2024年12月の『日々の聖句』

この日々の聖句は、聖書箇所を「ヘルンフート兄弟団『日々の聖句2024』(べテスダ奉仕女の家)」からいただきました。
聖書の本文は、日本聖書協会が発行している『聖書新共同訳』から転記しています。
『聖書新共同訳』:(c)共同訳聖書実行委員会(c)日本聖書協会、1987,1988。

●1日(日)

待降節(アドヴェント)第1主日
【主日早天礼拝】
  藤森 誠 牧師
【主日礼拝】
  辻川 篤 牧師

●2日(月)

【旧約聖書】
どこまでも主に信頼せよ、主こそはとこしえの岩。イザヤ書 26章4節
【新約聖書】
わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。ルカによる福音書 6章47~48節

 いよいよ今年も、主のご降誕を待ち望むアドヴェントが始まった。その最初の日に、主に信頼することを命じられた。この方こそ、私たちの岩であり、土台である。しかし、どれほど立派な土台を造り上げても、その上に家を建てなければ意味がない。
 それゆえに私達は、そのみ言葉を聞いて行うことも求められている。神を愛すること、隣人を自分のように愛すること。それは、痛みを伴うものだ。私の時間も労力も必要だ。でも、私たちを愛するために、命さえ与えてくださった方がいる。だから、私達も、隣にいる人のため、そしてまだイエス様を知らない人のために働くのだ。

●3日(火)

【旧約聖書】
主の霊があなたに激しく降り、あなたも彼らと共に預言する状態になり、あなたは別人のようになるでしょう。サムエル記上 10章6節
【新約聖書】
この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。ローマの信徒への手紙 8章16節

 今日のみ言葉では、主の霊が降ると別人のようになると言われている。神様の霊は聖霊と言われる霊だから、それが降った人はきっと清廉潔白で立派な人になるんだろうなと思った。でも、今の私を見るとそうなっていない。そうすると、私には聖霊は与えられていないのだろうか?
 もちろんそんなことはない。霊が私達を別人にするというのは、神様の敵であった私を、神様の子どもとしてくださるということだ。それは神様の目から見て、全く別の存在へと移り変わるということ。私達は洗礼を通していただいた神様の霊によって、あなたも私の愛する子と呼んでいただけるんだ。神様、感謝します。

●4日(水)

【旧約聖書】
わたしの戒めに耳を傾けるなら、あなたの平和は大河のように、恵みは海の波のようになる。イザヤ書 48章18節
【新約聖書】
義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。ヤコブの手紙 3章18節

 聖書が語る平和は、人と人という意味以上に、神様と私との間の平和という意味が強い。人間にとって、最も心休まる時とは、戦争がない時ではないからだ。だって、戦争のない日本でも、多くの人が心の安らぎを求めて苦しんでいるから。神様と共にいることこそ、本当の平安だ。
 それを実現するには、神様の言葉に耳を傾けなければならない。その言葉は、私達を縛る掟ではなく、私達を導く言葉だ。私の愛する子よと呼びかけてくださる方が、御子イエスを信じなさいと言われた。そこに、神様との和解の道があるからだ。そして、その言葉に従う中で、人と人の間にも平和が実現するはずだ。

●5日(木)

【旧約聖書】
あなたたちは真実と平和を愛さねばならない。ゼカリヤ書 8章19節
【新約聖書】
あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。フィリピの信徒への手紙 4章7節

 今日のみ言葉の第一印象は、「また難しいご命令をいただいてしまった」だった。真実と平和を愛するってどういうことなの?と。聖書を開いてみて少し分かったかも。「互いに心の中で悪をたくらむな。偽りの誓いをしようとするな。」と言われていたからだ。私たちが平和に生きるための神様からのご命令だ。
 それは、相手のためということもあるけれども、何より、私のためだと聖書は言う。神様の平和を受け取り、実現しようとする時、私たちの心と考えはサタンではなく、イエス様に向いているからだ。十字架によって平和を与えてくださった方に倣って、私も平和を愛する者となろう。

