2024年3月の『日々の聖句』

【新約聖書編】

その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)

●1(金)

主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。(ヨハ4・15)
 姦淫の罪の女が、人目を避けて共同井戸に水を汲みに来た時、イエス様に出会った。女の渇きを見抜かれた主。それも、喉の渇きだけでなく、魂の渇きだった。女自身がそれに気付いていなくても・・・。
 主は「わたしが命の水だ」と招かれる。それは私たちへの招きの言葉でもある。自分でも気付かない魂の渇きへの招きだ。主よ、ボクにも命の水を下さい。あなたの生けるみ言葉を。

●2(土)

神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。(ロマ3・25)
 イスラエルの民は、自分の罪の償いのために、神殿で神に供え物を献げた。それは贖罪のための羊や牛の命。私たちの罪を償うためにも、贖罪の供え物は必要だ。しかしその供え物を、神ご自身が整えられたのだ。それが、ご自分の独り子の命だった。
 十字架の死は、他人事じゃない。神様の私への決意。そして、痛みの決意。神とボクは、御子でつながっていた。それも、命によるつながりで。

●3(日)

礼拝説教
主日早天 辻川篤 牧師
主  日 辻川篤 牧師

●4(月)

たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。(マコ7・35)
 二重苦の中にいた男が、イエス様に出会った。そのとき「開け」とおっしゃった一言で、長年の苦しみが癒されたのだ。喜ぶ男の様子が目に浮かぶ。
その喜びは何ゆえだったのか。癒されたことか?それならまたいずれ病は来る。イエス様に会えたことか?それなら永遠に続く喜びになるだろう。ボクはどっちが嬉しいだろうか。キリスト者になれたことをこそ喜ぶ者でいたい。癒しも欲しいけど、ね。

●5(火)

二人はそこに長くとどまり、主を頼みとして勇敢に語った。(使14・3)
 「長くとどまり」とは、パウロたちがイコニオンで伝道した場所。でもユダヤ人が土地の人々を扇動して襲わせようとした場所だった。命の危機、憎悪の空気に満ちていた場所だった。
 ボクなら「そんな人たち、もうどうにでもなれ」と見捨てるだろう。きっと逃げ出す場所だ。でもパウロたちはとどまった。十字架の福音の絶大さを知っていたから。ボクも福音を知っている。ならばボクは、どうする。

●6(水)

洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。(コロ2・12)
 キリストに与って罪に死に、永遠の命をいただけることは、「洗礼」と「信じる」ことにかかっている。
ふと思った、「洗礼を受けなくても、信じればそれでいいんじゃないと思っていた頃がある。でもそれは、独善的だったな」と。洗礼の恵みは、救いへ招き入れる一方的な神の御業。それなのに、罪の赦しと救いを甘く考えていた。人間の側の業で出来ると考えていたのかも。

●7(木)

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。(ヨハ1・14)
 父なる神は、「光あれ」との言葉一つで、世界を創造された。同じように「救いあれ」との思いを込めた言葉は、地上に真の人となって降誕されるイエス様となった。それも私と隣人との間に来て下さったのだ。
 今朝改めて「わたしたちの間に」という一言が心に留まる。神が願われた救いは、隣人をも見ておられる。ボクの家族も友人も、御目には映り込んでいるんだ「あなたも救いたい」と。

●8(金)

神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。(2テモ1・7)
 何のための「力と愛と思慮分別の霊」を戴けるのか?それは、主を証しするためのものだ。
 つまり、キリストの福音を家族や友人に伝える時、臆病になってしまうことを見抜かれているんだ。更に、愛が必要なことも。また思慮分別に満ちた言葉を用いないと失敗することも。家族伝道って、今まで自分勝手にしていたかも。勝手にやめていたかも。祈って、祈って始めなきゃ。

●9(土)

「子よ、あなたの罪は赦される。」(マコ2・5)
 中風を患って苦しむ男を、友人たちが床板に乗せてイエス様の所に運んで来た。でもそこでイエス様は、「治れ」とは言われず、罪の赦しを告げられたのだ。
 子供の頃ここを読んだボクは驚いた。「治れ」と言って欲しいのにと思ったから。でも今は「赦される」と言って貰えた方が良かったんだと思う。身体の癒しより魂の癒しこそ恵みと分かるから。罪の重荷が分かるから。

●10(日)

礼拝説教
主日早天 藤森誠 伝道師
主  日 藤森誠 伝道師

●11(月)

