2024年11月の『日々の聖句』
この日々の聖句は、聖書箇所を「ヘルンフート兄弟団『日々の聖句2024』(べテスダ奉仕女の家)」からいただきました。
聖書の本文は、日本聖書協会が発行している『聖書新共同訳』から転記しています。
『聖書新共同訳』:(c)共同訳聖書実行委員会(c)日本聖書協会、1987,1988。
●1日(金)
【旧約聖書】
わたしは背く彼らをいやし、喜んで彼らを愛する。ホセア書 14章5節
【新約聖書】
わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。マタイによる福音書 6章13節
私たちの日常は、数えきれないほどの誘惑が潜んでいる。でも、主の祈りで祈っている誘惑と私が考える誘惑とはちょっと違うものかもしれない。聖書の語る誘惑は、私達を神様から遠ざけようとするものだ。罪を犯させるものと言ってもいかもしれない。そうさせようと、悪しき者が私を狙っているのだ。
でも、分かっていても、誘惑に負けてしまう、いや負け続けてしまう私がいる。しかし、神様は神様に逆らい続ける私をもいやし、喜んで愛してくださると約束されている。だからこそ、この朝、改めて願おう。次こそは誘惑に負けないように、神様どうぞ、助けてくださいと。
●2日(土)
【旧約聖書】
主は、おのおのに、その正しい行いと忠実さに従って報いてくださいます。サムエル記上 26章23節
【新約聖書】
主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります。コリントの信徒への手紙一 4章5節
神様は、私たちの行いに応じて私達に報いを与えると語られている。良い行いにはご褒美が、悪い行いには罰が与えられる。それも、闇に隠れていることも、心の企てさえ全てをご存じだと言われている。悪さばかりしている私にとっては、震え上がる程に恐ろしい言葉だ。
でも、心配する必要はない。なぜなら、私たちが受ける罰は全て、十字架の上でイエス様が代わりに引き受けてくださったから。しかも、私がいただけるご褒美はどうもそのまま私が頂けるらしい。そんなうまい話があっていいのかと思うけれど、神様がそう約束してくださるのだから、感謝して受け取ろう。
●3日(日)
三位一体後第23主日
【主日早天礼拝】
藤森 誠 牧師
【主日礼拝】
藤森 誠 牧師
●4日(月)
【旧約聖書】
諸国の民よ、皆聞け。大地とそれを満たすもの、耳を傾けよ。主なる神はお前たちに対する証人となられる。ミカ書 1章2節
【新約聖書】
思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。ガラテヤの信徒への手紙 6章7節
ある時、こんなことを私に言った人が居た。「神様は全ての罪を赦してくださるのに、あの人は私のことを赦してくれないのです」と。その問いを聞きながら、ハッとさせられた。私も心のどこかで、神様にお詫びすれば、罪を犯した相手への謝罪も済んでいると考えていたのだ。
けれども、もちろん、そんなことはない。神様は全ての過ちを赦してくださるけれども、傷つけた相手が私を赦してくれるかどうかは相手にかかっていることだ。その人との関係を回復したいのであれば、たとえ赦してもらえなくても、相手に謝罪し続けることが肝心だ。神様が共にあって、助けてくださいますように。
●5日(火)
【旧約聖書】
わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。彼らがわたしの掟に従って歩み、わたしの法を守り行うためである。エゼキエル書 11章19~20節
【新約聖書】
ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、…実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」。ルカによる福音書 17章20~21節
神様は私達の心は石のようだと言われる。その心は神様に従わず、自己中心にとらわれ、他者を平気で傷つける心だ。「自分さえよければ、それでいい」と、平然と言ってのける心のこと。でも神様は、私のその心を砕き、神様の掟と法に従って歩めるようにしてくださると言うのである。
これこそまさに、神の国の実現である。日本に生きる私たちが日本の法に縛られるように、神の国に生きるならば、神様の法に従わねばならない。でも、その法は、私達を活かす法である。私たちの中に来られた聖霊によって、私達はそのご支配に生きることができるのだ。どうぞ、この日、私の石の心を砕いてください。
