2024年1月の『日々の聖句』

【旧新約聖書 編】

その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。

与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。 (牧師・辻川篤)

●1(月)

自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。 (ヤコ1・26)

 今年、どんなみ言葉で信仰生活の一年を始められるんだろうかとワクワクして、一月一日に与えられた聖句を見たら、ガーン。ちょっと厳しい・・・。でもちょっと落ち着いたら「ボクには正にこれが必要だ」と思った。

 人を傷つける剣の舌を捨てよう。そこにこそ豊かな一年の日々が拡がるのだから。改めてみ言葉にアーメン

●2(火)

神は、約束によってアブラハムにその恵みをお与えになったのです。    (ガラ3・18)

 アブラハムに、神は尽きない恵みをお与えになった。「善人だったからなのか」と思う。でも「約束によって」という一言に目がとまった。

 神様の方が、彼の善悪に関係なく約束を守られたということ。ならば、ボクへ約束もあるのだろうかなと思う。ボクの側の善悪によって揺れたりしない恵み。あ、一つだけ分かるかも。それは「共にいるよ」という約束。これが最高かもね。

●3(水)

高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らす。    (ルカ1・78-79)

 洗礼者ヨハネの父ザカリアが聖霊に満たされて預言した。救い主が天から降って来られるよ、と。死の陰に座り込んでいる私たちの只中に来られる、と。光として来て下さる、と。

 降誕節に、この御言葉が届けられた。天から降られたイエス様を想う時節に、このみ言葉を聞けた。だから分かる、遠く高い天ではなく、横を見るんだ、と。共に居て下さる光が、そこに輝いていて下さるから。感謝

●4(木)

貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。   (コロ3・5)

 「偶像礼拝なんてしていない。主のみを礼拝してる」と思って来た。でもドキッとさせられる。貪欲は偶像礼拝そのものだ、と言われていたから。

 「ボクは、欲になんて縛られない」と思っても、ハタと気付く。「自分は義しい」と言ってしまう、そこでもう自分の正義への欲がある。これが本当は一番タチの悪い貪欲なのに。まず「ボクこそ気をつけねば」と、自分に言い聞かせることから始めなきゃ。

●5(金)

「わたしにできると信じるのか」と言われた。二人は、「はい、主よ」と言った。  (マタ9・28)

 目が見えずに全てが暗闇という苦しみ。さらに周りから「罪を犯した報いだ」と因果応報を押し付けられ、社会でも疎外されて来た。その二人の盲人を、主が癒される。そのための道筋がこれだった。「信じるか」と問われて「はい」との応答。ただこの一つ。

 「あなたたちも同じだよ」と、み言葉が語り掛ける。ボクにも「はい、主よ」と信仰の道を歩む選択をするように促されている。進路は決まった!

●6(土)

わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。     (マタ5・17 )

  いつも律法主義を批判しておられたイエス様。だから「行いによらずに、信じれば良いんだ」と思って来た。でも、違うみたいだ。

 「律法の完成」とは、御父の御心(それこそが律法なのだ)を成就なさること。それは罪人が神の子となるため、ご自身が十字架で死なれることさえ引き受けられることだった。主はここで、覚悟の告白をしておられた。その視線の先に私たちもいる。

●7(日)

礼拝説教(年間主題聖句説教)

主日早天  藤森誠 伝道師

主  日  藤森誠 伝道師

●8(月)

あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。 (マタ6・8)

 主の祈りを教えて下さる直前に、この一言をおっしゃったのだ。そして「だからこう祈りなさい」と主の祈りが続く。安心して「御名があがめられますように」と祈ればいい。必要を備えてくださるお方に目を上げて「日用の糧を今日も与え給え」と祈ればいい。必要を知っていて下さるお方にすがれるのだから。そのお方は、私たちの真の父だと、今朝み言葉は告げるのだ。心に平安が拡がった。

●9(火)

群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。     (ルカ6・19)

 病に苦しむ人々が、イエス様のもとに押し寄せた。彼らは信仰をもって集まったのじゃないのかも。でも、「私も癒して欲しい。私も助けて欲しい」と必死だった。それが、「触れるだけでも良いから」という思いになったのだろう。主は、そんな一人一人をも癒されたのだ。愛の主よ!

 ボクにも、彼らの気持ちが分かる。泣きたいほどによく分かる。

●10(水)

弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。    (マタ26・56)

 「弟子」って何だろう?皆、イエス様の召命を受けて呼び出されて歩き出した人々。それなのに、イエス様が捕らえられた時「見捨てて逃げた」。主はどんな思いで、そんな彼らの背中を見詰めておられたんだろう?真の「弟子」って何なんだろう?

