2024年10月の『日々の聖句』

この日々の聖句は、聖書箇所を「ヘルンフート兄弟団『日々の聖句2024』(べテスダ奉仕女の家)」からいただきました。
聖書の本文は、日本聖書協会が発行している『聖書新共同訳』から転記しています。
『聖書新共同訳』:(c)共同訳聖書実行委員会(c)日本聖書協会、1987,1988。

●1日(火)

【旧約聖書】
主よ、国々の中で、わたしはあなたに感謝をささげ、御名をほめ歌う。詩編18編50節
【新約聖書】
主よ、だれがあなたの名を畏れず、たたえずにおられましょうか。聖なる方は、あなただけ。ヨハネの黙示録15章4節

 この詩人は、神様が敵の手から救い出してくださったことを感謝しているようだ。「なんだ私もできている」と思って、手が止まった。本当にそうだろうか?と。その出来事が神様によってなされたと私は考えているだろうか。どこか自分の力でピンチを切り抜けたと考えていないだろうか。
 どうして、素直に神様に感謝できたのかなと思いめぐらしていて、気づいたことがある。もしかしたら、彼は神様に祈っていたからじゃないだろうか。神様、助けてと願ったから、助けられたときに、神様ありがとうございますと素直に言うことができたんだ。祈りを通して、神様が私の人生に関わられる。祈りつつ歩みたい。

●2日(水)

【旧約聖書】
彼らは飢えることなく、渇くこともない。太陽も熱風も彼らを打つことはない。憐れみ深い方が彼らを導き、湧き出る水のほとりに彼らを伴って行かれる。イザヤ書49章10節
【新約聖書】
主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。ヨハネによる福音書4章15節

 現代を生きる私たちにとって、飢えることや渇くことは、遠い存在となりつつあるのかもしれない。私達はいつでも食べ、飲むことができるからだ。しかし、肉体の渇きは癒せても、魂の渇きは癒せないのかもしれない。人に愛されたい、人から必要とされたいという渇きは、現代の私たちにこそ、深刻な問題となっている。
 しかし、聖書はその渇きを癒そうと言っている。それは、イエス様の水を飲むことによってだ。その水は、その人の内で泉となるとイエス様は言われた。その水とは、きっとイエス様のみ言葉ではないだろうか。み言葉が私たちに内に宿る時、それは何十倍にも実を結ぶのだから。

●3日(木)

【旧約聖書】
僕の言葉を成就させ、使者の計画を実現させる。エルサレムに向かって、人が住み着く、と言い、ユダの町々に向かって、再建される、と言う。わたしは廃虚を再び興す。イザヤ書44章26節
【新約聖書】
わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。ペトロの手紙二1章19節

 神様は、み言葉を成就なさる方。それは人と交わした約束を実現するということだ。神様が実現してくださる約束は、これだ。「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」。これは、イエス様に告げられた言葉であると同時に、イエス様を信じる者達にも、与えられている言葉なんだ。神様は私達を子どもとして受け入れて下さる。
 それは同時に旧約聖書の言葉の実現でもある。神様が選ばれたイスラエルの民が再び、神の民として、さらには神の子として受け入れられるという約束の成就だ。たとえ、暗闇の中に居ても、この神様の約束が私たちの心の灯りとなってくれる。安心して歩みだそう。

●4日(金)

【旧約聖書】
わたしの目はあなたの仰せを待って衰えました。力づけてくださるのはいつか、と申します。詩編119編82節
【新約聖書】
憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。ヘブライ人への手紙4章16節

 恵みの座とは、本来、神様がおられる場所。そこに近づくというのは、神様の前に立つことを意味する。でも、神様を悲しませてばかりの私はどんな顔をして、神様と顔をあわせればいいのだろうか?と心配になった。
 しかし、聖書は語る。イエス様は、私たちの弱さに同情してくださる方だと。神様の前に立てないと嘆くよりも、ごめんなさいと言って、そばに来てくれることをイエス様は喜んでくださるのだ。そしてそこで、私達はその時に必要な助けを頂けるんだ。それは、聖餐式において、真に実現する。明後日は第一主日だ。ぜひとも、恵みの座に近づいて神様の祝福にあずかろう。