●6日(水)
【旧約聖書】
いかに幸いなことでしょう。あなたの家に住むことができるなら、まして、あなたを賛美することができるなら。詩編 84編5節
【新約聖書】
わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。ローマの信徒への手紙 8章26節
詩人は語っている。神様の家に住むことはどれほどの幸いであるのかと。でもその喜びは、神様の家が立派だったり、安全だったりするからではない。詩人は、そこで神様と言葉を交わすことができることを喜んでいるのだ。
私達は神様と、どうやって言葉を交わしたらいいのだろう?それは私達の内に宿る聖霊が果たしてくれる。聖霊が私たちの言葉に表せない思いさえ、神様へと届けてくれるのだ。だから、私達は実は既に、詩人が願った幸いの中に居るんだ。私達は神様の言葉を聞き、また思いを届けることができるのだから。それは大きな喜びとなって、神様への賛美へと繋がっていくはず。
●7日(木)
【旧約聖書】
わたしたちの神、主よ、わたしたちを助けてください。わたしたちはあなたを頼みとし、あなたの御名によってこの大軍に向かってやって来ました。歴代誌下 14章10節
【新約聖書】
約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。ヘブライ人への手紙 10章23節
神様は、ご自分に助けを求める人たちを決して見捨てない方だ。そのことを聖書はあちらこちらで証ししている。でも、その人たちの願いはいつも、命に関わることであり、その人にとって最も重要なことばかりだ。それにも関わらず、私は、こんな小さなことで神様にすぐに助けてと言ってしまう。そんな私は助けて貰えるのかなと心配になった。
でも、大丈夫。神様は、何でも願ってよいとの約束をくださった。この方の約束は決して違えられることはない。どんな小さな願いも神様は決して見逃さないからだ。だから、私はただ、信じよう。神様が必ず私を助けてくださることを。
●8日(金)
【旧約聖書】
わたしは勝利を告げ、大いなる救いをもたらすもの。イザヤ書 63章1節
【新約聖書】
わたしの気前のよさをねたむのか。このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。マタイによる福音書 20章15~16節
今日のみ言葉は何だか私の心に突き刺さる言葉だ。お前は私の気前のよさを妬むのかと。「そんなことありません」と言いたいけれど、「はい、その通りです」というのが私の思いだ。神様の気前の良さが、私に向いていないからだ。神様が別の人をひいきする。だから、私は妬むのだ。
しかし、神様がひいきするのは、神様の救いから外れている人、神様から遠ざかっている人だ。かの放蕩息子も、今日の最後まで仕事を与えられなかった人も。神様の救いに関しては、神様は気前の良さを発揮される。そして実は私もひいきされて神様の救いに入れられた一人。だから妬むのではなく、神様の救いを喜ぼう。
●9日(土)
【旧約聖書】
主に造られたものはすべて、主をたたえよ。主の統治されるところの、どこにあっても。わたしの魂よ、主をたたえよ。詩編 103編22節
【新約聖書】
イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。エフェソの信徒への手紙 1章5~6節
私にとって神様からのいただき物で一番良かったものは何だろうか?きっとそれは、私も神の子にしていただいたということだ。罪人であるはずの私が神様から、我が子よと呼んでいただける。神様のことを父よと呼べる。この関係は何をおいても、代えがたいものである。
そのことを、神様はイエス様によって実現すると決めてくださった。イエス様の命を通して、私たちは神の子としていただけたのだ。だからこそ、私達は神様を讃えることが求められている。いや求められるからするんじゃない。子とされた喜びが自然とあふれ出るから、神様を褒めたたえるのだ。神様、感謝いたします。
●10日(日)
終末前々主日
【主日早天礼拝】
藤森 誠 牧師
【主日礼拝】
辻川 篤 牧師
●11日(月)
【旧約聖書】
その後、イスラエルの人々は帰って来て、彼らの神なる主と王ダビデを求め、終わりの日に、主とその恵みに畏れをもって近づく。ホセア書 3章5節
