2023年8月の『日々の聖句』
【旧約聖書 編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。 与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。 (牧師・辻川篤)
●1(火)
あなたが呼べば主は答え、あなたが叫べば「わたしはここにいる」と言われる。(イザ58・9)
この「あなた」とは、悔い改めて主の道を歩み、隣人を愛する者のことだ。それは単に義人というのではない。主の言葉を捨てて罪を犯したのだけれど、立ち帰った人のことだ。
神様が愛される人って、どんな人か分かった気がした。頑張って正しく生きて来た人じゃない。むしろちゃんと悔い改めた人。然り、罪を犯さない人はいないから。神は、その人が立ち帰るのを誰よりも待っておられる。
●2(水)
(サタンは言った)「彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」(ヨブ1・11)
主なる神が「彼ほど無垢な正しい人はいない」と喜ばれた男・ヨブ。しかしサタンは言った「ご利益があるから神を拝んでいるだけだ。もし全てを失ったら、神に向かって呪うはずだ、それが人間というものだ」と。
もしもボクが、この試みを受けたらどうなるだろう、考えてみようと思うだけで、恐ろしくなる。ああ主よ「試みに遭わせず、悪より救いだし給え、アーメン」。
●3(木)
ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。(イザ2・5)
イザヤ立つ現実は、すぐにやって来る民の背信への裁き。亡国とバビロン捕囚。しかし彼は、更にその先にある終末の日の幻を見ている。今朝のみ言葉はその幻の預言なのだ。背きがある、悔い改めがある、そしてその向こうに立ち帰りと神賛美が続く。その光の中へと導き入れる御言葉だ。
ボクの歩みも、罪の闇がある。悔い改めがある。しかし更にその向こうへと向かうのだ。終着駅の光へと!
●4(金)
彼らに軍隊の先頭を進ませ、こう言わせた。「主に感謝せよ、その慈しみはとこしえに。」(代下20・21)
これって、どういう状況?と思って聖書を開いたら、南ユダの王ヨシャファトが、周辺諸国からの大軍を迎え撃った際、主が戦って与えられた勝利を手にして、神を賛美したのだ。
ボクもピンチの時、主に頼る。でもその苦境を乗り越えた時、感謝の応答をしているだろうか。感謝の祈りさえも忘れている時がある。こんな、頼む時だけにすがる子供の信仰は情けない。変えなきゃ、変わらなきゃ。
●5(土)
安心して行かれるがよい。主は、あなたたちのたどる旅路を見守っておられる。(士18・6)
この一言があれば、ボクも未踏の地でさえ出掛けて行ける。未経験の取り組みだって進んで行ける。
この一言は、どこで聞けるのか。今までもずっとそうだったし、これからもきっとそうだろう、それは、ボクには祈りの中。深い祈りの中で御霊の導きがあったし、またこれからも。
でも「行かれるがよい」と言われる先は、「ちょっとそこはキツイんですけど」と思う場所もあるんだよなぁ。
●6(日)
礼拝説教
主日早天藤森誠伝道師
主日藤森誠伝道師
●7(月)
武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって、と万軍の主は言われる。(ゼカ4・6)
敵(取り組むべき課題)を前にした時、ボクはすぐに対策を練って、武器が無いかと考える。その武器とは、資金だったり、人脈や、経験者のアドバイス・・・。でも、預言者ゼカリヤは大国ペルシャを前にして、民に主の言葉を伝えたのだ、「ただ主の霊によって進め」と。
ああ、祈りが足りず、祈り方さえ知らないボクだった。まず「聖霊に満たして下さい」と求めねば。
●8(火)
イスラエルの人々は、主に問うた。(士20・27)
兄弟部族であるベニヤミンの人々と戦わなければならなくなったイスラエルの人々。ベニヤミン族が蛮行を働いたからだ。しかし敗戦に次ぐ敗戦。しかも複雑な同族の戦いという状況。その時人々は、なお進むか否かを自分で判断せずに主に問うだ。
ボクならどうするだろう。正当な理由を見つけて「もうやめた」と諦めるかも。「主に問う」って、自分の遣り方を捨てること。厳しい生き方かも。
●9(水)
あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。(創17・5)
神様からの呼び出しに従って、家族を連れて旅立った男。彼は後に、大きな国民の父となる。その歩みの始まりに、神が新しい名前を与えられた。あなたは「アブラハム(多数の父)だ」と。神の命名、それは人間から生まれた者が、神によって新しく生まれさせられた者となること。
あ、ボクにもその瞬間があった。洗礼を受けた日、神の子となった日だ。だから第二の誕生日って言うんだ。
●10(木)
主は、はるかに高い天に住まわれ、シオンに正義と恵みの業を満たされる。(イザ33・5)
神に背いたゆえに償いの日々がやって来る。その出来事を預言しつつイザヤは、人々に向けられた神の御心をも告げた。それがこの御言葉だ。