●5日(土)

【旧約聖書】
我々を見捨てないでください。あなたの栄光の座を軽んじないでください。御名にふさわしく、我々と結んだ契約を心に留め、それを破らないでください。エレミヤ書14章21節
【新約聖書】
神は、前もって知っておられた御自分の民を退けたりなさいませんでした。ローマの信徒への手紙11章2節

 旧約聖書の前後の箇所を読んでドキッとした。それはイスラエルの民が悔い改めているように見えて、実はそうでは無い言葉として取り上げられていたからだ。神様は厳しく、彼らの叫びを聞かず、滅ぼしつくすとエレミヤに語られた。
 しかし、実際はどうだっただろうか。神様は、思い直されて、イスラエルの民と新しい契約を結ばれた。つまり、神様は結局のところ、ご自分の民を見捨てられなかったのだ。なーんだ、安心とは言っていられない。それは生半可な思いでなされたことでは無いから。イエス様の命が必要な出来事であったのだ。私達は言葉だけでなく、心からこの方に立ち帰らないといけない。

●6日(日)

三位一体後第19主日
【主日早天礼拝】
  藤森 誠 牧師
【主日礼拝】
  辻川 篤 牧師

第一主日のため、礼拝の中で聖餐式が執行されます。

●7日(月)

【旧約聖書】
我々の罪が我々自身を告発しています。主よ、御名にふさわしく行ってください。エレミヤ書14章7節
【新約聖書】
もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。マタイによる福音書6章14節

 イエス様のみ言葉は今日も不思議である。私が人の過ちを赦すなら、私も赦してもらえるというのである。だって、私がその人を赦しても、神様への償いにはならないのだから。旧約が語るように御名にふさわしく罪を裁くならば、たとえ、人の過ちを赦したって、私は赦されないはず。それが、神様が正しいということなのだ。
 でも、イエス様は、それでよいと言われる。もしかしたらと思った。それは、あなたも赦すことを知れということなのかも。人を赦す時、私達は傷を負う。でも、それによって、私が神様に赦されたということが、どれほどの恵みなのかを実感できるんだ。神様、感謝いたします。

●8日(火)

【旧約聖書】
あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい。ヨシュア記24章14節
【新約聖書】
あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。ガラテヤの信徒への手紙4章8~9節

 今日のみ言葉は、新約も旧約も私たちに決断を迫っている。あなたは主を信じるのか?と。もちろん、「主を信じます」と私は言えると思った。でも、実際はどうだろう?日常生活で神様のことを思っている時間なんて本当にわずかしかない。困った時も、悲しい時も、嬉しい時も、神様を思い出すことなんて滅多にないんだ。
 それは、神様を信頼できていないからなのかもしれない。神様が助けてくださるとわかっていれば、いの一番に飛んでいくはずだから。自分の力、考えに頼っている私がいることに気づかされる。まず、神様を頼ることから始めてみよう。そこに真の平安があるから。

●9日(水)

【旧約聖書】
御手がわたしを造り、固く立ててくださいました。あなたの戒めを理解させ、学ばせてください。詩編119編73節
【新約聖書】
ですから、兄弟たち、しっかり立って、わたしたちが説教や手紙で伝えた教えを固く守り続けなさい。テサロニケの信徒への手紙二2章15節

 詩人は、戒めを理解させてください、と言う。戒めは理解しなくても、戒めでしょ?と不思議に思った。例えば、「廊下を走ってはいけません」という戒めは、「廊下を走るな」という戒めである。理解なんて必要なの?と思ったんだ。でも、どうして走ってはいけないのかを考えると色々理由が思いつく。あなたが危ないから、周りの人も危ないから…と。戒めって、それを作った人の思いが反映されているんだ。
 それが分からないと、戒めの言葉に縛られてしまう。まさにイエス様が律法学者たちに解かれたことだ。その戒めや教えの本質を私達は知らなければならない。そこに神様の思いも

●10日(木)

【旧約聖書】
彼らは言っている。「我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる」と。それゆえ、預言して彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げる。エゼキエル書37章11~12節
【新約聖書】
死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。コリントの信徒への手紙一15章42、44節

