2023年6月の『日々の聖句』

●1(木)

水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる。(イザ11・9)
スゴイ!全地が「主こそ神」と称える日が来るなんて。「大地」ということだから、全ての国々が争いをやめ、鳥も動物も木々さえも、お一人の主なる神を仰ぐ日が来るのだ。
これは、捕囚の中で語られた預言だ。単に、自分が救い出されることを願う個人主義じゃない。全てのものが一緒に主を仰ぐんだ。やっぱりスゴイ!ボクも自分のことだけでなく、隣人との間で、この信仰に立ちたい。

●2(金)

あなたを導かれる方は、もはや隠れておられることなく、あなたの目は常にあなたを導かれる方を見る。(イザ30・20)
捕囚の民に救いの日の到来を、預言者イザヤが告げた。「もはや隠れておられることなく」ということは、人々にとっての日々は、神が沈黙され、自分たちを見捨てて遠くに行ってしまわれたと思えた日々だったからだろう。
「神が共に居て下さらない」と思える日々が、ボクにとっても一番辛いって分かる。「神が共に居て下さる」、ここに一番の平安があることも。

●3(土)

白髪の人の前では起立し、長老を尊び、あなたの神を畏れなさい。わたしは主である。(レビ19・32)
これは、神聖法集の中の一つだ。神に喜ばれる者として生きる者への道標としての言葉を、神がモーセに語り聞かせた。
単なる倫理的な「敬老」の教えなどではない。「お年寄りを大切にしよう」という儒教的道徳の話でもない。年長者を尊ぶことは、神の掟だ。だから軽んじるということは、神を畏れないということに直結している。主に仕えるように、年長者を尊ぼう。

●4(日)

礼拝説教
主日早天辻川篤牧師
主日辻川篤牧師

●5(月)

主よ、なぜ遠く離れて立ち、苦難の時に隠れておられるのか。(詩10・1)
詩人の嘆きは、苦難そのものが辛いと言っているのではない。命を脅かされるほどの病や敵に襲われても、それ自体は嘆きではない。只一つのこと、主が共にいて下さらないということを悲しんでいるのだ。
それは逆に、どんな苦難の中にあっても、主が傍におられるなら生きてゆけるということ。そういうリアルな信頼なのだ。ボクも、そういう信仰者でありたいな。

●6(火)

彼らは言葉をもって人を罪に定め、町の門で弁護する者を罠にかけ、正しい者を不当に押しのける。(イザ29・21)
一読して「何てケシカラン奴らだ」と思った。でも一呼吸おいて「あれ、他人事なんだろうか」と思う。そして、今朝の御言葉に自分を重ねつつ振り返って思う、「これは、あの人、この人のことじゃなくて、自分の姿だ」と。きっと人はボクを見て「何てケシカラン」と思っているのだろう。きっと神様も。今日が、その姿を止める転換点。自分の情けない姿に気付けた人が、救いの入り口に立てるから。
●7(水)

●7(水)

あなたは必ず御覧になって、御手に労苦と悩みをゆだねる人を顧みてくださいます。(詩10・14)
神が、労苦にある人を見つけて、助けの御手を伸ばして下さる。なんて有難く、嬉しいことだろう。それを私たちはいつも願っているのだから。
あ、でも大切な一言に気付いた。「御手に労苦と悩みをゆだねる人」とある中の「ゆだねる」だ。助けは、本気で神に委ねる人にだけ注がれる。自分が「アレコレして欲しい」と願う人じゃない。解決の方法も時も委ねる人だけだ。同じようで、全く違う。

●8(木)

あなたは、自ら降り、わたしを強い者としてくださる。(詩18・36)
神様の救いは、高い天から、助けのロープを垂らされ「さあ、ここまで登っておいで」というのではない。神ご自身が、倒れ伏す者の下へと降って来られるのだ。それも、私たちが再び力を得て、自分で立ち上がれる「強い者」として下さるために。
まるで、最前線にまで駆け寄ってくれる救助隊のようだ。その助けを呼ぶためには、これだけで良い、「主よ、私はココです」と。

●9(金)

「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」(イザ7・11)
南ユダ王国に敵の攻撃が迫っていた。その時アハズ王も民も心配で激しく動揺した。その王に、主なる神が言われた言葉がこれだ。
敵となるもの(人も困窮も)が迫る時、自分が持ってるあらゆる手段によって解決しようとする。でもそこで動揺が止まらず、かえって不安が募る。一番大切なことを忘れているから。主を求めることだ。ふと、「ボクもこの愚かな民と同じだ」と思った。

●10(土)

神の御計らいによって、侍従長はダニエルに好意を示し、親切にした。(ダニ1・9)
侵略国バビロンに連行された少年ダニエル。そこで宮廷に仕えさせられるため駆り出された。そのとき神様が、バビロンの侍従長の心に働きかけられたのだ。神の方法は、人間の想像を超えている。敵の心さえも手中にして用いられるのだ。
それなのにボクは自分の中で考えて「ア~して欲しい、コ~して助けて」と願ってる。今日こそ「御心を成して下さい」という祈りに変わらなきゃ!