神様が、「お前たちに苦しい捕囚の日々が来るけれど、それでも私はお前たちを見捨てたわけじゃないから」と呼びかけられているように聞こえた。罪人に、この恵みの言葉は届けられているのだ。それが変わらない神様のお姿、御心なんだ。感謝しかない。
●11(金・祝日)
あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。「これが行くべき道だ、ここを歩け、右に行け、左に行け」と。(イザ30・21)
捕囚の民に、イザヤが救いの日のことを預言した。それがこの言葉だ。
まるで、喜び勇んで前を走る子供に、後ろを一緒に歩く父が「そこは右だよ。危ないから気を付けてね、さあ今度は左だよ」と導く声のようだ。
まるで、不安でなかなか進もうとしない子供に、後ろから母が「さあお行きなさい、大丈夫だから」と励ます声のようだ。そんな風に、主はボクの後ろも支えて下さるんだな。感謝。
●12(土)
この所に向かって僕がささげる祈りを聞き届けてください。(王上8・29)
神殿建築という大きな業を成し遂げたソロモン王。それは父ダビデの悲願でもあった。その時ソロモンは、まず主に祈った。しもべの祈りを聞き届けて下さいと。それを全てのことの出発点に据えたのだ。
ボクも明日、礼拝に出て祈ろう「私はあなたのしもべです。どうぞ祈りを聞いて下さい」と。そこを全ての出発点としよう。土曜日は、本当はそんな主日のための備えの日なんだ。
●13(日)
礼拝説教
主日早天藤森誠伝道師
主日藤森誠伝道師
●14(月)
わたしは自ら手を下しあらゆる驚くべき業をエジプトの中で行い、これを打つ。(出3・20)
エジプトで奴隷だったイスラエルの民。その呻きを聞かれた主が民を脱出させて下さる。でもファラオが拒むことも知っておられる主が、これをモーセに告げられた。
神が救うというのは、ボクの現実にまで降って来て、御手をふるわれるということ。主は、苦難のただ中にまで降って来て救う神様なんだ。そうだ、だから恵みはボクの現実の中に起こるということだ。
●15(火)
あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない。(申31・6)
モーセが年老いた日、後継者ヨシュアに「強く、雄々しくあれ」と語り掛ける。そう言える根拠が、今朝の御言葉なのだ。人生の風雪に耐えてゆけるのは、自分の力強さによるのじゃない。経験値の高さでも、意志の強さでもない。ただ一つのことによる。それが、この御言葉だ。
だから苦難の日に備えて、この御言葉をボクの心の奥に、深く深く刻みつけよう。雄々しく歩めるために。
●16(水)
「わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出す。」(出3・8)
父なる神は、ご自分の民の嘆き声を聞かれた時、人々の只中へ、ご自身が降って行くと言われた。
子なる神も、全ての人が罪の中にある嘆きの姿を見られて、地上へと降誕された。
ああ、神の想いはいつも同じだ。私達を、苦しみの中に放っておかれない。ご自身が動き出され、天の玉座から立ち上がって降って来られる。それがボクの神様。畏れと感謝しかない。
●17(木)
ダビデはナタンに言った。「わたしは主に罪を犯した。」(サム下12・13)
部下の妻バド・シェバを略奪したダビデ王。それを預言者ナタンに指摘された時、ダビデが悔いて言った言葉がこれだ。彼は何よりも先ず「神に対する罪だった」と告白した。隣人への罪は、対人関係に止まらない。天地を統べ治める神への背きなのだ。
友人、家族を傷つけた日、「ごめんなさい」と謝るだけでなく、神様に対して「ごめんなさ」と祈ろう。人からも、神からも赦しが必要なのだから。
●18(金)
あなたが主を捨てたので、このことがあなたの身に及んだのではないか。(エレ2・17)
「あなたが主を捨てた」って、そんなことあるのだろうかと思って聖書を開いたら。イスラエルの民がバビロンに攻められた時、大国エジプトの威を借ろうとした姿だった。
神を頼らないことが、主を捨てたこと。人間の力に頼ることが、主を捨てたこと。ああ、それならボクも主を捨てている時がある。それは、日常生活の中で。そこでこそ主に頼らねばならないのに。民の罪は、ボクの罪。
●19(土)
(主は)弱い者を塵の中から立ち上がらせ、貧しい者を芥の中から高く上げられる。(サム上2・8)
これは誰が言った言葉かを知って、さらに心打たれた。子供が与えられずに嘆いていたハンナに、主がサムエルを恵まれた時、神を賛美して祈った「ハンナの祈り」だったから。
自分は塵芥の中に座っていたと分かっていた女。そこから立ち上がらせて下さったのは神様だと実感した女。これは抽象的な神論なんかじゃない。活きた言葉だ。ボクもこんな活きた賛美に生きる者でありたい。
●20(日)
礼拝説教
主日早天辻川篤牧師
主日辻川篤牧師
●21(月)
神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ」(創1・28)
神様が人間(アダム)を創られた時、歓喜して言われた「たくさん増えるんだよ。お前たちが大好きだから、そのままの姿で大地を覆うように満ちよ」と。
