2024年4月の『日々の聖句』
この日々の聖句は、聖書箇所を「ヘルンフート兄弟団 『日々の聖句 2024』(べテスダ奉仕女の家)」からいただきました。
聖書の本文は、日本聖書協会が発行している『聖書 新共同訳』から転記しています。
『聖書 新共同訳』:(c)共同訳聖書実行委員会 (c)日本聖書協会、1987, 1988。
●1日(月)
【旧約聖書】
善を行うことを学び、裁きをどこまでも実行して、搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ。イザヤ書 1章17節
【新約聖書】
その中の一人のアガボという者が立って、大飢饉が世界中に起こると“霊”によって予告したが、果たしてそれはクラウディウス帝の時に起こった。そこで、弟子たちはそれぞれの力に応じて、ユダヤに住む兄弟たちに援助の品を送ることに決めた。使徒言行録 11章28~29節
善を行うことを学べと神様は預言者イザヤに告げられた。この言葉は、前の文から続いている。「悪を行うことをやめ」よ、と。あなたたちは悪を行うのではなく善を行えと言われている。
でも、善を行うってどういうことだろう?私の考える「良いこと」をすればいいのかな?でも世界では、平和のためと言って戦争が続いている。私の中の善を貫いたら、きっと争いが起こる。だから、私たちは善を行うことを教えてもらわないといけないんだ。それは“霊”によって教えていただける。霊とは聖霊のこと。聖霊は神様ご自身だから。神様のみ言葉こそ、善を指し示すものなんだ。この日もそこに生きよう。
●2日(火)
【旧約聖書】
わたしは、高く、聖なる所に住み、打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる。イザヤ書 57章15節
【新約聖書】
二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。ルカによる福音書 24章29節
神様は、へりくだる人と共にあると言われる。へりくだる人、心打ち砕かれた人ってどんな人なんだろうか。それはきっと、私はもうだめだと気づいた人、どん底の底にいる人のこと。神様に頼るしか方法が残されていない人のことじゃないだろうか。なぜなら、その反対に居るのは、私は一人で大丈夫、何でもできると考える人だから。その人は傲慢で、神様を必要としない。
そう考えると新約聖書の言葉もよくわかる。彼らはどうしてもイエス様と一緒に居たかったんだ。離れたくなかったから無理にでも引き留めた。今日改めて問われている。私は神様を必要としているだろうか?と。
●3日(水)
【旧約聖書】
わたしが彼らの軛の棒を折り、彼らを奴隷にした者の手から救い出すとき、彼らはわたしが主であることを知るようになる。エゼキエル書 34章27節
【新約聖書】
(神は)彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。ヨハネの黙示録 21章4節
私たちはくびきにつながれ、奴隷とされており、その目には涙があふれている。そんな私たちに、「私があなたを救い出す」と神様が約束してくださった。神様の救いにあずかったものは、泣くことなく、死ぬことなく、嘆くことも労苦することもないという。なんて素敵な世界だろうか。
でも「あぁ、うれしい」で終われない現実がある。それは私の救いのために、私に代わって、苦しまれた方がいるから。イエス様の十字架を忘れてはいけない。でも、そこで神様が求めているのは、神様が主であることを私たちが知るということ。神様が本当におられて、私たちと関わってくださるということなんだ。
●4日(木)
【旧約聖書】
わたしが主、ほかにはいない。光を造り、闇を創造し、平和をもたらし、災いを創造する者。わたしが主、これらのことをするものである。イザヤ書 45章6~7節
【新約聖書】
(キリストの言葉)「(わたしは)一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。」ヨハネの黙示録 1章18節
神様って、良いものだけを造られたと、心のどこかで考えていた。悪いものを造られるはずがないと。でも、闇も災いも神様がお造りになったものだと言われている。神様は文字通り万物を造られ、自由にすることができるお方なのだ。
しかし、そのお方は、その支配権をイエス様に託された。死という究極的な災いの力にさえ、イエス様は打ち勝たれ、世界を支配しておられる。そのお方の願いは何だろうか。それは、光を造り、平和をもたらすこと。平和とは神様と共にあることである。これこそが神様の願いなのだ。
