2023年12月の『日々の聖句』

【旧約聖書 編】

その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。
与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。
(牧師・辻川篤)

●1(金)

蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」(創3・1)
神はエバに「園の中央の木だけは食べるな」と言われて、確かに「どの木からも食べてはいけない」とは言われなかった。サタンは、そこを巧妙に突く。神に背くほうに繋がる道を、小さくソッと開ける。「自分はやましいことはしていない」と思わせる小口だ。
サタンの誘惑って恐いなと思った。「自分は大丈夫」と思う足元を狙って来る。ボクは常に、「自分は弱い」と思う者、ただ主に頼る者でありたい。

●2(土)

かつて、お前は心に思った。「わたしは天に上り、王座を神の星よりも高く据え、神々の集う北の果ての山に座し、雲の頂に登って、いと高き者のようになろう」と。(イザ14・13~14)
「なんて傲慢なことを考える人なんだ」と思って聖書を開いたら・・・エルサレムを破壊したバビロンの王だった。そして「こんなに傲慢な国は後に亡びて当然」と思ってすぐ「いや、ちょっと待てよ」と考えた。「イスラエルも滅びた。だったらバビロンとイスラエルと何の違いがあるのか」と。長考の末、ふと「一つだけ違うかも」と。それは、栄えにも滅びにさえも、主が共に居て下さるか否かだ。大きな違いだ。

●3(日)

礼拝説教
(アドヴェント第1主日)
主日早天  藤森誠 伝道師
主  日  藤森誠 伝道師

●4(月)

わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう。(エレ29・13-14)
バビロンに連れて行かれた人々に、エレミヤが手紙を都エルサレムから送った。これはその中の一言。
神の姿が見えず、助けも得られないのは、彼らが神を求めないからだと言う。それも「心を尽くして」という一言にドキッとした。ご利益的に、求めたい事だけを求めたい時にだけ求める。それはボク自身。「心を尽くして」ってどういうことか、真剣に思い巡らさねば。

●5(火)

うそをついてはならない。互いに欺いてはならない。(レビ19・11)
モーセが主から掟を賜り、それを人々に伝えたのが膨大な律法の書となった。その中で、「聖なるものとなれ」という括りにある一節がコレだ。
「うそ」は、隣人を愛していない者の姿。それは、神の厭う者の姿なんだ。この世で「うそも方便」なんていうのは、真っ赤なうそだ。神に厭われてしまうんだから、震え上がって、うそをつくことから離れなければなれない。償いを神に求められる前に。

●6(水)

あの方とわたしの間を調停してくれる者、仲裁する者がいるなら・・・(ヨブ9・33)
家族も全財産も、一瞬にして失い、自分自身も体中の皮膚病で苦しんでいたヨブ。友人たちは「自業自得だ、因果応報だ」と責め立てた。その時ヨブが、天を仰いで訴えた言葉がこれだ。「あの方」というのは、在天の神。仲裁する者がいてくれたら、神の怒りは解けるのに・・・と嘆いた。
すぐに「ボクにはその仲介者がいる」と思った。「その方の名も知っている」と。そして、「安心、感謝だな」と。

●7(木)

見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。(イザ60・2)
暗黒が迫って来る。それは、来るべき現実。逃れがたい事実。でもそこにさらに主が告げる未来の事実がある。「あなたの主が輝き出でる」と。
変えがたい未来の現実というのはボクにもある。困難、病気、老い、別れだ。でもそこで、「その未来を変えて下さい」とは祈るまい。最大の慰めは、そこには無いのだから。祈ろう「困難と共に居て下さい。主よ、私の未来にも輝き出でて下さい」と。

●8(金)

蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」(創3・1)
1日と同じ聖句? 選ぶ時の手違いか、いや何か意味があるのかも。
「どの木からも食べてはいけないのか」と言われたら、誰でも「そんなことない」と即答する。でも次に出てくるのは「じゃあ食べてもいいんじゃない」という思い。サタンはそうやって神との約束に背くベルトコンベアーに乗せる。一度乗ったらアウト。堕罪へと運ばれてしまう。その巧妙さは恐ろしいから、繰り返し言われるのかも。

●9(土)

心を尽くし、魂を尽くして求めるならば、あなたは神に出会うであろう。(申4・29)
神に出会える約束を、主の方から結ばれた「求めるなら会えるよ」と。
神様がどこにおられるのか、苦難の中で分からなくなる時がある。「神の沈黙」の日々に、「主よ、どうして応えて下さらないのですか」と祈っている。今朝、出会えない原因は、神様の方にあるのじゃないのかもと気付いた。「心を尽くし、魂を尽くし」ていないボクの側の問題だと。でも、心と魂を尽くすって、どうしたら良いの?

