2023年10月の『日々の聖句』

【旧約聖書編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)

●1(日)

礼拝説教
主日早天 藤森誠 伝道師
主  日 藤森誠 伝道師

●2(月)

早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し・・・(出32・8)
モーセが留守の間に、人々は金の子牛を作って、「我々の神だ」と拝みだした。主なる神がそれをご覧になって怒り、モーセにただちに下山せよと命じられた場面だ。
人々はなぜこうも簡単に主を捨てるのだろう。出エジプトの時に自分を守って下さったとリアルに経験したのに。その根性は自分中心に曲がり切っている。あっこれは、ウイークデーのボクの姿なのかも。

●3(火)

人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。(創2・25)
アダムとエバは、エデンの園で不自由なく全てが満たされていた。「何の不自由もなく」ということは、今ある自分にとって他に何も求めるものを必要としないということ。それは「もっとこれがあったら良いのに」というものを何も感じないということ。今の自分のままで恥じ入ることが一つも無いということなんだ。
「欠け」に固執すれば「欲」に繋がる。それは「罪」に繋がっていくんだ。

●4(水)

隣人の家を欲してはならない。(出20・17)
これはモーセの「十戒」の中の十番目の掟。この後「一切欲してはならない」とダメ押しが続く。欲したら奪いたくなり、奪うなら隣人を傷つけるから。ここに既に、「隣人を愛しなさい」という黄金律が含まれている。
旧約の律法の最初(十戒)から、新約のイエス様の教え(黄金律)まで貫く線が見えた気がした。神を愛すること、隣人を愛すること、この2つだ。幸いへの道の秘訣がそこにある。

●5(木)

この旅の目的をかなえさせてくださったのは主なのですから。(創24・56)
アブラハムの僕が、イサクのための嫁探しに旅立った。そこでイサクの妻になるリベカに出会う。その時、彼がリベカの父に言った言葉がこれだ。
「人生を左右する出会い」というものがある。それを与えて下さるのは主。ボクはその時、主の賜り物の出会いだと、ちゃんと悟れるだろうか。「ラッキーな出会い」と間抜けなことを思っていないだろうか。信仰は、日常のそこかしこで問われている。

●6(金)

心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。(箴3・5~6)
「主に信頼」することは、「自分の分別」を捨てることなんだ。神様を心に留めて信頼して歩むことは、自分の判断をやめることなんだ。
御言葉を聞いても、神の言葉なのに頼らないボク。口では「主に信頼しよう」と言いつつ、やる事なす事で自分の考えに頼っている。ボクは、神に信頼することの本当の意味を分かっていなかった。自分を頼ることを捨てる事と表裏一体だということを。

●7(土)

イスラエルの人々よ、あなたたちは、ひとりひとり拾い集められる。(イザ27・12)
裁きのゆえの捕囚が終わって、回復の日が来る時の預言だ。それは、広大な土地に散らされた神の民を、主御自身が再び集めて下さるという知らせだ。砂漠の砂に紛れてしまったような一人ひとりを、大事な麦穂の一粒一粒のように拾い集めると言われるのだ。一人も見失わずに、だ。
その一粒にボクも入っている。広い日本で、1%にも満たない救われた者の群れに、拾い集められたんだな。

●8(日)

礼拝説教
主日早天 和寺悠佳 伝道師(和泉短期大学チャプレン)

(修養と親睦の集い)
主  日 和寺悠佳 伝道師

●9(月)

わたしは黙し、口を開きません。あなたが計らってくださるでしょう。(詩39・10)
詩人の面前には敵がいる。その時、敵を追い払って下さいと言いたいだろう。自分の正しさを主張したいだろう。しかし彼は、一切を口にしないと言うのだ。自分に正義があると思う、正にそこで罪を犯すと彼は知っているからだ。
ボクはその罪を知っている。ボクは口を開いてしまって、そこで犯した過ちを知っている。この詩人の言葉を、ボクの祈りの言葉にせねば。

●10(火)

今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。(詩95・7)
「今日こそ」という一言が染み込む。これってつまり、今までは一度もできなかったということ、しようという思いはあるけども実際はみ言葉の一つにも従えなかったということだから。詩人は、その上で改めて決意しているんだ、「今日こそは」と。その一言に、覚悟を決めた決意を感じる。
ボクもその決意に、ボクの一日を添わせよう。「今日こそ」と口に唱えよ。心に、主の御旗を翻せ。

●11(水)

エルサレムに住む者よ、もはや泣くことはない。主はあなたの呼ぶ声に答えて、必ず恵みを与えられる。主がそれを聞いて、直ちに答えてくださる。(イザ30・19)
バビロンに連行された同胞と、一緒に行けなかった人々。敵にさえ無用だと見捨てられた人々。瓦礫の山の都に捨てられ飢えに喘いでいた。その人々の嘆きを、主が聞かれたのだ。
あ、この神の心の動きは、エジプトの国で苦しんでいた民の嘆きを聞いて出エジプトの出来事を起こされた時と同じだ。その神は、ボクにも、同じお心の動きで接して下さる。嘆き声を聞いたら、直ちに答えて下さる。