主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。(2コリ12・9)
 パウロには持病があったらしく、伝道に大きな障害となっていた。それを取り除いて貰いたくて、神に願い続けたのだが・・。その彼が言う「主は私の弱さの中でこそ働かれるのだ」と。
 いつもボクは、自分の力でがむしゃらに進んで、出来る自分を誇って来た。でも神様が働いてくださるのは、出来ない自分の中。その道を歩むためには、自分を明け渡すことが必要なのかも。でもこれが難しいんだな。

●12(火)

マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されている(使16・10)
 「こんな人にはイエス様のことを話しても耳を貸しはしない」と、思い込んでいる人々(異邦人)に、パウロは福音を告げ知らせた。それも、それは神の命じられたことなのだ、と。
 私たちの傍にも「こんな人に・・・」と思い込んでいる人がいる。それも平気で「無理、無駄」と言ってはばからない。でも神の想いは違うんだ。「告げ知らせよ」と言われる。そうだ、夫に、妻に、子供に、友人に、同僚に!

●13(水)

イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。(ルカ7・48)
 ある罪深い女が、イエス様を愛する思い一つで、涙で足を濡らし髪の毛で拭いてさしあげた。その女に今日の言葉を言われたのだ。そして「あなたの信仰があなたを救った」と続けられた。
 イエス様が求める「罪まで赦される信仰」って、何なのだろうかと思う。それは、教理的なものでなく、自分よりも主を愛する想い、この一点なのかもと思った。

●14(木)

不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。(ロマ4・5)
 自分の不信心さを、ボクはよく分かっている。すぐに神様よりも自分が中心になって、ちょっと試練があったら、神を信頼するどころか不安の方が大きくなる。さらに、神を知らない人と変わらない日常生活の姿。
 しかしそんなボクを「正しい者よ」と呼んで下さるのが天の父だと、み言葉は言うんだ。このみ言葉に明け渡すことが、信じること。そしてそれが、唯一の恵みの通り道なんだ。

●15(金)

「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」(マコ8・29)
 ユダヤの民は、イエス様を「預言者の再来だ」と言っていた。そこで弟子たちに「あなた自身はどう思うのか」と問い直されたイエス様。
私たちも、「イエスは救い主」と聞く。でも知識としてではなく、熱い思いをもって、「イエス様は私の救い主」と告白できるのか。救いとは、罪人の救いのこと。それは、自分が罪人だと痛感していないと、真実の言葉にはならないはず。さあどうする、篤!

●16(土)

いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。(1ヨハ4・12)
 教会学校に通っていた頃、「神様が見えたらちゃんと信じるよ。見えないやんか」と言っていた。そういう思いに聖書は、「確かに見えないよ」と言っていたんだ。「見えないけど、でも会えるんだよ。愛し合う人と人との間に、神様・イエス様はおられるから」と。
遠くに探しに行く必要はなかった。すぐ近くに居られたから。ボクと隣人との間に。だからいつでも会える、愛し合えば良いのだから。

●17(日)

礼拝説教
主日早天 藤森誠 伝道師
主  日 藤森誠 伝道師

●18(月)

互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。カインのようになってはなりません。(1ヨハ3・11~12)
 「愛し合うこと」・・・これって耳にタコができるほど聞いて来て、自分の中では当たり前化して、心を動かせるものではなくなっていたかも・・・。
でも今朝、新しく「愛し合うこと」を思い巡らした。それを失うとき、兄カインは弟アベルを殺してしまうことになったのだ。ああ、家族でも、信仰の兄弟でも傷つける時、この一線を踏み越えてしまっている。「愛」、正にこれが、イエス様そのものだった!

●19(火)

(愛は)すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。(1コリ13・7)
 これは結婚式の時に、新郎新婦に語り掛けられるみ言葉。家族という一番身近な隣人関係を始める時に、最も必要なみ言葉だからだ。
 でも、これはボク自身にも必要な言葉。愛することが隣人関係にとって要なのに、それを忘れて、関係を失って来たから。そんな事、もう嫌だから。加えて、「すべて」をいう一言を心に刻もう。「一部」じゃない。この一言で、あるべき姿が、リアルになった。

●20(水)

神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。(使4・19)
 ペトロたちがイエス様の証しをしていると、権力者に捕らえられ投獄された。そこで尋問が始まる。その時に言ったのがこの言葉だ。
 ボクはどうだろう。社会の中で気付かない内に「皆さんの慣習に従うよ。み言葉に従うのは、教会の中でいいから」って行動をしていないだろうか。明治・大正期に信仰を守る闘いをしたキリスト者の姿を思い出した。恥ずかしくなった。

●21(木)

わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。(ヨハ15・4)
 イエス様はぶどうの木、あなたはその枝だよと話された中にある一言。
ぶどうの木を思い浮かべてみた。嵐の日に、激しく揺れる小枝。しっかり幹にしがみついていないと、飛ばされそうだ。これが、信仰と同じということなんだろうか・・。
 ふと「いや違うかも」と思った。枝をしっかり掴まえているのは、太い幹のほうかも。イエス様に掴まえられている姿、まさにそれが信仰なんだ!