【新約聖書】
だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。マタイによる福音書 7章8節
今日の旧約聖書のみ言葉も、神様がイスラエルの人々に与える救いの約束だ。けれども、その前には、長い苦しみが語られている。イスラエルの民には、王は無く、神もない時が訪れる、と。しかし、神様はその民の所へ戻って来られるというのだ。それは、ひとえにイスラエルの人々が神様を求めるからだ。神様が人々の嘆きの声に耳を傾けてくださるからだ。
もちろんそれは、ただ神様の愛と憐れみにかかっている。神様が私達と共に居たいと願ってくださるから。探す者が見つけることができるのは、神様がそれを与えてくださるからだ。神様の深い憐れみに感謝しよう。
●12日(火)
【旧約聖書】
お前たちは、立ち帰って、静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある。イザヤ書 30章15節
【新約聖書】
神の国は言葉ではなく力にあるのですから。コリントの信徒への手紙一 4章20節
私達は神様を前にして、静かにしていられない。それは、私の方が神様よりも良い計画をたてられると思っているからだ。
しかし、実はそれは私にとって苦しい道のりである。なぜなら、私の考える計画は、私が実現しなければならないからだ。神様は私に向けて、「では、そうしてごらん」と言われる。でも、私はそれを成し遂げる力を持っていないから、そのために絶望し、苦しむのだ。神様は私たちが抗議することをも許してくださっている。しかし、その先にあるのはいばらの道だ。だから、少しでも早く神様の言葉に信頼することが、私にとっての最善と気づかせていただけますように。
●13日(水)
【旧約聖書】
勇士の弓は折られるが、よろめく者は力を帯びる。サムエル記上 2章4節
【新約聖書】
それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。コリントの信徒への手紙二 12章10節
弱い者たちが、仲間と力を合わせて巨悪に立ち向かう。そんな物語が昔から好きだった。その物語を見ていると、力のない私も、大きな敵に打ち勝つことができるように思えてくるからだ。
今日のみ言葉も、力なき者には力を与えられ、強き者たちは力を失うから、打ち勝てるということなのかなと思った。でもどうも違うらしい。それは、この強さとは人間の強さではなく、神様の強さだからだ。神様が力を与えるから、たとえ私が弱くとも、強くあれるというのだ。私の味方は神様だ。そう考えると私の思いもあながち間違っていないのかも。神様が力を与えてくださるから、今日も安心して歩めるのだ。
●14日(木)
【旧約聖書】
見よ、天とその天の天も、地と地にあるすべてのものも、あなたの神、主のものである。申命記 10章14節
【新約聖書】
いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。ルカによる福音書 02章14節
今日のみ言葉も私に厳しい現実を突きつける。この地上にあるものの中で、神様の物でないものは何一つないというのだ。私が持っている物も神様の物だと言われている。そしてそれは、私が手にしている物にとどまらず、私達自身さえも神様のものだという宣言なのだ。
しかしここで、神様が告げようとしていることは、「あなたの持つその全ては、私のものでありながら、あなたたちの手の中にある」ということだ。それはまさに神様が私たちに示してくださる愛のしるしだ。そして、それゆえに私達は神様に従うことが求められている。ご自分の全てを与えてくださる方の願いがそこにあるから。
●15日(金)
【旧約聖書】
あなたの神、主は父が子を背負うように、あなたを背負ってくださったのを見た。申命記 1章31節
【新約聖書】
二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。ルカによる福音書 24章35節
ここでの背負うという言葉には、人々が抱える重荷をも背負うということも含まれているようだ。まさに、エジプト軍から追われ、逃亡生活を続ける中で、神様はイスラエルの民の心配事のすべてを背負って、彼らを導かれたのだ。そして、エマオ途上の二人も、イエス様と共に歩む中で、その心配事を全て背負ってもらっていた。だから彼らの心は燃えていたのだ。