●6日(金)

【旧約聖書】
ああ、主なる神よ、あなたは大いなる力を振るい、腕を伸ばして天と地を造られました。あなたの御力の及ばない事は何一つありません。エレミヤ書 32章17節
【新約聖書】
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。ヨハネによる福音書 3章16節

 聖書の神様は全知全能であると言われている。それは神様が願われたことはどんなことでも実現するということだ。私たちの目から見てどれ程の理不尽も、神様が願えば実現される。しかし、神様が成し遂げられた理不尽とは何だろうか。
 それは、罪人が赦されるということ。私たちの常識では、罪を犯した者が赦されるなんてありえない。むしろ、どれ程重い罰を負わせることができるかと躍起になっている。しかし、神様は自らの独り子にその罰を負わせることで、御子を信じる者を赦されるのだ。これこそが神様が振るわれた大いなる力である。私も、その神様の御業によって罪赦され、救われた一人だ。

●7日(土)

【旧約聖書】
主は(カインに)言われた。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。」創世記 4章10節
【新約聖書】
「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。テモテへの手紙一 1章15節

 カインとアベルの物語の中で語られたこの神様のみ言葉を、私は初め神様が、アベルを殺したカインを責めているのだと思っていた。もし、私だったら、この後に、「だからお前は罰を負う」とか「だからお前は滅びなければならない」と続けて言うだろう。もちろん、カインにも罰はあった。しかし、神様は、誰もカインを打つことが無いようにしるしを付け、守られたのだ。
 だからこそ、思う。たとえ、どれほどの罪を犯したとしても、神様はその人を見捨てることはなさらないのだ、と。そして、その果てに神様は私達を赦すために、イエス様を遣わしてくださったのだ。私という最たる罪人を赦すために。

●8日(日)

待降節(アドヴェント)第2主日
【主日早天礼拝】
  辻川 篤 牧師
【主日礼拝】
  辻川 篤 牧師

●9日(月)

【旧約聖書】
あなたを避けどころとする者は皆、喜び祝い、とこしえに喜び歌います。詩編 5編12節
【新約聖書】
あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。…貧しいようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。コリントの信徒への手紙二 6章4、10節

 何だか旧約と新約がかみ合わない気がするのは私だけだろうか。神を避けどころとする者と、神に仕える者との共通点はなんだろうかと思いめぐらしていて、もしかしたらと思った。それは両者とも、ピンチの中にいるということだ。神様を避けどころとする者には明確な敵対者がいた。神に仕える者も、あらゆる場合にと言われている。それは、順風満帆というよりは、逆境の中にいるのではないだろうか。
 そう考えたら、少しみ言葉がつながった。その逆境の中で喜び祝うことができるのは、全ては神の力によって成し遂げられるからだ。この方のもとにこそ、私たちの安息があるのだ。

●10日(火)

【旧約聖書】
あなたの太陽は再び沈むことなく、あなたの月は欠けることがない。主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆きの日々は終わる。イザヤ書 60章20節
【新約聖書】
「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。コリントの信徒への手紙二 4章6節

 沈まぬ太陽という小説がある。そのタイトルには、「どんな逆境にあっても、明日を信じて生きる心の中の“沈まぬ太陽”を持ち続けていかねばならない」という意味が込められているそうだ。苦しみの中でこそ、私達を照らす光が私たちの希望となるということだろうか。
 聖書はその光とは、私達に与えられたイエス・キリストであると語る。この手紙の著者は、どれ程の逆境にあろうとも、このお方に希望を見出している。なぜなら、このお方はわたしたちの苦しみも悩みをも全てご存じでおられる方だからだ。このお方が来られた時、私たちの真の嘆きは消え去った。罪人を救うという形で。

●11日(水)

【旧約聖書】
神に従う人は待ち望んで喜びを得る。箴言 10章28節
【新約聖書】
主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。ルカによる福音書 12章36節