●10(日)

礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主  日  辻川篤 牧師

●11(月)

わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。(エレ31・33)
捕囚の民に、都への帰還の預言。嬉しい知らせだけど、そのとき最も必要な言葉が添えられた。それは「今度こそ神のみ言葉に添って生きるんだぞ」ということだった。
それも、それは人間の決心で出来るようなことじゃないって知っておられる。だから、神ご自身が人々の心に刻み込むように与えて下さるんだ。「至れり尽くせり」って、神様にこそ相応しい言葉だな。

●12(火)

主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。(哀3・22-23)
主の慈しみを受けて日を過ごし「今日はこんな恵みと憐れみの中で過ごせた」と感謝する。でも次の瞬間「明日、コレもアレも大変なことがある、どうしよう」と不安を抱える。その時「朝ごとに新になる」とみ言葉が聞こえる。今日とは違う明日のために、必要な慈しみが届くんだ。ああ、ボクの人生の一日一日を、主こそ共に、丁寧に歩いていて下さる。「あなたの必要は、分かっているからね」と。

●13(水)

主はこうして、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた。(出14・30)
出エジプト後、ファラオの軍隊が追って来た。目の前は葦の海。その絶体絶命を、主が救って下さった。その記憶を書き留めたのが、この一言だ。
ボクにも、主から助けを戴いた日がある。でもそれをちゃんと書き留めたか。大事な記憶として心に刻み付けるため、読み返しているか。家族に語り継ぐことをしているだろうか。それもしないで、ボクって日記に何を書いているんだろう・・・。

●14(木)

いかに幸いなことか・・・主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。(詩1・1-2)
百五十編もある詩編の扉が、このみ言葉で開かれる「いかに幸いなことか」と。これは全ての人に告げられた、幸いな人生に誘う一言。そこに続けて、道標となるみ言葉を聞かせるのだ「主の教えを生きよ」と。
どの先生からも同じ説教を聞いて来た「あっちゃん、み言葉に従って生きるんだよ」と。それは、ボクを幸いへ誘う教えだったんだ。時を超えて語られて来た真実な招きだったんだ。

●15(金)

神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。(創1・3)
天地創造の初めの御業だ。
改めて、「この世界は、光さえもなかったんだ」と思った。それは、暗闇だけの世界を神がご存じだということ。それは、ボクの暗闇も、世界の暗闇も、それがどんなに深いかを真に知ることがお出来になる方がいるということだ。

●16(土)

主が、あなたに先立って出て行かれたではありませんか。(士4・14)
女預言者デボラが、民を率いていた頃。軍の司令官バラクを鼓舞して敵との闘いに向かわせた。その時、勇気を出させる源が、この一言だった。
ボクにも、日々の闘いがある。手も足も出ないように思える課題が立ちふさがる時もある。でも、この一言があるなら立ち上がれる。だから今朝もまず祈ろう、「主よ、あなたはどこへ行かれますか? 私は、ただあなたの御後に従いますから」と。

●17(日)

礼拝説教
主日早天  藤森誠 伝道師
主  日  藤森誠 伝道師

●18(月)

わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。(ヨブ2・10)
ヨブは、全財産を一瞬で失い、苦しむ息の下から、こう言ったのだ。驚く一言がここにある「不幸もいただこう」と。神様から「不幸」を戴くなんて、絶対ボクには言えない。でも、ふと思った。不幸の無い人生はない。そうであるなら、それがサタンからのものでなく、ボクを愛する神からのものであってほしい。きっと、耐えられないようなものはお与えにならないから。

●19(火)

わたしは、あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるに足りない者です。(創32・11)
兄エサウを騙して、長子の権を奪い取ったヤコブ。兄の復讐を恐れて、逃亡の旅をしていたが、主から「兄の元に帰りなさい」と告げられて帰途につく。そこで祈った言葉がこれだ。
罪を悔いる時、そこで気付くのは罪の大きさだけじゃない。自分が塵芥に過ぎないという小ささだ。さらに、それにもかかわらず、その小さき者に注がれる神様の慈しみの大きさなんだ。悔いの傍に、感謝がある。

●20(水)

目を高く上げ、誰が天の万象を創造したかを見よ。(イザ40・26)
捕囚の地バビロンで、人々は生きることにも疲れ切っていた。もう都に戻れる希望も薄れ掛けた時、預言者イザヤを通して主の言葉が届いた。それは人々の目を、目に見える自分の現実から、在天の主へと方向転換させるものだった。
無から有を創られた主。絶望から希望を創造することができるのは、このお方のみ。ボクも目を高く天に上げよう。うつむくばかりでなく。

●21(木)

わたしが命じることをすべて忠実に守りなさい。これに何一つ加えたり、減らすことがあってはならない。(申13・1)
主が民に、幸いへの掟を与えられた。それは、私たちにとっては、聖書に溢れるみ言葉そのものだ。その言葉に「何一つ加えたり、減らすことがあってはならない」と。でも「神の言葉に人間が加えたり削ったりしないのに」・・・と思って、アッと気付いた。
「このみ言葉は、現実では無理」と自分都合で条件を付けたり、削ったりする。神様って、ボクのやりそうなことを全てお見通しだったんだな。

