2023年7月の『日々の聖句』

【旧約聖書 編】
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。 与えられた御言葉を、人間の思いを超える御心として聞きつつ、それぞれが祈りへと導かれたいと願います。 (牧師・辻川篤)

●1(土)

「わたしは、主の御命令とあなたの言葉に背いて罪を犯しました。兵士を恐れ、彼の声に聞き従ってしまいました。」  (サム上15・24)
罪の告白をしているこの男は、誰か? イスラエル諸部族の最初の王となったサウルであった。彼は、主の言葉を退けて、目の前にある戦利品を略奪したのだ。それは当時は「当然の戦いのやりかた」だったから。勝った者の常識とされる姿だったから。
ボクも「この世の生き方として当然だし、常識だ」と思う生き方がある。でも、一旦そこで立ち止まろう。「これは御言葉にかなっているか」と。

●2(日)

礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主  日  辻川篤 牧師

●3(月)

助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた。(出1・17)
モーセ誕生の時のこと。エジプトの王は、ヘブライ人の赤ちゃんが男子なら皆殺しにするようにと命令を下していた。逆らう者も皆殺しだ。その命令の下にあって、助産婦は王の顔色よりも、神の顔を見ていた。そこに、モーセが誕生したのだ。
神への畏れは、命懸けのことなんだ。人の顔色を見ながらじゃない。ああボクは、両天秤信仰かも知れない。それは神が厭うものなのに。

●4(火)

主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。「サムエルよ。」  (サム上3・10)
神が、少年サムエルに呼び掛けられた。主は御自分が呼んでいることに彼が気付くまで、何度でも呼ばれれる。それも「名前」を呼ぶというのは「他の誰かではなくあなただ」と、差し向かっておられるということ。
ふと、神様の接し方は、いつでも同じだなと思った。一人ひとりに呼び掛けて下さる。「はい、私を呼ばれたのですね。御声に従います」と応答できる時まで、ずっと・・・。

●5(水)

彼らが神によって戦ったからである。  (代上5・22)
彼らはエルサレムに攻め入る大軍の敵と戦い、勝利した。その勝因は、「神によって戦ったから」だ。
でも「神によって戦う」って、どうすること? 具体的にはどんな生き方? それを知らないと言葉だけがボクの頭上を上滑りして行くだけ。

●6(木)

さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから。  (創13・17)
縦横に歩き回った分だけ(好きなだけ)土地を与えられる。一体誰が、これほどの恵みを貰えたのか。それは、甥のロトに、先に豊潤な土地をあげてしまったアブラハムだった。
人に与え尽くしても、神に従う者には、更に多くを与えられる。溢れるほどの豊かさは、自分の能力や働きに関わるのでなく、神と隣人を愛する生き方か否かに直結している。然り、真の富は主の手から来るからだ。

●7(金)

アブラムは、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ。(創12・8)
神様から、生まれ故郷を旅立って約束の地に行けと呼び出されたアブラハム。やがてカナンに着いた時「見渡す限りの土地を与える」と御声を聞いた。
その場に立った時、彼は大喜びしたのでもなく、旅路の苦労を労い合ったのでもない。自分の歩いて来た道を振り返りもしない。ただ主に顔を上げて礼拝したのだ。一週間の旅路を終えた我らの礼拝もこうありたい。ただ御名を呼んで、跪かん。

●8(土)

わたしたちには、攻めて来るこの大軍を迎え撃つ力はなく、何をなすべきか分からず、ただあなたを仰ぐことしかできません。  (代下20・12)
南ユダ王国がヨシャファト王の時代、周辺諸国が徒党を組んで都エルサレムを攻撃して来た。そのとき王も民も成す術なく、ただ主の御前に立って祈った。「無力な私たちを放っておかないで下さい」と。
勝利への秘訣は、自分の無力を知り、力あるお方を仰ぐこと。そうだ、礼拝から始まる進撃がある。それはあらゆる課題を制してゆく参謀本部となり、また最前線となるのだ。

●9(日)

相模原教会創立75周年記念日
礼拝説教

主日早天  藤森誠 伝道師
主  日  藤森誠 伝道師

●10(月)

ユダよ、お前の神々は、町の数ほどあるではないか。(エレ2・28)
主が呼びかける「ユダよ」って誰だろう。町の数ほど神々がいて、あちこちで熱心に拝んでいるって、褒められてるの? いや、おかしい。
聖書を見たら「ユダ」とは南王国の民のことだった。「神々・・」とは、誰もが偶像を拝んでいることを、主が嘆く言葉だった。神はちゃんと見ておられる。ボクの心の中にも神以外を頼る偶像はないかと。今日を、主に立ち帰る日としなきゃ。

●11(火)