 イエス様は、人の子は思いがけない時に帰って来ると言われた。だからあなた方は用意して待っているようにと。でも、24時間起きて準備しているなんて、できやしないじゃないかと思いつつ、改めて聖書を読み直してみた。そこにはこうあった。「あなたがたも用意していなさい」と。
 イエス様は、「あなたも」ではなく、「あなたがたも」と言われたのだ。だから、私一人で目を覚まし続けている必要は無いんじゃないだろうか。だって、私には、同じイエス様を主と仰ぐ、兄弟姉妹が与えられているからだ。一人で頑張るんじゃない。むしろ、そのためにと私達は教会の群れとされているのだ。さぁ共に、主を待ち望もう。

●12日(木)

【旧約聖書】
(神は)卑しめられている者を高く上げ、嘆く者を安全な境遇に引き上げてくださる。ヨブ記 5章11節
【新約聖書】
力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。コリントの信徒への手紙一 1章27節

 神様は弱い者がお好きで、強い者を嫌っているとよく言われる。確かに聖書を読んだら、そう読める箇所はたくさんある。そこで気になるのは、私はどちらにいるかと言うことだ。でも、と思った。もし、私が弱者であり、そのために神様に選ばれ力を頂いたら、その瞬間、私は強者になるんじゃないだろうか。そうすると、次に待つのは、どん底へ引きずり降ろされることかな?
 神様は強弱で分け隔てはなさらない。神様が弱者を選ばれるのは、そこに働く力が本人のものではなく、神様のものだということを表すためなのだ。だから、たとえ強者でも神様の力を求めるならば、同じようにしていただける。

●13日(金)

【旧約聖書】
モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。出エジプト記 3章6節
【新約聖書】
イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。マタイによる福音書 17章7~8節

 神様と私達との直接の関りとは本来、恐れが伴うものである。なぜなら神様は聖なる方であられるから。人が見たり触れたりするならば、人は死ななければならない。それゆえに、神様を見ないために顔を覆う必要がある。
 しかし、その覆いはイエス様がこの地上に来てくださったことによって、取り去られた。そのことをイエス様ご自身が体現してくださっている。神の子であるイエス様は、神様と等しい方である。それにも関わらず、この方は私たちの前に現れてくださり、私達に直接触れてくださる方だ。そして言われる。恐れるなと。私はあなたを打つよりも、あなたと共に居たいのだと。

●14日(土)

【旧約聖書】
なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。サムエル記下 12章9節
【新約聖書】
わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。ローマの信徒への手紙 7章24~25節

 新約聖書の著者は語る。私は自分のしたくないことをしている。それは、神様の言葉に逆らうこと。神様の言葉に従いたいと願うのに、神様の言葉に逆らって生きているからだ。だから、何と惨めで救われるはずのない私かと語る。
 まさにそれは、私の言葉だ。なぜ、神様の意に背くのか。それが最善だと知りながら。イエス様は私のその葛藤を知るために、人として地上に来てくださった。あぁ、あなたの絶望は、あなたの苦しみはこれ程のものなのかと。だから、言われる。私はその中からあなたを救い出すために来たんだよ。さぁ、もう大丈夫。安心して私を信じなさいと。主よ、感謝いたします。

●15日(日)

待降節(アドヴェント)第3主日
【主日早天礼拝】
  藤森 誠 牧師
【主日礼拝】
  藤森 誠 牧師

●16日(月)

【旧約聖書】
常に身を避けるための住まい、岩となり、わたしを救おうと定めてください。あなたはわたしの大岩、わたしの砦。詩編 71編3節
【新約聖書】
(イエスは)少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」マタイによる福音書 26章39節

 岩は砦となり、私達を守ってくれる。また、私達を支えてくれる土台でもある。だから、神様が私の岩であると告白する詩人の思いはよく理解できる。しかし、だ。そう分かっているのに、私達は恐れ、おののく。自分の苦しみを前にして信頼しきることができないのは何故だろうか。
 そこでイエス様の祈りが目に留まる。イエス様もまた、神様を信頼しつつも、目の前の恐れが消えるようにと願っておられる。そこに私の姿が重なる。しかし、イエス様は最後には神様に信頼することを選びとられた。それは、きっと神様の力によって。これはイエス様だけの特別ではない。その力を私も与えられているから。