●22(金)

あなたたちの神、主があなたたちに約束されたすべての良いことは、何一つたがうことはなかった。(ヨシュ23・14)
奴隷の国エジプトから、人々を救い出された主が、旅の途中で「私との約束を守るなら、必ず恵みがあるから」と契約された。主はそれを守られ、人々はカナンの地に着けたのだ。
今朝の言葉は、私たちにもそのまま語られている。良いことがボクにも実現するんだ。ワクワクする。でも、その約束って何? あ、聖書を開かなきゃ。そこにあるみ言葉にこそ、ボクへの約束も記されているのだから。

●23(土)

あなたを見放すことも、見捨てることもない。(ヨシュ1・5)
ヨシュアがモーセ亡き後の後継者として、主に任命された。そのとき約束の言葉として、これを賜ったのだ。
神が「あなたを見放さない、見捨てない」と言われる。それは聖書を通してボクにも告げられた約束。それも、そこには何の条件もない。神に従順ならとか、善人ならとかが一切ない。

●24(日)

礼拝説教
(クリスマス)
主日早天  辻川篤 牧師
主  日  藤森誠 伝道師
午後7時から
(クリスマス・イヴ)
燭火礼拝  藤森誠 伝道師

●25(月)

主があなたたちを祝福し、あなたたちを守られるように。(民6・24)
これは「アロンの祝祷」と言われるもの。牧師によっては礼拝の最後、この世に送り出す会衆に向けて、これを宣言される方もいる。
日常の生活で必要なものは、力でも金でも能力でもない。神の祝福と守りだ。それを私たちも今朝「日々の聖句」によって聴けた。さあ、この一週間を踏み出そう。降誕の主が支えて下さる日々が待っているから。ハレルヤ

●26(火)

(神は言われた)「取って食べるなと命じた木から食べたのか。」(創3・11)
エデンの園にある禁断の木の実。神がアダムに与えた、たった一つの「してはいけない」という命令だったのに、彼は無視したのだ。恵みに満たされた生活の中にいたのに。
その彼への神の言葉は、問い詰めと怒りだったのだろうか。いやむしろ、嘆きと悲しみの声に聞こえる。自分との関係を軽んじたのかという、苦しみの声に聞こえる。その声は、今も罪人に向かっている。そしてボクにも。

●27(水)

(主よ)あなたは驚くべき計画を成就された、遠い昔からの揺るぎない真実をもって。(イザ25・1)
イスラエルの民の救いと、諸国民への審判が語られた後に告げられた言葉だ。
世界史は、人間の造り出した出来事でもなく、偶然の連鎖でもない。そこには神の御計画があるということ。
そうであるならば、ボクの人生という小さな歴史にも、主の驚くべき計画と成就があるということ。振り返ったら「然り」だ。そこここに主の御手があった。正にアーメンと言える。

●28(木)

お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かって来るが、わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。(サム上17・45)
少年ダビデが、大男ゴリアトと戦う場面で、「剣や槍は使わない。主の名によって戦う」と言ったのだ。
私たちの人生にも戦う場面はある。その敵は、山のようにそびえる課題だ。そこでいつも打開策の検討や費用の計算ばかりしていた。それが武具だと思っていた。でもそれって異邦人ゴリアトの姿。ああ、これからはボクも「主の名によって」と立ち向かおう。でもそれって、どうすること?

●29(金)

あなたは慈しみをもって贖われた民を導き、御力をもって聖なる住まいに伴われた。(出15・13)
エジプト軍の追撃と、前方には葦の海。絶体絶命の時、主は海を割って救い出されたのだ。そこで謳われた「海の歌」の一節がコレだ。
これは告白。今在る自分の姿を、「あなたは」と、神の御業のゆえと告げている。これが信仰だと、思った。
ボクも告白しよう「今在るのは、あなたがなさった慈しみ」と。今ふと、人生の意味が分かった気がした。それは、主の御手の中にある旅路だと。

●30(土)

友に対して悪意を耕すな、彼は安心してあなたのもとに住んでいるのだ。(箴3・29)
親しい友がいる。でもその友にさえ不満が出たりする。そういう私たちにみ言葉は告げる、「ふと起きた悪意を大きくするな」と。その友に出会わせたのは、神ご自身だからだ。
主の家の中にさえ争いがある。それはコリントの教会だけのことじゃない。はるか昔からのこと。そして今のこと。「悪意を耕すな」と自分自身に言い聞かせよう。そうだ、箴言は全て、自分に言い聞かせる言葉だから。

●31(日)

礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主  日  辻川篤 牧師

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