●11(日)

礼拝説教
主日早天藤森誠伝道師
主日藤森誠伝道師

●12(月)

我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。(ホセ6・3)
南北に分裂してなお続く背信。その前途に国の滅亡が待っている。そこに立ってホセアは語り続けた。
日々人が追い求めていたのは、自分の満足、自分の計画、自分の栄誉。しかしホセアは「主を知ることを求めよ。主の計画、主の望まれること、主の喜びだ」と。

●13(火)

アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。(創22・6)
神が、愛息子イサクを、焼き尽くす献げ物とせよと告げられた。それは息子の命を自らの手で取ること。そのための火と刃物を手にして、彼はその場に向かう。何を考え、何を思っていたのか・・・。決して、力強い足取りではなかっただろう。でも進む、「主の言葉だから」と。黙々と。
ボクも行こう、先は分からずとも、トボトボとでも。そこが行く道だから。そこに、御業が起こされるから。

●14(水)

はしための一人にも及ばぬこのわたしですのに、心に触れる言葉をかけていただいて、本当に慰められました。(ルツ2・13)
異邦人で未亡人のルツが、姑と一緒にベツレヘムに来た。未亡人に仕事などない。その日の食べ物にも窮した二人に、親戚のボアズが優しい言葉をかけた。人は口から入る食べ物で生きる。でも、それよりも生きる力となる食べ物は、心に触れる言葉だ。相手を分かってあげる言葉、相手に添って居られる言葉だ。それって、分かる気がする・・・。そんな言葉で周りが満ちていったら、良いのにな。
●15(木)

●15(木)

彼らのゆえにうろたえてはならない。あなたの神、主はあなたのただ中におられ、大いなる畏るべき神だからである。(申7・21)
この「彼ら」とは?イスラエルの民よりも強大な諸国のことだった。
その諸国というのは、私たちにとっては身に降りかかる難題でもある。「そんなのとても無理です」と思える困難でもある。ボクもそれらを前にしたらうろたえるかも。いや、うろたえてばかりの人生だった。でも、主が言われるのだ「私があなたの中に居るから、心配いらない」と。大いなる方が私の内に居ます。もう大丈夫だ!

●16(金)

涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める。(詩42・2)
川底が見えるまで涸れた谷を、水を求めて鳴きながら鹿が一匹よろめき歩いている。その姿が、苦難の日に神の御名を呼び求めて、しかしそこで答えのない渇きに嘆く詩人の姿と重なるのだ。「主よ、あなたはどこにおられるのですか」と泣いている。
いや詩人の姿じゃない。私たちの姿。何度祈っても、神の応答が聞こえない日々の姿。その泣き声は、私たちの叫び。ただ主に頼る者の叫び。

●17(土)

ぶどう、いちじく、ざくろ、オリーブはまだ実を結んでいない。しかし、今日この日から、わたしは祝福を与える。(ハガ2・19)
これらの実は「豊かさ」のしるし。つまり「実を結んでいない」とは、人々は未だ、悔い改めて神の前に立ち帰り豊かな信仰に生き始めていないと告げられる。でも、そこでなお預言者ハガイは「しかし」と言う。神は、それでも今日からその人々に祝福を与える、と。これを聞いたのは捕囚の民。どんなに嬉しかっただろう。
祝福が、悔い改めが条件となっていない。主の一方的憐れみ。感謝だ。

●18(日)

礼拝説教
主日早天辻川篤牧師
主日辻川篤牧師

●19(月)

しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには、義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。(マラ3・20)
徹底的な神の裁きが告げられる。その直後にだった、「しかし」と今朝の御言葉が語られたのだ。
神を畏れ敬うことは、心の問題じゃないんだ。また単なる信仰生活の目標でもない。これは、永遠の滅びか義の太陽が昇るか、死ぬか生きるかの分かれ道の話。自分の存在を掛けるべきことなんだ。

●20(火)

彼に必ず与えなさい。また与えるとき、心に未練があってはならない。このことのために、あなたの神、主はあなたの手の働きすべてを祝福してくださる。(申15・10)
「彼は」って誰のこと?聖書を見たら、「貧しい同胞」のことだった。つまり隣人のことだ。
神様は、私たちが人に与えるために豊かにして下さるのだ。貯め込んで、自分のために使うためじゃない。

●21(水)