 私達は、私という存在が肉(体)と霊によってできていることを知っている。でも、死んだらどうなるのだろうか。体は焼かれて骨になってしまうとしたら、私たちの体は消えてしまって、霊だけが残るのだろうか?
 聖書はそうでは無いと語っている。体と霊は切り離せない。私達は体を持って復活する。それがどのような姿や形になるのか、詳しいことはわからない。でも、私達は、確かに神様によって墓の中から引き上げられ、復活させていただけるのだ。その新しい体は、もう衰えることも、朽ちていくこともない。そこからは、神様との新しい生活が始まっていくんだ。

●11日(金)

【旧約聖書】
赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです。詩編130編4節
【新約聖書】
イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」ルカによる福音書23章34節

 赦しが神様の元にしかないなんて、キリスト者なら、きっと誰しもがわかっている。それなのに、一体、今日のみ言葉は何を伝えたいんだろうか。
 でも、イエス様の言葉を聞いて、ちょっとわかったかもしれないと思った。十字架の上で、自分を十字架にかけて殺そうとしている張本人を前にして、イエス様は、彼らを赦してくださいと神様に願われた。私には絶対にできない。きっと、目の前の相手に、罵詈雑言を浴びせ、相手を呪うに違いない。でも、イエス様は違ったんだ。ここに本当の赦しがある。いや、ここにしかない。私達はこのお方からしか、赦すということを学びえないのだ。主に倣うものとなれますように。

●12日(土)

【旧約聖書】
『わたしに近づく者たちに、わたしが聖なることを示し、すべての民の前に栄光を現そう』と主が言われたとおりだ。レビ記10章3節
【新約聖書】
このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており…。ローマの信徒への手紙5章1節

 今日の旧約聖書も何だか物騒な場面の言葉である。神様の命じられた炭火と異なる物をささげたため、その人たちは主の前で死んだ。神様の聖さを犯すものは、命を取られるのである。神様の元に、気軽に近づくということは、本来は命がけの出来事なのである。
 それゆえに、新約が語る「平和」という言葉は、本当に平和なのだ。神の命令に逆らう私が、神の前に立てるという平和だ。それはひとえに、イエス様を信じる信仰によって与えられた恵みなのである。本当はふさわしくない私を神様が受け入れてくださっているのだ。父よと祈ることができるのもイエス様のおかげである。感謝。

●13日(日)

三位一体後第20主日
【主日早天礼拝】
  藤森 誠 牧師
【主日礼拝】
  藤森 誠 牧師

●14日(月)

【旧約聖書】
息あるものはこぞって主を賛美せよ。ハレルヤ。詩編150編6節
【新約聖書】
わたしたちの救い主である唯一の神に、わたしたちの主イエス・キリストを通して、栄光、威厳、力、権威が永遠の昔から、今も、永遠にいつまでもありますように、アーメン。ユダの手紙25節

 詩人は、息あるものはこぞってという。その中には人間だけでなく、動物も植物も含まれているに違いない。なぜなら、この世界のすべては神様に造られたものだからだ。
 でも、私達はこの詩人のもう一歩先を歩んでいる。それは、世界を造られた神様が私たちのために何を成してくださったかを更に知っているからだ。それはイエス様を遣わして、十字架と復活の出来事によって、神の子とする救いを与えてくださったということだ。それゆえに私達はイエス様を通して、神様の御業を喜び、褒めたたえることができる。神様の栄光がますます豊かにありますようにと。

●15日(火)

【旧約聖書】
天にいます神御自ら、わたしたちにこの工事を成功させてくださる。その僕であるわたしたちは立ち上がって町を再建する。ネヘミヤ記2章20節
【新約聖書】
わたしたちの主イエス・キリスト御自身、ならびに、わたしたちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださる、わたしたちの父である神が、どうか、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い働きをし、善い言葉を語る者としてくださるように。テサロニケの信徒への手紙二 2章16節