●17日(火)

【旧約聖書】
正しい裁きは再び確立し、心のまっすぐな人は皆、それに従うでしょう。詩編 94編15節
【新約聖書】
まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。ルカによる福音書 18章7~8節

 私たちの心には、良心がある。そして、誰しもが思っている。この世は何と不正のはびこる場所だろうか、と。だから、神様の正しい裁きが速やかに行われることを願っている。しかし、み言葉を読みながら、ふと思った。私は聖書の語る心のまっすぐな人、選ばれた人だろうか?と。もし違うならば私こそが、裁かれる側に立つからだ。
 いや、きっと私は裁かれる側にいる。神様の言葉に従うことができない私だから。だからこそ、私達は必死になって願わなければならない。「神様、私の罪を赦してください」と。あれ、その姿って、神様を叫び求める人の姿じゃないだろうか。私も神様の憐れみの内にいるんだ。

●18日(水)

【旧約聖書】
(主の言葉)「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」創世記 15章1節
【新約聖書】
こうして、アブラハムは根気よく待って、約束のものを得たのです。ヘブライ人への手紙 6章15節

 今日のみ言葉は、神様からのアブラムへの約束の言葉だ。彼は神様の約束を信じ、それが成就した。しかしである。アブラムにこの約束が語られた時、彼の眼前に広がる光景は、その約束のやの字も見えないほどの状況であった。とても神様の約束が実現するなんて思えない中で、つい、アブラムも反論してしまうのだ。
 神様のなさる働きは、私達の常識を超える。そんなことできるはずが、起こるはずがないというつぶやきの先に、神様のご計画は成就していくのだ。だから、私達は自分の常識で神様を計ってはならない。たとえ不可能だと思えることをも、主のご計画ならばと信じる者となりたい。

●19日(木)

【旧約聖書】
(ヨセフへのヤコブの言葉)では、早速出かけて、兄さんたちが元気にやっているか、羊の群れも無事か見届けて、様子を知らせてくれないか。創世記 37章14節
【新約聖書】
互いに愛と善行に励むように心がけ(なさい)ヘブライ人への手紙 10章24節

 ヤコブは兄たちの様子をヨセフに見てくるようお使いを頼んだ。しかし、兄たちはヨセフを妬んでおり、これは好都合とヨセフを殺す計画を立て始めるのだ。ヤコブは兄たちの心に気づいていなかったのかもしれない。しかし、父は子どもを心配し、最も愛する子を遣わしたのだ。
 ふと思った。何だか、神様がイエス様を私たちの所へ遣わされたことと似ているかもと。神様が心配した人々は、イエス様を捕らえて殺してしまった。しかし、ヨセフの物語も、イエス様の物語もそこでは終わらない。その先に壮大な神様の救いのご計画が用意されている。クリスマスまであと少し。主のご降臨に思いをはせよう。

●20日(金)

【旧約聖書】
イスラエルは主によって救われる。それはとこしえに続く救い、あなたたちは世々とこしえに、恥を受けることも、辱められることもない。イザヤ書 45章17節
【新約聖書】
(ヨセフへの天使の言葉)マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。マタイによる福音書 1章21節

 神様は、最初から最後までイスラエルの民を心にかけておられた。人々からどれだけ裏切られようとも、人々に見捨てられようとも、人々が神様を忘れ去ろうとも、神様はイスラエル、イラスエルと言い、その人々を決して忘れることはなかった。救い主はイスラエルのために与えられた。
 しかし、である。イスラエルの民は、その神様の思いさえ踏みにじった。けれども、神様はその人たちの罪さえ赦そうとされる。御子の命を持って。その神様の思いは私にも向けられている。あなたは私の救い主を受け入れてくれるかとの神様のお声が聞こえてくる。「神様。どうか、救い主イエス様を信じる私にしてください。」

●21日(土)