●5日(金)
【旧約聖書】
だが、わたしは、お前の若い日にお前と結んだわたしの契約を思い起こし、お前に対して永遠の契約を立てる。エゼキエル書 16章60節
【新約聖書】
神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。コリントの信徒への手紙二 3章6節
エゼキエルは、イスラエルの民に向かって預言する。あなたたちは契約を破ったと。契約って双方がそれを守る義務を負う。片方がそれを破ったならば、もう片方もその義務を解かれる。だから、神様もイスラエルへの約束を守る必要はなかった。しかし神様は約束を守られる。それはひとえに、ご自分が契約したという一点にある。
いつだって私たちは神様に我慢させてしまっている。しかし、神様はその私たちのために新しい契約をくださる。神様が譲歩してくださるのだ。だから、私たちは感謝してこの新しい契約を受け取りたい。
●6日(土)
【旧約聖書】
わたしの舌があなたの正しさを歌い、絶えることなくあなたを賛美しますように。詩編 35編28節
【新約聖書】
キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。コロサイの信徒への手紙 3章16節
神様への賛美や感謝を、ちゃんとできていると自分では思っていた。でも、今日のみ言葉は、旧約ではできるようにとの願いであり、新約は、しなさいとの命令であった。それはきっと、私ができていないことだから。
自分の祈りを振り返って、気づかされた。私の祈りのほとんどが「願い事」だった。そこには神様への賛美も、感謝もなかったのである。
どうしたら、そうなれるだろうか。それも聖書が教えてくれている。イエス様の言葉が私の内に宿るようにと。イエス様は十字架の上でさえも神様を賛美し感謝しておられた。私たちもそこを見なければ。
●7日(日)
復活後第一主日(新生)
【主日早天礼拝】
藤森 誠 牧師
【主日礼拝】
藤森 誠 牧師
第一主日のため、礼拝の中で聖餐式が執行されます。
礼拝の中で、幹事任職式、教会学校教師・相模白ゆり幼稚園教諭就任式が行われます。
●8日(月)
【旧約聖書】
ハレルヤ。いかに幸いなことか、主を畏れる人、主の戒めを深く愛する人は。詩編 112編1節
【新約聖書】キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。ペトロの手紙一 2章21節
主を畏れるって一体どういうことだろう?神様、神様と名前を呼ぶことだろうか。一生懸命祈って、奉仕して、教会に通うことだろうか。それも、間違いではないんだろう。でも、聖書ははっきり語る。それは、キリストの模範にしたがって、その足跡をたどることだと。つまり、イエス様に倣うこと。これこそが、私たちにとっての幸いである。なぜなら、イエス様は神様に従いぬいて、私のために十字架にまで上がられた方だから。
イエス様に従うためには、いつだってイエス様のことを考えていなければならない。この時、イエス様ならどうされるだろうかと。その繰り返しの中に、私たちの幸せがあるんだ。
●9日(火)
【旧約聖書】
わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。エゼキエル書 18章23節
【新約聖書】
罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。ローマの信徒への手紙 6章23節
今日のみ言葉は、何だか心が温かくなる言葉だ。でも、同時に、私たちが目を背けてはいけないことでもある。それは、私は罪人であるということ。罪人は死ぬ。その死は神様との関係の断絶であり、神様と共にいることができない状態のこと。でもそれは、神様にとって、御心ではない。本当は誰も死んでほしくないという神様の思いが伝わってくる。
だから、私たちも改めてこの日、受け取りなおしたい。私たちが神様と共に生きるようにと、イエス様が永遠の命を与えていてくださることを。そのためにイエス様が十字架の上で、神様との断絶を経験されたことを。
●10日(水)
【旧約聖書】
わたしは主、あなたの神、イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。イザヤ書 43章3節
【新約聖書】