(主の御使いが言った)「あなたたちは、わたしの声に聞き従わなかった。なぜこのようなことをしたのか。」(士2・2)
モーセの後継者ヨシュアも死に、人々は神に背くようになる。それは、占領できた土地の住民たちの祭壇も築いて、拝み出すという背信だった。
これから長く住む土地だから、その住民たちとも仲良くしようと思ったからだろうか。祭壇を築いても、自分たちの信仰が揺れるわけではないから大丈夫と思ったからだろうか。

●12(水)

苦しんでいた人々は再び主にあって喜び祝い、貧しい人々はイスラエルの聖なる方のゆえに喜び踊る。   (イザ29・19)
苦しみの中で聞きたい言葉があるとしたら、きっと、これだろう。「この苦しみはいつまで続くのか」という問いは、「苦しみが終わる日が来るのだろうか」という不安の叫び。でもそこに、神様からの約束の言葉を聞けたなら。それも「喜び祝い」とか「喜び踊る」という明るい言葉と一緒に聞けたなら。その時、まだ苦しみの中でも、暗い心に光が灯る。不安の雲が晴れてゆく。未来を見せる主の言葉よ!

●13(木)

ただひたすら注意してあなた自身に十分気をつけなさい  (申4・9)
これは「ご自愛ください」というようなことか? 聖書を見たら、主との約束(十戒)を、新しい土地でも守って生きよということだった。そこに祝福を戴ける道があるからだ。でも、人々は土地の習わし(偶像)に流されてゆく。そこに背信の扉が開くのに。
これはボクにもある誘惑。習慣だからとか皆やっているからとか、それを御言葉に優先させてしまう。気を付けろ、あの扉をそこで開けている。

●14(金)

ダビデは主に尋ねた。  (サム上23・10)
ねたみのゆえにダビデの命を狙うサウル王。攻撃の知らせを受けた時、彼は迎え撃つ手段を練ったのではない。味方を増やそうと奔走したのでもない。逃げ出す手段を考えたのでもない。直ちに祈った。
ボクの祈りは、形だけになっていないだろうか。生死を分けるという時、先ず祈りに飛び込まない。右往左往するばかり。そんなボクは、祈りの力を、本当には分かっていないのかも。

●15(土)

姦淫してはならない。  (出20・14)
「十戒」の中の第7戒。「殺すな」という掟の次に置かれている。それほどに厳しい戒めなのだ。単に浮気はダメというような話じゃない。姦淫は、自分の家族も、隣人の家庭も破壊してしまう悲惨の原因だからだ。だから、隣人を殺すなという戒めと同じ響きが含まれていると、よく分かる。
私達の家庭のことを誰よりも真剣に愛して下さるのは、主ご自身。だからこそ、このお方に従ってゆきたい。

●16(日)

礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主  日  辻川篤 牧師

●17(月)

背信の子らよ、立ち帰れ、と主は言われる。わたしこそあなたたちの主である。(エレ3・14)
主に背いて他の神々の所に走った人々なのに。まるで姦淫した者たちなのに。主は「私のところに戻っておいで」と語り掛けて下さる。「戻って来るだけで全てを赦し、あなたを受け入れるから。私こそあなたのパートナーなのだから」と。
愛するって裏切られても変わらない心。あなたが私の主となって下さること、それに優る幸いなし。ああ主よ、私もあなたを愛します。

●18(火)

あなたは万物に命をお与えになる方。天の軍勢はあなたを伏し拝む。      (ネヘ9・6)
バビロン捕囚から解放後のこと。ペルシャ王の献酌官ネヘミヤが、崩壊したエルサレムの都を視察した。人々は再建を妨害する敵とも戦い、ついに城壁を完成させて、モーセの律法に立って歩み始める。さらに彼らは、改めて自分たちの罪を告白して、まず悔い改めの礼拝をしたのだ。
再出発は、建物(神殿)の再建にあるにあらず。悔い改めなのだ。これなしには信仰の民の再建なし!

●19(水)

なんと軽率にお前は道を変えるのか。  (エレ2・36)
隣国のアッシリアによって北王国は滅びた。今また新バビロン帝国が攻めて来る。その時、南ユダ王国は、エジプトに頼ろうとする。主に頼ることから外れて、大国のほうが頼りになるように思ったから。この尻軽信仰が、国を亡ぼすことになるのに。
他人事のように言っていられない。困難に襲われた日に、ボクは何を第一に頼っただろうか。自分か、経験か、人脈か? 主を第一にしたか?