 色んな「?」が交差する。でも一つ分かる。彼らが弟子になれたのは、ご復活の主に会った後だ。ボクも復活の光を仰ごう。弟子として歩くため。

●11(木)

「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」 (使10・15)

 ユダヤの民の一員であるペトロにとって、異邦人は汚れているという思いが染みついていた。異邦人に神の恵みが注がれているなんて理解できない。そのペトロに、神が語り掛けたのだ「彼らも神がきよめた人たちだ」と。

 自分の目で「あの人は清い、清くない」と裁くことがある。その心に、主は厳しく迫る「お前は御旨に背くのか。神の計画に口出しするのか」と。ハッとした。み言葉が刺さったから。

●12(金)

わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがない。   (ヨハ6・35)

 イエス様のもとに群衆が押し寄せ「いつも飢えないようにパンを下さい」をせがむ。自分の命の支えを求めたのだ。それに応えられたのが、今朝のみ言葉だ。「あなたにあげよう」と言われる。でもそれは、彼らが考えていたものではなかった。

 ボクも「これこそ自分に必要」と祈り求める。でも、その時に主がくださるのは、ボクが願ったものではない。遥かに優るもの、主ご自身なのだ。

●13(土)

神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。    (1ヨハ1・7)

 「わたしたちが光の中を歩むなら」と言われる。「・・・なら」と言われるのは、「光の中ではなく、闇の中を歩むこともある」ということ。つまり「罪の中に歩むなら」という言葉が、今朝のみ言葉の反対側の道にあるんだ。

 人生の全ての時、喜びの日も悲しみの日もこの別れ道があって、そこには、今朝のみ言葉が標識として立っている。見落とすまい。そして見誤るまい。光を選べ!

●14(日)

礼拝説教

主日早天  辻川篤 牧師

主  日  辻川篤 牧師

●15(月)

むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。      (コロ2・8)

 「むなしいだまし事」って何だろう、と聖書を開いたら「人間の言い伝えにすぎない哲学」とあった。大学で「哲学」専攻だったボクにはカチンときた。でも「これって、自分の知恵で考えた〈下から〉の論理のことかも」と思って、「全く違う道標こそ知るべき事なんだ。〈上から〉与えられる主の言葉こそ、真の道標」と気付いた。でもボクは愚かにも、いつも自分の論理を押し通そうとするんだよね。

●16(火)

起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。        (ルカ5・24)

 中風を患って、苦しんで来た男。その男をイエス様が癒そうとしてなさったのは、医術ではなかった。たった一言「起き上がれ」だった。

 主の一言は、苦しみの奥に届く。彼は、この後また病にもなるし死も迎えるだろぅ。でも、主の一言との出合いは、きっと彼を生涯支え続けたと思う。み言葉の奇跡とはそういうことだと思う。そして人を生かすみ言葉は、ボクにも届く。

●17(水)

信じない者ではなく、信じる者になりなさい。 (ヨハ20・27)

 ご復活の主御自身を前にしても、まだ「十字架の傷跡に指を入れて確認しないと、信じられない」と、疑うトマス。そんな彼に、イエス様は呆れるのでもなく、叱るのでもなく、責めもせず見放しもしない。グッと抱き寄せるような言葉を告げられたのだ。「信じる者になるのだよ」と。

 信じるって、イエス様が引き寄せて下さる腕の中で始まるんだ。ボクの決心なんかじゃない。神の御業だ。

●18(木)

イエスが二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、二人は目が見えるようになった。 (マタ9・29-30)

 目の不自由な二人が、イエス様に「憐れんでください」とすがる。その二人ともが癒された。

 「ボクもすがりたいことがあるから、御傍に近づこう」と思って、アレっと気になった。「信じているとおりになる」と言われた一言が、だ。ボクは「信じている」と思っている、でも急に不安になった。この二人のように信じているのかと。信じていると思っているだけ信仰かも知れない・・・。

●19(金)

わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。   (マタ18・33)

 たとえ話で、莫大な借金を主君から赦された男が、自分に些細な借金をしている隣人を赦さなかった話で、主君が男に言った言葉がこれだ。心から隣人を赦さないなら、天の父の厳しい言葉は誰の上にも下る、と。

 ボクは「隣人を赦しなさい」というみ言葉を、ゆるく曖昧に考えていたかも。赦さない心を、主は激しく悲しんでおられるのに・・・。主と、私と、隣人の関係は、三角形で繋がっている。

●20(土)

あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。 (使17・23)

 アテネの町では、あらゆる場所に拝むものが溢れていた。その一つに「知られざる神に」と刻まれた祭壇を見たパウロが、告げた言葉がこれだ。

 彼は、何でも拝む人々を責めない。何にでもすがりたいという人間の深い渇きを知っているから。その上で「あなたはまだ知らないけれど、本当にすがるお方がおられる」と伝えるのだ。私たちの切なる思いに寄り添う伝道者の言葉を、ここに聞いた。

●21(日)