すると雲の中から声があった、「これはわたしの子、わたしの選んだ者である。これに聞け」。そして声が止んだとき、イエスがひとりだけになっておられた。ルカによる福音書 9章35~36節
今日のみ言葉は、神様と私の関係がはっきりと語られている。「私はあなたの神である」と。私が神様を選ぶのではなくて、神様が私を選んでくださっている。「私だけがあなたの神なのだ」と。だから、私達は、好き勝手に神様を変えることはできないのである。
そのお方が言われる。これは私の愛する子。これに聞けと。イエス様もまた神様に選ばれた方なのだ。それは私を導くための存在として。文字通り、私の主人として、イエス様は来てくださったのだ。この方に従うことは、それを選んだ神様に従うことにつながっている。
●11日(木)
【旧約聖書】
わたし、わたしこそ神、あなたたちを慰めるもの。なぜ、あなたは恐れるのか、死ぬべき人、草にも等しい人の子を。イザヤ書 51章12節
【新約聖書】
あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。ペテロの手紙一 3章15節
私たちの毎日は、恐れと不安の連続である。だから神様は、私たちが恐れることを一切無くしてくださるのだと思っていた。でも、今日のみ言葉は「神様は慰める」と言われる。慰めって、改めて考えてみたら、恐れることそのものは消してくれない。でも、恐れることを前にして、なお安心できる状態にしてもらえる。神様が一緒に居てくださるから。それが私の希望だ。
さらに、いつでも、それを弁明できるよう備えていなさいと言われている。それは、日々、その希望を握りなおしているかとの問いである。この日も神様の慰めに気づけますように。
●12日(金)
【旧約聖書】
わたしがお前と契約を立てるとき、お前はわたしが主であることを知るようになる。エゼキエル書 16章62節
【新約聖書】
従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。ローマの信徒への手紙 9章16節
新約聖書にある「これ」って何だろうと聖書をたどったら、神の子にしてもらえることとあった。さらにそこには、「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」と神様が言われたとあった。だから私たちが神の子としていただけたのは、ひとえに神様の憐れみに依るんだということ。そこに神様の愛があふれているということがよくわかる。
それってつまり、神様の約束(契約)があるところに神様の思いが詰まっているということ。だから私たちは神様の約束を通して、神様がどのようなお方であるのかがよくわかるんだ。喜んで約束を受け取ろう。
●13日(土)
【旧約聖書】
この神は救い主、助け主。ダニエル書 6章28節
【新約聖書】
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。ガラテヤの信徒への手紙 2章20節
今日のみ言葉は何を語りたいのだろうと思って、旧約聖書の箇所を開いてみた。そこにはダニエルが獅子の洞窟から、無傷で救い出された出来事が描かれていた。彼は、神を信頼していたから、何も被害を受けていなかったと書かれていた。
そのことが新約聖書で言われている。私たちは、本来は死ぬはずの獅子の洞窟に入った。そこで、本当は死んだのである。しかし、キリストにおいて、神の子に対する信仰によって、私たちは生きながらえる者とされている。すべてはイエス様のおかげで私たちは今生かされているんだ。
●14日(日)
復活後第二主日(主のあわれみ)
【主日早天礼拝】
藤森 誠 牧師
【主日礼拝】
藤森 誠 牧師
●15日(月)
【旧約聖書】
(アモスの言葉)「主なる神よ、どうぞ赦してください。ヤコブはどうして立つことができるでしょう。彼は小さいものです。」主はこれを思い直され、「このことは起こらない」と言われた。アモス書 7章2~3節
【新約聖書】
「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。ルカによる福音書 22章31~32節
私たちは誰しもが、他者よりも強くありたいと願っている。名声、富、才能、その全てを望んでいる。それがあれば、幸せになれると信じているから。でも、本当の私の姿はどうだろうか。それらを手に入れようと必死にもがくけれども、手に入れられず自分のちっぽけさを思い知らされ苦しんでいるのではないだろうか。