 大企業の社長は、細かい雑事は行わないと聞いたことがある。社長が成す一番重要な仕事は決断することらしいのだ。判断と言い換えてもいいのかもしれない。そしてその決定に従って、部下たちが物事を実現していくようだ。
 神様は、どうだろうか。旧約のみ言葉は、一見すると、社長と同じように見える。神様が判断し、僕たちが実際に行動するから。でも、本当はそうでは無い。神様は天上で判断されるだけの方ではなく、現実に降って来られ、私達と関わってくださる方だ。心を励ますのも、強めてくださるのも、私たちのすぐ隣に立っていてくださる。今日も共に居て下さいますように。

●16日(水)

【旧約聖書】
肥えた牛を食べて憎み合うよりは、青菜の食事で愛し合う方がよい。箴言15章17節
【新約聖書】
(イエスは)ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」ルカによる福音書21章2~4節

 私たちの生活は本当に小さなことで争いに発展する。幼い頃は、よく兄と見たいテレビのチャンネルで喧嘩になった。結婚したある友人は、奥さんと洗濯物の干し方で喧嘩になったらしい。他人から見たら実にどうでもよいことであるが、そんなことでも私達は争いあうのだ。
 兄との喧嘩は、母によって、「喧嘩するくらいなら、テレビは無し」という無慈悲な裁きによって仲裁された。でも、それでよかったのかもしれない。その手に持っているものが、憎みあう原因となるならば、そんなもの手放してしまう方がいいのだ。この日も愛し合って生きることができますように。

●17日(木)

【旧約聖書】
あなたの神、主は憐れみ深い神であり、あなたを見捨てることも滅ぼすことも、…ない。申命記4章31節
【新約聖書】
何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。ヨハネの手紙一5章14節

 何でも、私の願いを神様は聞き入れてくださるなんて、なんて良いことを聖書は語ってくれるんだろうかと喜んだのも束の間、よく読んでみると条件がついていた。「神の御心に適うことなら」と。なーんだ。結局、神様が望んでいることしか、聞いてもらえないじゃないかとガッカリした私がいたのである。
 でも、と思った。旧約聖書が神様の御心を語ってくれている。私を見捨てず、滅ぼさずにおられる神様は、私以上に、私の事を思ってくださっているに違いないと。だから、私達は安心して何でも、祈っていいんだ。神様が、私たちにとって、最も必要なものを与えてくださるのだから。

●18日(金)

【旧約聖書】
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。イザヤ書53章3節
【新約聖書】
人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。ルカによる福音書18章32~33節

 預言者イザヤの言葉は、何百年も経ってから確かに実現した。その人は人々から侮辱され、殺された。神の子であるはずの方が、神から見捨てられた状態となられたのだ。それも、その罪はこの人のものではなく、周りの人たち、そして私の罪を背負ってのものであったのだ。
 しかし、預言者イザヤも知らない出来事があった。それは、この方は死んで終わりではなかったということ。この方は復活されて、今も生きておられる。そして神様は、この方が死に至るまで従いぬかれたから、信じる者すべてを与えられた。この方こそ、イエス・キリストである。私もまた、この方に罪を背負ってもらった一人だ。

●19日(土)

【旧約聖書】
わたしが老いて白髪になっても、神よ、どうか捨て去らないでください。御腕の業を、力強い御業を、来るべき世代に語り伝えさせてください。詩編71編18節
【新約聖書】
アンナという女預言者がいた。…夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。ルカによる福音書2章36節

 ルカ福音書は幼子イエス様の目撃者を二人記している。シメオンとアンナである。二人共、イエス様と出会った時、非常に高齢であった。神様は、その二人とイエス様を引き合わせてくださったのだ。それは、きっと二人が救い主の到来を今か今かと待ち望み続けてきたからだ。
 でも、彼らは、イエス様を見て満足するだけに留まらなかった。彼らはその喜びを周りの人々と共有したのだ。「神様は我々を見捨てずに、救い主を与えてくださった。さぁ、ここに神様の約束のしるしがおられるのだ」と。神様の約束は確かに実現すると人々に宣べ伝えるのは、その約束を体験した者の務めなのですね。

●20日(日)

三位一体後第21主日
【主日早天礼拝】
  辻川 篤 牧師
【主日礼拝】
  辻川 篤 牧師

●21日(月)

【旧約聖書】
わたしはこの民をわたしのために造った。彼らはわたしの栄誉を語らねばならない。イザヤ書43章21節
【新約聖書】
キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。ヘブライ人への手紙3章6節