【旧約聖書】
主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます。詩編 84編3節
【新約聖書】
(マリアへのエリサベトの言葉)わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。ルカによる福音書 1章43~44節

 お腹の子が喜びおどったのは、マリアのお腹の中にいる救い主と出会えたからだ。それは、イスラエルの民にとって悲願の成就であったから。イスラエルの人々は、いつも四方八方から攻められ、時に、街は破壊され、奴隷とされていた。だからこそ、彼らは真の安寧を求めて、神様の救い主が到来することを願っていた。この方が来てくだされば私達は安心だと。
 今の私たちにとってはどうだろうか。イエス様が共におられることは喜ばしいけれども、飛び上がって喜び踊る程だろうか。この日、改めて受け取りなおしたい。私の救い主が来てくださった。その喜びは筆舌にしがたいものであると。

●22日(日)

降誕祭・クリスマス礼拝
【主日早天礼拝】
  藤森 誠 牧師
【主日礼拝】
  藤森 誠 牧師

●23日(月)

【旧約聖書】
あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。詩編 51編5節
【新約聖書】
自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。ヨハネの手紙一 1章9節

 いよいよ明日はクリスマス。しかし、その直前にみ言葉はお前の罪を知り、それを見詰めよと語る。私たちはなぜイエス様が人となられたかをよく知るからだ。だからこそ、クリスマスを前に喜んでばかりもいられない。子どもたちはそれでいい。しかし、大人たちはこの日、喜びと同時に、自らの罪を見つめなおさなければならない。
 私の罪とは何だろうか。それは明確で、神様への背きだ。この一年、主のみ言葉の中を歩んできた。しかし、いくつそれを実行できただろうか。私は背く者である。だからこそ、この日、神様の前にすべての罪を告白しよう。その罪を赦すために御子はお生まれになったのだから。

●24日(火)

【旧約聖書】
あなたの神、主より受けた祝福に応じて、それぞれ、献げ物を携えなさい。申命記 16章17節
【新約聖書】
彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。マタイによる福音書 2章11節
【教会の予定】
午後7時から
クリスマスイヴ・ウェルカム礼拝

 クリスマスの今宵、主より受けた祝福に応じて献げ物を携えよとみ言葉は告げる。私達はプレゼントをもらったら相応のお返しをする。いただいた物より、良すぎても悪すぎてもいけない。ちょうど良い物でなければダメだ。では、神様からの祝福に対する相応のお返しって何だろうか?
 神様はこの日、私に御子を下さった。だから、それにふさわしい物は私自身以外にあり得ない。だから私は、私を携えて主の御前に立つ。あなたが救ってくださった私の命をあなたのために献げますと。さぁ、この日、主が待っておられる。皆、立ち上がって、自らを携えて主の御前に進み出よう。私を待つ方が居るから。

●25日(水)

【旧約聖書】
わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる。出エジプト記 6章7節
【新約聖書】
御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりですヨハネの手紙一 3章1節

 神様が私たちのために、御子を遣わし、私たちの罪を赦すため、十字架への道を歩ませ始められたのには、理由がある。それは、私達をご自分の民とするためだ。いや、正確には、それ以上のことが与えられている。それは、私達は神の子と呼ばれ、実際に神様の子どもとしていただけるということだ。
 このクリスマスの日に、神様のご計画が実現した。私達は、み言葉を通してその出来事を知らされた。もちろん、それは十字架の出来事抜きには語れない。けれども、だからこそ、私達は恐れを持って、心から喜び踊ろう。神様に背き続ける私も、神様の子どもとされたのだから。

●26日(木)

【旧約聖書】
そのとき、彼らはわたしが彼らと共にいる主なる神であり、彼らはわが民イスラエルの家であることを知るようになる、と主なる神は言われる。エゼキエル書 34章30節
【新約聖書】
今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。ルカによる福音書 2章11節

 イスラエルの民は救い主の到来を心待ちにしてきた。だから、最初にその喜びの知らせが告げられるのは、熱心に神様の約束を守り続けてきた人たちなのだと思っていた。しかし、聖書はそうでは無いと語る。最初に救い主到来の知らせを受け取ったのは、神様に背く罪人と呼ばれる羊飼いたちであった。
 でも、アドヴェントを過ごしてきた私たちには理由がよくわかる。それは、罪人にこそ、救い主が必要だから。神様から最も遠いと思っていたあなたにこそ、救い主が必要だからと。「もう大丈夫。私はあなたから離れず、共にいるよ」と。その声を聴いて、あなたはどうしますか?