礼拝説教

主日早天  藤森誠 伝道師

主  日  藤森誠 伝道師

●22(月)

神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。 (使2・32)

 大祭司の庭で、イエス様を目の前にして「そんな人知らない」と関わりを否認したペトロ。その彼が、敵対者を前にして、ご復活のイエスこそ救い主だと言ったのだ。力強く「私がその証人になる」とさえ。信じた者の大転換だ。もう昔の彼の姿はない。信じることは変化を生む。聖霊の働きがそれを起こすのだ。ボクは果たして変われているだろうか。信じることと変えられることは一対なのに・・・。

●23(火)

一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。   (エフェ4・2)

 エフェソの教会の一人ひとりに向かって「一致を保って生きるんだよ」と勧告する。その中で言われていたことが今朝のみ言葉だ。

 「柔和」と「寛容」であることの正反対が「高ぶること」なんだ。自分の正義を隣人にぶつける時、そこに「高ぶり」がある。振り返ってみれば、ボクも高ぶっている時、マグマのように熱いものが心の底から吹き上がっていた。罪のマグマだ。

●24(水)

わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。(1テサ5・8)

 「昼」とは、キリストの福音の光の中ということ。逆に「夜」とは、自己中心という罪の闇の中ということになるかな。もうボクは、光の中に引っ張り出されたんだ。だから胸を張り、上を向いて力強く歩こう。キリストのものとして相応しく、堂々とだ!

 あっ、いけない、そこでまた自分を誇る思いが芽生える。だから「身を慎んで」って言われているのかも。み言葉は、何でもお見通しなんだな。

●25(木)

行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。 (2コリ12・10)

 行き詰る日がある。人生計画が狂う日、挫折する日、人間関係に苦しむ日、突然の病に襲われて、せんかた無しと思える日・・・。今朝み言葉は、それでもキリスト者は分かっていることがあると言うのだ。自分で手も足も出せない状況でも、そこは行き詰まりじゃないと。自分が一㌫も出来ないと思える日、主が百㌫のことをしてくださるからと。このみ言葉にすがりたい。今行き詰っているから。

●26(金)

逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て…  (マコ6・48)

 イエス様が、弟子たちだけを先に、ガリラヤ湖に漕ぎ出させた。でも夜になって大嵐に。漕ぎ悩む弟子たちを陸地で見ていて、立ち上がった方がいた。イエス様だ。弟子たちを、ずっと目で追っておられたのだろう。彼らが「イエス様は傍にいない」と不安になっている時も、見守られていた。

 私たちの旅路も同じ。ずっと見詰めていて下さる。困難の日に駆けつけるため、救い出すために。

●27(土)

わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。 (フィリ4・9)

 パウロが、フィリピにある教会の兄姉に向けて語った勧めの言葉だ。「聞いたこと」と言うのは、十字架の福音だ。それだけでなく、主にあって真実に生きることもだ。その歩みは、おのずから平和の神が共に歩んでおられる生活となるよと告げたのだ。

 信じる信仰と、信じたように生きる生活とは繋がっている。この間が切れると、平和を見失う。自分自身において、またこの世界においてもだ。

●28(日)

礼拝説教

主日早天  辻川篤 牧師

主  日  辻川篤 牧師

●29(月)

主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。 (ルカ1・25)

 「わたしの恥を取り去ってくださいました」って、誰の、何のことを言っているのか。洗礼者ヨハネの母エリザベトが、老いた後にやっと子供(ヨハネ)が宿ったと知ったと時の言葉だった。

 人生がとん挫する時、自分の中だけで悩むのじゃない。人の目によって外からも苦しめられる。でもその苦しみさえ神様がご存じで、最善のことをして下さるんだ。主の助けは、あらゆる現実の中に乗り込んで来る。

●30(火)

わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。 (ヨハ10・10)

 イエス様が「わたしは良い羊飼いである」とおっしゃった話の中に、このみ言葉はある。

 ボクは、羊で良かったと思う。羊って、力もないし、早くも走れないし、目立つ美しさもない。守られないと生きられないし、導かれないと飢えてしまう。何の取り得も無いけれど、それでも羊で良かったと思う。ただ一点、主が羊飼いでいてくださるゆえに。

●31(水)

あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。   (ガラ3・26)

 キリストに結ばれて(洗礼を受けてということ)私たちも「神の子」としてもらえるとは、どういうことか。

 イエス様だけが、真に神にして、神の御子。言うなれば実の長子。そこに私たちも養子縁組されて、神の家族になれるんだ。そんな養子の私たちも、実子・長兄であるイエス様と同じ「大切な真の子ども」って言われるんだ。人知を超えた、なんて大きな恵み。なんと貴い御父の御心だろう。

前の記事

2024年1月7日の礼拝

次の記事

2024年1月14日の礼拝