 今日のみ言葉は、私達は神様のために造られたと語っている。神様は私たちにさせたいことがあるのだ。それは神様の栄誉を語ること。でも、もし、与えられた役目を果たせない製品があったら、何と呼ばれるだろう。そう、不良品だ。私は神様の栄誉を語れない不良品なのだ。
 でも、聖書は、その私を神の家と呼んでいる。神様によって建てられた家だ。それも、そこは神様が住まわれる場所。不良品の私の内に神様が住んでくださる。それによって、私は不良品から良品へと変えていただけるんだ。そのために、私達には聖霊が与えられている。今日も神様の栄誉を語って過ごそう。

●22日(火)

【旧約聖書】
わたしの証人はあなたたち、わたしが選んだわたしの僕だ、と主は言われる。イザヤ書43章10節
【新約聖書】
あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。使徒言行録1章8節

 あなたは私の証人となりなさいとイエス様は言われた。証人とは証言者のこと。自分が見聞きしたことを、ありのまま語ることが役目である。その人の推測や知識などは必要ないのである。
 私達もその証言者となれと言われている。私達は何を証言したらよいのだろう?それはきっと、この私も神様によって救われたという出来事だ。イエス様と出会って、イエス様を信じる者としていただいた。その恵みを人々に語って伝えるのが私の証しである。これは牧師だけでなくて、イエス様に救われた全てのキリスト者ができる証言であるはず。この日も、神様の救いの御業を語り伝えよう。

●23日(水)

【旧約聖書】
老いの日にも見放さず、わたしに力が尽きても捨て去らないでください。詩編71編9節
【新約聖書】
はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。ヨハネによる福音書21章18節

 若き日には私達は自分のしたいように生きることができた。しかし、日が経つにつれ、できなくなることが増えていく。一見すれば、私たちの存在価値が減っていくように見える。この詩人も、もしかしたら、年老いた自分は、役に立たないから、神様から捨てられるかもしれないという恐れを抱いているのかも。その思いって、私の思いでもあるんじゃないだろうか。
 でも、神様は、私たちが年老いたからと見捨てられる方ではない。老いを与えるのも神様だからだ。年老いて、たとえ何もできなくなっても、私達は、神様へと心を向けて祈ることはできるじゃないか。さぁ、今日も主に祈ろう。

●24日(木)

【旧約聖書】
命の泉はあなたにあり、あなたの光に、わたしたちは光を見る。詩編36編10節
【新約聖書】
言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。ヨハネによる福音書1章4節

 最近、大谷選手の話題をよく見る。他の人にはまねできない偉業を成し遂げたと。才能があって良いなぁと思いながら、ふと、違うのかもと思った。大谷選手がすごいのは、もちろん彼自身の才能もあるのだろうが、それを維持するための努力をしているということだ。きっと、その努力は他の人の何倍にも及ぶ。社会の中で輝き続けるためには、ちょっとやそっとの努力では足りないのだ。そして力尽きれば、忘れられてしまう。
 今日の詩人は、自分の光ではなく、神様の光を見ている。そこに希望を見出すのだ。光り続けるのは大変だけれども、神様の光に照らされるのなら頑張れるかもと希望を持てた。

●25日(金)

【旧約聖書】
諭しをとらえて放してはならない。それを守れ、それはあなたの命だ。箴言4章13節
【新約聖書】
だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。テモテへの手紙二3章15節

 何だか、今日のみ言葉は鬼気迫る感じがする。諭しを守ることが、命を守ることにつながると言われている。ここでの諭しとは、神様の諭しのことだ。それは、言い換えれば、聖書のみ言葉ということ。そこから離れてはならないと言うのである。同じことを新約聖書も語る。でも、どうしてそれが命なのだろうか?
 それは、聖書のみ言葉は、イエス様の救いへと私達を導くものだからだ。み言葉を守るから、救いに至るのではない。むしろ、それを守れない私を知るからこそ、イエス様の救いがなくてはならないと気づかされるのだ。この日も、イエス様の救いにあずかろう。

●26日(土)

【旧約聖書】
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。詩編23編1節
【新約聖書】
わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。ヨハネによる福音書10章11節