私達も様々な重荷を背負っている。しかし、神様は私達を、その重荷も含めて背負ってくださる。それは私と共にその重荷を解決するための道を歩んでくださるということだ。だから、私達は安心して歩んでいこう。
●16日(土)
【旧約聖書】
わたしがこの都に与える大いなる恵みについて世界のすべての国々が聞くとき、この都はわたしに喜ばしい名声、賛美の歌、輝きをもたらすものとなる。エレミヤ書 33章9節
【新約聖書】
そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」マタイによる福音書 21章9節
神様が与える大いなる恵みって何だろうと思って聖書を開いてみた。そうしたら、「わたしに対して犯した全ての罪、犯した罪と反逆のすべてを赦す」と記されていた。つまり、神様の恵みとは、神様への罪が赦されることだ。そして、それを世界が聞くとき、そこには賛美がもたらされる。
その出来事はまさにイエス様によって起こった。エルサレムに入られるイエス様に人々は賛美の声をあげた。この時、群衆は十字架の出来事によって救われるなどとは思っていなかっただろう。しかし、彼らの賛美通り、十字架で死なれることで、私たちに赦しを与えてくださった。感謝と賛美を持って神様に応えよう。
●17日(日)
終末前主日
【主日早天礼拝】
辻川 篤 牧師
【主日礼拝】
辻川 篤 牧師
●18日(月)
【旧約聖書】
いと高き神よ、わたしは喜び、誇り、御名をほめ歌おう詩編 9編3節
【新約聖書】
主において常に喜びなさい。フィリピの信徒への手紙 4章4節
常に喜べと人に口で言うのは簡単である。知識として、どんなことも神様が与えられたものだから、喜ぶんだよと言うこともできる。しかし、“わたしが”、そこに生きよと言われたら、途端にできなくなるのはなぜだろう?
改めて気づかされたことは、神様の言葉には神様の思いが詰まっているということだ。その言葉は私達をとがめだてするものではなく、私達を心配する神様の言葉である。ちゃんと喜べているか?と。私達は自分をみたら喜べないかもしれない。だからこそ、私達は主を見つめるのだ。そこにこそ私の喜びがあるのだから。今日も主に感謝して喜んで過ごしたい。
●19日(火)
【旧約聖書】
仕掛けられた網から逃れる鳥のように、わたしたちの魂は逃れ出た。網は破られ、わたしたちは逃れ出た。詩編 124編7節
【新約聖書】
イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。ルカによる福音書 6章18節
私達とイエス様と出会いはどのような形であっただろうか。出会いは様々であろうが、もしかしたら、助けを求めて教会を訪ねられた方もおられるかもしれない。私達は、誰しもが何らかの助けを求めているのかも。群衆はイエス様に助けてもらうために集まってきたが、イエス様は彼らを退けることはなかった。病を癒すことがイエス様の一番の目的ではないけれど も、癒しを通して与えられる、人々の魂の救いがあったのだ。
だからと思う。私も、イエス様に助けを求めてよいのだと。私に助けが必要なことをもイエス様はご存じで居てくださって、その苦しみにとどまらないようにと配慮してくださるのだ。
●20日(水)
【旧約聖書】
主は恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに富み、くだした災いを悔いられるからだ。ヨエル書 2章13節
【新約聖書】
園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」ルカによる福音書 13章8~9節
神が悔いるという告白は、何度読んでも衝撃を受ける。それは、完璧であるはずの神様の失敗を意味しているように思えるからだ。しかし、新約聖書を併せて読むとそうじゃないと気づけるはず。なぜか神様は、私たちが実を結ばないことに対して、ご自分が責任を持とうとされている。
だから、この時の神様の思いは、自分の力では、人は罪を精算し、神様に従うことができないという悔いなのではないだろうか。それゆえに、神様は、自らがその罪の精算を成し遂げられるのだ。イエス様の十字架の出来事を通して。人間を救うということに対して、神様の憐れみは限りがないのだ。神様の思いに感謝します。
●21日(木)
【旧約聖書】