●20(木)

わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。  (創22・8)
アブラハムが、愛息子の命を神への献げ物にするために祭壇に向かう。息子イサクが聞く「お父さん、献げ物の小羊はどこにあるの?」と。それに父が答えたのだ。この「きっと」の一言は重い。絞り出した一言なんだ。
信仰って、なんだろう。将来が予測できる中で、神を信頼してついて行くことじゃない。五里霧中の現実の中で「きっと」と、一歩進むことなのかも。その一歩をボクも踏み出したい。

●21(金)

偽る者と共に座らず、欺く者の仲間に入らず、悪事を謀る者の集いを憎み、主に逆らう者と共に座ることをしません。  (詩26・4-5)
信仰生活においても「朱に交われば赤くなる」というように悪い人と付き合うなということか? そう聞くと、「付き合わない方がいい悪い人って、あの人かな」と犯人探しが始まる。そして人を裁いている。
でも、ボクこそが欺く者・主に逆らう者なのに、勝手に義しい者の側に立ってしまう。こんなボクなのに、仲間に入れてくれる兄弟姉妹がいる。ああ、感謝かなって、気付いた。

●22(土)

主の言葉があった。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」  (王上19・9)
偶像バラバにひざまずく民。その時エリヤがバアルの神官を滅ぼした。途端に、王妃イゼベルに命を狙われてしまうのだ。逃げて身を潜める洞穴で、主が臨んだ、「ここで何をしているのか」と。また「引き返せ」と。
主に従ったのに困難に遭う。そこで神の計画は進むけど。それにしても預言者って大変。聴従の人生は、安寧を頂けるという訳じゃないんだもん。って、そんな他人事でいいのか!

●23(日)

礼拝説教
主日早天  藤森誠 伝道師
主  日  藤森誠 伝道師

●24(月)

あなたの神、主は憐れみ深い神であり、あなたを見捨てることも滅ぼすことも、あなたの先祖に誓われた契約を忘れられることもない。  (申4・31)
モーセが人々に勧告する。主なる神がどれほど愛して下さるお方かを、切々と語る。有難い言葉。
でもこれは・・・。偶像崇拝禁止勧告の中にある言葉だった。つまりそれほど人々が、主なる神様以外にひれ伏す誘惑が強いということ。

●25(火)

わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。    (エゼ36・26)
捕囚の民は、捕囚の地でやっと、自らの罪を数え始めた。そして「神の赦しはあるのだろうか」とも。そこに主なる神が希望の言葉を告げる「今までの自己中心の背信の心に変えて、新しい心を与える」と。「私があなたの主、あなたをも守る神。その関係を喜ぶ心を新しく与えるから」と。
主を信じる心って、神様からの賜り物なんだ。ボクも祈ろう「主よ、信仰を今日も新しく与えて下さい」と。

●26(水)

わたしは彼らに恵みを与えることを喜びとする。    (エレ32・41)
バビロンの地で捕囚となっている人々は、喘ぎながら「神が我々を罰しておられる」と嘆いていた。
しかしその人々に、主がエレミヤを通して、「エルサレムの都に帰れるから、私の民よ、私の心はこれだよ」と語り掛けたのだ。「恵みが見えない」とつぶやくボク。でも神様からは全く違う言葉が告げられていたんだ。どこですれ違ったんだろう。恵みの御言葉の中に帰りたい。

●27(木)

あなたの重荷を主にゆだねよ、主はあなたを支えてくださる。  (詩55・23)
ああ、なんてホッとする御言葉。肩がフッと軽くなった。
でも、ふと思う「どうして『ゆだねよ』と命令形で言われなければならないんだろう」と。もしかしたらボクらは皆、重荷というものを自分で抱え込んで手放そうとしないからかも。重荷なのに、神様に手放せない。ああここにも、信仰の問いかけがあるのかも。「主にゆだねよ」の「主に」という一言こそ、鍵言葉なんだ。

●28(金)

神を知らぬ者は心に言う、「神などいない」と。      (詩14・1)
「神様なんていない、見えないし触れもしないから」と中学生の頃、友人は言った。そこには「自分のことは自分で切り拓く。自分が自分の王なのだから」との思いがあった。彼は今、どうしているのだろうか・・・。
あの日「でも神はいるよ」と言えたボクの根拠は何だったのだろうか。そうだ、神様というお方を知っていたから。イエス様を通して知っていたから。聖書によって知っていたから。

●29(土)

主があなたの傍らにいまし、足が罠にかからないように守ってくださる。(箴3・26)
神が共に居て下さるというのは、そこで貴い御業をして下さるためだと告げられている。その中身は、そもそも悪い方へと陥らないように守って下さるということ。つまり主は、私達の人生の「前」を進んで下さるのだ。罠にかからないように。
また同時に、「しんがり」にも居て下さる。「主に委ねる安心」というのは、この神様に、ちゃんと挟まれる場所を歩くということかもね。

●30(日)

礼拝説教
主日早天  辻川篤 牧師
主  日  辻川篤 牧師

●31(月)

主の恵みの御言葉は、一つとしてむなしいものはなかった。  (王上8・56)
遂にソロモンが、神殿を完成させた。その時、民の前で長い感謝の祈りをささげたのだ。その締めくくりに、今日の言葉がある。
モーセに告げられた「あなたと共にいる」という約束の言葉は、いつも真実だったと振り返っている。それはボクにもまた真実。喜びの時も、病と苦難の日々も、主は共に居てくださった。ボクも感謝を数えて、今日を始めよう。