今日のみ言葉は、アモスもイエス様も共通している。あなたは弱いものであると。でもと言葉が続く。弱いからこそ、助けが必要なんだと。その私のために、神様へと執り成してくれる人がいる。私たちはイエス様の祈りによって支えられているんだ。
●16日(火)
【旧約聖書】
主よ、あなたはわたしの灯を輝かし、神よ、あなたはわたしの闇を照らしてくださる。詩編 18編29節
【新約聖書】
これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。ルカによる福音書 1章78~79節
キリスト者は光の子と呼ばれている。聖書が語る光とはいつだって神様のことである。つまり、キリスト者はイエス様を通して神様と結ばれることによって光とされているんだ。
その光は私の闇を照らし出す。それは見るに堪えない私の暗い部分。でも、闇は光の中では存在できない。神様の光に照らされたら、私の闇は消えてしまうんだ。なんて嬉しいんだろう。
そして、神様の憐れみによって、その光は見える形で私たちの所に来た。それこそがイエス様。このお方こそ、私たちを照らしてくださる目に見える光である。イエス様のみ言葉の光に照らされて今日も歩もう。
●17日(水)
【旧約聖書】
わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって、聖なる御名をたたえよ。詩編 103編1節
【新約聖書】
わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え(られた)ペトロの手紙一 1章3節
神様を褒めたたえよと詩人は語る。誰かを褒めるには、その人をよく観察しなければならない。それは、どうしてか。私たちは人の悪い所はよく見えるが、良い所は見えないから。
それでは、神様が私たちにしてくださった良いこととは一体何だろうか。それは、私たちがイエス様を通して新たに生まれさせていただいたということ。神様なんて知らないと生きてきた私たちが、神様と一緒に生きる者とされている。これこそが神様の御業である。だからこそ、褒めたたえよと言われている。
もっとたくさん、神様の良い所が見えるようになりたいな。
●18日(木)
【旧約聖書】
シオンに住む者よ、叫び声をあげ、喜び歌え。イスラエルの聖なる方は、あなたたちのただ中にいます大いなる方。イザヤ書 12章6節
【新約聖書】
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。ヨハネによる福音書 1章14節
私たちの神様って不思議なお方である。神様って、天におられて、そこからあれやこれやと指示しているのかと思っていたけど、神様って、どうやら私たちのただ中にいてくださる方らしい。
それは、神様が、私たちの生活全てに関わるという決断である。人間関係の悩み、お金の悩み、健康の悩み。果ては、今日何を食べようかなという悩みにさえ。なぜなら、神様は私たちが抱える痛みを知っておられるから。それが、イエス様が人となられた理由じゃないだろうか。イエス様も人間関係、お金、食べ物、色々な問題に直面された。私たちと全く同じように。このお方が私たちと一緒におられるから安心だね。
●19日(金)
【旧約聖書】
ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした。創世記 6章22節
【新約聖書】
(イエスの言葉)「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」マタイによる福音書 7章24節
今日、み言葉が問うことは、神様の命令を実行しているのかということ。「はい、できています」と答えることができる人はどれほどいるだろうか。きっと誰もいない。でも、私はそれを言い訳にしていないだろうか。誰もできないから、私ができなくてもしょうがないって。
しかし、今日の聖書は、結果は語っていない。「できるか、できないか」ではなく、「やるか、やらないか」が問われている。ノアが褒められているのは、やったからである。それも神様の命令を足すことも減らすこともなく、言葉通りに。イエス様はその人を賢い人と呼んでくださる。結果は神様にお任せして、み言葉に従ってみよう。
●20日(土)
【旧約聖書】
わたしは必ずあなたを救う。剣にかけられることはなく、命だけは助かって生き残る。あなたがわたしを信頼したからである、と主は言われる。エレミヤ書 39章18節
【新約聖書】
するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。ルカによる福音書 23章43節