お前たちのうちにいるであろうか。…闇の中を歩くときも、光のないときも、主の御名に信頼し、その神を支えとする者が。イザヤ書 50章10節
【新約聖書】
闇が去って、既にまことの光が輝いているからです。ヨハネの手紙一 2章8節
今日の旧約聖書のみ言葉は、初め私を勇気づけてくれるみ言葉だと喜んでいた。しかし、何度か読み直して気付いたことがある。それは、この問いはいわゆる反語と呼ばれるもので、そういう人が居ないことを強調している。それは私もまた、神を支えとする者ではないと言われている。
違うと反論したくなるけれども、でもきっとそうだ。私は自分の灯りを頼りにしているから、大抵の場合、うまくはいかないのだ。私たちが頼りにすべき灯りは、イエス様なんだ。なぜなら、この方がまことの光として私の所へ来てくださったから。私と共におられる方が光輝いてくださるから。
●22日(金)
【旧約聖書】
主よ、あなたの道をお教えください。わたしはあなたのまことの中を歩みます。詩編 86編11節
【新約聖書】
あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。ヨハネによる福音書 8章32節
詩人は神様の道を歩みたいと願っている。その願いは私の願いでもある。神様が示してくださる道は、きっと私にとって最善の道のはずだから。でも、と思った。もし、神様の示される道が私の進みたい道と違ったり、苦しみが多い道だったりしたら、私は本当に従えるのかなと。
それは、イエス様が神様から示された道は、十字架への道だったから。イエス様は命を捨てよという厳しい道を示されたのだ。でも、それは私達を救うためだった。真理とはイエス様のことだ。イエス様が私は、道であり、真理であり、命であると言われたから。この方の歩みによって私は自由にされたのだ。
●23日(土)
【旧約聖書】
あなたの間に、占い師、卜者、易者、呪術師、これらのことを行う者をすべて、主はいとわれる。申命記 18章10節
【新約聖書】
正気になって身を正しなさい。罪を犯してはならない。神について何も知らない人がいるからです。コリントの信徒への手紙一 15章34節
私たちの周りには様々な占いがあふれている。テレビにも、ラジオにも、新聞にも占いコーナーがある。つい気になって、見てしまい、自分の運勢に一喜一憂してしまうことも多いのではないだろうか。しかし、神様はそれをいとうと言われる。なぜなら、それは、自分の行く末を神様ではなく、占いに相談することだから。神様はなぜ私に聞かないのかと憤っておられるのだ。だから占いはダメなのである。
まさに、神様が私達とどう関わろうとしているかが言い表されている。私のことを一番に考えてくださる方がいるのだから、この方に私達は相談しよう。それが私にとっての最善だ。
●24日(日)
終末主日
【主日早天礼拝】
藤森 誠 牧師
【主日礼拝】
藤森 誠 牧師
●25日(月)
【旧約聖書】
あなたの神なる主が、旅路を導かれたとき、あなたが主を捨てたので、このことがあなたの身に及んだのではないか。エレミヤ書 2章17節
【新約聖書】
兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。ガラテヤの信徒への手紙 5章13節
イスラエルの民は神様に選ばれた民であった。神様の寵愛をいただき、神様に救い出していただいた民だった。それなのに、彼らは神様を捨てたのだ。彼らは、自分たちはどの神様に仕えるか選べると考えたのかもしれない。それは彼らにとって自由な選択であったのだろう。でも、その自由さのゆえに誤った選択をしたのだ。
私達にも自由が与えられている。それは神様を信じる自由だ。でもそれは、神様を信じるか信じないかという自由ではない。あなたの意思によって神様を信じることを選び取ってほしいと、神様が私たちに与えてくださったものだ。さぁ、神様を信じる者とさせていただこう。
●26日(火)
【旧約聖書】
まことにあなたは御自分を隠される神、イスラエルの神よ、あなたは救いを与えられる。イザヤ書 45章15節
【新約聖書】
この恵みは、聖なる者たちすべての中で最もつまらない者であるわたしに与えられました。キリストの計り知れない富について、異邦人に福音を告げ知らせており、すべてのものをお造りになった神の内に世の初めから隠されていた秘められた計画が、どのように実現されるのかを、すべての人々に説き明かしています。エフェソの信徒への手紙 3章8~9節