●22(金)

神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。(1テモ2・5)
 神が唯一であるように「仲介者も・・・おひとり」と言われている。キリストに全て任せなさいということ。他のものに頼って神に「義」と認められることは出来ないから。たとえ自分のどんなに善い行いによってもだ。
 簡単だ、有難いと思って、一転、大変で難しいことかもと思った。何でも我流やってしまって、キリストに委ねない自分を知っているから。信仰とは、自分を手放すことと見つけたり。

●23(土)

神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。(1コリ14・33)
 「平和の神だから」と言われる理由は何なのかと聖書を開いたら、神の家である教会で、皆が自分勝手な状態になっていることを諭していた。
慰められ癒されたくて来た教会で、傷つくことがある。「教会なのに・・・」と思うのは「平和の神の家なのに・・・」ということだったんだ。
平和で満たすためにはどうしたら良いんだろう。そうだ!互いに愛し合えば良い。これしか無いのかも。

●24(日)

(棕櫚の主日)
礼拝説教
主日早天 辻川篤 牧師
主  日 辻川篤 牧師

●25(月)

気落ちしている者たちを励ましなさい。(1テサ5・14)
 「これは当然、そうすべきだね」と思う。思うけれど、実際に気落ちしている人がいても、横を素通りしてしまう。心の中で「別に私が声をかけなくても、誰か相応しい人が励ますだろう」と言い訳する。「かえって声を掛けて、変な人だと思われたらいやだな」と、自分に言い聞かせている。
 あっ、み言葉に従わないというのは、こういうことなんだ。知っていても素通りする、ボクは罪人。

●26(火)

わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。(ヨハ10・9)
 救いに至る門は一つ。それはイエス様を通ること。つまりイエス様を救い主と信じること。それなのに人は、別のものを探し求めてしまう。お金や、地位や、人脈や、経験という門を。そこを通って救われようとする。一番厄介なのは、自分という門だ。
 そしてこれは、キリスト者であっても見失う門。現実では、自分だけが頼りと思ってしまうから。信仰と生活とを、切り離すな!

●27(水)

わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。(ヨハ8・31)
 「イエス様に従う」とキリスト者は言う。でも「それってどうすること?」と聞くと、具体的に言えないこともある。聖書を読み、主を愛しているという思いがあれば、主に従えているという思い込みもある。
 でもイエス様は、端的に言われるのだ。「み言葉を守る人」が、「キリスト者なのだ」と。その具体的な生き方以外に、従う道は無い。〈雰囲気キリスト者〉を卒業しなきゃ。

●28(木)

偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。(マタ6・16)
 「人に見てもらおうと」という一言が、心に留まる。この前にあらゆる言葉が続く気がしたからだ。「奉仕しているのを・・・」とか「献金しているのを・・・」とか「人に優しくしているのを・・・」等々。
 人に見てもらおうとする時、神に見てもらおうとする信仰を失っている。いや、神を見失っている。そんなことにはなりたくない。でも、その罠に簡単に捕まる自分を知っている。

●29(金)

「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」と言う言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。(1テモ1・15)
 「そのまま受け入れるに値する」と言われている。でも多くの人は疑いながら、自分には不要だと思い、そして棚上げしてしまう。人間にとって最大の損失をしていると気付かずに。
 キリスト者は聖餐式のたびに、「招きの言葉」の中でこれを聞く。改めて、明後日の聖餐式では、一言も漏らさず聞き、そして受け入れて、言葉の重みを味わいつつパンと杯をいただこう。救いを身体で味わうため。

●30(土)

むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。(ルカ11・28)
 「むしろ」って何を指しているのか。それは、群衆が「イエスを宿したマリアは幸いですね」と言ったことに対してだった。身体的なつながりよりも、み言葉につながる方が幸いなのだ、ということだ。
 身体的に関われるのは一部の人。でも、み言葉なら、全ての人に拡がる。一気に拡がる。そしてボクにも届いたんだ。恵みと祝福と救いとが。正にキリストの信仰は、み言葉信仰だ。

●31(日)

復活祭(イースター)
礼拝説教
早天祈祷会 鈴木義材 兄 
主   日 藤森誠 牧師

辻川が担当する『日々の聖句』は、この日で最後です。長い間ありがとうございました。

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