神様の力強い約束の言葉が心にしみる。あー嬉しいと思っていたら、続く言葉に引っかかった。「命だけは助かって生き残る」と。あれ、神様の助けって、私が万全の状態であることじゃないの?と。命だけはかろうじてということは、状況はよくないんだろうか。
でも、あらためて思った。持っているものを全てなげうってでも、命を得ることの方が大切だって。命無くしては、すべての物は無意味だから。たとえ身一つになっても、楽園に入れていただけるなら、その方が良いではないか。
やっぱり神様の約束は、ありがたいものなんだと気づかせていただいた。
●21日(日)
復活後第三主日(よろこべ)
【主日早天礼拝】
辻川 篤 牧師
【主日礼拝】
辻川 篤 牧師
●22日(月)
【旧約聖書】
シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの神をたたえよ。彼らは王の命令に背き、体を犠牲にしても自分の神に依り頼み、自分の神以外にはいかなる神にも仕えず、拝もうともしなかったので、この僕たちを、神は御使いを送って救われた。ダニエル書 3章28節
【新約聖書】
イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。マルコによる福音書 1章13節
神様は、ご自分を信じる者の所に、み使いを送って救われる。これは旧約聖書の出来事だけではない。使徒言行録でパウロやペトロをみ使いが助け出しているからだ。神様は敵を前にした私たちの所にも、み使いを送ってくださる。
でも、そのみ使いって、いったい誰のことなんだろうか。私は未だ神様のみ使いを見たことがない。そういえば、聖書に出てくるみ使いたちも、旅人であったり、青年であったりした。つまり、み使いって、私たちと同じ姿をしているんだ。私たちの所にも、み使いはやって来る。それは、友人や家族や兄弟姉妹の姿を通して。さらには、私自身もまた神様のみ使いとして遣わされる一人なのだ。
●23日(火)
【旧約聖書】
神の道は完全 詩編 18編31節
【新約聖書】
イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。マルコによる福音書 4章26~28節
幼いころ、父に映画館へ連れて行ってもらったことがある。私はそこへ行く道筋を知らず、映画を見るためのチケットも持ってない。ただ父の手を握って、後ろについていっただけ。でも、私は目的の映画を見ることができた。全てを父が準備してくれていたから。何も心配はなかった。
私たちは何も知らない存在である。でも、それでよいのかもしれない。全部知ろうとしたら疲れ切ってしまうから。さらに聖書はいう。その神様が用意される道は完全であると。私たちは何も知らないけれども、でも私たちは、神様が私たちを愛してくださっていることを知っている。他のことは全て神様にお任せしよう。
●24日(水)
【旧約聖書】
恐れるな、もはや恥を受けることはないから。イザヤ書 54章4節
【新約聖書】
天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。マタイによる福音書 28章5~6節
私たちの毎日は、恐れの連続である。歳を重ねるにつれ恐れることは増えていく。一体何歳になったらこの恐れは消えるのだろうかと思いながら、一向に消える気配がない。
その私たちに聖書は語る。「恐れるな」と。これは神様も、イエス様も繰り返し語られた言葉。きっと神様は、私たちが恐がりな存在だと知っているから。この言葉は、恐れない立派で強い人になれということではないと思う。もう恐れる必要はないとの言葉だ。なぜなら、私たちが最も恐れる死にさえ、神様は打ち勝たれたから。イエス様が復活されて私たちと共におられるから、私たちはもう恐れる必要はないのだ。
●25日(木)
【旧約聖書】
救いは主のもとにあります。あなたの祝福があなたの民の上にありますように。詩編 3編9節
【新約聖書】
イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。ルカによる福音書 24章50節
神様が下さる祝福って何なのだろうかと、今日のみ言葉を読んで改めて考えさせられた。私の健康が守られること?衣食住に不自由しないこと?人間関係がこじれないこと?あげだしたらキリがないけれども、これが神様のくださる祝福何だろうか?でももしそうだったら、病気になったら、私は祝福されていない、呪われているってことになるのかな?