「主は恵み深く、イスラエルに対する慈しみはとこしえに」と唱和して、主を賛美し、感謝した。(エズ3・11)
バビロンに捕囚となっていたイスラエルの民は、ついにペルシャのキュロス王によって解放された。そうやって都に帰還できた人々は、先ず礼拝したのだ。廃墟の神殿に、祭壇だけ築いて、それでも喜びの礼拝をした。
ボクも苦難に遭う日がある。でもそれを通り抜けた時、ボクは何をしているだろう。単純に喜んでいるだけで良いのか。いや、まず礼拝なのだ。その恵みは、神から来たのだから。

●22(木)

まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。(創28・16)
ヤコブは、兄エサウの報復を恐れて荒野に逃げた。そのとき夢で、天からの階段を昇り降りする御使いを見て、気付いて言った言葉がこれだ。
「こんな所に主はいない」と思えるような、人生の荒野がある。しかしそこでこそ気付けるのだ。主が共におられるというのは、ボクがどこに居ようとも真実なのだと。だからこそ誰もが、苦難の中で神にすがれる。臨在は、信じる前に既にある真実だから。

●23(金)

しかし、神に従う人は信仰によって生きる。(ハバ2・4)
新バビロン帝国が攻めてくる中、預言者ハバククが主に問う「彼らは力によって支配するために剣を抜いているが、それで良いのか」と。それに対して主が答えたのがこの御言葉だ。単に「神に従おうと思う人は信仰に生きる人だね」という程度の話じゃない。死を前にして、お前は自分の力に頼るのか、信仰にのみ頼るのかを問う。いずれかを選ぶ命がけの選択だ。
今日ボクは、どっちに立つのだ!

●24(土)

御名を畏れ敬うことができるように、一筋の心をわたしにお与えください。(詩86・11)
神を神として畏れ敬うことは、自分の信仰心から出て来るものだと思っていた。
でも、この詩人は真実を知っている。神への畏敬は、本当は人間の心の中には一かけらも無いということを。神を愛する想いも、本来の人間には、無いのだということも。人は皆、神に背く者・罪人というのが本性だから。

●25(日)

礼拝説教
主日早天藤森誠伝道師
主日藤森誠伝道師

●26(月)

水くみ場で水を分ける者らの声にのせて、主の救いを語り告げよ。(士5・11)
背信の民に、女預言者デボラが立てられた。彼女によってカナンの王は倒れ、人々に平和が戻る。その時にデボラが歌った歌がこれだ。
普通なら自分の業を後世に語り継ごうとするのに、彼女は自分の功績に関心が無い。全ては主の御手からと分かっている人は、主の御業を語り告ぐ。恵みが分からない時、勘違いして自分を誇る。ボクは、そんな愚か者になるまいゾ。

●27(火)

「足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」(出3・5)
モーセが神の山ホレブに上って行った時、主が声を掛けた「神の領域に踏み込むな」と。もしかしたら、ボクも警告される時があるのかも・・・。
神の領域に、土足で踏み込むことがあるからだ。それは、御心として下さる神の計画の場があるのに、自分の計画・やり方でしか進みたくないと自分中心に歩く時だ。土足で御心の場を汚している。その時、自分中心という履物を脱げと警告の声が響く。

●28(水)

彼らは人の力に望みをおかず、人の子らを頼りとしない。(ミカ5・6)
「彼ら」とは誰か。神の審判によって砕かれる民の中にあって「残された人々」のことだった。旧約の中で、この「残された人々」というのは、鍵言葉だ。その「小さな芽」から、神の祝福は再び拡がるのだから。
主の目に適うのは、人の力に頼らず、神に望みを置く人。民の中では弱い人々のグループだが、憐れみを受けて生き残る。ボクはどちらに立つのか。自分の強さか神の憐れみか。

●29(木)

あなたたちは、どうして主の命令に背くのか。成功するはずはない。(民14・41)
モーセの忠告も聞かず、人々は自分の思いだけで、自分の計画を立てて戦いに出た。その先で剣に倒れた。
人はどうして勝手なことをするんだろう。そんな風に思っていてハッとした。ボクも祈らないで事を始める時がある。現実の課題だから自分で決めて当然と思っているから。本当は現実の課題だから祈らなきゃならないのに。「成功するはずはない」という道に、迷い込まないために。

●30(金)

戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが、我らは、我らの神、主の御名を唱える。(詩20・8)
武器を持つよりも、祈りの方が強いんだと、ボクは本気で考えているだろうか。真剣に信じているだろうか。いつも自分で知恵を絞って策を練って、自分の武器というものを優先して、その後で「守って下さい」と祈っていたりしないだろうか。
この詩人のように、本気で信仰に生きていきたい。祈りの力を知る信仰者になりたい。神の御業は、そこでのみ見られるのだから。