●12(木)

あなたの神である主を捨てたことが、いかに悪く、苦いことであるかを、味わい知るが良いと、万軍の主なる神は言われる。(エレ2・19)
「主を捨てた」とは、新バビロン帝国が攻めて来る知らせに、エジプトやアッシリアと同盟を組もうとしたこと。大国の傘下で安心を得ようとしたことだ。決して礼拝していなかったわけじゃない。でも、主を求めず、人間の力を頼った。それが「主を捨てた」と言われていたことだった。
背信とはこの二股信仰。これは他人事じゃない。ボクの足元で、この棄神の落とし穴は、大口を開けている。

●13(金)

知恵を授けるのは主。主の口は知識と英知を与える。(箴2・6)
「主の口」から出た知識と英知を文字にしたのが、聖書のみ言葉の一つ一つ。単なる言葉じゃなくて、「これを授けるから受け取れ」と願われた主が、み言葉の背後におられるんだ。
ボクは聖書を、そういう貴い言葉として聞いてただろうか。み言葉の背後に、生ける主の御顔を見ているだろうか。居住まいを正して聞かねば、「しもべ、受け取ります。主よ、お授け下さい」と。

●14(土)

わたしは、わたしが主であることを知る心を彼らに与える。(エレ24・7)
捕囚後に、民が都に帰還するという希望の預言。主が、人々の悔い改めを喜んで下さるのだ。その人々に「もう私から離れるんじゃないよ。よそ見しないでね」との思いを込めて「わたしが主であることを知る心をあげるから」とおっしゃったのだ。
悔い改めてもなお罪の火種を持っていると御存じの神。繰り返す罪から守って下さるのも主なる神。それが、ボクの天の真の父なのだ。感謝。

●15(日)

礼拝説教
主日早天 藤森誠 伝道師
(プレ・ウェルカム礼拝)
主  日 藤森誠 伝道師

●16(月)

鳩は夕方になってノアのもとに帰って来た。見よ、鳩はくちばしにオリーブの葉をくわえていた。(創8・11)
大洪水の後、水は一向に引かない。ある日、箱舟から放った鳩が葉をくわえて来たのだ。大地が顔を出し、下船の日が来た印だった。
ノアはひたすら待っていた。彼が知らない所で、主の御業が進んでいることを信じて。ボクも鳩を放とう。「さあ時が来た」と、何かの印を与えられるから。さて、鳩を放つって何?それは祈ること。そこに知らせは、飛び込んで来るから。

●17(火)

あなたは、「自分の力と手の働きで、この富を築いた」などと考えてはならない。(申8・17)
生活費を得られること、仕事がうまく運んだこと、人から褒められたこと・・・そんなことがあった時、単純に「ボクも頑張ったな」と思って喜んでいる。どうしてそこで「神様はスゴイ」って思えないんだろう。口では「全ては主から与えられたもの」と言っているのに、本心の部分には、自分を誇る心の根っこが張っている。
ああ、本心の部分にこそ神を据えたい。素直に主を仰ぐ心に変えたい。

●18(水)

お前たちが進んで従うなら、大地の実りを食べることができる。(イザ1・19)
南ユダ王国に、主の審判の言葉が告げられた。それは、主に立ち帰って従うならば実りがある、かたくなに背くなら滅びだ、と。こんなにハッキリした分かれ道なのに、人々はかたくなさを悔い改めようとしなかった。亡国・バビロン捕囚直前の最後のチャンスをも、人々は逸したのだ。
なんて頑固なかたくなさなんだろう。それはボクにもこびりついている。鍋の底の焦げ付きのように。

●19(木)

主は恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに富み、くだした災いを悔いられるからだ。(ヨエ2・13)
捕囚を前にした時の預言者ヨエルの言葉だ。「恵み」「憐れみ」「慈しみ」という言葉が「くだした災いを悔いられる」という言葉に直結している。
「恵みと慈しみ」の意味が分かった気がした。自分が欲するアレコレのことを叶えてもらえることじゃない。神への背きの罪が「赦される」ことだ。御父との和解を戴けることだ。あ、正に罪の赦しの洗礼によって、ボクにも恵みは十分となったんだと、悟れた。

●20(金)

彼らは民の重荷をあなたと共に負うことができるようになり、あなたひとりで負うことはなくなる。(民11・17)
「共に負うことができるようになる」って、どういうこと?民数記を開いて分かった。モーセが民全体を一人で導くのでなく、主が民の中から長老を立てて、モーセと共に働く者たちとして下さるということだった。
すぐに教会の幹事のことを思った。幹事が立てられることは神の計画であること、その選出には御手が添えられていることを思った。幹事たちは、「神の配慮」の現実化なんだ。

●21(土)