今日のみ言葉は、明確に救いと祝福を関連付けている。神様の下さる救い。救われている私たちはもう祝福されているんだ。そう思ったら、とても嬉しくなった。たとえ私がどんな状況にあろうとも、神様の祝福は変わらないから。
●26日(金)
【旧約聖書】
「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて。コヘレトの言葉 12章13節
【新約聖書】
イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」マルコによる福音書 12章29~31節
コヘレトはこの世のありとあらゆるものを追い求めた。労苦も快楽も知恵も。しかし、全ては空しいと結論する。全ては一時のものであり、極めつくすことはできないのだと。そのコヘレトが出した結論がこれだ。神を畏れ、神の言葉に従うこと。それが人間のとれる最善の行動であると。
その神の言葉・掟とは何かということにイエス様が答えられた。神を愛すること。隣人を自分のように愛すること。これこそ最大であると。なぜなら、この二つに他の細かい掟は全て包み込まれているから。あとは、あなた次第。あなたも今日一日、神様の言葉に従って神様と隣人を愛してみませんか?
●27日(土)
【旧約聖書】
「わたしには罪がない」とか「主の怒りはわたしから去った」とお前は言う。だが、見よ。「わたしは罪を犯していない」と言うなら、お前は裁きの座に引き出される。エレミヤ書 2章35節
【新約聖書】
イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。ルカによる福音書 23章42節
何で、イスラエルの人たちは、「私には罪はない」なんて言ってしまったんだろうか?エレミヤ書の少し前を読んでよくわかった。「わたしの民はわたしを忘れ、数えきれない月日が過ぎた」とあったから。人々は神様を忘れてしまった。だから、私には罪がないと言えたんだ。だって神様を見なければ、私の罪はわからないから。
私たちにとって、必要なのは、神様から離れないこと。「私のことを思い出してください」と願う時、私たちの心は神様に向いているんだから。あれ?私たちの罪って、神様から離れてしまったことだったはず。やっぱり、私たちは罪人なんだ。
●28日(日)
復活後第四主日(うたえ)
【主日早天礼拝】
藤森 誠 牧師
【主日礼拝】
藤森 誠 牧師
●29日(月)
【旧約聖書】
主は正しい。わたしが主の口に背いたのだ。哀歌 1章18節
【新約聖書】
ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。マタイによる福音書 21章28~29節
なぜか今日のみ言葉が心にストンと落ちてこない。その言葉に逆らいたい思いが心にあふれている。神様はいつだって絶対的に正しく、私は絶対的に間違っていることを突きつけられたからだろうか。
その後、新約聖書を読んだら、不思議な気持ちになった。なぜなら、この兄は父の望みどおりにした者と言われているから。結局どういうことなのか?それは、私たちは考え直すことが許されているということなのかも。ついとっさに、神様の言葉に逆らってしまう私がいるけれども、そこで立ち止まって、考え直すことを神様は願っているんじゃないだろうか?考え続けることが重要だ。
●30日(火)
【旧約聖書】
主よ思い起こしてください。あなたのとこしえの憐れみと慈しみを。詩編 25編6節
【新約聖書】
しかし、わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。テトスの手紙 3章4~5節
今日のみ言葉は明確に語る。私たちが救われたのは、私たちの義(良い)の行いによるのではないと。それはただ神様の憐れみによる。
でも、ちょっと心配になった。もし、神様が私をお見捨てになったらどうしよう。こんな者に憐れみをかけるのも惜しいと思われてしまったら…。でも、詩人は知っていた。神様の憐れみと慈しみはとこしえから存在すると。それは、神様がアダムとエバを造られた時から変わらない。彼らをエデンの園から追放する時にさえ、神様は憐れみと慈しみを注がれた。神様の憐れみは私たちの義の行いによらないように、私たちの不義の行いにもよらないのだ。