でもボクは知っている。その天の父の御心を踏みにじるのが、その当人だったのだと。そして、その背きの関係は、今のボクにまで続いている。ああ、最初に御父が喜ばれた人の姿に、ボクは帰りたい・・・。
●22(火)
イスラエルの聖なる方は、あなたたちのただ中にいます大いなる方。(イザ12・6)
裁きとしてのバビロン捕囚を預言するイザヤ。その彼は、辛い日々だけを語ったのでなく、その更に先にある都への帰還の日も預言したのだ。それは、裁きも恵みの回復も、どれもが聖なる主の御心中に起こることだと知らせるため。人々は神に見放されることは決してないと伝えるため。
涙の日も喜びの日もある。そのどれもが主が共に居て下さる日々。今日という一日もだ。さあ出掛けよう。
●23(水)
この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみなさい。(ヨシュ1・8)
主が、モーセの後継者にヨシュアを立てられた。そのとき励ましの言葉だけでなく、「このように歩め」という羅針盤の言葉も与えて下さった。
人生を進む時、励まされる言葉が必要だ。でもそれだけじゃ本当は進んで行けないのだと、改めて気付く。人生は荒波の航海だから、確固たる羅針盤も必要なんだ。ボクにとっては、それがみ言葉なのですね。ならば生活の中で、昼も夜も口ずさもう。
●24(木)
「お前たちが身に着けている外国の神々を取り去り、身を清めて衣服を着替えなさい。(創35・2)
ヤコブが、主の約束された土地ベテルに上る前、家族たちに語った言葉。それも開口一番に言ったのが、身に染みついた偶像を取り去れ、心から着替えよということだった。
これはボクにも直接響くみ言葉。身体にも心にも染みついた「主なる神以外の神々」を指摘されている。「でも主以外の神って持って無いよ」と言い訳してドキリ。一番こびりついていた「自分」という偶像があったから。
●25(金)
神に従う者の行く道は平らです。あなたは神に従う者の道をまっすぐにされる。(イザ26・7)
神のみ言葉を守ろうとする者の人生は、「素敵になるんだな」と思った。それは、神ご自身がその道を平らにして下さるから。まっすぐにしていただけて、先の先まで見通しが利くようにしていただけるから。
それって苦難が一つも無くなるということだろうか・・・。きっと違う。苦難があっても、迷子にならない歩みということ。倒れ伏さないということ。そんな現実に生きられることだ。
●26(土)
相手に損害を与えてはならない。あなたの神を畏れなさい。(レビ25・17)
神が定めた掟だ。単なる道徳律などでない。それも聖書を開いて驚いた。これは土地の売買という具体的な事柄についての掟だったから。神様って、こんな細かな生活の中を見ておられる。いや正に、生活の中でこそ人は自分が神となって隣人を傷つけることを起こしてしまうからだ。
「神を畏れよ」とは、礼拝をする時の掟じゃなかったんだ。今日という平日に据えられる信仰だったんだ。
●27(日)
礼拝説教
主日早天辻川篤牧師
主日辻川篤牧師
●28(月)
わたしにふさわしいときに、御手をもって、追い迫る者、敵の手から助け出してください。(詩31・16)
敵が眼前にいる。その責めに喘いでいる。それなのに詩人は、「今すぐ助けて」とは言わず「ふさわしいときに」と言ったのだ。苦しみの只中なのに、どうして「今」と言わなかったのか。
もしかしたら、神様の御心とされる最善の時は、どんな場面においても当てはまるからかも。たとえ患難の時でも。ボクは詩人のように祈れるだろうか。少しでも、この神信頼に近付きたい。
●29(火)
人の血を流す者は、人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。(創9・6)
ノアの大洪水の後に、主は「産めよ増えよ」と祝福の言葉をノアと家族に告げた。そこに絡む一言がこれだ。大洪水を起こして全ての人間を一からやり直す計画さえなさった出発点が、ここにあるのだ。人が人を傷つけ、血を流す世界を厭われたから。
ああ、その主は、今のボクの世界をご覧になってどんなに嘆いておられることだろうか。血を流し合うことが続くこの世界を。私達の世界を。
●30(水)
雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。(創9・16)
昨日に続いてノアの大洪水の時のこと。洪水が終わって、再び主が大地を祝福して言われたのがこの御言葉だ。もう人の罪を、人自身に背負わせる方法はとらない、と決意された。
あ、だからこの先、人の罪なのに神ご自身が背負うという方法を取られたんだ。御子の十字架の死は、人間に代わられた死なんだ。ボクも虹を見る時、その御父の心を思い起こそう。人は愛されていると分かるから。
●31(木)
(主の言葉がエリアに臨んだ)「わたしは烏に命じて、そこであなたを養わせる。」(王上17・4)
主が預言者エリヤに「東へ行け」と命じられる。そこは食べ物を得る術の無い村はずれ。でも「烏に食べ物を運ばせるから」と言われたのだ。
エー、カラスが給仕するなんて、現実離れした絵本の世界みたいと思う。しかしエリヤは従うのだ。主の言葉だったから、ただその故に。
「そんな御言葉、現実離れしてる」と思う時、ボクも彼のように従ってみよう。そこに奇跡が起こるのだから。