2023年9月の『日々の聖句』

●1(金)

主は恵み深く、苦しみの日には砦となり、主に身を寄せる者を御心に留められる。(ナホ1・7)
北王国はアッシリアに攻められて滅亡する。それは自らの背信の報い。でもなお主は、民を御心に留められる。人々の背信のゆえに滅びる日が来るのに、それでもなおこの御言葉。
愛する子の過ちを叱りつつ、しかしなお抱き締めようとする天の父の姿が、目に浮かんだ。放蕩息子の帰りを待ち続ける父親の姿が、目に浮かんだ。罪の子をなお愛する天の父。その御心は、ボクにも向けられている。

●2(土)

あなたの神、主は焼き尽くす火であり、熱情の神だからである。(申4・24)
主は、冷たくもぬるくもない。焼き尽くす火のように真剣に接して下さる。これは、偶像崇拝禁止を締めくくる言葉の中に記されていた。
熱く愛して下さる、それゆえに他の神々によそ見することを厳しく禁じられる主。まるで「浮気は絶対にだめだから」と迫るパートナーのような気がした。主は、真心をもって迫って下さる「お方」なんだ。そんなあなたの他に、どこに行きましょう!

●3(日)

礼拝説教
主日早天 藤森誠 伝道師
主  日 藤森誠 伝道師

●4(月)

「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行ってわたしが命じることをすべて語れ。」(エレ1・7)
エレミヤに、預言者となるべく主の召命が下る。しかし彼は「無理です。まだ若いし、誰も私の言うことを聞いてくれないはずだし、経験もない」と固辞した。その彼に主が言われたのが、今朝の言葉だ。
私達も奉仕を前に「無理」と連呼する。絶対無理だと断る。しかし主は「そう言ってはならない」と言われるのだ。まるで半分怒っているように、しかし励ますように。

●5(火)

悪い行いをわたしの目の前から取り除け。(イザ1・16)
「わたし」とは主なる神のこと。「取り除け」と言われるは、神の面前で悪行が厳然として在るから。これは神の怒りの言葉だろうか。嘆きの言葉か。それとも教え諭しの言葉だろうか。ううん、どれだろう・・・。
ああ、何をのんきなことを考えているんだろう。これはボクへの言葉。その一点で十分だ。そう受け止める時こそ、この言葉は悔い改めというリアルな出来事を起こすのだから。
●6(水)

●6(水)

神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。 (コヘ3・11)
当たり前のことと思いつつ聖書を開いたら「何事にも時があり・・・生まれる時、死ぬ時・・・」という一連の言葉の末尾にある御言葉だった。
人は「すぐ叶えて下さい。今癒して下さい」と時を支配しようとして神をせかせる。それってやっぱり見当違いのことなんだ。だから「主の栄光が顕されますように、御旨のままに」と祈ろう。そこに今日付け加えよう「それをこそ喜ぶ私にして下さい」と。
●7(木)

●7(木)

(あなたたちは)仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。  (ヨシュ24・15)
ヨシュアは全会衆に、出エジプトと約束の地への到着の出来事を語り聞かせた。それは、神の恵みがどれほど大きかったかを聞かせる語りだった。その上で、今朝の言葉を告げたのだ。
ボクにも、人生を振り返ったなら、そこここに神の御手の業を数えられる。主の恵みによって今日があるって分かる。ならば、今日の選択も、この一つだ、「主にのみお従いします。他のどこに行けましょうか」だ。
●8(金)

●8(金)

わたしに従う心を彼らに与え、わたしから離れることのないようにする。(エレ32・40)
主は、御自身が与える幸いから人々が離れた事を憂いておられた。罪のゆえの苦しみに喘ぐのを悲しんでおられた。それを二度と味わわないための唯一の方法は、主の許を離れないこと。それを知っていて下さる神が、背信のゆえに亡国となった人々に呼びかけた。わたしに従う心をあなたに植え付けてあげよう、と。
その心を、ボクにも朝毎に下さい。幸いから離れてしまわないために。
●9(土)

●9(土)

君主らよ、耳を傾けよ。わたしは主に向かって歌う。(士5・3)
まだ王がいない時代、人々を導いた女士師デボラが、カナンの王を倒した時に謳った歌だ。
大勝利だったはずなのに、彼女は自分を誇らない。それは自分を見ないこと。ただ主を見上げている。
ボクとは全然違う。ボクも「主を見上げる」と言つつ、でもいつも自分を見てしまう。主を見ることの反対が、自分を見ることなのに。その泥沼にいつも足を取られて倒れてるのに。

●10(日)

礼拝説教
主日早天 辻川篤 牧師
主  日 辻川篤 牧師

●11(月)

わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。(エゼ34・16)
背信の民イスラエル。自己中心で、神を裏切って生きた。だから都は瓦解、人々は散逸させられたのだ・・・しかし。なおその人々を見捨てない方が一人いた。それが今日の「わたし」。主御自身だったのだ。
主の愛は、どこまでも熱い。裏切りの民を、なお追い求め愛し続ける熱情の神。ああ、ボクもその愛の中に入れられている。主の御思いに。ただ感謝が溢れて来る。
●12(火)

●12(火)

信じなければ、あなたがたは確かにされない。(イザ7・9)
敵が攻めて来る。王も民も震え上がった時、イザヤが主の言葉を伝えた「恐れるな、敵は消滅する」と。そこに、今朝の御言葉が加えられた。
信じられなかったらどうなるんだろう・・・。現実を前にして御言葉に委ねられない自分を知っているから、心配になる。信じないということは、単に信仰心の問題じゃなく、命に関わることなのに。ああ主よ。小さな信仰で良いですから、信じさせて下さい。
●13(水)

●13(水)

いつまで、あなたはその胸に、よこしまな思いを宿しているのか。(エレ4・14)
背信のイスラエルに、主への立ち帰りを叫んで止めない預言者エレミヤ。それは、そこにだけ救いがあるから。それ以外は、滅びのみだから。
でも、私は知っている。人々は結局預言者の言葉(主の言葉なのに)を聞かずに、滅びへの道を歩んだんだ。
ボクも、ずっと主の御言葉を聞いているのに(聖書の御言葉を読んでいるのに)、自分の歩みの方向を変えない。ボクも背信の民の徒・・・。

●14(木)

主は彼と共におられ、その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった。 (サム上3・19)
少年サムエルが成長してゆく。その最初に、主が彼に約束して下さった祝福は、一つたりとも成就しなかったものは無かったと言われているのだ。それは、キリスト者一人一人に対しても同じこと。主の約束は、反故にされるものは一つも無いのだ。
「ならば」と思った。ボクにも何がどんな風に約束されているかを知ることで、未来が分かる。御言葉を聞けば、そこに将来の姿があるんだ。

●15(金)

蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」  (創3・4-5)
エデンの園で、誘惑者がエバに忍び寄る。「遣りたいことをやって良いんだよ。自分の思いを実現したら良いよ」と。堕罪への口が、そこに開く。
誘惑というのは、いつもこうだ。神との約束を忘れさせる。ボクの味方のように、日常の中でソロリと近づく。その時、ボクの傍で堕罪への口が開くのかも。否、むしろ蛇はボクの中にいる。対抗する術は只一つ、主の言葉をいつも心に響かせることだ。

●16(土)

わたしに顔を向けず、かえって背を向け、しかも、災難に遭えば「立ち上がって、わたしたちをお救いください」と言う。(エレ2・27)
主がイスラエルの民の姿を指摘する。それは、神に顔を向けず背いているのに、災難が降りかかった時だけ「助けて」って言うご利益信仰だと。
この民の姿は、正に私の姿と重なる。それは同時に、主の嘆きと叱責の言葉の向く矛先は、私自身なんだということ。
ボクが神様に叱られている・・・、そう気付いた日が、主に立ち帰れる日。そしてそこが、救いへと続く始発駅。

●17(日)

礼拝説教
(敬老の日を憶えての礼拝)
主日早天 藤森誠 伝道師
主  日 藤森誠 伝道師

●18(月)

イスラエルを見守る方は、まどろむことなく、眠ることもない。(詩121・4)
主なる神が見守って下さる。その目を離さない様子は、ウトウトとする瞬間もないほどだと言われている。そのお方が、私たちを助けて下さる方なんだ。
そんな風にしていただけるのは、信仰深くて従順な者だからなのか? 否、ここには何の条件も付けられていない。ならば悪人でもなのか? 罪人にもなのか? 然り、ボクにもなんだ。正に、無条件の恵。

●19(火)

あなたたちは、いつまでためらっているのだ。(ヨシュ18・3)
モーセに率いられて荒野の四十年の旅を終えた民。今、約束の地を前にしてヨシュアが民に告げた「いつまでためらっているのだ」と。主が、行けと言われているのにためらう。神の約束を聞いたのに、目の前の現実や、自分の自信の在る無しを見てためらう。ためらうという罪があるのだ!
ボクも気を付けねば。ためらいの罪にしょっちゅう陥るから。自分の力と、神の言葉を天秤にかけるから。

●20(水)

(バラムは主の御使いに言った)「もしも、意に反するのでしたら、わたしは引き返します。」(民22・34)
異邦人のバラム。彼に、モアブの王がイスラエルの民を滅ぼそうと、同盟話を持ち掛けた。その時、モアブの王と会うために出掛けたバラムに御使いが現れて行く手を阻んだのだ。彼が御使いに答えたのが、今日の言葉。
その言葉はまるで、信仰告白のように聞こえた。キリスト者のボクよりも信仰深い異邦人バラム。キリスト者で「ある」ことよりも、日々新しくキリスト者と「なる」私でいたい。

