヨハネによる福音書 6章68節

 あぁ、今日のみ言葉は本当にその通りだと思った。どうして神様から離れるようなことがあるだろうかと。でも、と思った。この民も、ペトロも神様を捨てた張本人じゃなかったか。
 改めて今日のみ言葉を読み直して気づいた。旧約も新約もどちらもこれは人間の約束だ。そして、人間のする約束のなんと脆いことかと。私もきっと神様に告白するだろう。あなたを捨てるはずがないと。でも、その直後に、神を捨てる。なんて移ろいやすい存在だろうか。でも、イエス様は十字架の上で、彼らをも赦してくださった。だからこう祈ろう。神様どうぞ、あなたを捨てる、この私をお赦しください、と。

●25日(土)

【旧約聖書】
わたしは申します。「主よ、憐れんでください。あなたに罪を犯したわたしを癒してください。」詩編 41編5節
【新約聖書】
(パウロの手紙)わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。コリントの信徒への手紙一 15章10節

 この詩人は、罪の赦しを求めず、神様の憐れみを求めている。一体どうしてだろう?そのことを思いめぐらしながら、私の心の中にこんな思いがあるからなのかもと思った。「私は神様に赦していただいて当然だ。赦しを求めれば、必ず神様は赦してくださるに違いない」と。
 でも、神様が私を赦す理由なんか、実はこれっぽちもないんじゃないだろうか。だから、私が赦していただけるのは、ひとえに神様の憐れみによるのであり、恵みなんだ。そうか、神様の恵みって赦されるってことだ。恵みをいただいた者として、赦された者としてこの日を歩みだそう!

●26日(日)

三位一体主日
【主日早天礼拝】
  藤森 誠 牧師
【主日礼拝】
  藤森 誠 牧師

●27日(月)

【旧約聖書】
神と共に我らは力を振るいます。詩編 60編14節
【新約聖書】
兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。ローマの信徒への手紙 12章1節

 神と共に力を振るうことと、自分の体を生けるいけにえとして献げることとがなんだか結びつかなかった。一体どういうことなのだろうか。
 ふと思った。いけにえって神様のものになるってことだよねと。つまり私の体を神様のものとして、神様の自由に使ってもらうということなのかもって。私の体を神様が操り人形にされる。そう聞くと怖い気もするけれども、私の働きが神様の働きになれるんだと気づいたら少しうれしくなった。こんな私だけれども、神様がご自分のために用いてくださるから。でも、そのためには神様に喜ばれる、私にならなくちゃ。その力も神様が与えてくれる。さぁ、やってみよう。

●28日(火)

【旧約聖書】
聞く耳、見る目、主がこの両方を造られた。箴言 20章12節
【新約聖書】
フィリポが走り寄ると、預言者イザヤの書を朗読しているのが聞こえたので、「読んでいることがお分かりになりますか」と言った。宦官(かんがん)は、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と言い、馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼んだ。使徒言行録 8章31節

 今日のみ言葉は何だか不思議だ。神様が造った聞く耳、見る目があるのに、宦官は神様の言葉を理解できないでいたから。
 もしかしたらと思った。たとえ聞く耳があっても、見る目があっても、神様の言葉を届けてくれる人が必要だということなのかもしれない。私たちは一人っきりでは、み言葉を理解して、み言葉に生きることができないということだ。でも、心配する必要はない。なぜなら、神様はもう私たちにその相手を用意してくれているから。それが教会である。同じ神様を信じる兄弟・姉妹がそこにいる。だから、私たちは教会が必要だ。

●29日(水)

【旧約聖書】
(モーセの言葉)あなたたちは、今日わたしがあなたたちに対して証言するすべての言葉を心に留め、子供たちに命じて、この律法の言葉をすべて忠実に守らせなさい。それは、あなたたちにとって決してむなしい言葉ではなく、あなたたちの命である。申命記 32章47節
【新約聖書】
命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。ヨハネによる福音書 6章63節

 神の言葉こそ私を生かす命そのものだと聖書は語る。モーセもイエス様もそういうのだ。その命とは、私たちの人生、生き様のことではないだろうか。私たちがどう生きるのか、その指針をみ言葉が伝えてくれているのだ。それは、神様の言葉を心に留めることから始まる。そして、それを実行することである。どんなによい教えを聞いても、その言葉を忘れてしまっては意味がないし、その通りに生きなければ意味がない。
 この朝、神様に問われている。あなたは霊が与えるみ言葉に従って歩むのか、と。そのためにイエス様は助け主である聖霊を私たちに遣わしてくださっているから、きっと大丈夫だ。

●30日(木)

【旧約聖書】
主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて、わたしたちは夢を見ている人のようになった。詩編 126編1節
【新約聖書】
愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、…わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。コリントの信徒への手紙一 13章8、12節

 神様は捕らわれ人を連れ帰られる。でも、それはまだ実現していない先のこと。だから、今はまだ、その約束はなんだかおぼろげに写る夢のような気がする。しかし、必ず顔と顔とをあわせるようにはっきりと見ることができる日が来る。それが、私たちが待ち望んでいるものである。
 神様の愛、それは、イエス様の十字架の出来事を見たらよくわかる。きっと、最初はおぼろに映っているのかもしれない。でも、そこを見続ける時に、はっきりとわかるようになる。あぁ、神様は本当に私を愛してくださっているのだと。その愛は決して滅びないとの約束がある。信じて、この日も歩みだそう。

●31日(金)

【旧約聖書】
主に対して怒りを燃やした者はことごとく、主に服し、恥を受ける。イザヤ書 45章24節
【新約聖書】
そこで、重ねて大祭司は尋ね、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と言った。イエスは言われた。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る。」マルコによる福音書 14章62節

 今日の旧約聖書を聞いて、あの人、この人の顔を思い浮かべた。みんな神様にやっつけられるんだ、ざまぁみろ、なんて。
 でも私はどうだろうか。私は神様に対して怒りを燃やしたことはなかったか?沢山ある。神様の言葉を受け入れられず、神様のやり方に納得いかず、神様と争い続けている私がいる。自分のやり方を手放せない私がいる。
 だからこそ、私はイエス様が必要なんだ。神様に服するときにはじめて、神の力を求めるから。その私のために、メシアが来られた。イエス・キリストが私のために来られた。これこそが私の救い。私の喜びだ。

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