●27日(金)

【旧約聖書】
地の果てまですべての人は、わたしたちの神の救いの御業を見た。詩編 98編3節
【新約聖書】
また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。テトスへの手紙 2章13節

 神様の御業は、選ばれた人にだけ明かされるのではないと聖書は語る。地の果てに至る人まで、神様の救いは明らかにされたのだ。それはつまり、「神様が私を救ってくださるなんて知りませんでした」という言い訳は通用しないと言うことだ。それは「この福音は…全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。(マタ24:14)」とのイエス様の約束と合致する。
 すなわち、全ての人が神様の救いを知る時、それは、イエス様が再び地上に来てくださる日でもあるのだ。実はアドヴェントは、主の再臨を待ち望む期間でもあった。一日も早く、神様の救いが地の果てまで届けられますように。

●28日(土)

【旧約聖書】
弱者を憐れむ人は主に貸す人。その行いは必ず報いられる。箴言 19章17節
【新約聖書】
与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」ルカによる福音書 6章38節

 今日の旧約聖書の言葉は少し意味が分かりにくいかも。弱者のために何かしてあげることは、神様に貸しを作ること。その貸しを神様は必ず返してくださるという意味のようだ。それゆえに新約聖書でも与えなさいと命じられている。豊かに与えるほどに豊かに返してもらえるというのだ。
 私達は与える時に自分の手の中にある物を見てしまう。これが無くなったら生きていけないと。しかし、神様は、手の中では無く、相手を見よという。あなたの手の中の物は神様が保証されるから、それを蓄えるのではなく、分け与える者となってほしいとの神様の願いがそこにある。主の喜ばれる者となりたいな。

●29日(日)

降誕後第1主日
【主日早天礼拝】
  辻川 篤 牧師
【主日礼拝】
  辻川 篤 牧師

●30日(月)

【旧約聖書】
わたしたちの主は大いなる方、御力は強く、英知の御業は数知れない。詩編 147編5節
【新約聖書】
幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。ルカによる福音書 2章40節

 気が付けばもう年末だ。み言葉は、神様の御業、神様の恵みが与えられたと言われる。だから、この一年に神様からいただいた恵みを思い起こしてみた。きっと沢山思い起こせるはずと思ったのに、どうしてだろうか、ほとんど出てこない…。私達は神様の恵みを忘れてしまうのだ。
 だからこそ、この日、私達は神様からの恵みをできるだけ数えたい。恵みを沢山数えることができれば、それは私達にとって希望となるからだ。あの時もこの時も、神様の支えがあったと気づければ、新しく始まる一年も同じ主である方が私達を恵みで包んでくださると信じることができるから。希望を持って新年を迎えよう。

●31日(火)

【旧約聖書】
この神は世々限りなくわたしたちの神。死を越えて、わたしたちを導いて行かれる、と。詩編 48編15節
【新約聖書】
イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。」ヨハネによる福音書 14章6節

 イエス様は、私は道であると言われた。父なる神様の所へとつながる道だ。それって何だか、ずっと先のことのように思える。しかし、そうじゃない。私たちが毎日歩む道は、イエス様を通して、確かに神様の元へとつながっているんだ。もう既に私達はその道を歩んでいる。
 でも、その道は私一人が歩む道ではない。何より、死すら乗り越えて神様が、私達を世々限りなく導かれると約束してくださっている。さらに、私達は同じイエス様を信じる兄弟姉妹と共にこの道を歩むことが許されている。一人では歩み切れない弱い私のことを神様はよくご存じなのだ。新しい年も希望を持って歩んで行こう。

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