 今日のみ言葉は、とても有名な箇所だ。改めて読み直して思った。どうして、「何も欠けることがない」と言えるのかな?だって、自分を見詰めたら、欠けだらけだから。この詩人は、完全無欠な人だったのだろうか?
 きっとそうじゃない。この詩はダビデの詩だと言われている。私達は彼の生涯が順風満帆で無かったことをよく知っている。ダビデの信頼は、神様と共に歩むことでもたらされたものだ。羊飼いである方が共にいるからこそ、私は大丈夫と。さらに私達は、この羊飼いが私のために命を捨てられたことを知っている。だから、この日、告白しよう。何も欠けることがありませんと。

●27日(日)

三位一体後第22主日
【主日早天礼拝】
  藤森 誠 牧師
【主日礼拝】
  藤森 誠 牧師

●28日(月)

【旧約聖書】
あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく…。詩編16編10節
【新約聖書】
イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」ヨハネによる福音書11章24~25節

 「貴方はこれを信じるか?」とイエス様は問われている。私たちが、「復活とはあれで、それで」と説明するのではなく、「私こそが命であり、復活である」と言われるイエス様の言葉を信じるかどうかを私達は問われている。
 それはきっと、私が復活の出来事を、自分の頭では理解できないからなのかもしれない。人間が甦るなんてありえないと。でも、本当に復活されたイエス様を見るならば、きっと信じることができるんだ。そして、その時にこそ、私達は告白できる。「あぁ、あなたこそが命であり、復活なのですね。復活なされたあなたを信じます」と。この日、新たに信じる者とならせて下さい。

●29日(火)

【旧約聖書】
知恵を授けるのは主。主の口は知識と英知を与える。箴言2章6節
【新約聖書】
イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」。マタイによる福音書11章25節

 幼子のような者に示されたというイエス様の言葉はどういう意味なんだろうか?幼子に難しいことを言ってもわからないはず。それなら、賢い人に話した方が有意義なのにと思う。でも、そうしなかったというのだ。一体どういうこと?
 きっと、幼子のような者とは、親に頼るしか生きるすべがない人のことなんじゃないだろうか。賢い人は、自分の知識と神様の言葉を戦わせる。でも、子どもは親の言うことを聞くことしかできない。もちろん反対はするかもしれないが、選択肢は、イエスかノーかだけである。そして、私達も同じ決断を迫られる。あなたは私の知恵を受け取ってくれるのか?と。

●30日(水)

【旧約聖書】
恵みの倉である天を開いて、季節ごとにあなたの土地に雨を降らせ、あなたの手の業すべてを祝福される。申命記28章12節
【新約聖書】
わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。コリントの信徒への手紙一15章58節

 今日の旧約聖書のみ言葉は、格別の祝福の言葉だ。神様は私達のすべてを祝福してくださるのだ。…と思っていたら、その前後を読んで驚いた。それは、この祝福には条件が付いていたから。「あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うならば…」と。
 でも私は、主の御声に従うことができないことを知っている。それなら私に待ち受けるのは呪いなのだろうか。いや、そうでは無い。なぜなら、私達はイエス様に結ばれた存在とされたから。エス様に結ばれたことで、私達もイエス様がいただく恵みを分けていただけるのだ。だから、信じて、神様に与えられた業に励もう。

●31日(木)

【旧約聖書】
戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが、我らは、我らの神、主の御名を唱える。詩編20編8節
【新約聖書】
ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。使徒言行録4章12節

 人が誇るもの、それは人が頼りにしているものだ。自分を助け、救ってくれるものと言ってもよいだろう。ある人は軍事力を、ある人はお金を、ある人は才能を誇るだろう。しかし詩人は言う。私は主の御名を誇ると。
 そして、使徒たちもまた、たった一つ誇るもの、それは、イエス様の御名である。これこそが私達を助け、私達を救うものであると彼らは知っていたのだ。聖書において名前とは、そのお方自身を指している。つまり、イエス様の名前とは、イエス様ご自身である。この方の名を唱える時、私達はどのような状況に置かれていたとしても、助けを得ることができるのだ。主の名を誇ろう。

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