主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません。(詩16・8)
「右」というのは、自分の存在がある場所。つまり、主なる神が「わたし」と一体となるほどに、私と共にあって下さるということだ。だからその時、私が苦しむ時は、主ご自分もそこにおられて、一緒に担って下さることができる。同時に喜びの日は、私が喜ぶごとく、ご自身も喜んで下さる。
そういう私になれたら、何て良いんだろう。そこには表面的な安心でなく、深い安心、心底の安心がある。

●22(日)

礼拝説教
主日早天 辻川篤 牧師
(ウェルカム礼拝)
主  日 辻川篤 牧師

●23(月)

万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。(イザ9・6)
何を成し遂げるのか?それは「ひとりの男の子がわたしたちに与えられた」(5節)ということ。捕囚からの解放であり、さらに教会はこれを救い主イエス様のご降誕の知らせとも重ねて聞いて来た。
救いは、父なる神の熱情が現れたものなんだ。熱情の神の熱いお心はいつでも、「あなたを救いたい」ということ。その熱意は、ボクにも激しく注がれているんだ。

●24(火)

わたしはあなたを、甘いぶどうを実らせる確かな種として植えたのに、どうして、わたしに背いて、悪い野ぶどうに変わり果てたのか。(エレ2・21)
主は、人々が豊かな人生を過ごせるように、土地も栄えも全てを備えて下さった。その神様に感謝して過ごせば良かっただけなのに・・・。その一つのことにさえ背いて、結局すべてを失ったのだ。神殿崩壊、亡国となる。
そのことに一番嘆いておられたのは、主御自身。痛いほどの悲しみが伝わる。いや、他人事で言うまい。その涙は、ボクのためにも流されているんだ。今日、立ち帰る日としなければ。

●25(水)

暴力の道を避けて、あなたの道をたどり、一歩一歩、揺らぐことなく進みます。(詩17・4-5)
「暴力の道を避けて」とは、どういう意味?暴力を受けないようにということか、逆に暴力を振るわないことか。きっと、その両方だろう。つまり傷つけ合って、自分の正義を主張し合う道だ。そうではない道を行きなさいと招かれているんだ。
それは、受け入れ合う生き方。また、尊び合う生き方。自分のように隣人を愛し合う世界だ。ああ、ボクもその世界の住人になりたい。

●26(木)

この民は、口でわたしに近づき、唇でわたしを敬うが、心はわたしから遠く離れている。(イザ29・13)
ああ、この民の姿は、私たちにソックリなのかも知れない。それは、主日の姿と、平日の姿だ。
よもや礼拝中に主を賛美する口が、礼拝後にはもう主の御言葉から遠く離れて隣人を愛せなくなっていることはあるまい。しかし、一日過ぎて日常生活が始まったら、同じ私という人間なのに、心は離れてしまう。

●27(金)

わが主は、この僕に何をお言いつけになるのですか(ヨシュ5・14)
モーセの後継者ヨシュアに率いられて、四〇年の荒野の旅を終え、民はヨルダン川を渡り終える。そこには、約束の土地が広がっていた。そのとき彼の前に、天の使いの将軍が立つ。瞬時に悟るヨシュア「自分はしもべ。主の命令一下、従って歩む者」と。
大きな業を成し得た時、人は成功を喜ぶだろう。でもそこですべきことは、「私は主のしもべ」と座り直すこと。真に我らを率いる主の御前に。

●28(土)

御顔を向けて、わたしを憐れんでください。わたしは貧しく、孤独です。(詩25・16)
詩人は苦難の中で「コッチを見て下さい」と叫んでいる、「私の悲しみを見て下さい、独りで嘆く日々に目を留めて下さい」と叫んでいる。それはきっと「あなたはご覧下さったなら、必ず手を差し伸べて下さるはずのお方だから」と信頼しているからだ。これは、信仰の叫びなんだ。
私も「コレやアレが辛い」と祈るのではなく、まず「私に顔を向けて」と祈ろう。そんな信仰者でありたい。

●29(日)

礼拝説教
主日早天 藤森誠 伝道師
主  日 藤森誠 伝道師

●30(月)

カインは主に言った。「わたしの罪は重すぎて負いきれません。」(創4・13)
最初の兄弟カインとアベル。でもカインは妬みのゆえに、弟アベルを殺した。最初の兄弟の物語は、最初の兄弟殺しとなったのだ。
彼の罪の重さは、単に彼だけのものに留まるまい。愛し合うはずの関係を壊すという自己中心の罪を始めた重荷は、ボクの背にも負わせられている。ボクも自分中心のゆえに、相手を傷つける者。カインの姿が、ボクの内にも潜む。

●31(火)

神の前に身をかがめ、わたしたちのため、幼い子らのため、また持ち物のために旅の無事を祈ることにした。(エズ8・21)
ペルシアの王キュロスによって人々は、バビロン捕囚を解かれ、都エルサレムへの帰還を許される。その旅の出発の時に、敵に襲われることを予想しつつ祈った言葉がコレだ。
それにしても「持ち物のために」と祈っている。当たり前のようだけど、何だか「こんなことまで祈って良いんだ」と新鮮な気持ちになった。きっと全てに及んで主の守りを信じた者の祈りだろう。単なる所有欲じゃない。

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