神様の秘められた計画があると、聖書は語っている。どうして秘めておられるのか理由はよくわからないが、でも、それは、説き明かす人が必要であるというのだ。
では、その計画とは一体何なのか。それは、人間を救う計画である。その救いはイエス様の十字架という具体的な出来事となって私たちに示された。でも、それは一見するとよくわから ない出来事でもある。だからこそ、その計画を説き明かす人が必要なんだ。それは、その救いの計画によって救われた全ての人。つまり、私にその使命が与えられている。さぁ、まだこの計画を知らない人たちの所へ説き明かしに出かけよう。
●27日(水)
【旧約聖書】
主よ、平和をわたしたちにお授けください。わたしたちのすべての業を、成し遂げてくださるのはあなたです。イザヤ書 26章12節
【新約聖書】
終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。コリントの信徒への手紙二 13章11節
聖書の語る平和って一体何だろう?それは私達が考える平穏無事な状態とは少し違うようだ。調べてみたら、そこには健康・長寿・繁栄・勝利という意味さえあるらしい。でも少しわかるかも。だって、平穏無事というのは、神様が関わらなくても達成されうるものだから。でも、聖書は平和を神様に願っている。
神様の与える平和とは救いと関わる。だって、救いが必要な状態を平和とは言えないからだ。だから、平和になるためには神様の救い、それもイエス様を通して実現した救いが必要だ。そのことを通して私達も、神様の平和を受け取ることができるのだから。
●28日(木)
【旧約聖書】
あなたたちは主の祭司と呼ばれ、わたしたちの神に仕える者とされ…。イザヤ書 61章6節
【新約聖書】
こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。コリントの信徒への手紙一 4章1節
神様には秘められた計画があるという。それは、神様が人間を救うという救いの計画である。どうして秘密なのかは不明だ。でも、今日のみ言葉はそれを神様は人間に委ねたと言っている。どうしてだろうか?それは、神様はご自分の計画を人に任せる方だからだ。最初はイエス様に、そして後にはイエス様を信じる者たちへと託されたのだ。
私達は大切な務めを神様から委ねられた。その勤めを果たすためには、神様の言葉が必要だ。だから、私達は毎週集まって神様の言葉を受け取っている。私に与えられた務めを十分に果たすことができるようにと。
●29日(金)
【旧約聖書】
どのような財宝よりも、あなたの定めに従う道を喜びとしますように。詩編 119編 014節
【新約聖書】
わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。ヨハネによる福音書 15章10~11節
どんな宝よりも神様に従う道の方が喜びであるとこの詩人は歌っている。一体どんな理由でそういうのだろうかと思い、詩編の言葉を読んでみた。しかし、どこまで言っても、その理由は語られていない。祝福があるとか、対人関係がうまくいくとか、敵の手から救い出されるという理由がないのだ。一体どういうことなの?
もしかしたらと思った。詩人は神様との関係に生きているのかもと。そこにあるのは損得勘定を超えた経験なのだ。そしてこの詩人は、きっと神様の定めに従って生きることができなかったからこそ、従う道に喜びを見出すんだ。この日こそは、主の道に従うことを喜べますように。
●30日(土)
【旧約聖書】
あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。申命記 6章5節
【新約聖書】
愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。ローマの信徒への手紙 13章10節
今日のみ言葉を読みながら、ふと、もしかしたら私は神様への愛と隣人への愛を別のものと考えていたのかもと気づかされた。もちろん、その愛の表現方法は神様と隣人とで異なっている。でも、その根本にある思いは同じなのだ。それは、全ての人間は神様に愛されているということ。イエス様を十字架にかけてでも救いたいと思う一人一人だ。だから私はその愛への応答として神様を愛するし、隣の人も神様が愛された一人として、同じように愛する必要があるんだ。
神様を全身全霊をもって愛するように、隣にいる人のために、私も全身全霊を尽くす者となりたい。