●21(木)

自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。(レビ19・18)
これはイエス様が言われた「最も重要な掟」の中の言葉に似ている。神を愛しなさいという御言葉と一対の愛。でも聖書を開いて、アレっと思った。「復讐するな。恨みを抱くな」との御言葉に続いて言われていたから。
今日、隣人への愛の意味が、一歩深まったかも。倍返しとか恨みとか、そういう心は、神が「最も重要」と言われた御心に反している。その心を一切捨てることから、始めなきゃ。

●22(金)

すべて御もとに身を寄せる人に主は盾となってくださる。(詩18・31)
あ、私の祈りは、どこが変なのかが分かったかも。
私は神様に「助けて下さい。こうして下さい、ああして下さい」と願い祈って、それが成就することを待っていた。でもそれって、抜けていることが一つあった。それはまずボクが、主の御もとに身を寄せることだ。つまり主の御言葉に身を寄せて信従することが出発点。そのとき主は、そんなボクの盾となっていて下さるのだから。

●23(土)

あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、…彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。(創22・2)
神に祈り願い続けて、やっと叶えられた愛息子イサクの誕生。それなのに主は、その子の命を献げ物としなさいと言われたのだ。父アブラハムは戸惑っただろう。きっと主に「なぜ」と問い続けただろう。ああ、この「なぜ」はボクの人生にも何度もあった。
アブラハムはしかし、主に従って歩いた。迷いつつも従う道の先に、神の御業があったのだ。ボクの来し方も同じだったなぁ。そしてこれから先も。

●24(日)

礼拝説教
主日早天 辻川篤 牧師
主  日 辻川篤 牧師

●25(月)

わたしの神よ、わたしはあなたが人の心を調べ、正しいものを喜ばれることを知っています。(代上29・17)
ダビデ王が神殿建築のための献金を募った。大量の寄贈品も集まった時、この祈りをささげたのだ。
なぜだろう・・・、献金する時に、神に心を調べられて、正しくない心がそこにあるというのだろうか・・・。しぶしぶの献金のこと? 自分の生活を第一にして残った余り物の献金のこと? 人と比べて自分の献金を決める姿? 献金の姿に、心が露わになるのですね。

●26(火)

このような時にも、見よ、天にはわたしのために証人があり、高い天には、わたしを弁護してくださる方がある。(ヨブ16・19)
試練に遭って、ヨブは子供も全ての財産も失った。友人たちは、こぞって因果応報だとヨブを苦しめるだけ。そのとき彼が語った言葉がこれだ。この強い神信頼は、どこから来るのだろうか。
きっと、彼は何も持っていないから。神を頼ることの一つ以外は何も。彼は、強い人というのじゃない、ただ弱さを委ねることを知っていたんだ。それが、無垢な信仰なのかも。

●27(水)

心を探り、そのはらわたを究めるのは、主なるわたしである。(エレ17・10)
自分が何を思い、何を考えているのか、自分のことだから自分自身が一番分かっていると思っていた。でもその腹の底、気付きたくないことは見ていなかったのかも。見たくない自分の姿は、目をつぶっていたのかも。
主は言われる「あなたの心の底を、私は見た」と。主はご覧になって、どう思われるのだろう。主の思いを気にし始めるところに、神と我との具体的関係が深まるのかも。きっと!

●28(木)

「もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか」   (創4・7)
弟アベルを、嫉妬のゆえに殺した兄カイン。それでも怒りが収まらないカインに、主が問いかけられたのだ「お前は正しいか」と。
その言葉は、今朝カインにだけではなく、私自身にも向けられて聞こえる。怒って、そのまま激しい言葉を隣人に、家族にぶつけてしまったボクへの言葉なんだ。このあと主は言われた「罪は戸口で待ち伏せている」と。ボクはその戸を開いたんだ。

●29(金)

荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ、わたしの選んだ民に水を飲ませるからだ。(イザ43・20)
捕囚の民に、赦しと回復の預言が、イザヤを通して告知される。それは喜びの知らせ。何が一番の喜びかというなら、人々の悔い改めが、主に受け入れられたこと。赦されたことだ!恵というのは、このことなのだ。アレコレの賜り物じゃない。赦されるということなのだ。
それってきっと、人と人との間でも同じことなのかも。一番嬉しいことは、赦されるということ。

●30(土)

あなたの業を主にゆだねれば、計らうことは固く立つ。(箴16・3)
これって、私の願う計画があって、それを手にする方法(業)を主にゆだねなさいってことかな?「主よ、どうやったら私の願いは成就しますか?おっしゃる通りにいたしますから」と祈ることかな。否、違うぞ!
これは「主が計らうこと、あなたの御旨は何ですか?私は何を計画すれば良いですか?御旨の成るために何でもしますから」と祈ることだ。大勘違いするところだった。危ない!

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